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2014年04月16日

『遁走状態』ブライアン・エヴンソン、柴田元幸訳(新潮社)

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「これですべてではない」

 かねがねこの欄で取り上げたいと思っていたのが柴田元幸氏の翻訳である。新しいものが出ると、手にとっては「よし、これを」を思ったりしたのだが、何しろウソみたいに仕事が早い人で次々に新しいものが出る。あれこれ目移りしているうちに、ついに柴田氏は大学を辞めてしまった。きっとこれからはさらにスピードアップするに違いない。たいへんだ。

 もともと柴田氏はポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウンといった作家の翻訳で知られ、どことなくこうした作家の作風とそのイメージが重ねられてきたかもしれないが、中には「書き出しで読む『世界文学全集』英米篇」(「文藝」2009年春号)などという企画もあり、そこではフォークナーやメルヴィルはもちろん、ジェーン・オースティンからコンラッド、ディケンズまで、まったく文体も傾向も違う作品を、ヒョイヒョイッと手品のように訳し分けている。『アブサロム、アブサロム!』の有名な出だしの訳も感動的だが、「ねじの回転」、『ハムレット』、『トリストラム・シャンディ』の冒頭部をいずれも柴田訳でならべて読むというのは壮絶な体験である。とくに多少なりと英語の勉強が好きで、高校生の頃、「あたしって(俺って)、わりと英文和訳が得意♪」などと自負していた人は、こういうものを読んでいったいどういう気になるだろう。

 多くの「英文和訳が得意」な人は、外国語をまるで日本語のように読ませるのが翻訳だと思っているかもしれない。もちろんそれは「正解」だと思う。翻訳して差し出す以上、日本語として読めるものでなければいけない。前から読んで意味が通ること。リズムがあって、流れに乗れること。意味の糸を見失わせないこと。イライラさせないこと。しかし、ほんとうの勝負はその先にある。

 柴田氏自身、しばしば「翻訳は負け戦だ」とコメントしているが、原文の持っている微妙な文体的傾向――体臭、間合い、気配といったもの――をすべてそのまま日本語に移し替えるのは不可能である。でも、不可能ではあるけれど、翻訳者はそこをくみ取って可能な限り、たとえば語り手の態度とか、音量とか、難解度といったものに注意を払いながら日本語的環境に変換して訳出する。完璧などありえない。やれる範囲でやるだけ。

 …と、まあ、これくらいは誰でも考えるだろう。筆者のようなヒラ翻訳者でも考える。しかし、柴田訳をあらためて読んで気づくのは、「翻訳は負け戦だ」との言のより深い意味である。ここには「負け戦だけどガンバローね」というニュアンスももちろんあるが、実は「翻訳は負けなきゃ」とのメッセージもこめられているのではないか。つまり、日本語のふりはしない。表向きは、ちゃんと読める日本語に仕立ててあっても、その向こうに読めていないものが隠れていることを示唆する。あなたが読んでいるものはすべてではないのだ、と仄めかす。

 活字になった翻訳でも、読みやすくしようとするあまり、やけに馴れ馴れしい日本語になっているものがある。いや、その方が主流かもしれない。すると、読者は錯覚するだろう。そうか、これか、と。馴れ馴れしい日本語は居心地がいい。こちらも安心して、これがすべて、と思いやすい。しかし、柴田訳が気を遣うのはそこだ。いつも「いえいえ、これではないのです」と囁いている。「本物はその向こうにいます」と。読者を導きこみ、前のめりにさせつつも、しっかり距離は保ち、一線は越えない。これは相当な技である。

 現時点で最新の柴田訳はブライアン・エヴンソン『遁走状態』である。居心地がいいどころか、さまざまな種類の〝気持ち悪さ〟を描いた短篇が19篇収められている。ただ、〝気持ち悪い〟といっても、気持ち悪い人が家に来たとか、気持ち悪い猫が壁から出てきたといったぐいのわかりやすい気持ち悪さではなく、もっと内在的なもので、胃が悪いのか頭痛なのか筋肉痛なのかわからないけど何だか変だという感覚を、語りを通してじわじわ浮かび上がらせる。静かで飾り気のない文章だが、微妙に読者の神経をつく。この違和感、まさに柴田的翻訳の面目躍如である。

 どの作品も個性が強いので、どれが気に入るかは人によってかなり好みが分かれるかとは思うが、筆者は「マダー・タング」、「さまよう」、「助けになる」、「父のいない暮らし」などが印象に残った。「マダー・タング」は言葉の失調に陥っていく教師が主人公なのだが、それを徹底的に内側から、ずれ、おかしくなっていく実感とともに描き出していく。本人は自分の言葉がおかしいことはわかっていて、それとどう折り合いをつけるか、自分の娘の目など気にしながら悩んでいる。たとえば原文には次のような一節がある。

But no, he thought, the way people looked at him already, it was almost more than he could bear, and if it came tinged with pity, he would no longer feel human. Better to keep it to himself, hold it to himself as long as possible. And then he would still be, at least in part, human.

