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2012年08月31日

『THE BOOKS -365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』ミシマ社(編)(ミシマ社)

THE BOOKS -365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」 →bookwebで購入

 本が売れない時代だといわれます。出版業界は縮小の一途だそうです。人々が本を読まなくなったからでしょうか。みんな忙しいですからね。本を読む暇なんて刑務所にでも入らなければ捻出できない。そんな人もいるでしょう。それとも本がつまらなくなったのでしょうか。確かにベストセラーと言われる本が、昔に比べて少なくなりましたよね。つまらない本をつかまされて時間を浪費するよりは、テレビや映画やネットで暇をつぶした方がよっぽど有意義かもしれません。

 しかしなにか満ち足りない。猛烈な飢餓感がわきあがってくる。そんな風に感じたことはないでしょうか。小さい頃の自分がそうだったように、何もかも忘れて夢中で本を読みたい。脳がピリピリするほどの刺激を味わい、気づけば電車を乗り過ごし、読み終わった後はしばらく虚脱状態になってしまう。そんな、自分を夢中にさせてくれる一冊に出会いたい。そう思ったことはありませんか。ありますよね。今まさにそう思っているはずです。だから「書評空間」なんか読んでいるんです。……そうでしょう?
今年の春先のことです。

「すみません、突然ですが……『これだけは、どうしても届けたい』と思っている本、その一冊を教えていただけませんか?」
私たちは日頃お世話になっている本屋さんに、こんなお願いをしました。

『THE BOOKS』は、365人の書店員たちが「これだけは、どうしても届けたい一冊」を紹介する、まさに「本好きの本好きによる本好きのため本」です。365冊のオススメ本の書影の下には、書店員の実名と手書きのキャッチコピーも添えられています。オススメ本を選ぶにあたって、書店員さんたちは随分悩んだことでしょう。豊富な読書経験から抽出されるその一冊は、書店員としての「選書眼」を問われる一冊になるだけでなく、自分自身を表現する一冊にならざるをえないでしょうから。

 だからこそ、この本は、あなたの「自分を夢中にさせてくれる本に出会いたい」という欲求に答えてくれるはずです。何しろ「これだけは、どうしても届けたい一冊」が365冊もあるのですから。パラパラめくって読んでいけばビビビッとくる本が数冊は出てくると思います。「こんなジャンルもあるのか」「こういう内容の本だったのか」と、新しい気づきもあるかもしれません。

 気になる書店員さんを探す、という目的で読むのも手です。何しろ365人もいるのです。一人くらいは「この人、私と好きな本が似ている」という書店員さんがいるはずです。近所の書店に勤めていればなおラッキー。趣味嗜好が似ていて、かつ自分より読書量の多い書店員さんなら、あなたを夢中にさせてくれる一冊を教えてくれる可能性は高いです。次に行った時には、あなた専用のオススメ本も用意されているかもしれません。

「そんなこと言われたって、そもそも自分がどんな本が好きかわからないから困ってるんじゃないか」というあなた。こんな読み方はいかがでしょう。365冊の本には、それぞれ1月1日から12月31日までの日付が併記されています。毎日一冊、その日の本を読んでみるのです。1000本ノックならぬ365冊読書!1月1日からはじめれば、早くて3月2日、遅くても6月18日くらいまでには「好きだ」と思える本に出会えるのではないでしょうか。どうです? ぜひやってみてください! 私は…やらないけど…。

 本が売れない時代だといわれます。人々が本を読まなくなったのか。あるいは本がつまらなくなったのか。私はそのどちらも違うと思います。社会の成熟とともに趣味嗜好が細分化してしまった私たちは、「自分を夢中にさせてくれる一冊」とうまく出会えなくなったのだと思います。その仲立ちをしてくれるひとつの存在として、書店員という人々がいる。その潜在能力は私たちが思うよりずっと高いのですが、読者の前でそれが発揮されるシーンは決して多くありません。そんな彼らにスポットを当て、読者と結び付けてくれるのが、この本、『THE BOOKS』なのです。あなたはどのように読むでしょうか?


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2012年08月08日

『この世界の片隅に 〈前編〉』こうの史代(双葉社)

この世界の片隅に 〈前編〉 →bookwebで購入

 こうの史代(以下敬称略)を知っていますか? ご存知ないのなら、この機会に、ぜひ知っていただきたいと思います。

 こうの史代は、広島で被爆したある女性とその家族を描いた『夕凪の街 桜の国』で2004年度文化庁メディア芸術祭大賞を受賞し、一躍有名になりました。原爆、という凄まじいテーマ。主人公の皆実が背負う、被爆という運命。作品に流れる空気が伸びやかであればあるほど、皆実が平凡な女性であればあるほど、その恐ろしさは読む者の心を深く侵します。

