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2008年07月29日

『Stork Club : American’s Most Famous Nightspot and the Lost World of Cafe Society』Ralph Blumenthal(Little Brown)

Stork Club →bookwebで購入

「ニューヨークの華やかさが偲ばれる一冊」


 以前、当時の『ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー』誌の編集長だったチップ・マックグラスに会った時に、アメリカの雑誌『ニューヨーカー』誌の話を聞いたことがある。マックグラス自身『ニューヨーカー』誌に23年間在籍し、1952年以来編集長を務めたウィリアム・ショーンの元で副編集長になった男だ。一時は『ニューヨーカー』誌の編集長になるかと思われたが、ティナ・ブラウンという有名エディターが編集長に指名され、その後彼は『ニューヨーカー』誌を去った。

 マックグラスに聞いたショーンの話だが、名編集者と謳われたショーンは88年に『ニューヨーカー』誌を辞めた。この時点で『ニューヨーカー』誌を読む人の数は激減していたという。

 ショーンについてマックグラスは次のように語っている。

 「ショーンはとても変わった男だった。人に対して苦痛なくらい丁重に接し、シャイでいつもどこかに引きこもっていた。彼のもとでは15年間働いたけど、最後まで彼を知っているといえない気分だった。編集者としては最高の人物だったが、ショーンは『ニューヨーカー』に長くいすぎたと思う。偉大な男が時々犯すミステークだ」

 この言葉を聞いてなるほど、と僕は思った。能力のある人が、時代や状況の変化に追いつけず、同じやり方を続け取り残されていくとうことは確かにある。能力があるだけに最後の最後まで戦えるのだ。

 今回紹介する『Stork Club』を読んで、クラブのオーナーだったシャーマン・ビリングスレイもそんな男のひとりだと感じだ。

 ストーク・クラブは1920年代から60年代までニューヨークあった有名なナイトクラブだ。一般客はなかなか店内に入ることはできず、このクラブに出入りしたのは、ケネディ一家、ジョン・F・ケネディのデート相手だったマリリン・モンロー、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョー・ディマジオ、スコット・フィッツジェラルド、オーソン・ウエルズ、エドガー・フーバー(当時のFBI長官)、グレース・ケリー、そしてグレース・ケリーとデートを重ねたモナコのレーニエ王子、デューク・エリントン、コラムニストのウォルター・ウンチェルなどその時代の特権階級に属する人々だった。このストーク・クラブに集まる人々の輪をメディアはカフェ・ソサエティと呼んだ。

 本書によると、ストーク・クラブは30年代に年間100万ドルの売上げがあったという。当時、セクレタリーの収入が週給30ドル程度だったことを考えれば膨大な売上だ。ストーク・クラブを一流のナイトクラブに保つために、ビリングスレイは年間7000ドルを花に使い、1万2000ドルの電気代を払い、店内で演奏をする2つのフルバンドに1万5000ドルを支払った。従業員も200人と完璧なサービスを提供できる人数を揃え、彼自身も週7日間、昼間から朝の4時まで働いた。

 本書では、マフィアも出入りするこの有名なナイトクラブの様子や、オクラホマの片田舎から出てきたビリングスレイが密造酒を売るブートレッガーから、スピーク・イージー(禁酒法の下で違法に酒を売る店)であった第1、第2ストーク・クラブを作り、3番目のストーク・クラブで成功を収めるまでの様子も書かれてある。また、当時のクラブの華やかさの裏にマフィアの影があったことも分かる。

 テレビ番組や映画の題材にもなったストーク・クラブだったが、50年代に入ると労働組合との訴訟問題や黒人へのサービスを拒否したため人種問題なども抱える。

 読み応えのあるのは本書の後半部分だ。そこには時代は変わっていくが、あくまでストーク・クラブを変えようとはしなかったビリングスレイの姿が描かれている。お金がなくなり腹心の部下も去っていくなか、遂にビリングスレイはストーク・クラブに泊まり込んで経営をしていく。持っていたアパートも売り払い、最終的にはどうにもならずストーク・クラブを売り渡す形で店を閉める。ビリングスレイは店を閉める直前まで、気に入らない従業員をクビにし、嫌いな客は追い返し、自分のやり方を貫こうとした。そこには悲愴感さえ漂う。時代はすでに60年代に入り、店をたたむ65年には誰もストーク・クラブを見向きもしなくなっていた。

