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2010年03月22日

『namesake』 Jhumpa Lahiri(Mariner Books)

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 もう随分長くアメリカに暮らしているが、80年代のある1年間だけ、僕はタカシ・ハタではなくスティーブ・ハタだった。ちょうどアメリカの弁護士事務所のリストを作る仕事をしていて、沢山の弁護士事務所から資料を貰わなければならなかった。

 自分の名前を「タカシ」と告げると、相手から「綴りは?」とよく聞かれた。「It’s T.A.K.A.S.H.I.(ティ・エイ・ケイ・エイ・エス・エイチ・アイ)と言い、それでも一度では分からない相手も多く、「トマスのTに、アンディのA、それにK、A・・・」と告げた。こういうやりとりが面倒臭くなり、ある時から軽い気持でスティーブという名前を自分につけて、名刺もスティーブ・ハタにした。

 スティーブ・ハタになってからは、電話で綴りを聞かれることもなくなった。周りの人々も僕をスティーブと呼び始めた。スティーブと呼ばれ、僕が感じたのは、大袈裟に言えば自己の崩壊だった。

 それまで日本で生きてきた自分とは違う自分が、アメリカでひとり歩きをしはじめたのだ。アメリカ文化に同化する自分と、日本からの価値観を持った自分の衝突だった。僕は、自分の知っている「僕」を守るために名前をタカシに戻した。

 この体験は、移民の国であるアメリカでは珍しくない話だと思う。デビュー作『Interpreter of Maladies(邦題:停電の夜に)』で2000年のピューリッツア賞を受賞したインド系アメリカ人ジュンパ・ラヒリも、移民が経験するふたつの文化のぶつかり合い、つまりアメリカ社会へ同化したいという思いと自己のアイデンティティを守りたいという意識をテーマにした作品を描いている。

 『Namesake』でもラヒリは、デビュー作と同じテーマを追っている。

 主人公であるゴーゴル・ガングリは、インドからの移民を両親に持つアメリカ生まれの青年だ。彼の父親は昔、インドで列車事故に遭い、列車の下敷きになった。その時、手にしていた本を振り救助員の注意を惹き一命を取り留めた。ゴーゴルはその本の作家の名前にちなんでつけられた名前だった。

 しかし、おかしな自分の名前にずっとひけめを感じていたゴーゴルは、エール大学に通っている間に名前をニクヒルに変える。ニクヒルとなった彼は、裕福な白人のガールフレンドとつきあい始め、白人家庭の一員としての時間も過ごしてみるが、居心地の悪さを感じてしまう。

 社会人となり彼は、母の選んだインド人の女性と結婚をする。しかし伝統的な見合い結婚もうまくいかず、結局離婚してしまう。父親の死後、母親はアメリカの家を売り払い、インドに帰ることを決心する。母親がインドに向かう前、ゴーゴルは育った家に戻り、父親がつけてくれた自分の名前について考え、もう一度自分を見つめ直す。
 
 アメリカは移民を多く受け入れる国であり、この本に描かれているような移民や2世の生き方の話は、実は非常にアメリカ的な物語だといえる。インドから移民をした父親や母親の人生、母国への帰属意識、そして2世がアメリカで体験する、ふたつの国の文化の間で揺れる心の動きは、白人が書くアメリカではないもうひとつのアメリカといえるだろう。
 


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2010年03月15日

『The Happiness Project』Gretchen Rubin(Harpercollins)

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「幸せの青い鳥を探す「幸せプロジェクト」」


 人間の人生の目的は、その時の状況によりいろいろ変わるだろう。お金を儲ける、家族を持つ、家を建てる、世界をまわる、行きたい学校に行くなどだ。

 こう考えると、一生を貫く目的を見つけるのは難しい。ところが、時間を超え万人に共通した人生の目的というのもある。それは「幸せになる」というものだ。

 アメリカの独立宣言でも「幸福の追求」は人の権利として保証され、日本国憲法でも「幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」と謳われている。

 ではこの「幸せ」とは何だろうか。それはルイ・アームストロングが「ジャズとは何かと聞かなければならないようなら、ジャズがなんだか絶対に分からない」と言ったように、「幸せ」とは何かを尋ねるようなら、なにが「幸せ」なのか分からないだろう。

 「幸せ」は、各人が心の中で感じるもので、他人にとっての「幸せ」が自分にとって同じものであるとは限らない。

 今回紹介する本は、その「幸せ」を1年間に渡って追った体験談だ。本のタイトルは「The Happiness Project」。著者はニューヨークに住む女性作家グレッチェン・ルービン。

 彼女はよき夫と、ふたりの娘とともにアッパーイーストサイドに暮らし、弁護士から作家に転じた経歴の持ち主だ。僕などから見ると、これだけで充分幸せなはずなのだが、彼女はそうは感じていなかった。

