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2012年01月23日

『石の記憶』田原(思潮社)

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「《は》の効用」

 すごい詩人が現れたものだ。これなら現代詩アレルギーのひとにも自信を持って薦められる。おおらかで、力強くて、土の中から生えだしてきたかのような安定感がある。それでいて実に柔軟。間接がやわらかいのだ。まさに一流の運動選手のような肉体を持った言葉である。

 日本語による第一詩集『そうして岸が誕生した』から、巻頭の「夢の中の木」を引いてみよう。

その百年の大木は
私の夢の中に生えた
緑色の歯である
深夜、それは風に
容赦なく根こそぎにされた

風は狂った獅子のように
木を摑んで空を飛んでゆく
夢の中で、私は
強引に移植されようとする木の運命を
推測できない

木がないと
私の空は崩れ始める
木がないと
私の世界は空っぽになる

こういう自然に憑依されたような言葉で語ることのできる詩人を、筆者はそれほど知らない。近いのは新川和江か。変に頭を使ってはいけないということを、実に明瞭に示してくれる作品である。

 もちろん読者も気をつけないといけない。もしこのような一節を読んで「???」と思った人がいたら、よけいなことかもしれないが、頭を使いすぎずに読むための簡単なポイントがある。この詩のまずどこを読んだらいいか。「は」である。

その百年の大木は/(それは)/風は/(私は)/私の空は/私の世界は
この一連の「~は」に、ちょっとだけ注意して読んでみよう。単に力をこめるというのではない。軸として意識してみる。「気」の置き所にする。そうすると、視界が開けてくると思う。この詩は「~は」から始まるための詩なのだ。「~は」とはじめた勢いが、どうやって言葉を伝って流れ出していくか、その流出感のようなものに身をまかせたい。

「は」が示すのは主語であり、話題である。でも、田原の「は」にはそれ以上のものがある。それは非常に屈強な「は」なのだ。そしてその強さは、相手に届こうとする呼びかけめいた意思のようなものを――つまり、言葉的な距離の想像力のようなものを――持っている。

そのように長い歳月を経て
川の流れは疲れ果てた包帯だ
それは傷ついた村や山を包み縛っている
世の激しい移り変わりの船着き場は
遠くに清く澄んだ水源を眺め
あたかも老いるのを待っている船頭のように
ひとしきり咳に付き従って
黒い苫舟を漕ぎ
川を遡って帰る
(「田舎町」 『石の記憶』より)
「は」の作用は、和歌の上の句と似たようなものでもあるかもしれない。百人一首で「~は……」と長く伸ばして読むときのあの心地にあるのは、何かを呼び覚まして目の前に浮かび上がらせようとする「お願い」のような気分である。そういう意味では田原の詩の多くには、相手にむかって呼びかけ手を伸ばそうとするような姿勢が見える。
一本の大木が倒された地響きは
森の溜息だ
鳥たちは
銃声の傷を背負って
帰巣して卵を産む
ムササビは黒い幽霊のように
木から木へと跳んで
食べ物を見つけようとする
(「狂騒曲」 『石の記憶』より)
と同時に、彼の安定感を作っているのは、「は」を介した呼びかけを口語自由詩の中の一種の「型」にまで昇華させてしまう執念のようなものでもある。じっくり語る。決して「~は」から流れ出して、あとは野となれ山となれではない。何度でもあらためて「は」の地点に立ち返ろうとする気概がある。体力もある。そしてそれは、ときに怨念めいた凝視をも生む。四川大地震のことを描いた「堰止め湖」(『石の記憶』)という作品の終わり方は典型的だ。
一万年後 お前はそのときの人々に
感嘆され称賛される景色になっているかも知れない
しかし 私はこの詩を証として書き残しておきたい
西暦二〇〇八年五月のお前は
何億もの人々の涙が溜まってできたものであることを
詩とは時間や空間の威力に抗して語ろう、記録しよう、刻みつけようとする、人間的な抵抗の、もっとも原初的な形なのだ。

 田原(でんげん、ティエン・ユアン)は中国・河南省出身。大学では中国文学を専攻し将来を嘱望されていたが、天安門事件に参加したために当局に目をつけられ、方針転換して日本に留学することになった。広く海外の詩にも親しみ、ロルカ、パステルナーク、ホイットマン、ウォレス・スティーヴンズなどを愛読。詩は中国語でも日本語でも書くというバイリンガル詩人である。ざっくりと言葉を鷲づかみにするような剛胆さと、ひょいとイメージからイメージに飛び移る敏捷さとを兼ね備えているあたり、たしかにホイットマンやスティーヴンズと通ずるものを感じる。谷川俊太郎の研究者でもある。

 実は最近、勤務先で講義をしていただいた(東大朝日講座――知の冒険)。「詩は他者への愛によって書かれる」「詩には謎がなければならない」「良い詩は良い読者を見つける」――いずれも発言の場から切り離して引用すると鮮度が落ちてしまうのが残念なのだが、こうした言葉がこれほど自然に口にされ、しかもそれがこちらに届くというのは希有な体験だった。まさに温度のある詩人である。田原さんは雪の舞う空にパーカー一枚という出で立ちで驚くほどの熱気をあたりに充満させ、講義中何度も嗚咽しながら、激しい感情とそれをコントロールしようとする強い意志とのバランスの中で、未発表の自作を含めて何編かの作品を朗読してくださった。

 「浮浪者」「津波」といった作品が近々活字になる。乞ご期待である。


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2012年01月04日

『パミラ、あるいは淑徳の報い』サミュエル・リチャードソン著、原田範行訳(研究社)

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「パミラはいったい何をしたのか?」

 ついに『パミラ』の翻訳が出た。1740年版の初版テクストを元にしたものは本邦初訳。記念すべき出来事である。パミラはおそらく英文学史上もっとも有名な人物のひとりだが、考えてみるとその実像は意外に知られていない。パミラとは何者なのか?この女、いったい何をしたのか?

 とりあえず誰もが知っていることから確認しよう。ときは18世紀前半のロンドン。英国ではすでに印刷術がかなり普及し、書物はもはや一部の上流層の独占物ではなくなりつつあった。むろんもっとも需要の多かった出版物はキリスト教関係のものだが、これとならんで大いに人気を博したのが〝お作法系〟の入門書である。あいさつ、しゃべり方、歩き方、うれしがり方……。18世紀とは何でもかんでも「やり方」が指南される時代だったのである(当時のお作法問題については、こちらも御参照ください)。とりわけこの時代に注目を浴びつつあったのは、書き言葉をめぐる作法だった。サミュエル・ジョンソンによるはじめての英語辞典は18世紀半ば。英語の句読法が整備されたのも同じ時期である。

 さて、ここにサミュエル・リチャードソンという印刷業者がいた。「業者」とはいえ文章力には定評がある。すでに何冊か一般向けの本も出している。このリチャードソンに対してある出版者が、手紙の書き方の模範文例集を出しませんか?と持ちかけた。どうやらこれが50歳になるリチャードソンの心の何かにヒットしたらしい。彼は大いに乗り気になり「よし、じゃあ、せっかくだから人はどのように振る舞うべきか、指南書のようなものにしよう」とのアイデアまで出し、さっそく全体を書き上げた。所要期間わずか2ヶ月。当初の手紙の模範文例集という企画はどこかにすっ飛び、翻訳版で総頁800近くの長大なドラマがそこには展開されていた。これが『パミラ』である。

『パミラ』は発売後たちまちベストセラーとなる。二巻揃いで今の日本円にして1万円から1万5千円という本があっという間に版を重ねて、一年もたたないうちに1万5千部も売れた。単純計算で一億円を優に越える売り上げである。いったい何が起きたのだろう?パミラはいったい何をしたのか?

 タイトルにあまりにも明瞭に示されているように、『パミラ』は「淑徳を守ったおかげで報われた女」の話である。主人公パミラは上流階級のB―氏のお屋敷で働く召使い。まだ若い彼女にとってはすべてが新しい経験ばかりで、生活の詳細を両親への手紙の中でいちいち細かく書き綴っている。ところが、やがてあやしい気配が漂ってくる。主人であるB―氏の魔の手が伸びてくるのだ(本の装丁はこれを意識しているらしい。「手」が見える)。まあ、たいへん、とパミラは動転する。いったいどうすればいいの?しかし、彼女は折れない。B―氏による、それはそれはしつこくいやらしい攻勢をはねかえすのである。攻勢はエスカレートし、彼女は軟禁状態にさえ置かれるが、それでも負けない。そして、紆余曲折の末、彼女はついに勝利をおさめるのである。「勝利」とは……結婚であった。彼女は見事、B―氏に正妻として迎えられるのである。

 それにしても、まあ、何というストーリーだろう。こんなものをいったい誰が読みたいと思うのか?英文学史の授業で、「『パミラ』は最初の近代小説であ~る。最初の小説は書簡体だったのであ~る」などいう触れ込みとともにこのような粗筋を聞かされた学生たちはきっと「ふ~ん。小説って昔はおそろしく退屈なものだったんだね」と目配せし合っただろう。「昔の人に生まれなくてよかったね♪」などと囁きながら。

 たしかに『パミラ』は私たちが知っている小説とはおよそ似ていない。私たちがほっとするような小説的な心地良さはほとんど期待できない。しかし、回路を切り替えてみたらどうだろう。「最初の近代小説」などというよけいな先入観を捨て、小説ではなく、ともかく『パミラ』を読む。そうすると、この作品、たしかに小説らしくはないが、妙なところで「小説」という形式と血が繋がっているのがわかってくる。そして、そこには「ひょっとすると小説がそうであったかもしれない別の顔」が覗いてもいる。私たちの知っている「小説」の背後にもあるかもしれない何か。根源的な言葉のエネルギーのようなものが、そこには宿っているのである。

 『パミラ』では、とにかくみんなよくしゃべる。もちろん筆頭は主人公のパミラである。一回話しはじめたが最後、なかなかマイクを放さない。B―氏とのことで、パミラは頼りにしている召使い監督のジャーヴィスさんにしきりに相談をもちかける。

そこで私はまた訊きました。「あのあずまやでの一件のことをあの方は悔いているとおっしゃいましたね。でも、それがどのくらい長続きしたというのでしょう。私がひとりでいるところを見つけるまでだけのこと、そして今度は前よりもひどくなった、それでまた後悔する。かりに私のことをお好きなのだとしても、そしてそれがあなたのおっしゃるように無理もないことだとしても、また機会があれば、三たび私を苦しめるということになりはしませんか。本で読んだことがあるこのですが、男の人って、はねつけられると恥ずかしがるくせに、うまく行けば恥ずかしく思わないって言うではありませんが。それにね、ジャーヴィスさん、もしかりにあの方が力づくでどうのということをお考えではなかったとしても、だからどうだというのでしょう。私に気を引かれずにはおられないとか、あなたはおっしゃいましたが、そう、確かに愛するなんてありえませんものね!――でも気を引かれるだけということは、結局あの方は、私の同意の上で私の身を滅ぼそうとなさっているということにはなりませんか」そして私は強く言いました。「私は絶対に、いかなることがあっても彼の誘惑に負けてはいけない、と考えているのです」(62-63)
万事この調子なのである。もちろんアクションもある。B―氏がパミラの部屋に潜んでいて、パミラが着替えてベッドに入ったところを襲うなどという場面だってある。まさに危機一髪。中盤から後半にかけてはアンドレ・ザ・ジャイアントみたいな大男も登場。軟禁されたパミラが脱出をこころみて、「パミラ走る!」「大男走る!」などということにもなる。ほとんどどたばたコメディの世界だ。しかし、そうした場面も含めて、ほんとうのところでこの作品を支配するのは、危機と苦難に直面しつづけるパミラの、つねにぴりぴりと緊張しつづける神経そのものである。うわずった神経の声が、読者をひっぱる。