難しい単語はほとんどない。高校で習わないかもしれないのはtingedくらいか。慣用句や構文はいくつかまじっているが、ちょっとしたテストにちょうどいい程度。ただ、訳すとなると多少調整が必要になる。ここは主人公の心理が直接性と間接性の中間ぐらいの地点で描写されているので、その距離感。それから語りが進むにつれて、心理そのものもわずかに変化していく、つまり時間性が入る。その変化に伴って、切迫感と安心感が入れ替わる。柴田訳は当然ながらそのあたり、さらりと処理している。

いいや、と彼は考えた。いま人から向けられる目つき、それだって十分耐えがたいのだ。そこに同情が加わりでもしたら、もう自分は人間だという気持ちが持てないだろう。一人で抱え込んでいた方が、ギリギリまで自分の内にしまっておいた方がいい。そうしていれば、少なくとも部分的にはまだ人間でいられる。(48)

 考えているうちに納得していく感じを、英語での順番のとおり、日本語的にも至極読みやすく訳してあるが、そのうえで、日本語らしさの生み出す馴れ馴れしさが回避されていることにも注意。原文が一見、素朴でなめらかなだけに、うっかり訳すと神経質な感じを見失ってつるつるの日本語にしてしまいそうなところ。柴田訳では、「同情が加わり」とか「気持ちが持てない」「少なくとも部分的には」といった少しだけ硬めの言葉をあえて残し、わずかな距離感を保っている。何となくぴりぴりしているのである。

 以外に難しいのはhumanという語で、日本語ではhumanもhumanistもhumanisiticもなかなかぴたりとニュアンスが出ないから、日本語に移し替える際についジタバタと訳しすぎてしまいたくなるところ。柴田訳ではごく素朴に「自分は人間だという気持ち」「まだ人間でいられる」となっているわけだが、ここでふつうに「人間」という語を使うには我慢強さがいる。humanはエヴンソン作品では鍵となる言葉で、ある意味では人間であることの居心地の悪さやいざこざをほじくり出していくところに彼の持ち味があると言ってもいい。その語がこんなふうに繰り返されると、つい余計な解釈を加えたくなってしまうものだが、「自分が人間だという気持ち」とすることで原文のhe would no longer feel human.という表現の〝ざわめき〟のようなものがちゃんと伝わる。ほとんど紋切り型でありつつ、どことなく過剰もしくは過少で、落ち着きの悪さを宿した表現なのである。

 エヴンソンは予言書や聖書を思わせるような崇高かつ酷薄な語りを使うのもうまい。「さまよう」はそんな文体で書かれた作品で、戦乱の痕の残る惨状に踏み込んだ者たちが、フローアという隊長に率いられ死体に囲まれて寝泊まりしていくうちに、だんだんおかしなことになっていく、その様子をまったくヒステリックにはならずに、おごそかに淡々と描写していくのである。そんな中の一節を以下にあげる。

But we did not return to our wandering, instead circling day after day just outside the settlement that contained the hall we had thought offered unto us by God. Hroar, despite his boiled and dying hand, despite the wounds on his arms and face and chest, could not let go of the idea of the hall, of the end of wandering.

ここでも柴田訳は、原文の聖書的な冷たさをきっちり訳し出しているのだが、そんな中で「あ、」と思ったところがある。

だが私たちはさまよう日々に戻りはせず、代わりに来る日も来る日も、神が私たちに下さったのだと一度は思った館のある村落の周囲をぐるぐる回った。手が煮られて腐りかけているのに、腕や顔や胸に傷があるのに、フローアは館のことを、さまよいの終わりということを頭から追い払えずにいた。(115)

原文のdespite his boiled and dying handが、「手が煮られて腐りかけているのに」と訳されている。「手が煮られて」という表現は日本語ではほとんど見ない。何だかおさまりが悪く、つい訳文の細かいさじ加減で調整したくなる。しかし、ここはやっぱり「手が煮られて」がいいのだ。この表現の微妙に気持ち悪い感じ、つまり生理的な気持ち悪さに、言語的な気持ち悪さがかぶさってくる感覚が大事なのである。そういう意味では訳文は、エヴンソン文体の違和感をよく伝えている。決して安易に模倣するのではない。あくまで注意深く「この日本語ですべてではないですよ」と、原著への遠慮をこめて知らせてくるのである。

 考えてみれば、この「これですべてではないですよ」という感覚、日本語で書かれた作品にも見られるものだ。『楢山節考』でも『富士日記』でもいい、すごく釣り込まれるけれど、同時にどこか突き放されるような不思議な文章にはそれがある。柴田氏の訳業の奥にあるのも、そういう境地なのかもしれない。少なくともエヴンソンはそういう文章を書く作家のようだし、だからこそ柴田元幸との相性もぴったり。だが、そういう関係性を超えて、そもそも書くとはどういうことかまで考えてみたくなった。(書評空間の更新は4月21日を持って停止されます)


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2014年03月27日

『ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎』富士川義之(新書館)

ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「父という謎」

 運営者の紀伊國屋書店さんのご事情でまもなくこのサイトは閉鎖されるとのこと。評者の欄も少しずつ店じまいモードになるかと思う。これまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