 彼女は「幸せ」になるために、毎月目標をたてる。例えば1月は「早寝をする」「運動をする」「片付けをする」「やり残している、やらなくてはいけないものをやる」「活気に溢れているような振りをする」というものだ。

 この目標は各月の大きな項目(1月はバイタリティ、2月は結婚、3月は仕事、4月は親業)に沿ってたてられている。大きな項目はそのほか友情、お金、余暇などがある。

 彼女は、それぞれの目標を実践し、その過程、結果を報告している。その結果、セルフ・ヘルプ本とノンフィクションの中間に位置するような内容になっている。

 「幸せ」になるための有効なヒントも散りばめられているが、面白いのは「幸せ」へのアプローチの仕方だ。つまり、僕にとっては本のノンフィクションの部分の方が面白かった。

 問題の解決策の見つけ方、解決策を実行に移すそのやり方、そうして絶えず分析をおこなう自己のありかた。合理的、直線的、そうして自分をあまり疑わないその思考回路は、僕がアメリカの白人と接したときに感じるものと同質のものだった。

 つまり、彼女はアメリカ、少なくともマンハッタンでは主流白人のなかのひとりであり、合理性、直接的行動を以て問題解決に当っている。

 「幸せ」になるということもさることながら、アメリカ社会の断面を見る目的でこの本を読むと非常に興味深い。



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2010年03月02日

『Portrait of a Killer : Jack the Ripper - Case Closed 』Patricia Cornwell(Berkley)

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「パトリシア・コーンウェルの力作ノンフィクション」


 取材や調査に400万ドルとも600万ドルともいわれる物凄い費用をかけたノンフィクション。

 お金を出したのはもちろん著者のパトリシア・コーンウェル自身だ。コーンウェルは、1956年フロリダ州マイアミ生まれ。バージニア州監察医局に所属し州の死体公示所で6年間勤務した経験を持つ。90年にスクリブナー社から出版された『Postmortem』(検屍官ケイ・スカーペッタ・シリーズ)がエドガー賞を含む六つの賞を取る大ヒットとなった、世界中に多くのファンを持つ人気推理小説作家だ。

ちなみに、彼女が人気作品の検屍官ケイ・スカーペッタ・シリーズで受け取るアドヴァンス(前払い出版契約料)は一冊につきだいたい900万ドルだという。しかしこの『 Portrait of a Killer: Jack the Ripper - Case Closed』はノンフィクション作品なのでアドヴァンスの金額はどのくらいなのかは定かではない。

コーンウェルが追ったのは1888年にロンドンで起こった切り裂きジャック事件。その年の4月から11月までに同一犯人により少なくとも5人から7人の女性が殺されたとされるもので、犯人は特定されていない。迷宮入りになった連続殺人事件として、いまでも有名な事件だ。コーンウェルは犯人をつきとめるべく独自の調査・分析チームを雇い入れ現地に乗り込んだ。

切り裂きジャック事件は、被害者女性の頚部を切り、子宮や腎臓を持ち去り、警察に「その肉を食べた」という手紙を送り付けるというセンセーショナルなものだった。

コーンウェルは、100年以上前の捜査では不可能だった切手や封筒からのDNA鑑定や、コンピューターによる特殊な画像データ処理などの手法を駆使し犯人を特定している。

彼女が犯人であるとしたのは英国の印象派画家であるウォルター・シッカートという人物だ。

もちろんシッカートはすでに死亡し、被害者たちの検死をおこなった医師もこの世にはいない。全ては状況証拠であるが、シッカートの手紙と犯人が警察に送り付けた手紙に使われた紙の透かし文字が一致していることや、シッカートの行動範囲が犯人と重なるなどの証拠を積み重ね説得力のある結論を導き出している。

しかし、この本の読みどころは、謎説き部分だけではない。

事件の事実だけを追った作品ならば、謎説きが最大の読みどころだが、著者は犯人の殺人手口などもつまびやかに再現させる。このあたりは、さすが検屍官シリーズを書く作家だけあり、描写が細部におよびかなり血なまぐさい。ナイフが身体に入る角度や深さなどの描写や、犯人が闇に隠れ背後から背中を刺し、声が出ないように頚部を切るなどの説明は、時には生々しすぎて、背筋が凍るような恐怖が身体に走る。

シッカートの心理分析や生い立ちの調査も入念におこない、何故シッカートが連続殺人を犯したかの動機にも迫っている。随分暗い街として描かれているが、当時のロンドンの街の様子も分かるので、その楽しみもある。

 読み応えがあり過ぎて犯行のイメージが数日間は脳裏に残る。パワフルで面白い作品だ。




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