 とにかくよくしゃべる。休みなくしゃべる。書簡体小説には地の文なるものがないから、語り手が出ずっぱりなのは仕方がないとはいえ、このように神経の突っ張ったインフレ気味の語りがつづくと、さすがにこちらもくたびれてくる。山あり谷ありどころか、山の連続である。しかし、このようにこちらをくたびれさせるところにこそ、この作品の一番の真実があるのかもしれない。リチャードソンはたったの二ヶ月でこれを書き上げたというが、それはパミラの体現する種類のエネルギーを彼自身がうちに宿していたということではないのだろうか。

 『パミラ』はよく売れたが、それだけに批判にもさらされた。徳を胸に誘惑をはねつけるパミラの人物像はすでに当時から「偽善的」などと嘲笑されたりした。しかし、実際に読んでみるとわかるが、この800頁にはとにかくパミラ臭があふれていて、とてもではないが徳だの純血だの結婚だのといった骨張った議論に回収されるものではない。しゃべりまくる女たちの語りの力は圧倒的なもので、しかもそれは女が語る女の語りではなく、男が女に語らせる女の語り。つまり、50歳のおじさんの視点から「女の語り」へと没入するリチャードソン臭が混入しているのである。だからこそ、独特の過剰さがつきまとう。

 そんな女の語りを日本語に訳出するのはなかなかたいへんなことだったと思うが、訳者の原田範行氏はどうやら「男が女に語らせる女の語りを男が訳す」というねじれを意識しながら、徹底的に過剰さを表沙汰にする方策をえらんだようである。

十時頃、彼はジュークスさんをよこして、彼のところへ来るようにと言いました。どこへ?と私が尋ねると、案内してあげるよ、と彼女。階段を三、四段下りると、彼の寝室へと向かっているのが分かりました。扉が開いているのだもの。あそこへは行けません!と私が言うと、バカなことを言うんじゃない、さあ、来るんだ、危ない目には遭わせないよ!と彼女。死んでも行きません、と私が言うと、あの人の声がした。こちらへ来るように、来なければもっとひどい目に遭うぞ。もう僕はあの娘に自分で話をするのが耐えられないのだ!――私、絶対にまいりません、うかがうことはできません、そう言って私は上へ上がってクローゼットに籠ってしまいました。力づくで引きずり出されるかもしれない。(298)
 たいへんテンポのいい訳である。こうして本来重苦しくなってもおかしくないこの元祖セクハラ小説は、つねにしゃべりつづけるパミラやその他の女たちのおかげで、「じとっと徳を守る女」のイメージからはおよそかけ離れた、もっと不定形な語りの力を示し続けるのである。私たちの知っている小説特有のメリハリや陰影やその他の技巧は欠いていても、この走り続けようとする語りの力には見覚えがある。こんな形でご先祖さまと出会うなんて、実に楽しいではないか。


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2011年08月16日

『対訳 イェイツ詩集』高松雄一編(岩波書店)

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「〝老い〟という解放」

 英語の詩を読みたい。ひとりだけ選ぶなら、どの詩人がよろしいか?
 ときにこんな質問をもらう。しかし、「ひとりだけ」というのはなかなか難しい。英詩人は個性派揃いなので、できれば軟派から硬派、閑寂から疾風怒濤、変態系からまじめ派まで合わせて読んでもらうのが一番である。でも、とてもそんなヒマはないというなら、では、誰から始めるべきでしょう。

 そんなときに筆者が勧めるのはまずはシェイクスピアの『ソネット集』である。何しろエリザベス朝の詩人だから英語の使い方は古めかしいし、初心者にはやや変態度も強すぎるかもしれないが、とにかく言葉の甘さが圧倒的なのだ。頭がくらくらするほどで、読むだけで虫歯になりそうな気がする。訳や注釈がいろいろ出ているのも助けになるし、これだけ読んでおけば、まあ、「英詩をかじりました」くらいのことは言えるだろう。

 ただ、実は人によっては初体験はこちらの方がお気に召すのではという詩人がいる。アイルランドの詩人W・B・イエイツである。イエイツは若い頃は〝うっとりなめらか系〟の詩人だった。朝だか夜だかわからない黄昏の空気が世界を覆い、うつらうつらとしているうちに、妖精が出てきたり、蜂がぶんぶん飛び出したり。ああ、哀しい、ああ、切ない、ああ、心地良い、と思わせてくれる詩を書いていた。日本でも昔から人気があるのは、この時期のイェイツ作品である。

 しかし、イェイツがもっとおもしろくなるのは、中期、そして後期である。〝うっとりなめらか系〟の詩人が、中年期になるとだんだんイライラしてくるのである。このイライラには焦燥感やら冷笑やら怒りやら自己嫌悪やらいろんな感情が混入していて、おかげでイェイツが元々得意としていた哀切感や甘さの表現にぐっとコクが増してくるのである。とりわけ大事なのは〝老い〟の自覚である。たとえば「釣師」という作品は、幻の釣師のために詩を書こうという宣言とともに終わる詩で、そういう意味では英詩人によく見られる「所信表明の詩」となっているのだが、そこには「老いぼれるまえ」にという焦りが入っている。

そうして私は叫んだ、「老いぼれるまえ、
この男のために一篇の詩を書こう、
おそらくは夜明けのように冷たくて
情熱にあふれる詩を書こう」と。

……
And cried, 'Before I am old
I shall have written him one
Poem maybe as cold
And passionate as the dawn.'(124-127)


 だから詩も、老いつつある中年男ならではの独特の感情を孕んでいる。'as cold/ And passionate as the dawn'(「夜明けのように冷たくて/情熱にあふれる」)というのは、まさにこの時期のイェイツを象徴する表現なのである。冷たいけれど熱烈で、冷笑と興奮との狭間にあって、怒っているんだか喜んでいるんだかわからない、泣いているのか笑っているのかわからない、そういう詩が書かれるようになる。

 おそらく背景にあるのは、イェイツにとっての永遠の女モード・ゴン(Maud Gonne)との関係の変化である。イェイツは写真で見るとなかなか男前だが、モード・ゴンという女性も相当な美人だった(http://www.websters-online-dictionary.org/definitions/Maud+Gonne?cx=partner-pub-0939450753529744%3Av0qd01-tdlq&cof=FORID%3A9&ie=UTF-8&q=Maud+Gonne&sa=Search#922など参照)。イェイツはこのモードにゾッコンになり、永遠の美女として何度も詩に登場させている。ところがモードの方はイェイツをまったく相手にせず、三度のプロポーズを断ったあげく革命家と結婚してしまった。ふたりがあっという間に離婚したのを見て、イェイツはさっそくモードに再求婚したのだが、またまた「ノー」の返事。ついにイェイツはモードの娘にまでプロポーズするが、これもうまくいかなかった。

 しかし、モードに言わせれば、「あたしが拒絶しているおかげであなたは詩を書けるんじゃないの」ということなのである。たしかにそうかもしれない。モードにふられつづけたイェイツは50歳過ぎまで独身で通すが、この「ふられ男のパワー」のようなものがイェイツの詩の原点にはある。革命運動に入れあげたモードは美人は美人だが「あたし、ぐちゃぐちゃ物事を考えるの好きじゃないのよ」などと言う人でもあり、イェイツとは性格が正反対。拒絶することでこそ、イェイツの詩作に貢献したのだとも言える。

 そんなモードとの長いかかわりをへて中年期のイェイツは「イライラ」を発見するわけだが、それは恋愛感情の摩耗ともかかわっていた。イェイツは「モードにふられても前ほどがっかりしない自分」に愕然とするのである。'The Wild Swans at Coole'(「クールの野生の白鳥」)などは、かつてモードにふられて湖の畔でしんみり白鳥を数えたけれど途中でみんな飛んでいってしまった、その同じ場所で、19年をへてまたまた白鳥を数えるという詩なのだが、近眼のはずのイェイツが今回は59羽ぜんぶ数えきってしまったなどというほとんど嘘っぽい設定にもかかわらず、その執念深さのメランコリーが実に味わい深い。対象の喪失よりも、喪失を喪失と感じなくなっていく自分にイェイツは敏感になっていくのである。

 恋愛から自由になった人はしぶとい。不思議なことに、イェイツは年をとればとるほど生命力を増したのである。表向きはしきりに精力の減退を嘆いているが、言葉そのものは若さから解放されてむしろ生き生きとしている。後期イェイツの代表作に「小学生たちのなかで」('Among School Children')という拍子抜けするようなタイトルの作品があって、内容としては、まあ、「詩人はみずからの人生や肉体を犠牲にして、美を生み出すべきなのか否か」というイェイツならではのテーマを中心に据えているのだが、いちいちの連でぎゅっとつまった思弁が繰り広げられていることもあり、なかなかさらっとさわやかに読めるものではない。ところが先に進むにつれ、そのぎゅっとつまった怨念のようなものが段々と煮詰まり、最後は怒りとも悲しみとも喜びともつかない高揚感とともに、ほとんど爆発せんばかりの力が発散されるのである。

魂を喜ばせるために肉体が傷つくのではなく、
おのれに対する絶望から美が生まれるのではなく、
真夜中の灯油からかすみ目の智慧(ちえ)が生れるのでもない、
そんな場所で、労働は花ひらき踊るのだ。
おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお、輝く眼ざしよ、
どうして踊り手と踊りを分つことができようか。

Labour is blossoming or dancing where
The body is not bruised to pleasure soul,
Nor beauty born out of its own despair,
Nor blear-eyed wisdom out of midnight oil.
O chestnut-tree, great rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance? (240-241)


'O'とともに呼びかけの入る最後の四行など、英詩ならではの〝泣き〟というか、小節を感じさせるが、そこで語られるのは単なる哀切感や甘い酔いではない。「踊り手と踊りを分つことができようか」の一節は、詩人は単なる職人であっていいのか?自分の人生を生きなくていいのか?との強烈な問いを悔恨と絶望と昂揚とともに突きつけてきてたいへん力強い。まさにcold and passionateとでも呼びたくなる、節くれ立った興奮なのである。

 そんな節くれ立った生命力が最後の輝きを見せるのは、この詩選集でももっとも後の方に収録されている、詩人最晩年の作品「サーカスの動物たちは逃げた」('The Circus Animals' Desertion')だろう。もう自分には詩は書けない、自分のまわりにはかつて詩の中に登場させたものたちががらくたとなって散らばっている、という詩である。そのかつての登場人物たちに取り囲まれた詩人がいよいよ地面に横たわるという最終連はとりわけ感動的だ。

完璧だからこそ横柄なこれらの幻像は
純粋な精神のなかで育った。だが、もともとそれは
何であったか? 屑物(くずもの)の山、街路の塵芥(ちりあくた)、
古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、
古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて
喚(わめ)き立てるあの売女。私の梯子(はしご)が消えた今は
あらゆる梯子が始まる場所に、心という
穢(けが)らわしい屑屋の店先に寝そべるほかはない。

Those masterful images because complete
Grew in pure mind, but out of what began?
A mound of refuse or the sweepings of a street,
Old kettles, old bottles, and a broken can,
Old iron, old bones, old rags, that raving slut
Who keeps the till. Now that my ladder's gone,
I must lie down where all the ladders start,
In the foul rag-and-bone shop of the heart.(312-313)


 この最後の連のぐしゃぐしゃぶりはどうだろう。とくに'Old kettles, old bottles, and a broken can,/Old iron, old bones, old rags, that raving slut/ Who keeps the till.'(古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて/喚(わめ)き立てるあの売女。)というところなど、かたかたと乾いた音が聞こえてくるかのようだ。無機質で死を予感させる音なのだが、やけに元気でもある。お祭りのようでさえある。干涸らび、枯渇し、もう何もないかもしれないというのに、それをお祝いしている。絶望しながらも喜んでいる。まさにイェイツの老人的生命力の極みではないかと思う。