 しかし当のこうの史代は、この作品が「戦争もの」と呼ばれることに違和感があるようで、エッセイ集『平凡倶楽部』の中で、「出版後、反響が大きいのに驚いて、時として『戦争もの』さらに『反戦もの』として捉えられたことにもっと驚いた」と綴っています。彼女の違和感は作品に貼られたレッテルだけではありません。いわゆる「戦争もの」のお約束にも及んでいます。

 「昔の女」は子供の頃から勉強もさせて貰えず家の手伝いばかり。知らない相手と結婚し、実家にも滅多に帰れず、婚家で奴隷のように使われ、子供を作り、年を取れば姑として嫁を教育し…、という印象がある。両親や祖父母から伝え聞く誰かは、大抵そんな人生を歩んでいた。
 ところが、戦争ものに出てくるヒロイン達は、女学生さんのうちに凛々しい兵隊さんと一世一代の恋をしたり、愛する夫や子供を亡くして泣いたりするのだ。
「昔の女」は戦争が始まった途端、どうやってそんな才色兼備な愛し愛される「薄幸のヒロイン」に変身するのだろう?
(『平凡倶楽部』より)

 いわゆる「戦争もの」は、戦争を、お涙頂戴の物語や反戦イデオロギーを語るための舞台装置として使うことが多いように思います。戦争を「非日常」として扱うからこそ、そこには「女学生さんのうちに凛々しい兵隊さんと一世一代の恋をしたり、愛する夫や子供を亡くして泣いたりする」薄幸のヒロインが絶対不可欠なのではないでしょうか。

 しかし、こうの史代の漫画に薄幸のヒロインは登場しません。彼女がデビュー以来、一貫して見つめてきたのは、目を凝らさなければ見つけることのできないような平凡な「日常」であり、そこに埋没して生きる人々です。彼女は戦争を「日常」として描きます。『夕凪の街 桜の国』の平野皆実も例外ではありません。皆実にとっては原爆スラムこそが「日常」なのです。ここに、こうの作品が、いわゆる「戦争もの」と一線を画す点があると私は思うのです。

 前置きが長くなりました。

『この世界の片隅で』の主人公、北条すずは、広島の江波から呉市に嫁いだどこか冴えない、「よく人からぼうっとしていると言われる」女の子です。隣組、配給、代用品、闇市、竹槍訓練。そんな言葉が飛び交う、戦時中の日本という世界で、遠くに戦艦大和を眺めながら、家事に明け暮れることが彼女の「日常」です。姑の言うことを聞き、出戻ってきた小姑のいびりに耐え、決して自我を出さず、彼女は「世界の片隅」に据えられた自分の平凡な「日常」を生きていきます。

 いわゆる「戦争もの」を期待した読者は肩透かしを暮らすでしょう。北条すずのその姿は、私たちが学校で教師に嫌というほど植えつけられた、戦時中の悲惨な、被害者としての国民のイメージからは、およそかけ離れているからです。物語の後半、呉市を激しい空襲が襲います。そして故郷の広島市にもあの悲劇が訪れます。親しい人を失ってなお、彼女は涙を流しません。アメリカの戦闘機に「そんとな暴力に屈するもんかね」とつぶやきます。それが彼女が生きる「日常」の当たり前だからです。

 そんな主人公・北条すずが初めて感情をあらわにするのは終戦の日のシーン。自分の生きる「日常」が正義ではなくなったと知った、その瞬間です。玉音放送を聞いて激昂した彼女は、地に体を投げ出し慟哭します。彼女と「日常」を共にしてきた読者はその姿に激しく心を揺さぶられずにいられません。戦争とは何だったのか。私たちの祖父母はどんな思いを抱えて戦争という「日常」を生きていたのかと、思いをめぐらせずにはいられないのです。

 漫画家・こうの史代。彼女が描きたかったものとは何でしょう。それは、いわゆる「戦争もの」が本来描こうとしていたものと、実は、同じなのかもしれません。しかし、こうの史代は、読者を、戦争という「日常」の中にひきずりこみます。戦争は決して「非日常」ではないのだと、私たちの「日常」と地続きになっているのだと教えてくれるのです。

 最後に、読んでみよう、と思ったあなたに。

 北条すずが慟哭するシーン。そのページをよく見てください。彼女の頭にそっと触れるものがあります。これはいったい誰の手なのでしょうか。神の手でしょうか。作者の手でしょうか。それとも…。ぜひ読んで、この物語にこめられた、祈りに、思いをめぐらせていただければと思います。


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2012年08月07日

『星のかけらを採りにいく―宇宙塵と小惑星探査』矢野 創(岩波書店)