 傲慢で、盗聴などもしたビリングスレイだったが、彼は心の底からクトーク・クラブを愛していたにちがいない。自分で雑誌を創刊した僕は、彼の心情がよく分かる気がする。僕にとって雑誌は自分の子供のような存在だが、ビリングスレイにとってのストーク・クラブはクラブ、イコール彼自身だったのだろう。クラブが人気を博せば彼も注目を集め、クラブの衰退とともに彼の身なりも薄汚れたものになっていく。

 ストーク・クラブを閉めたちょうど一年後、ビリングスレイはこの世を去っている。ニューヨークの一時期を華やかに彩ったクラブの歴史と、そこにいた人々の姿が偲ばれる一冊だ。




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2008年07月16日

『Blood and Champagne : The Life and Times of Robert Capa』 Alex Kershaw (Da Capo Press)

Blood and Champagne : The Life and Times of Robert Capa →bookwebで購入

「架空の写真家だったロバート・キャパ」

いま僕はコンピューターの画面に向かい、スクリーンに映っている一枚の写真を見ている。

「The Falling Soldier」というタイトルがつけられたその写真は、ひとりの兵士が頭を撃ち抜かれ、仰向けに倒れ込む、まさにその瞬間を捕えたものだ。撮影したのはロバート・キャパ。スペイン内乱、世界第二次大戦など戦場の様子を伝えたフォトジャーナリストとして世界的に名を知られた写真家だ。「The Falling Soldier」はキャパを有名にさせた彼の初期の作品だ。

 彼が生まれたのは一九一三年十月。しかし、不思議なことに一九三〇年代の半ば頃までロバート・キャパという人間は世界中のどこにも存在していなかった。

 僕がキャパの名前の秘密を知ったのは、今回紹介するロバート・キャパの伝記『Blood and Champagne』からだった。キャパの本名はアンドレ・フリードマン。ハンガリー出身のユダヤ系。フリードマンは最初キャパに雇われている助手というふれこみだった。

 話は少しややっこしい。

 キャパは、当時パリに住んでいたフリードマンと彼のガールフレンドが作り出した想像のカメラマンだった。彼らが作り出したキャパという人物像は「有名なアメリカの写真家で、大変な金持ち、たまたまヨーロッパに来ている」「凄い写真を撮るが金に困っていないので写真の値段は高い」というものだった。

 ナチスから逃れ国を出て、まだ名前もないフリードマンにはカメラマンとしての仕事が少なく、もしあったとしても写真を高く売ることができない。それならばと考えだされたのが架空の写真家ロバート・キャパだった。売り込みはうまくゆき、フリードマン/キャパの撮った写真は通常料金の三倍から五倍で売ることができ、仕事の依頼もきた。キャパの名前が売れてくると、フリードマンは自分の名前を捨て、そのままキャパと名のるようになった。架空の写真家のほうに実在する人間が吸い取られた形だ。

 この本は、作家ヘミングウエイやスタインベック、映画監督ジョン・ヒューストンとの交友、また女優イングリッド・バーグマンとの恋、それにフォトエージェンシー「マグナム」の設立など、人生を情熱的に生きたキャパの生涯を追っている。

 写真家として常に戦争を追いかけ、ギャンブルにのめり込み、女性が好きだったキャパ。一方では、先ほどの「The Falling Soldier」が実は兵士に頼んでポーズを取ってもらったもの、いわゆる「やらせ」写真ではないかという議論がいまも続いている。

 キャパは一九五四年、まだアメリカ軍が介入する前のベトナムに赴き、地雷を踏んで死んでしまう。四〇歳という若さだった。フォトジャーナリズムの世界に衝撃を与え続けたキャパの魅力溢れる人柄と人生を、緻密な調査により伝えてくれる本だ。

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