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2012年09月29日

『Home Town』Tracy Kidder(Washington Square)

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「ニューイングランド地方のカレッジ・タウンが舞台となった小説」

 ピューリッツァ賞作家、トレーシー・キダーの小説『Home Town』はニューイングランド地方の小さな町を舞台とした小説だ。ニューイングランド地方とは、ニューハンプシャー州、メイン州、マサチューセッツ州など米国北東部の六州を含む地区を指している。著者のキダーはマサチューセッツ州とメイン州に家を持ちニューイングランド地方で暮らしている。
 この小説を読み始めたら、いきなりニューイングランド地方に住む人と知り合いになった。

 まず、メイン州で1989年から『The Cafe Review』という文芸誌を発行している編集長から連絡があった。共通の知り合いを通して『The Cafe Review』誌と手紙を送ってきてくれた。メイン州は綺麗だから一度、遊びに来いという。メイン州を拠点にずっと雑誌を出してきた彼は、これからも都会にでる気はないらしい。何か『Home Town』の物語の中に出てくるような人物だなぁ、と思いながらもらった『The Cafe Review』誌を読んだ。

 それからすぐに、セブン・シスターズの一校、マウント・ホリオーク・カレッジに通う日本人の女子学生と知り合った。セブン・シスターズとは米国東部の名門女子大であるバーナード、スミス・カレッジ、マウント・ホリオーク・カレッジなどの7校を指しそう呼んでいる。星に姿を変えられた7人の娘たちの伝説にちなんで「セブン・シスターズ」と名付けられた。昔からの呼び名で、今はこれらの大学の多くは男子生徒にも門戸を開いている。

 彼女が通っている大学がマウント・ホリオークだと聞いて、僕はふ~んと思った。というのも、『Home Town』の舞台となっているのが、スミス・カレッジやマウント・ホリオークが近くにあるマサチューセッツ州の小さな町、ノザンプトンという土地だったからだ。

 僕自身、大学がマサチューセッツ州だったので『Home Town』をわざと時間をかけてゆっくり読んでいた。そこに『The Cafe Review』誌の編集長やらマウント・ホリオークの学生やらが現れたので、ニューイングランドの海岸や、あの綺麗なしかしとても寒かった冬などを懐かしく思い出すことになってしまった。

 『Home Town』には、古い歴史のあるノザンプトンの町とそこに暮らす人々が描かれている。ノザンプトン以外では働いたことのない警察官、厳しいが人情のある裁判官、法も犯すが警察の捜査にも協力する小悪党、スミス・カレッジに通う生活保護を受けている母親などが登場する。この小説は絵に描いたようなニューイングランド地方にあるカレッジ・タウンが舞台だが、その一見平和な街に暮す人々の人生を追い、微妙な人間ドラマを描いている。

 本を読み終わる頃には、車を借りてニューイングランドに行こうと決心していた。

 
 


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2012年09月15日

『 Pasquale’s Nose: Idle Days in an Italian Town』Michael Rips(Back Bay Books)

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「イタリアのおかしな田舎町」


 今回紹介するのは、イタリア紀行。ニューヨークにあるチェルシー・ホテルに住んでいた著者は、毎日カフェで無駄な時間を過ごしている。しかし、その無駄な時間の多い生活に満足していて「こちら側の枯れて茶色くなった芝は、隣の青い芝よりも居心地がよい」と感じている。

 その著者が芸術家のガールフレンドに説得されて(騙されてともいえる)、イタリアの古い町で暮らし始める。

 最初の数ページを読んで、あるイタリア人のことを思い出した。

 僕たち一家は最近、通りをふたつ隔てた新たなアパートに引っ越しをした。それまで住んでいたアパートを貸し出すことにしたので前のアパートの床を修理が必要になった。僕たちは新聞の広告をみて業者を頼んだ。やってきたのはイタリアのシシリーからやってきたという中年の男で、ソファーに座り大きな声で修理の説明をした。修理の見積りをもらい、話しが決まったとき、その男は両手で僕の手を握り、次に僕の肩を抱いた。男のこんもりとした肩の肉が僕の鼻先にあった。

 「一流の仕事をするから、心配いらない。評判を大切にしているんだ」と再び両手で僕の手を握りながら、こちらの目を覗き込みながら言った。眼鏡の奥にある男の茶色い瞳が潤んでいるようにみえた。

 文化の違いとはいえ、スキンシップとあまりに直接的なコミュニケーションと取り方にびっくりした。僕と男は数時間前に会ったばかりで、こっちは仕事を頼んだだけなのだ。何も抱かれる理由はないと思ったが、男はそれが当たり前のように振る舞っていた。始めはあきれていたが、何回か会ううちにだんだんとその男に親しみを感じるようになったのも確かだった。