『イェイツ詩集』中林孝雄・中林良雄訳(松柏社 1990)、『W・B・イェイツ詩集』鈴木弘訳(北星堂 1992)、『イエイツ詩選』尾島庄太郎訳(北星堂 1997)、『イエイツ詩集』加島祥造編訳(思潮社 1997)など、近年も新訳の出続けているイェイツは、当分「気になる英詩人リスト」の上位を占め続けることになりそうだ。


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2011年05月18日

『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ/岸本佐知子訳(新潮社)
『No One Belongs Here More than You』Miranda July(Scribner)


いちばんここに似合う人
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No One Belongs Here More than You
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「いきなり筆で」

 遅ればせながらミランダ・ジュライである。この本、かの「キノベス」でも堂々一位に輝き、すでにあちこちで話題になっている。しかし、こうした熱烈な反応、実は筆者にはやや意外だった。というのも、ジュライの文章の持ち味はなかなか翻訳では伝わりにくいと思えたからである。

 たとえば「階段の男」という作品の冒頭部。深夜、語り手の女性が物音に眼を覚ます。階段に人の足音がするような気がする。それで思わず隣に似ているパートナーのケヴィンの手首を握りしめる、という下りがある。

I squeezed Kevin's wrist in units, three pulses, then two, then three. I was trying to invent a language that could enter his sleep. But after a while I realized I wasn't even squeezing his wrist, I was just pulsing the air. That's how scared I was; I was squeezing air. (33)
I was trying to invent a language that could enter his sleep.なんてことがさらっと言えるところがいい。観念的(to invent a language)だけど官能的(that could enter his sleep)。ボーイッシュで乱暴だけど、急に甘えるような、猫みたいに背中を丸めた言葉遣いになる。

 すごくおおざっぱな言い方だが、英語小説の語りというのは概してテンポがいい。どんどん語り、どんどん進む。ご存じのように日本語の場合は高級感や深刻さを出すために、文章の呼吸を調整しつつさながら間接照明のごとく余韻を使ったりするから、英語とはリズムの作り方が異なってくるのだが、そういう違いを乗り越えて英語の語りを日本語に移すことには翻訳者も慣れている。読み手の方も翻訳文に非日本語的饒舌が入ってくることには寛容だ。いや、日本語そのものがその非日本語的饒舌を模倣することさえある。

 これに対し、ジュライの語りというのは、まさに今の一節がそれをあらわしているのだが、いちいち語り手が「言語を発明」しながら前に進んでいる感じがする。だから、語り口としても言葉が時にボトッと止まったりする。下手に滑走したりしない。この「ボトッ」は日本語的な余韻と似ていそうにも見えるし、違いそうにも見える。

I don't believe in psychology, which says everything you do is because of yourself. That is so untrue. (134)
 たとえて言えば、真っ白い画面にいきなり筆で色を塗っていくような感じだろうか。重ね塗りではない。下拵えもなし。ともかく言ってしまう。それで語り手も「あっ、こんなふうに言っちゃった」なんて思っている。書道や水墨画の筆遣いを想起させなくもないが、それほど〝崇高〟でもない。もっといたずらっぽくて、気まぐれ。そう考えると、この本の訳者として岸本佐知子はこれ以上ないほどぴったりかもしれない。

 上記の二箇所の訳はそれぞれ次のようになっている。

かわりにケヴィンの手首を握ってパルス信号を送ろうとした。まず三回、それから二回、また三回。そうやって、なんとかケヴィンの眠りを破る新しい言語を編み出そうとした。でも気がつくと彼の手首なんか握っていなかった。ただ空気をつかんでいるだけだった。それくらい怖かった。空気をつかむだなんて。(52)
心理学によると、人間の行動の動機はすべて自分自身にあるのだそうだけど、そんなの絶対に嘘だ。(181)
  英語をぴったりそのまま日本語にできるわけがないから、訳者はどこかで決断を迫られる。この部分の英語と日本語を較べると、そのあたりの「決断」として気づくのは、語りの中の「女」の処理である。「空気をつかむだなんて」とか「そんなの絶対に嘘だ」といった部分、思い切って「女」の分量を多めにしたなと思う。ちょっと色気が増した。原文ではときどきブツッと止まったり、「あら?」と振り返ったりするところに「女語り」の色気を出しているが、日本語訳ではそのあたりを「それくらい怖かった。空気をつかむだなんて」とか「……動機はすべて自分自身にあるのだそうだけど、そんなの絶対に……」といった連続感で拾っているところがおもしろい。

 こうしてみると本書の短編はどれも、この「いきなり筆塗り」の語りを生かしている。この「階段の男」でも、足音の話からいつの間にかふたりの性生活に話題が移り(We both fantasize about other people when we're having sex, but he likes to tell me who the other people are, and I don't.というような小ネタが効いている)、さらには語り手の友達関係の話、ガソリンスタンドでの少年との遭遇というふうに、視界をさっと横切るようなエピソードの連続の果てにオチがくる。読んでいて楽しいのはストーリーの展開というよりも、語り手がときおり小声になったり立ち止まったりして差し挟む言葉のひねりや、そこから漂い出してくるこの作家の世界に対する態度そのものである。

『いちばんここに似合う人』に収められた短編を読んでいると、「そう簡単に物語にはなりませんよ」とばかりにプィッと横を向くような負けん気の強い仕草を感じる一方で、語るという行為についての根本的な前向きさのようなものを感じる。とくに「水泳チーム」なんていう作品。80過ぎた老人たちに、洗面器をつかって水泳を教えるという馬鹿馬鹿しい話なのだが、馬鹿馬鹿しいはずの筋なのになぜか盛り上がる。語ることの楽しさのようなものがむくむくと湧きだしてくるのである。

I was the kind of coach who stands by the side of the pool instead of getting in, but I was busy every moment. If I can say this without being immodest, I was instead of the water. I kept everything going. I was talking constantly, like an aerobics instructor, and I blew the whistle in exact intervals, marking off the sides of the pool. They would spin around in unison and go the other way.(17)
わたしは水に入らないでプールサイドに立ってるタイプのコーチだったけど、いっときも休むひまはなかった。偉そうな言い方かもしれないけど、わたしが水のかわりだった。わたしがいっさいを取りしきっていた。エアロビクスのインストラクターみたいに絶えず声を出していたし、きっちり同じ間隔でホイッスルを鳴らしてプールの端を知らせた。するとみんなそろってターンして、反対方向にむかって泳ぎだした。(28-29)
水はないけれど、「わたしが水のかわりだった」(I was instead of the water)なんて随分めちゃくちゃなことを言っているように聞こえるけれど、ジュライの小説を読んだ印象はまさにこれではないかと思う。筋も出来事もかなり大味だけど、一番大事なのは語る「わたし」がいることなのだ。「わたし」そのものが水であり物語であり宇宙である。しかもそれを怒濤のような圧倒的な雄弁で行うのではなく、ちょっと剽軽で、ちょっと意地悪な、ちょっと斜に構えた「わたし」がするところが洒落ている。

 おそらくどの作品にも共通するのは、「恋愛未満」とか「恋愛から外れて」という感覚だ。ちょっと妙で、ちょっとずれている。何か変だなあというそんな直観を、キレのいい言葉でとらえるのがジュライはすごくうまい。

We had loved people we really shouldn't have loved and then married other people in order to forget our impossible loves, or we had once called out hello into the cauldron of the world and then run away before anyone could respond.('It was Romance,' 61)

わたしたちはかつて愛してはならない人たちを愛して、かなわぬ愛を忘れるためにべつの人たちと結婚した。私たちは煮えたぎる世界の大釜の中に向かっておおいと叫び、返事が返ってくる前に逃げ出した。(「ロマンスだった」、89)


People just need a little help because they are so used to not loving. It's like scoring the clay to make another piece of clay stick to it.('Ten True Things,' 138)

人はみな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎていて、だからちょっとした手助けが必要だ。粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいに。(「十の本当のこと」、187)


 収録作品の中でもとりわけお薦めなのは、「何も必要としない何か」(レズビアンの三角関係で敗れた主人公がピンク産業で働く話)、「十の本当のこと」(主人公の女性が上司のパートナー(女性)を誘惑する)、「モン・プレジール」(東洋趣味の男女のややフェティッシュな生活を描く)あたり。実在しない〝妹〟をダシに男が男を誘惑する「妹」はストーリーとしては一番ひねりが効いている。また、手術で除去したはずの痣が後になって浮かび上がる「あざ」は、この短篇集にはめずらしく寓話的だ。


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2009年12月24日

『初夜』イアン・マキューアン 松村潔訳(新潮社)

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「乗り遅れた60年代」

 これだけ主人公をおちょくっておいて、しっかり感動的な小説として仕上げてしまうのだからたいしたものだ。原題はOn Chesil Beachだが、邦訳は『初夜』。このややストレートな邦題が示す通り、エドワードとフローレンスの初夜の出来事を描いた作品である。焦点となるのは、ふたりの性。

 エドワードはちょっと血の気の多いところもあるけれど、大学では歴史を学んだごくふつうの青年。十代のはじめに性にめざめてからは、マスターベーションを欠かしたことがない。しかし、初夜を前にして、なんと一週間も我慢した、という。何しろ、フローレンスは堅い女性なのである。エドワードはにじり寄るように進むしかなかった。10月にはじめて彼女の裸の胸を目撃。だが、手で触れることを許されたのは12月19日。実に2ヶ月かかった。2月にはじめてのキス。しかし、乳首に触れるまでにはさらに3ヶ月。それだって唇でちょっとさわった程度。下手に先走ると、何ヶ月もの慎重な努力が水の泡となることは経験上わかっていた。『蜜の味』(A Taste of Honey)なる映画を見に行ったときに、劇場で思わずフローレンスの手をとって自分の股間にあててしまったのは大失敗だった。彼女は完全に引いた。あのために何週間分、逆戻りしたことか…。

 一方のフローレンス。実業家の父と大学教師の母とを持つ彼女は、音楽家志望で友人と弦楽四重奏団を作っている。グループではリーダー格。音楽のことになると、実に冷静かつ的確な判断を下すことができる。しかし、男性については未経験。興味もなかった。いや、相手を好きにはなる。エドワードを愛しているのは間違いない。でも、身体のことは耐え難い。エドワードの望みをかなえるように、少しずつ門戸を開いてきたけど、エドワードはもっと、もっと、と言ってくる。どうしても嫌なのだ。自分はいったいどうしたらいいのか。

 そしていよいよ初夜。フローレンスは覚悟を決める。食事もそこそこに彼女は自らエドワードの手をとってベッドへと導く。「おヨソ」用の靴を自分で脱ぎ捨てる。ところがここで事件が起きる。フローレンスを抱き寄せたエドワードは、空いている方の手でそのワンピのジッパーをはずそうとするのだが、これが片手ではどうもうまくいかない。しかし、もう一方の手はフローレンスを抱き寄せるのに使ってしまっている。フローレンスは内心思う、あたしが助けてあげるべきかしら…、と。でも、それはまずいわ、というのが慎み深い彼女の判断だった。エドワードは片手で孤軍奮闘、ついにジッパーは布地を噛んで、ドレスは永遠に脱げなくなってしまった。

 しかし、エドワードは事を進める。その手が伸びてくる。小説家の描写も徹底的に「じらし」の戦術を使う。原文も引いておこう。文末の句が実に効いている。

...she could imagine, she could see, precisely his
long, curving thumb in the blue gloom under her
dress, lying patiently like a siege engine beyond
the city walls, the well-trimmed nail just brushing
the cream silk puckered in tiny swags along the
line of the lacy trim, and touching too -- she was
certain of this, she felt it clearly -- a stray hair
curling free.
いや、実際に見えるような気がした。城壁の外で待ちかまえている攻城兵器みたいに、それは忍耐強くじっと待っていた。きちんと手入れされた爪が、レースの縁取りに沿って小さなひだをつくっているクリーム色のシルクをかすめ、はみ出している縮れ毛にふれていた――それは間違いなかった。感触ではっきりそうとわかった。

エロチックと言うよりはコミックな場面かもしれないが、小説ではここがひとつの転機となる。この一本の毛の感触を通し、彼女ははじめて自分の欲望に目覚めかけるのである。これであたしもみんなと同じようになれるのかしら…そんな想いをフローレンスは抱く。

 次のステップである。いよいよ彼の硬くなったモノの感触。でも、不思議と嫌ではない。まだ見るのはぞっとしないけど、今までのような気持ち悪さはない。彼女の思いはひとつになる。とにかく、彼に満足を与えたい。そうすることで、彼にもっと深く愛されたい。彼女は自らの手で彼のモノを導く。そういうところで、いちいち、気の利いた一節が挿入されているのがマキューアンの魅力だ。

She was pleased with herself for remembering that
the red manual advised that it was perfectly
acceptable for the bride to 'guide the man in.'