星のかけらを採りにいく―宇宙塵と小惑星探査 →bookwebで購入

 この本は、宇宙塵(うちゅうじん)を集めることに心血を注ぐ、ある研究者によって書かれました。名前は矢野創。彼が何者であるかは、冒頭の一節を読めばすぐにわかります。
 二〇一〇年六月一四日。私は南オーストラリアのウーメラ砂漠の赤茶けた荒野に立ち、透明感のある日差しと穏やかな風を全身に感じていました。(中略)

 二〇〇三年五月九日に鹿児島県の内之浦で旅立ちを見送った工学試験探査機「はやぶさ」の地球帰還カプセルは、前夜に人工流星となって南天の星空を照らし、今は私の眼前数十m先の低い藪の中に、パラシュートと共に静かに横たわっています。太陽の光を受けてキラキラと輝くその姿は、打上げから七年間を経て、小惑星イトカワを往復してきたとは思えないほど、新品同様に見えました。


 矢野氏は、日本を感動の渦に巻きこんだ、あの「はやぶさ」プロジェクトで、イトカワの試料(サンプル)を採取する機構(サンプラー)の開発を担当した人です。イトカワの表面に弾丸をぶつけて舞い上がったものを採取するという、テレビや映画の映像で何度も見たアレですね。

「はやぶさ」が小惑星に着陸し、試料を採取して離脱する時の現場監督を務めたのも矢野氏です。竹内結子さんが主演した映画『はやぶさ/HAYABUSA』で、第一回目のタッチダウンの後、山本耕史さんが、「はやぶさ」を緊急離脱させるかどうか激しく悩むシーンがありますが、実際の現場で激しく悩んでいたのが矢野氏なのです。

 さて、この矢野氏が研究する「宇宙塵」とは、いったいどんなものなのでしょうか。宇宙空間に分布する固体の微粒子。それが宇宙塵です。大きいものは隕石や流れ星などになりますが、さらに小さいものは、私たちの肩の上に降りつもったり、空気と一緒に肺にとりこまれたりしています。

 (前略)この宇宙塵は、四五・六億年前に地球が生まれてから今まで、毎日宇宙から静かに降り積もっています。そう、「宇宙塵も積もれば地球になる」。いえ、地球だけでなく、そこに住む私たち生命も全て、宇宙物質からつくられているのです。

 陸上、深海、極地、大空、地球周回軌道から集められる宇宙塵。その分析から、研究者たちは、地球生命の原材料は宇宙から供給されたのではないか、という確信を強めていきます。しかし、地球に降ってきた宇宙塵からだけではすべてを知ることはできません。人類は宇宙塵の生まれ故郷、母天体から直接サンプルを採取することを思い立ちます。それが「はやぶさ」プロジェクトです。

 矢野氏は、ひんやりとした美しい文章で、宇宙塵にかける自らの情熱を語っていきます。読んでいるうちに、私は矢野氏に襟元をつかまれ、矢野氏の頭の中のヴィジョンをそっくりそのまま見せられているような気分になりました。そこには「獅子の雄叫び」のように激しく降る流星群や、何十億年も前に地球に衝突した巨大隕石たちが見えます。そして、それら宇宙塵に乗ってやってきた私たち祖先のもととなる「何か」の姿も。

 矢野氏の語りは、やがて、「はやぶさ2」プロジェクト、「たんぽぽ」計画、さらには土星の衛星「エンケラドス」の氷の火山から地球外生命を持ち帰るという壮大なプロジェクトにまで及びます。はやぶさの十倍もの距離を行って帰る「エンケラドス」計画。二十年後、私たちはその成功を目にすることができるのでしょうか。技術的課題。なにより予算。成功の前には数え切れないほどの困難が横たわっています。

 最後に、この本が語るもうひとつのストーリーをご紹介しましょう。各章の間に差し挟まれている『わたしの旅路』。矢野氏の少年時代から現在に至るまでを書き綴ったハートウォーミングエッセイです。三十円を握って一駅先の吉祥寺まで冒険する六歳の矢野少年が実に微笑ましい。微笑ましいんですけど…。小学生、中学生と成長する矢野少年が、様々なことに挑戦するエピソードを読んでいるうちに、私は背筋が寒くなりました。恐ろしいまでのチャレンジ精神。子供とは思えない緻密な計画と実行力。「自分で決めたことで結果を出せば、反対していた人も認めてくれる」。その通りです。その通りですが、しかしここまで徹底的に、それを実行する人がどれだけいるでしょうか。

 宇宙へ駆けのぼるための階段を、黙々と、確実に、積み上げていく矢野少年。大人になった彼の手は、陸、大空、宇宙空間と、宇宙塵を求めて伸びていきました。その手が小惑星イトカワに達するのを私たちは見てしまいました。きっと「エンケラドス」にも届くでしょう。そう思わざるを得ない、凄まじい執念が、この本からあふれているのです。




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