 本の内容の方に戻ると、ローマから50キロほど離れた古い町ストリに着いた著者は、ストリの住人の暮らしぶりを温かな視線で観察する。

 とはいえ、著者の目で描きだされるストリの町はまるでワンダーランドだ。目が見えないのに足のサイズを計ることなく注文を受ける靴屋、文字が読めない郵便配達、両性具者、レスビアン、大金持ちのアメリカ人の話など、どこまでが本当でどこまでが伝説か分からない楽しい世界だ。

 キリストの処刑を命じたピラトはストリで生まれたのか、ストリの住人の気質はキリスト教的か、太陽を信仰とするミトラ教的か。話は紀元前、ローマ帝国、中世、現代を行ったり来たりする。

 そのほか、ピザ、豆、馬肉、それにハリネズミの料理の仕方まででてくる楽しい本だ。
 ミラノのフィレンツェといった大都会ではないイタリアの深い世界が見えてくる本だった。


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2012年09月07日

『Bringing Up Bebe : One American Mother Discovers the Wisdom of French Parenting』Pamela Druckerman(Penguin )

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「子育てレンチ・スタイル」

自分の母国ではない国で子供を育てるのはいろいろ戸惑うことも多い。その国の文化のなかで、子供とどう向き合うか。問題が発生した時に、どう解決していくかなど悩みは尽きない。
今はニューヨークで子育てをして、異文化、異言語のなかで子供を育てている訳だが、一方では僕は長年アメリカ住んでいる。しかし、それでも時々異質なものをアメリカに感じる。

特に違うと思うのは、子供と親の境界線の薄さだ。親の言うことを一方的に子供に押し付けることをよしとしない気風がアメリカにはある。これはよくも悪くもアメリカの子育ての特徴だと思う。

簡単な例を言うと、子供を公園に連れて行って砂場だけで遊ばせたいと思っている親がいるとする。しかし、子供は砂場に飽きてほかの場所に行こうとする。アメリカの親は1度や2度は砂場から出ないように注意をするが、最後は子供の希望を聞いてほかの場所でも遊ばせる。

親が恐れるのは、自分が子供の居場所を限定させることで、その子の自由な精神を摘んでしまうのではないかというものだ。

これが砂場ではなく、親への反抗、周囲に対する生意気な態度、公衆の場所でのふざけた態度、口答えなどいろいろな場面でみられる。

子供は一時的には意地悪、生意気、怠け者にみえるかも知れないが、自由さのなかで将来周りがびっくりするような大発見をするかも知れない。その自由な発想や気質を潰すのはよくない、という考え方が根底にある。

これは、アメリカの学校教育でもみられるもので、「自分を出していく」「言いたいことを言っていく」ことをよしとするところがある。逆に言えば、自分を出していき、言いたいことを言っていけさえすれば、それが社会的にみて芳しい内容でなくとも、言いたいことを言えないようにさせてしまうよりいいと教師側は思っている。

ということで、今回読んだのが、パリで子育てを始めたアメリカ人の母親が書いた本。著者のパメラ・ドラッカーマンはウォールストリート・ジャーナル紙の元レポーターだ。

パメラによるとフランスの子供たちのほとんどは生後2カ月で朝まで眠るようになり、子供たちはレストランでも行儀よく静かに座り、親の会話を邪魔することがないという。まあ、こういう本を書くに当っては、物事を全体的に見る作業が必要で、個人個人をみればそうでない子供もいるはずだが、彼女の見た多くの子供がそうだったということだろう。

アメリカ人であるパメラにとってはどれも考えられないことで、子供たちの態度の違いはどこから来ているだろうと考える。パリで子供を生んだ彼女は、フランス流の子供の育て方を身をもって経験し、それを報告している。

アメリカの学校では親子面談などをすると、あなたのお子さんはここが凄くよく、こんなこともできる、とまあ、教師が子供のいいところを見つけて熱心に褒めてくれる。しかし、フランスの学校ではそんなことはなく、「普通にできてますね」の一言くらいでで終わってしまうらしい。

公園で見かける親子の様子も同じような素っ気なさがあるという。例えば子供が鉄棒ができたら「凄い!やった!もう一度やってみて」と言うのがアメリカ人の親で、フランス人の親は別に特別な言葉はかけない。公園で、ワーワー騒いでいる親子を見てフランス人は「アメリカ人が来た」と思うらしい。

子供の世界に一定の枠を作り、その枠内では自由にさせるが、その枠を出る自由は与えないというのがフランス流の子育てで、枠を作ってもその枠が弱いのがアメリカ流といえる。大人の世界と子供の世界をはっきりと線引きするのがフランスで、大人が子供の世界に近づいていくのがアメリカといえるようだ。

今、僕はアメリカ流の子育てのなかにいるが、アメリカ人の視点で違った文化の子育て作法を知るのは面白かった。


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