花嫁が「男性に手を添えて導き入れる」のはまったく差し支えないことである、とあの赤い手引き書に書いてあったが、その助言を覚えていたのがわれながらうれしかった。

しかし、運命は過酷なものだった。彼女は心に決めたとおり、進もうとする。こんな妙なもの、犬や馬についているならまだしも、人間の大人にあるなんて信じられないわ、などとの想いを抱きつつも、彼のモノをおっかなびっくり、しかし最大限の注意を払って自分へと運ぶ。指でかるくさすったりしながら。しかし、これが仇となった。とくに、おっかなびっくりの手つきは致命的だ。あの「一週間も我慢」もよくなかった…。

 というのが、この小説のメインプロットである。『人のセックスを笑うな』という小説があったが、『初夜』の「性」は、あきらかに笑いが先に立っている。それにしても、今時、こんな「恥ずかしいセックス」はないだろう、と思う人もいるかもしれないが、まさにそこがこの作品のポイントなのだ。作品の舞台は1960年代の初頭。作品でまちがいなく意識されているのは、フィリップ・ラーキンの有名な「驚異の年」('Annus Mirabilis')という詩だろう。次のように始まる作品だ。

Sexual intercourse began
In nineteen sixty-three
(Which was rather late for me)--
Between the end of the Chatterley ban
And the Beatles' first LP.

セックスは1963年にはじまった、という。そこが分水嶺で、その以前には『チャタレー夫人の恋人』の発禁があり、その後にはビートルズのデビューがあった。カッコの中の台詞がおもしろい―「僕にはちょっと遅すぎた」というのだ。つまり、1922年生まれのラーキンは、「60年代」には乗り遅れてしまったのである。

60年代に起きたさまざまな「解放」の中でも、とりわけ大事だったのは、性の抑圧からの解放だった。そのことをめぐる悲喜こもごもは、60年代に青春を送ったひとたちにより、嫌というほど語られてきた。しかし、同時にそこには「乗り遅れた」人たちがいた。そのちょっと前に青春を送ってしまった人たち。ちょっと前の常識から結局、自由になれなかった人たち。

 おそらく文学とほんとうに馴染みがいいのは、この「乗り遅れ」の感覚ではないだろうか。人間や人生を、お祭り騒ぎの騒音の中でではなく、地味に、静かに、微細さのうちにとらえるのは文学の得意技のひとつ。『初夜』が小説として立ち上がってくるのも、この「乗り遅れた」苦みにフォーカスをあてるときである。エドワードとフローレンスの何ともいじましい「初夜」は、ふたりの一生に大きな影響を与えることになるのだが、そんなことがあんな風にありえたのも、まさに「解放」前夜だからこそなのだ。

 小説は、初夜の場面を中心に描きながらも、あちこちにフラッシュバックを挿入していく。ときに「やりすぎではないか?」と思わせるほど悪のりした技巧を見せるマキューアンの筆裁きだが、フラッシュバックされる情景で重いもの、苦いもの、悲しいものを書き込む際の抑制の案配はさすがである。おかげで、表の喜劇と裏の悲劇が、クライマックスでついに合流して、何とも言えない余韻を残す作品となっている。こんな訳しにくい技巧派小説をきちんと訳した訳者も立派だと思う。


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2009年10月20日

『Julius Winsome』Gerard Donovan(Faber)

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「ゼリー状の夢をぷちっと破って」

 この語り手、少し変ではないか? と思わせる小説は日本語でもよくある。へらへらと饒舌だったり、京都弁だったり、怒りっぽかったり、子供っぽかったり。「変な語り手」を設置することで、読む側からすると、語りが壇上からこちらに降りてくるような気がする。親しみやすい。でも、そのせいで、あてにならないとも聞こえる。何だ馬鹿馬鹿しい、読むだけ無駄、と思われるかもしれない。私たちは小説の文章には、ほんとうは君臨してもらいたい。すべてを信じたいし、だまされたい。

 難しいところである。語り手の信憑性を揺るがせば、リスクも大きくなる。親しみやすい語り手といっても、権威を欠いたら意味がない。しかし、中にはまったく逆方向の「変さ」もある。反対の意味でのリスクを取る小説。親しみやすいどころか、強面で、屈強で、神秘的。殻に隠って、閉じた語り手。自分で自分にむかって呟く語り手。この『ジュリアス・ウィンサム』はまさにそういう作品である。何しろ、この小説の語り手は連続殺人犯。舞台はアメリカ北部のメイン州で、その深い森の小屋に彼は一人きりで暮らす。執着気質で思いこみが激しく、人ともまじわらない。語る言葉は所々おかしい。教養もない。

 しかし、ふつうの意味での教養はないが、彼の小屋には父から譲り受けた本が三千冊ほどある。彼のお気に入りはシェイクスピアのソネット。だから、一見、舌足らずに聞こえる英語なのに、ときどき17世紀の言葉がまじったりする。素朴かつ単純な語りは、エレガントとも雄弁とも言い難いのだが、しばしば自然そのものと混じり合うかのような、やさしい美しさを見せる。あらゆる構えを取り去ったかのように、静かに、ソフトに、裸になるような言葉だ。それから、もうひとつ。彼はライフル射撃の達人である。ほんとうに人間を仕留めたいときは歯を狙え、と言われるが、彼は半マイルほど離れたところから、ターゲットの歯を打ち抜くほどの腕を持っていた。

 物語はスリラーめいた筋立てになっている。ある日、ジュリアス・ウィンサムの愛犬のホッブスが、何の前触れもなく、何者かに射殺される。深い森にはほとんど人気がない。彼の小屋は、ただ一軒孤立して立っている。ホッブスは至近距離から打ち抜かれていた。きっとなつくようにして吠えながら近づいていったに違いない。唯一の友人を失ったジュリアスは、次第に悲しみから怒りと憎しみにとらわれていく。町に出て、犯人の情報を求めるポスターを貼るが、そこには心ない落書きが…。

 ジュリアスの中で何かが変わる。彼は復讐の鬼と化し、森で猟を楽しむ男たちを次々にライフルで狙う。このあたりの描写は作家ドノバンの腕の見せ所で、銃の照準越しに交錯する視線の緊張感に、ジュリアスの妙にイノセントな自然意識がかぶさるあたりは実に見事である。荒涼とした死の風景が、「変な語り手」特有の視線を通過することで、不思議な詩情を醸し出すのである。

 やがてジュリアスは、はたと真犯人に思い当たる。それは意外にも女性だった。それもかつて彼を愛した女である。森の中に迷いこんできたクレアは、孤独に慣れ、ひとりきりで暮らしていくことに何の苦労も覚えていなかったはずのジュリアスにはじめて「寂しさ」を思い知らせた女だった。ホッブスを飼うことを進めたのもクレアである。まさか、という思いの中でジュリアスは揺れる。そうして物語は、クレアの周辺から更なる展開を辿ることになる。

 こうして粗筋だけ見ると、心理サスペンスと読んでもいい作品と思える。たしかにそういう側面もあるのだが、何より読む者をとらえるのは「森」の匂いである。

There is a day, an hour when winter comes, the second
it slips in the door with its weather and says, I am here. If
snow falls early enough, it drifts down into red forests and
piles along lakes ringed with blue ice, but the visit is
temporary: the white handprint of north vanishes with
the next sunny day, polished off the hills and trees of
Maine by the cloth of sunshine, the blow of warm fall
breath on wood. If late, winter arrives on the back of
a windstorm that blows every color before it but white,
while under it, lakes turn to frozen spit and bare trees
split, cracked open, and the forests stretch up to the
shivering lit skin of the northern lights.

きらびやかな表現で飾ろうとするのではない。写実的に冷たく見定めようというのでもない。ジュリアスの目は森に親しげに寄り添うが、そうして森を人間化するというよりは、おとぎ話めいた柔和な衣を頼りにしつつも、むしろ死の世界に通ずるような冷たい自然にたどり着くように思える。『ウォルデン』のソローをはじめとする、アメリカの森の作家達の系譜も、その背後には見えるだろう。

 野心的な小説である。アイルランド出身のドノバンが、アメリカ的な自然や人間観に安住することなく、しかし、アメリカをその芯のところでとらえるような森の神話を作り上げた。その成功の秘密は、やはり、この分裂的な「変な語り」を最後まで生かしたことにあるだろう。ひどくやさしく情緒豊かになるかと思うと、不意に血も涙もない殺人鬼と化す。人間や生命を慈しむ目が、一瞬の後には、機械のように精密な視線で獲物を狙う。奇妙なほどの論理へのこだわりがあるかと思うと、恐ろしく脈絡のない、矛盾に満ちた行動に走る。この危ういバランスが、まさに森そのもの。そこでは恐怖と安逸とが、硬いものと軟らかいものとがつねに混じり合っている。

 そんな状況をよく表す一節を最後に引用しよう。いつも切りつめた言葉でしゃべるから、その言葉を水で割らないとこちらも理解できないというジュリアスの父の口を通して、祖父の戦争体験が描写される。

That's it, a gun leaves a battle loaded with dead men.
Your grandfather must have seen so many times their
faces through the telescopic sights, the surprise on the
face of the man he shot that he was shot,
that he was shot and not the man next to him or someone
way down the line or on another battlefield altogether,
so much surprise that those men crawled twenty years
toward him with their fingertips, and when they got to him
he was lying asleep in his bed, so they pressed those
fingers into his dreams and punctured them like wet jelly,
entered into those dreams and stood up and he saw them,
all of them, in that jelly, in their uniforms, sick to their
boots of the long journey into his dreams. And then
they pointed those fingers at him and said, Remember
me? You killed me.

殺した相手が亡霊となって現れるという妄想は珍しいものではないが、「ぬるぬるしたゼリーのような夢をぷちっと指で突いて破り、こちらに侵入してくる」というような描写は、そう簡単にできるものではない。限りなく器用で、繊細で、精密な文体を操るドノバンだが、この作品ではその精密さを存分に生かしながら、むしろ言葉の不自由さを書ききっている。不自由な言葉と、あやういバランスを取る精神を通して、眩暈がするほど生々しい感覚をとらえているのである。



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2009年01月26日

The White Tiger (邦題『グローバリズム出づる処の殺人者より』鈴木恵訳 2月刊予定) Aravind Adiga (アラヴィンド・アディガ)(Free Press)

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「いかにして私はボスを殺害したか」

 昨年来話題の水村美苗『日本語が亡びるとき』。筆者も友人から「読め、読め、読め、」と言われて半分くらいまで来たところだが、今回のアラヴィンド・アディガ『ホワイト・タイガー』は、まさに水村的な文脈で読みたくなる作品かもしれない。

 舞台はインド。語りは回想記の形をとり、貧困層の出身で、さる金持ちの運転手として働くことになった主人公バルラムが、底辺の生活を送るうちにいくつかの魂を震わせるような出来事をへて、ついに決定的な選択をする、という筋書きである。英語が話せないという設定の主人公の語りは粗雑で、気まぐれで、無教養。だから小説の出だしは何となくがちゃがちゃした印象があるのだが、実はその「英語のできない語り手の語り」を表す英語そのものは意外にニュートラルかつクリアで、出だしの喧噪がおさまった中程あたりからは、次々に生起する「事件」につり込まれるようにして読んでしまう。

 さまざまな事件の果てにくるもの。バルラムの決定的な選択とは、殺人であった。
 バルラムの雇い主アショークは、脱税の便宜をはかってもらうために政治家への裏金を赤いバッグに詰めこんで運んでいる。ホンダ「シティ」にその裏金を積み込むのを手伝うこともあったバルラムは、周到な計画を建てる。ここで象徴的な役割を果たすのが、ジョニー・ウォカーの空き瓶である。インドのブラックマーケットでは、有名ブランドのスコッチの空き瓶にいい値がつく。中味を入れ直せば、高く売れるからだ。欧米国際資本の先兵となったインド経済の、その繁栄の危うさを示唆するような話である。

 バルラムの運転するホンダ・シティにもジョニー・ウォーカーの空き瓶がころがっていた。アショークのビジネス仲間が乗り込んできて、「なんだ、お前、車の中に酒もないのか!それじゃ、装備不足だぞ」と持ち込んできたものだ。バルラムはその空き瓶を、人気のない駐車場で叩き割る。高級ウィスキーの空き瓶は、まさにその頑丈さゆえに、ぎざぎざのついた怖ろしい凶器へと生まれ変わる。

 決行に至るまでの日、バルラムは、これから自分に殺されようという雇い主アショークの、驚くほどの「鈍さ」に打たれる。目の前に座っている運転手が、自分を殺害して金を奪い取ろうとしていることに気がつかない鈍感さ。自分を人間扱いしていない証拠か。それどころか、である。次にあげるやり取りは、ドライなブラックユーモアとセンチメンタリズムとの間を行ったり来たりするこの小説に、何とも言えない哀切感がほの見える箇所かもしれない。

What is it, Balram?
Just this, sir ― that I want to smash your skull open!

He leaned forward ― he brought his lips right to my ear ― I was ready to melt.
"I understand, Balram."
I closed my eyes. I could barely speak.
"You do, sir?"
"You want to get married."
"…"
"Balram. You'll need some money, won't you?"

「どうかしたのか?」と訊かれて、思わず「あんたの頭をかち割ってやりたい!」と本音を言ってしまうバルラム。それをアショークは「これを聞いたら、頭がぶっ飛びますよ」程度の意味と勘違いし「なんだ、そういうことか」などと応ずる。アショークはこともあろうに、バルラムが結婚すると思ったのだ。そうか、結婚か、なら金がいるだろう…と。何というおめでたさ!

 さらにその次の一節がとてもいい。ここまでくると、完全にブラックユーモアモードに逆戻りである。

I saw him take out a thousand-rupee note, put it back, then take out a five-hundred, then put it back, and take out a hundred.
Which he handed to me.

なら金がいるだろう、と太っ腹な愛情を示したアショークだが、財布をひろげてから、千ルピー、いや、五百ルピー、あ、やっぱり百ルピーとだんだん格下げして、結局よこしたのは百ルピー一枚! こういうところを読むと、つくづく英文学だなあ、と思ってしまう。

 いかにして私は金持ちのボスを殺害したか――それがこの小説の明白なテーマである。ひき逃げをしたボスの妻の身代わりを強要されるあたりからはじまって、じわじわと殺意が募っていく、そのプロセス。もちろんそれは個人的な体験として書かれるのだが、作品の強みでもあり、弱みでもあるのは、実際にはこの殺意にそれほどの個人性が感じられないということだろう。バルラムの殺意は、村や貧困層の全体を背負ったものとして書かれ、だから、読者もそこに『罪と罰』的な内省を読むかわりに、共同体の祭儀のようなものを読む。多用される動物のイメージともあいまって、寓話的とも、おとぎ話的とも、ファンタジー的とも呼べそうなストーリー展開は、その焦らしも含めて、ほぼ「見え見え」(predictable)なのだが、それでもなお読ませるのが筆力というものか。ところどころに挿入される脱線めいた場面も読み所である。

 次にあげるのは、獣の足跡を追っていったバルラムが、真一列にならんでウンコをしている労働者たちと出逢う場面である。まるで石の像のように動かず、しゃがんでいる男たち。バルラムもつられるようにしてしゃがみ、にっと笑いかける。すると…。

 A few immediately turned their eyes away: they were still human beings. Some stared at me blankly as if shame no longer mattered to them. And then I saw one fellow, a thin black fellow, was grinning back at me, as if he were proud of what he was doing.
Still crouching, I moved myself over to where he was squatting and faced him. I smiled as wide as I could. So did he.
He began to laugh ― and I began to laugh ― and then all the crappers laughed together.

 目をそらす者。ぼうっとこちらをながめる者。ところがひとりだけ、バルラムに笑い返してくる者がいた。痩せて、色黒。ウンコしながらも、「どうだ」とばかりに堂々とした様子である。バルラムはさらに近づいていって、満面に笑みを浮かべてみせる。男もさらに大きく笑顔。ふたりが笑いをはじけさせると、ついにほかの男たちも笑い始める。
 いざ、殺人、という直前に、こんな場面があったりする小説なのだ。

 インド人は籠のニワトリだ、と語り手は言う。次に殺されるのが自分だとわかっていても、反乱もおこさなければ逃げ出しもしない。ただ、だまって指をくわえて自分の番を待っている。運転手だって、一ルピーやそこらの小金はすぐくすねるくせに、何百万ドルという大金が目の前にあっても手は出さない。

 そういうインドの民衆が閉じこめられている闇を告発するかのような、一種の変形リポルタージュと読めてしまうところがこの作品にはある。「英語ができない」という設定の語り手でありながら、だんだんと明晰な、いわば「ふつうの英語」へと収束してしまう文章。これ、誰の英語?と思わないでもない。インドに生まれながらもオーストラリアで育ち、米コロンビア大と英オックスフォード大に通ったという著者の略歴を見るまでもなく、どこかに優等生臭を感じざるを得ないのは確かである。果たしてアディガは、水村流に言えば、「普遍語」たる英語にとりこまれた作家の典型なのか。

 2008年度のマンブッカー賞受賞作だが、文体が魅力という作品ではない。同じブッカー賞の候補だった、たとえばセバスチャン・バリーの方がよほど端正な文章を書く。ただ、文体どうこうにかかわらず確実にファンをつかんでいった大先輩ディケンズのような存在が英文学にはいるし、紋切り型の展開に、ブラックユーモアを山ほどつめこんで、何だかお腹一杯にさせてしまう物語の力みたいなものは、それなりに大きな声としてこちらに訴えかけてくる。こういう小説を読んでしまう気分というのは、多くの人が持っているのではないか。

(なお、『日本語が亡びるとき』は「書評空間」では大竹昭子さんが取り上げておられる)。


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2008年10月17日

『乱視読者の英米短篇講義』若島正(研究社)

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「明晰な情事」

 大学生にお薦めの批評入門第二弾。文学とのお付き合いの方法がわからないという人には、是非手にとってもらいたい一冊である。いわば恋愛指南の書。

 著者はこの何十年、文学という異性とさまざまな形で付き合ってきた。声かけ(ナンパ)や、十年越しの片思いや、別れや、喧嘩や、場合によって悲恋や、あるいは思わずこちらが赤面するほどのディーーーーップな秘め事もあった。いやあ、先生、お盛んですな、と思わず言いたくなる。しかし、そんなに情熱的で経験豊かなのに、まるで何事もなかったかのように淡々と、明晰に語ってみせるところが何よりすごい。ほんとうの淫乱とはこういうものかと思う。

 著者の若島正は、英文学界では知らない人はいないほどの学者だが、果たして一般にはどうか。渋谷のセンター街で道行く女子高生に「若島正って誰?」と聞いても、ちゃんとした答えを返してくるのはせいぜい10人中1~2人くらいだろう。未熟者め!と思う。

 しかし、若島正の魅力は、決してポップにはならないところにこそある。なぜポップにならないかというと、若島正はいつもほんとうのことを言うからである。批評めいたものを一度でも書いたことのある人なら経験があると思うが、書くという作業には、どこかでウソをつくことでつじつまを合わせて、それでやっとほんとうのことを言う、というような側面がある。別に悪いことではない。それは会社経営に喩えるなら、一方で借金して、その借金を投資に回すことで利益をあげる、というようなやりくりと似ている。

 いや、本書も完全な無借金経営ではない。思わせぶりな謎かけや偶然の出遭いはお手の物。「ふふふ。もうおわかりかと思うが…」なんていう明智小五郎みたいな台詞も頻出する。いずれも、経験豊かな京風遊び人ならではの恋愛「テク」の一端だ。そこにはほどよいウソが紛れこんではいる。

 しかし、肝心のところで甘くは落とさない、つまり、ウソをついてまで無理矢理盛り上げたりしないのが若島流なのである。次にあげるのは、おそらく本書の中でももっとも感動的な一節である。

 わたしには人間がわからない。人間のなかでもとりわけ女性がよくわからない。  たぶん、子供のころから将棋盤の上の世界に取り憑かれていたせいなのだろう。盤上で駒たちが形作る複雑な磁場や、抽象的な数学が、自分にとっては一番しっくりくる世界なのだ。ところが、人間たちが織りなす心理模様となると、突然わからなくなる。人間によって構成された社会の力学には、まったくと言っていいほど関心がない。文学をやりはじめたのは、そうした歪みをいささかなりとも矯正したいという自己治療の意味合いが大きかったのかもしれない。それでも、やはり人間というものがよくわからない。他人というものに興味がなくて、自分自身のことばかりを考えているのは、一種の病いなのだろうかとよく思う。
 あまりに本質的なことを言われてしまって、どう反応していいかわからないくらいだ。渋谷センター街のヤンキー女子高生よ、よく聞け、と言いたい。

 この一節、本書のかなり後の方に出てくる。私たち読者が若島流の文学遊びを堪能したあとに、とどめの一撃のようにして繰り出される言葉なのだ。「あとがき」に、もとの雑誌連載時には編集長の津田正氏(このブログのお隣さん)に尻をいじられながら、そそのかされるようにして書いたとある。だとすると、この一節は著者自身にとっても、ようやくどこかに辿りついたような感慨とともに思わず書いたものなのかなという気がする。こんなことを、こんなにあっさりとわかりやすく言ってしまう書き手を、信用しないわけにはいかないでしょう、ということだ。怖い人だな、とも思う。こういうところを出発点にしている批評――あるいはいっそ「文学」と言ってもいいのだが――は、ちょっとやそっとではへこたれない。

 本書は、文学を隅々までわかってしまった人の自伝的自慢話的「お講義」などではないのだ。人間も世界もよくわからないで、日々冷や汗を書きながら生きている人が、いかに文学作品と情事を重ねることで、世界をいわば裏側から理解してきたかを語る書物なのである。

 だからこそ、どの章もいきなり作品の話からはじまるのではなく、著者若島正を起点にすることで、じわりそろりと始動するという体裁をとる。この書評もついつい著者のことばかり書いてしまったが、そもそもがそういう本なのだから仕方がない。全体は、英米それぞれ12の章と、「シニコー夫人への手紙」と題された秀逸な「おまけ」からなるが、作家名で言うと、アメリカ編ではアンブローズ・ビアス、ジョン・アップダイク、ウラジミール・ナボコフといった有名どころの間に、コンラッド・エイキンやシャーリー・ジャクソンといった名前ががひょろっと入っていたりする。イギリス編ではもう少し偏愛性が強く、ウィリアム・トレヴァーやH・G・ウェルズ、ヴァージニア・ウルフ、ジェームズ・ジョイスの狭間に、A・E・コッパード、ショーン・オフェイロン、フラン・オブライエンといった作家が並ぶ。

 批評の方法としておもしろいのは、若島氏が下手に読者に語りかけたりしないことだろう。説得なんか興味ない。言いっぱなし。やりっ放しである。ふだんの講演でもそうなのだが、若島氏の話術というのは、いろいろと仕掛けがあるにもかかわらず、まるで独り言のように聞こえるところにある。文章は誘惑的に読みやすいのだが、こちらは誘惑されていることに気づかない、そんな文章だ。

 一箇所、読んでいて「え?」と思うのは、著者が「わたしは文章が書けない」と述懐するところである(ギャスを扱った章)。まさか、と、まあ、思う。しかし、これはつまらない謙遜などではない。この一節に触れてからあらためて気づくのは、若島氏がリズムに乗って語ることのウソっぽさに敏感だということだろう。よけいな比喩もつかわない。(比喩を使うときには照れまくりなところもおもしろい。「陳腐な比喩で気が引けるが、もぎたての桃をかじるような、そんなみずみずしさがオフェイロンの文章にはみなぎっているのである」というような一節、たいへんいいです)

 すでに引用した箇所だけでも十分おわかりいただけたかと思うが、今時めずらしいほど、たたずまいの立派な文章なのである。凛としている。走らないし、揺れない。踊らない。ごまかさない。だから、短いスペースの中でも、鋭く作家の急所が突ける。ためしに覗いてみるなら、まずは「ちぎれた足」と題された最終章のジョイス論をお薦めする。ジョイスは若島正にとっては、永遠の恋人などでは決してないのだが、にもかかわらずずっと気になっているという実に微妙な作家である。その章の中で若島はこんなことを言う。

わたしには、この退屈なダフィー氏という人物がよくわかる。なぜなら、わたしもまた彼そっくりに退屈な日常を送る男だからである。まるで鏡を見ているような気がするほどだ。こういう人間が退屈な日常を逃れようと思えば、おそらく銀行員をやめるしか手はない。そうすれば、グレアム・グリーンが傑作『叔母との旅』で描いたような、心躍る冒険が待っているのかもしれない。しかし、それは小説の中だけでしか起こらない出来事であり、現実には残念ながら、こういう人間は永遠に銀行員でありつづけるしかないのである。それがダフィー氏の宿命だ。言葉を誤解されたと受け取って人間関係の絆を自ら断ってしまう、それがダフィー氏の限界だ。
こういう一節を読んで、こんな文章は書けないであろうわたしたちも、つかの間、若島正と同一化して「まるで鏡を見ているような気がする」と思ったりする。それが批評というものの不思議な作用であり、治癒力なのだろう。

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2008年10月04日

『The Natural』Bernard Malamud(Farrar Straus & Giroux)

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「野球格差」

 文学関係者の間ではよく、「文学がわかる奴」と「文学がわからない奴」の線をどこで引くかが話題になることがあるが、そう言えば、かつて日本の小学生男子は「野球をする者」と「野球をしない者」とに分割されていたと思う。いわゆる「野球格差」である。

 ゴムボールによる草野球であれば、だいたい双方五人くらいいると、「透明ランナー」や「投げあてアリ」といったルールを使わなくてもいいような、そこそこもっともらしいゲームができる。あと2~3人欲しいというとき、誰に声をかけるか?そういうとき、「非野球者」は対象外となる。

 実際にその「野球っぷり」を見ないまでも、「非野球者」は顔でわかるとも言われていた。まあ、天体観測が趣味であったり、山岳部に入っていたり、将棋がやたらと強かったりする人が「野球者」である可能性は低い。小説を読むのが好きだったり、女の子に詩を書いて送ったりする人間は、どんなに基礎体力があっても(反復横跳びが速いとか、バク転ができるとか)、決して野球者にはなれないとも信じられていた。

 こう考えてくると、後に大人になって文化の中枢を担うことになるような男子は、子供のときはだいたい「非野球者」だったのではないかとも思えてくる。差別的で、封建的で、野蛮で、群衆的で、五分刈り的な「野球者」の共同体には、あまり文化の香りがしないのだ。

 日本でも評価の高いアメリカ作家、バーナード・マラマッドのデビュー作は野球小説だった。1952年の出版だが、80年代に映画化されてすっかりポピュラーになったので知る人も多いだろう。今でもメジャーリーグでは、小説の主人公ロイ・ホッブスをニックネームとしてつけれられる選手がいるくらいである。

 しかし、あの禁欲的で、正確で、皮肉の効いた文章の達人マラマッドが、いくらデビューするために出版社に認められる必要があったとはいえ、野球のことを書くとなるとここまでするのか、と思わせるくらいに、この『ナチュラル』という小説は漫画チックである。数ある野球漫画を私たちはすでに読んできたが、まるでそのまんま。

 主人公のロイは、30代半ばでメジャーデビューをする。そのプロ初打席。手に握るのは、雷に打たれた木を自分で削って作ったという「ワンダーボーイ」と称する怪しげなバット。しかし主人公がひと振りすると、放たれたボールはマウンド付近を襲う。かろうじて投手がグラブに収めたのはボールの皮だけで、何とボールの芯は遙か彼方まで飛んでいきました、というような場面が平気で起きる。ありえない。

 ある批評家が言っているように、『ナチュラル』はアメリカ版アーサー王伝説なのだ。ワンダーボーイは、アーサー王の魔法の剣エクスカリバー。王が傷だらけになることもまた、神話らしさを深める。冒頭で謎の女に銃弾を撃ち込まれる主人公ロイは、奇跡の復活を果たすも、ふたたび女にかどわかされ、最後は心身ともに傷つき、一度手にした栄光さえも失ってしまう。

 この小説、映画化は84年だが、もっと早く映画になってもおかしくなかったと思えるくらい、映画的シーンがふんだんにある。出だしは、たまたま同じ電車に乗り合わせたメジャーリーグMVP三度というスラッガーが、ロイに挑戦するというシーン。信じられれないような剛速球でロイは、このスラッガーをきりきり舞いさせる。しかし、ここから彼の運命が変わる。スポーツ選手の襲撃に快楽を見出す殺人鬼ハリエットは、このシーンを見て、ロイをターゲットとすることに決める。彼を部屋におびきよせ、いきなりピストルを取り出す。

 怪我から復帰してメジャーリーグデビューするまでに実に15年。弱小チーム・ニューヨーク・ナイツ(Knights、つまり騎士団)で何とか選手登録し、訝る監督の信頼を得て試合に出場しはじめると、ロイは驚くべき活躍を始める。そのプロセスでナイツの中心選手バンプがフェンスに激突して死ぬ、などという出来事があったりもする。そのバンプの残された恋人に、ロイは惚れてしまう。命取りになるのは、この片思いである。

 ギャンブルあり、買収あり、暴露あり。野球と闇社会とのつながりも、思い切り派手に描かれるし、悪役の描き方も徹底している。ストーリー展開は実にスピーディー、かつ暴力的なほど、単純。キャラクター描写とか、内面の掘り下げなどは後回し。

 しかし、なぜか読んでいて許せるのは、やはり野球と漫画の相性のよさゆえか。「ピッチャー投げました! あ、あ、何と言うことでしょう! こんなことがあっていいのでしょうか・・・!?」というシーンを、私たちは何度となく野球漫画で読んできたが、そういう懐かしいいかがわしさの源流がここにあるのだ。

A pitch streaked toward him. Toomey had pulled a fast one. With a sob Roy fell back and swung.
Part of the crowd broke for the exits. Mike Barney wept freely now, and the lady who had stood up for Roy absently pulled on her white gloves and left.
The ball shot through Toomey's astounded legs and began to climb. The second baseman, laying back on the grass on a hunch, stabbed high for it but it leaped over his straining fingers, sailed through the light and up into the dark, like a white star seeking an old constellation.
Toomey, shrunk to a pygmy, stared into the vast sky.

「観客が席を立ち始めたまさにそのとき!ピッチャーの股間を抜けたボールは天高く舞い上がり、夜空の星座の一部となりました・・・」(やはり基本はセンター返しなのだ)。野球俗語をふんだんに用い、語りのスタイルもその俗語のノリに合わせて粗っぽくしてある。そのガタゴトした語りの中で、あり得ない神秘の瞬間を幾度となく描くというところに、中世ロマンスと野球ロマンスの接点が見られるようだ。


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2008年07月17日

『For All We Know』Ciaran Carson(Wake Forest Univ Pr)

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「現代風ソネット」

 英語圏の現代詩というと、どうしてもアイルランド方面に目がいってしまう。現存の詩人では、骨太さと感覚美の同居するイーヴァン・ボーランド、意味不明の快楽を官能的に味わわせてくれるメーヴ・マッガキアンなど、すぐに名前があがってくる。イエイツから始まり、トマス・キンセラからシェイマス・ヒーニーにいたるまで20世紀の文学史にはアイルランド詩人の名前が頻出するが、その背景には歌うことを愛し、個人が詩を朗読したり出版したりすることを受け入れてきた風土がある(そのあたりは栩木伸明『アイルランド現代詩は語る』(思潮社)に詳しい)。

 キアラン・カーソンもまた、若くして古典化しつつある詩人のひとりである。言葉を魔術師のように扱える人で、ゲール語からの翻訳にも意欲的。まだ60になったばかりで、実験精神も旺盛。1993年にT・S・エリオット賞を受賞したFirst Language『第一言語』やその後のOpera Et Cetera『オペラその他』では、アイルランド古来のバラードに使われた韻律法をもとに、英語詩に新境地を切り開いてきた。その特徴は長い行からなるカプレットで、一例をあげると次のようである。

F stands for forceps, or rather a wrench with adjustable jaws. I rubbed
The milled-edge Zippo callus on my thumb, and felt that everything was dubbed:
Fは鉗子 もしくは調整可能なレンチ
ジッポの端のぎざぎざで親指を容赦なくこすり なめらかに仕上げた気分

口のうえで言葉を転がすように読むと、心地良さがよくわかる。口の粘膜をくすぐるように、短い音節がくちゃくちゃとぶつかりあう感じが楽しい。童謡を思わせるテンポの良さは、「意味の呪縛」から離脱する軽さがあればこそだろう。

 しかし、今回とりあげるFor All We Know(『たぶん』)の実験は、またひと味ちがう。恋愛詩という設定なのだが、それをソネット連作という形でやろうという。ソネットは14行からなる英詩の形式である。イタリア起源で、16世紀にイングランドに輸入されるとまもなく大ブームとなり、宮廷詩人の誰も彼もがソネットを書いて当時のエリザベス女王のご機嫌をとろうとした。ソネット連作もこの頃流行したもので、いくつものソネットを連ねてぼんやりとストーリーを浮かび上がらせるソネット・シークエンスと呼ばれる作品がいくつも書かれた。

 ソネットが語るのは、何より恋愛である。それも貴婦人に愛を捧げるという「宮廷風」恋愛のパタン。語り手の男は従僕であり、とにかく女性のこの世ならぬ美しさをレトリックを駆使して褒めそやす。ソネットという枠の中なら、言葉は徹底的に甘く官能的になることがゆるされた。その極地を行ったのがシェイクスピアの『ソネット集』である。(ただし、お相手が女性ではなく、美青年であるところがおもしろい)

 今どき、ソネットなんてなあ、と思わないでもない。何しろ、口が曲がるほど甘いのがあたりまえ。エリザベス朝の文学習慣は今のものとはぜんぜん違っていたのだ。「褒めること」「心地よくさせること」が文学の目的で、今のように苦いもの、辛いもの、嫌なものがどんどん書かかれるということはなかった。今の私たちは文学に甘い嘘よりも、苦い真実を求めるのだろう。甘い嘘なら、文学でない場所にいくらでもあるから。

 カーソンも恋愛詩は苦手らしい。それでいろいろためして書いたようだが、エリザベス朝のソネット連作とは全然ちがうものになった。そもそも14行(もしくは二倍の28行)という枠は守ってはいても、エリザベス朝期のソネットに特有の、囲い込むような密集感はない。二行連句が続くが、韻は踏まないし、むしろ何となく散逸的なのだ。レトリックも抑え目。語り口は素っ気なく、「熱烈さ」があるんだか、ないんだか。というか、全体に冷えた感じがする。

 むしろこれらのソネットに恋愛詩らしいたたずまいを与えているのは、舞台に選ばれたいくつかの場所 ― 東西分断の痕の残るドレスデンやベルリン、60年代のパリ、紛争時のアイルランド ― の荒廃とメランコリーだろう。恋愛特有の物憂げさと、場所の重さとがかさなってくる。
 
 しかし、冷え切った恋愛を書くための詩ではない。荒廃した場所に降り積もる塵埃を通して見えてくる何かがある。

I thought for a split second I'd seen your Doppelganger.

As it were. For when he glanced up and met my eye, his face
was unreadable. It was as if he had just come to

as you had gone away. What is it in us that makes us
see another in another? All the way to Dresden

I could see you when I shut my eyes, remembering you
as you were ― this wordless annunciation of youself

clothed momentarily in the body of another,
thinking in another language had you been spoken to ―

as strange to me as when I first saw you in your own flesh,
as we go with each other as we have done, fro and to.


激しくも甘くもないけれど、「ドッペルゲンガー」を通して浮かぶのは、じわっと静かな執着である。息がとても近い。淡々とした語りに、放したくない、という切ない気持ちが刻まれている。'this wordless annunciation of yourself/ closed momentarily in the body of another'(言葉もなしで、あなたが来たとのお告げ 別人の身体に束の間、あなたは宿る)などという一節、さりげなく書かれているが、カーソンらしい「一筆書き」調がたいへん小気味良い。

 ソネット風なのに、むしろ散文調をいかした作品である。ちょっとミステリアスな暗さもある。ストーリーがあるのか、ないのか、恋愛ものにありがちな過剰さはなく、しっとりと窪んでいる。つい取り逃がしてしまいそうな密かな恋愛である。


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2008年04月30日

『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』ホイットマン 飯野友幸訳(光文社)

おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)

→『おれにはアメリカの歌声
が聴こえる―草の葉(抄)』
Leaves of Grass
→“Leaves of Grass”

「ホイットマンをゆるす」

 ホイットマンの名を聞いたことがないという人は少ないだろう。英語圏の詩人の中では、おそらくシェイクスピアについでもっともよく知られた存在である。小説中心の「古典新訳文庫」シリーズでも、ただひとり詩人としてラインナップに名前を連ねている。

 しかし、ホイットマンの詩はあんがい読むのがむずかしい。言っていることがわからないのではない。いや、言ってることはわかるのに、なおわからないところが難しいのである。たとえば「古典新訳文庫をかたっぱし読んでやる!」とやる気満々の人がいたとする。そういう人が、「あ、ホイットマンがいる。そうか詩か。よし、読むぞ!」と思ったとする。しかし、もし「そうか詩か(どんと来い!)」と意気込んだとしたら、すでにホイットマンはうまく読めなくなる可能性がある。

 そもそも詩というのは、読む前にこちらが「読みのモード」を切り替えないとうまく世界にはいっていけない、ということが多い。シェイクスピアのソネットであれば、小さい部屋で熱い言葉をかわすわけだから、それなりの身繕いというか、ツメを切ったり、歯を磨いたり、という気持ちが大事になる。『失楽園』のように、悪魔がうようよ現れて大演説会を開いたり、魔王がヘリコプターみたいに空から舞い降りてきたりする作品の場合は、まずは雨戸を閉めて部屋を暗くし雰囲気を出すのもいい。

 モードの切り替えが忙しいのは躁鬱系の詩人だ。たとえばワーズワスなどは突然落ち込んだかと思うと、何の前触れもなくはしゃぎだし、歩き出し、山にのぼり、わけのわからない哲学を開陳して、あげくには涙ながらに岩だの木だの川だのに感動して、興奮の頂点にのぼりつめる。これなら、ひたすらめそめそするのが得意なテニスンのような詩人の方が、まだ付き合いやすいかもしれない。が、いずれにしても、こういう詩人たちは「よし、ではおつき合いしましょう」というこちらの心構えに、それなりに答えてくれる。どこかに連れて行ってくれはする。

 ではホイットマンはどうか? この人、モードということで言うと、明らかに「躁」である。暗い内容のはずなのにやけに明るい。何でもかんでも、大きな声で言ってしまう。まずここが、「そうか詩か。よし、読むぞ」という意気込みとそぐわない理由のひとつである。詩を読む人には、たいがい「まじめオーラ」のようなものが出ている。筆者も、自分でそれに気づくことがある。少し神経をぴりっとさせ、口数少なくなり、煩悩苦悩を忘れ、下手をすると眠りに落ちそうにも見える。ほんとうに寝ちゃったりもする。

 この「まじめオーラ」は実際に効果があるのだ。悪魔の大演説会であろうと、哲学ハイキングであろうと、こちらの心に受け皿をこしらえてあげるのが大事なのだが、そのためには自分の意識を抑え、鎮め、灰色の地のようなもの――「心の沼」のようなものを用意すればいい。これが詩を読むための器となる。そうすると意識の圏域から片脚だけでも外に出すような、意識と意識の外側とのあわいに遊ぶような心地に至ることができる。

 こうした「まじめ」の根本にあるのは、「静けさ」だろう。灰色で、地味で、波風の立たない空っぽさ。ところがホイットマンという人は、はじめからそういう「まじめ」の外にいるようなのだ。その代表作「おれ自身の歌」の出だしはこうだ。

おれはおれを祝福し、おれのことを歌う。
そしておれがこうだと思うことを、おまえにもそう思わせてやる。
おれの優れた原子ひとつひとつが、おまえにもそなわっているからだ。

何だか雑で、いい加減。騒々しく、図々しい。これが詩かよ、と思う。ただ、そう思いつつも、あれ、こういうのもありかな?という気にもなる。百年にひとりくらい、こういう人がいてもいいのかな、という寛容な気持ちが芽生えてくる。自分の図々しさを突きつけつつも、「まぁ、いいっか」とこちらに思わせるような、素っ頓狂で、天然で、アク抜けしたような饒舌。どうやらホイットマンを読むとは、こうしたホイットマンらしさのようなものを「ゆるす」ということのようなのだ。筆者の知人がある著名な学者の文章について「不愉快寸前」という絶妙の形容をしていたが、ホイットマンについてもこの表現を借用したくなる。「寸前」のところで、ゆるすのだ。

 私たちが「まじめ」に詩を読むとき、そこには頭(こうべ)を垂れて相手の門を叩く、という姿勢が織りこまれている。詩に限らず、多くの読書はそういう体験であろうし、私たちが「読む」という行為に期待するのはそういうものなのだ。頭を垂れるのは、そう難しいことではない。もちろん、ホイットマン門の前で頭を垂れるのも可能なのだが、多くの人は途中で「何だ、こいつ」と我慢できなくなる。「こっちが下手に出てると思って、いい気になりやがってぇ」と思う。

 見ての通り、今回の飯野訳では若い頃の詩は一人称が「おれ」になっていて、一瞬たじろいだ。「<おれ>かあ…」と思った。正直、今まで筆者が持ってきたイメージとは違う。しかし、飯野訳を通して読んでいくと、「おれ流」の一貫した文体効果が感じられてくる。「おれ」ならではの、荒っぽさやわざとらしい強引さ、そして何より、詩とは思えないほどの構えのない、準備のない、あけすけでスキだらけで、まるっきり空気のよめていない愚鈍さと、テキトーさと、鬱陶しさとが、妙に爽快に感じられてくる。

おれは肉体の詩人であり、おれは精神の詩人だ、
天国の喜びはおれとともにあり、地獄の痛みはおれとともにある、
おれは天国をおれに接木(つぎき)して繁茂させる、おれは地獄を新しい言葉に翻訳する。

おれは男の詩人であるとともに女の詩人でもある、
そしておれにいわせれば、男であることと同じくらい女であることもすごい、
そしておれに言わせれば、人の母であることほどすごいものはない。

おれは拡大と矜持(きょうじ)の賛歌を歌いあげる、
もう逃げたり、人をけなしたりするのはやめた、
おれは証明してやる、時間がたてば大きくなるんだと。


面識もないエマソンに自分の詩集を送りつけ、好意的な返事が来るとそれを勝手に新聞に転載したりするのがホイットマンという人であった。空気が読めないのはまさに地なのである。臆面もなく、自分の本を書評して褒めたりする。もちろん詩の中でも自分を賛美する。

ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙、マンハッタンの息子、
荒々しく肉体的で官能的で食って飲んで子をつくって、
感傷にひたることもなく、男たち女たちに威張りもしない、冷たくもしない、
謙遜でもなければ不遜でもない。

私たちはふつう、図々しい人やがめつい人というのは嫌いなものだ。理由は簡単で、そういう人は私たちに損をさせるから。被害を与えるから。本能的に私たちはそういう人を避ける。だけどなぜかはわからないが、私たちには、そういう人の中でもとりわけ札付きの者を異端として祭りあげ「ゆるす」ことを喜ぶ気持ちもある。ふつうは嫌だけど、たまにはいい。ごく稀に、「異端」として注目してみると何とも言えない愛嬌を発揮する人がいるのだ。だから「いけ、いけ、もっとやれ、」と思ってしまう。ホイットマンの奴、実はそんなこと、わかっていたのかなとも思う。それなら、なおさらゆるし難い厚かましさだ。だからよけい、ゆるすのも気持ちがいい。

 ホイットマンというと、すぐ英詩の革新者とか、自由詩の創始者などと技法的な面が言われることが多いが、これほど詩人本人の鬱陶しさが露出する詩人も珍しいと思う。ギンズバーグなんて足元にも及ばない。

 飯野訳には英語原文もおまけでついているので大変便利である。是非、英語も参照しながら読んでもらいたい。そして最後まで読んだら、次はより分厚い岩波文庫版〈上〉〈中〉〈下〉を手に入れ、ペンギン版を注文し、と先に進むといい。最後に英語原文からの引用をひとつ。

I do not press my fingers across my mouth,
I keep as delicate around the bowels as around the head
and heart,
Copulation is no more rank to me than death is.

I believe in the flesh and the appetites,
Seeing, hearing, feeling, are miracles, and each part and tag of me is a miracle.

Divine I am inside and out, and I make holy whatever I
touch or am touch'd from,
The scent of these arm-pits aroma finer than prayer,
This head more than churches, bibles, and all the
creeds....

もしホイットマンが愚かに見えるとしたら、それはおそらく、ここまで堂々と「賢者の言葉」を語ってしまうからだろう。賢くみせようとする言葉は、しばしば愚かしく見えてしまうものだ。しかし、同時に、堂々と愚かになれる言葉には、ほんのたまに――ごくごく稀に――すごい迫力が宿る。この絶妙のバランスを実現する人は、そうはいないのではないか。


Leaves of Grass『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』岩波文庫版『草の葉〈上〉』岩波文庫版『草の葉〈中〉』岩波文庫版『草の葉〈下〉』


2007年10月28日

『The Zoo Father』Pascale Petit(Seren)

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「英詩の二大派閥」

 筆者の専門は英米詩研究なので、たまにはこの方面の本を取り上げてみよう。

 英詩の言葉遣いを思い切り単純化して、ざっくりふたつの流派に分けるとどうなるか。一方は滑らかでつるつるして口当たりの良い「流麗派」、もう一方はごちごちして、どたばたとうるさく落ち着かない「喧噪派」となるかもしれない。

 流麗な詩は読んでいて気持ちがいい。安心できるし、陶酔感にもひたれる。が、酔っぱらったときにあまり頭が働かないのと同じで、陶酔したまま語れる内容となると、どうしても制約が出てくる。言葉を流麗にするためには、いろいろと犠牲を払わなければならないのだ。

 これに対し、喧噪派の詩の特徴は、何でも言えるということだろう。喧噪派の詩人は難しい理屈を述べるかと思うと、怒ったりわめいたりする。あるいは常人には思いつかないような突飛なことを口走る。異常心理あり。人格分解・崩壊あり。要するに雑音や不協和音までとりこんで詩に変換してしまうのだ。肉でもパンでも靴でも放り込んでしまえる鍋のような詩。

 史上最も有名な喧噪派は17世紀のジョン・ダンという詩人である。この人の詩では愛し合う恋人同士はコンパスになっている。だからふたりが近づくと「おっ立つ」。離ればなれでも、真ん中の「彼女」がしっかりしていれば、男の方はきれいな円を描いて元の場所に戻ってくるさ、なんていう、どこまで本気なのかわからないことをべらべらとしゃべる詩である。

 流麗派の詩を読んだあとにダンの詩などを読むと、何だかぜんぜん耳に馴染まなくて、すごく変な感じがする。違和感が強くて、どう乗っていいのかわからない。で、やだなあ、と思って投げ出すとそれで終わりなのだが、「そうか、この<変な感じ>そのものを味わえばいいのか」という境地にまで達すると、何かすごく珍しい世界に足を踏み入れるような、ぞくぞくっとする興奮が感じられてくる。アクの魔力とでも言おうか。こうなると流麗派の詩では物足りなくなる。(ダンの詩は、岩波文庫の湯浅信之訳『ジョン・ダン詩集』をはじめ、数多く翻訳されている)

 英詩の歴史とは、流麗派から喧噪派へと覇権が移るプロセスだったと言っても過言ではないと思う。日本の現代詩もそうかもしれないが、詩というものは先鋭になればなるほど、方法について意識的になったり、様式や言葉そのものの破壊にむかったりと、どうしても「喧噪」に傾くものだ。変態自慢とでもいうのか、「こんな事もやれるぞ」、「これならびっくりだろ」という風に、神経を逆撫ですることに血道を上げるようになる。詩に限らず、文学というものに人が求めるのは、ただ、うっとり安心することよりは、ちょっとざらついたり、毛羽だったりすることなのかもしれない。

 筆者もひたすら流麗なだけで歯ごたえのない詩というのは、あまり楽しめない。ただ、たいへん流麗で気持ちいいわりに、何だか変なことを言ってる、という作品がたまにある。今回掲げたのはそういう作品である。

 著者のパスカル・プティーはフランス生まれのウェールズ育ち。彫刻家でもある。The Zoo Fatherというタイトルは、『動物だらけの父』くらいのニュアンスだろうか。というと、何かほのぼのしているように聞こえるかもしれないが、この詩集に収められているのは父を呪い殺すような作品ばかり。いや、呪い生かす、と言った方が適切か。

 どうやら語り手の父には死期が迫っているらしい。ベッドに横たわった父を看病しながら、語り手は父の醜悪な行動や、忌まわしい過去を、誘惑的なまでに流麗で、甘美で、官能的な言葉にくるみ込むようにして語っていく。流麗な言葉の最大の魔力は、それがつるつるっと麺みたいにつながってしまうということである。その麺に引き寄せられるように、語り手の想像力は増殖する。

 たとえば「父の身体」という作品。出だしは「あなたの手を握りつつ、あなたが強姦魔だったことを思うと・・・」とはじまる。「あなたの頭が縮まるだけでは十分ではない」のだと語り手はいう。だから自分の彫刻家としての技術を使い、身体全体を「縮めてあげる」という。ここからはさながら黒魔術の世界で、火山の熱だの、火の川からの水だの、河床からの砂だの、と材料を揃えたあげく、首から胴、脚にかけて父の身体の皮を剥ぎ、肉を投げ捨てて動物たちに与える、といった話になる。が、その言葉が実に繊細で、やさしく、流麗なのである。

I'd use volcanic heat,
water from Fire River,
hot sand from its bed
and I'd sing to my materials.
They'd sing back, glowing.
Even Jivaro headhunters
would be shocked at how easily
I'd slit the sides of each limb,
peel the skin from your neck
and torso down to your feet.
How I'd discard your meat
and ask all my animals
if they were hungry.

 英詩を読み慣れた人なら、父を呪う作品というとDaddy, daddy, you bastard, I'm throughと終わるシルヴィア・プラスの「ダディ」を思い出すかもしれない。プラスは現代詩人の中でも喧噪派の最右翼で、とくに「ダディ」はその絶叫調が呪術的な域にまで達したものである。喧噪派の詩人というのは、ダンにしてもプラスにしてもエゴがたいへんに強く(なぜでしょうね?)、そのあたりに辟易する人も多いのだが、プティーの詩はここがよくわからない。プラスはときに雑で、破れかぶれなところもあったが、プティーは言葉を徹底的に磨き、つるつるにしたうえで、口元には笑みさえ浮かべている感じがする。いたずらにしては結構本気っぽくも見えるし、ときどきやけにお父さんにやさしくなるのが、また不気味でもある。いずれにしても、ジャングルの動物たちが父の病室に現れてくつろぐというイメージは、たいへん強烈であった。

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2007年08月24日

『To the Lighthouse』Virginia Woolf(Penguin)

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「ご婦人対おやじ」

 日本でもファンの多いヴァージニア・ウルフ。神経を病み自死を遂げた悲劇の小説家というイメージが強いが、いたずらっぽくておしゃべり好きなところもあった。『灯台へ』は『ダロウェイ夫人』とならんでその代表作。今回、ゆえあって読み返したのだが、筆者はやっぱり『灯台へ』派だ。とても良い。

 ウルフの小説というのはだいたいそうなのだが、この作品、ぷんぷんと匂い立つような雰囲気にあふれている。薄らパステルカラーとでもいうのか、どこを向いても真っ白とか真っ黒というのはなく、何となく色に染まっている。何となく香り立っている。そういう世界はくどくて嫌だ、という人には向かないかもしれないが、でも、そういう世界をいっちょ体験してみっか、という気があるなら、是非手にとってもらいたい。ラララ~とかすかな鼻歌が聞こえてくるような世界だ。(翻訳も御輿哲也訳『灯台へ』(岩波書店)や、伊吹 知勢訳『燈台へ』(みすず書房)などいくつかあるので参考になる。ちなみに『ダロウェイ夫人』の方も、丹治愛氏による最新訳をはじめ数点ある)

 『灯台へ』は、元祖「何も起こらない小説」のひとつだ。灯台へ行くのか。行かないのか。天気はどうだろう。きっと雨だ。何しろスコットランドというところは、快晴の日が一年に2~3日しかない。風が強くて、年がら年中霧が出たり、雨がふったり、陰鬱な天気では世界のトップレベルだ。舞台になっているHebrides(「ヘェッ!ブルディーズ」という感じで発音する)は、ただでさえブリテン島の上の方にあるスコットランドの、さらに上の方にある島々の名称で、名前を聞いただけで「ああ、遠いなあ、寒いなあ、天気が悪そうだなあ」という印象を受ける。

 ラムジー家はここに別荘を持っている。主は哲学者。奥さんは専業主婦。子供が八人。さらに友人やら、風来坊やら、未婚の画家やら、弟子やらが出入りし、ちょっとしたサロンが形成されている。語りは、ラムジー夫人を中心にすえつつも、実際には「主人公」がいるのかいないのかわからないつるつるした身動きの良さで、「灯台へ行くのか行かないのか」と逡巡する登場人物たちの心象風景を描いていく。

 作品は1927年の出版である。ちょうどモダニズムの盛期で、この作品も斬新な実験小説として読まれることが多かった。そのせいもあり、フェミニズムや言語理論などによって、いろいろと理屈をつけられがちだが、硬く考えることはない。土台になっているのはご婦人たちの心の中で展開される、とりとめのない「おしゃべり」なのである。やるのかやらないのか、言うのか言わないのか、ああだこうだとやっているうちに限りなく境界があいまいになる。具体的だった話が急に形而上学に飛躍したり、うっとりと叙情的になったりする。愛すべきラムジー夫人や画家のリリーは、頭の中がつねに「おしゃべり」を遂行しているような人たちで、想像力と連想力と脱線力とがあふれんばかり、あれこれと言葉が言葉を、イメージがイメージを呼ぶ。論理的説明や段階的発展はストーリーの上でもほとんどなく、転換はだいたい唐突に起きるし、人物たちの思考も「思いつき」によることが多い。

 だから油断していると、何の話だかわからなくなる。Sheって誰だっけ?場所はキッチン?あれ、今、夜だっけ?などなど。だいたい小説というのは大船に乗ったような気持ちで読めるはずのものだ。一二行読み飛ばしてしまっても、まあ、大事なことが起きるときにはわかるようになっている。ちょうど野球中継のように。ついつい餃子とビールに注意が行っても、「ああっと、ランナーのタイロン・ウッズが挟まれました。ばかですねえ」とアナウンサーが知らせてくれれば、ちゃんと試合に戻ることができる。

 ところがこの小説ではそもそも実況中継というのがあてにならなくて、しゃべっているのがアナウンサーなのか、登場人物なのかわからないし、いつの間に人物が入れ替わったりもする。ただ、繰り返すが、こうした入れ替わりが難しげに行われているわけではなく、いかにもご婦人の「おしゃべり」にありがちな気安さと、気品と、甘さと、繊細さと、ちょっとした意地悪さに特徴づけられている。単語もやさしい。婦人たちは少し行き詰まると「あらら~」とばかりに感極まって、急に愛のことを語ったり、人生の意味を訝ったりし、そのあげくに投げ出すようにしてイメージを霧散させる。でも、評者が「いいなあ」と思うのはたいていそういう所だ。うわぁーっと伸びをして血がめぐるような、不思議な解放感がある。

 ところでこうしたご婦人の「おしゃべり」と明確なコントラストをなして、この小説のもう一方の極にあるのが、「おやじの思弁」である。「おやじ」とは一家の主で哲学者のラムジー氏。理屈っぽくて、現実的で、自己憐憫的。妙に高尚で、言葉には慎重。詩にはうっとりするよりも、いちいち感動する。偉そうなのだ。いつもつまらなそうにむすっとしているが、たぶん誰よりも長生きするに違いない。とりわけ「おやじ」なのは、空気が読めないところ。ジェームズの灯台行きの希望に冷や水を浴びせ、自分の靴がいかにすばらしい革で作られているかを得々とリリーに説明する。ラストの感動的なシーン、いよいよ灯台に船が到着、というところでは、急に「腹減ったな」とサンドイッチをむしゃむしゃ食べ始める。実に愛すべき「おやじ」なのだ。

 この作品には誰のものともしれない「おしゃべり」が蔓延し、究極の権威としてのこの「おやじ」に対して意地悪に振る舞いつづけるが、でも、最後にはすべてをゆるしているのかなという気もする。わかりあえないけど、まあ、いいかというぐらいの緩さがある。舞台は「ヘェッ!ブリディーズ」だが、実際のモデルはウルフがいつも夏を過ごしたぽかぽか暖かいコーンウォルのセントアイヴズだと聞くと、そうか、とも思う。どきっとするほど悲しいことや、辛いことや恐ろしいことも書かれているのだが、全体を寛大さとぽわぽわした雰囲気とが包んでいるところが洒落ている小説だ。


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