 今回とりあげるのはやや珍しい「評伝」である。評伝の対象は著者の実父。しかも父が自らの父――つまり著者にとっては祖父――について語った記述も出てくる。富士川家は游、英郎、義之、と代々続いた学者の家系なのである。

 著者の富士川義之はワーズワスからラスキン、ペーター、ナボコフ、さらには現代作家や日本文学まで翻訳や研究を行ってきた英米文学者である。その父英郎はリルケやホフマンスタールなどドイツの詩人や、江戸漢詩の研究で知られた人。さらにその父の游は『日本医学史』などを著した医学史研究の大家だった。実は医業を営んでいた游の父の雪(すすぐ)もたいへん教養の深い人物だったようで、こうした家系を見渡すとほとんど宿命めいた富士川家の知との因縁を感じずにはいられない。

 しかし、本書の眼目はこの知性あふれる一族の華々しい活躍や業績を描くことにあるわけではない。主に富士川英郎に焦点をあてながら、気むずかしい人だったというこの学者の家庭や職場での佇まい振る舞いを、最後までなかなか父に対し心を開けなかったという息子の目や、知人の証言をもとに解明しようとした一種の探求譚なのである。本書をつらぬいてあるのは、父という「謎」をめぐる息子の戸惑いや、反発や、拒絶であり、しかし、それが頁を追ううちに穏やかな理解や平安のようなものに変貌していくさまが感動的でもある。

 おそらく字面に表れている以上に、著者にとって父親の存在は厄介なものだった。「父とわたし」と題された最終章には、こんな記述がある。

母のたっての希望もあって、わたしは結婚を契機に両親の家の庭の一部をつぶして、そこに小さな安普請の平屋を借金して建てたのだが、その家に住むようになってから、深夜まで仕事をしたあと、父の書斎から庭に漏れる明かりを覗きこむことがどういうわけか習慣になった。まだ明かりがついているのを見ると、もう少し頑張ろうかと、再び机に坐り直すこともたびたびあった。そうして明け方まで仕事をつづけることも少なくなかったのである。(三九六)

 面と向かって厳しいことを言ったり、抑圧的な振る舞いをしたりということはそれほどなかったにせよ、著者の内面にはこのような形で父がしっかりと居座っていたのである。この本を書くことで、著者は悪魔払いめいたことをしようとしたのだろう。これまで語りえぬままにきたものを何とか言葉にしようとする様子もあちこちで見られる。しかし、にもかかわらず、最後まで語りつくせなかったものもあったようだ。呪縛はそう簡単にはとけない。

 富士川英郎とはいったいどんな人だったのだろう。著者は、かつて父の生前にはなかなか頁をめくることできなかったというその著作をあらためて紐解き、また日記や友人たちとかわした私信なども参照しながら、少しずつその像を再構成していく。旧制高校生時代には萩原朔太郎に手紙を出して返事をもらうなど、大胆かつロマンティックなところのある文学青年でもあったが、物心ついた著者の目から見ると、父はいつも孤独で、どこか不機嫌そうだった。東京帝大を卒業後、岡山の旧制高校にドイツ語教師として赴任、しかし校長とそりがあわずに佐賀に「左遷」されるなどという事件もあった。

 この時期のことは『思出の記』という英郎晩年の著書に詳しく描かれている。本書のなかにもいくつかその抜粋があるのだが、これが実にすばらしいのである。ここに引きたい部分はいくつもあるのだが、とりわけ印象に残ったものを一つ記そう。時期は戦中。ちょうど英郎が佐賀に赴任したころの記述である。

久留米はその前の日に空爆をうけ、全市が一面の焼野原となって、無事に残っている家は一軒もないような有様であったが、私はその余燼がまだ到るところでくすぶっていた街を通って久留米駅まで歩いて行った。そしてプラットフォームだけ焼け残っていた駅にたどり着いたときには、すでに日がとっぷりと暮れていたので、私はその夜をそこで明かすつもりで、プラットフォームに坐りこんでいたが、小一時間もそうしていると、「汽車が来た!」と誰かが叫ぶ声がした。はっとして起ちあがると、闇のなかから巨大な黒い獣かなんぞのように、一台の汽罐車が、空から見つけられるのを恐れて、すべての灯りを消したまま、煙突からも僅かあかりの煙を吐きだしながら、しゃわ、しゃわとゆっくり近づいてきたのであった。この汽罐車は数両の貨車を曳いていたが、これはもちろん客車の代用で、私はそこに居合わせた数人の人たちといっしょに、その暗い貨車に乗りこみ、ずっと起立したまま、佐賀に帰ってきた。(110)

 富士川英郎とはこういう文章が書ける人だったのである。この一節を見ただけでも、その独特な世界とのかかわり方、距離感のようなものがよく伝わってくる。著者はそのあたり、次のような見方を披瀝している。

父にとって他者とか人間関係という問題はあまり興味もなく、大して現実感も持っていなかったのではなかろうか。これはたぶん他者や人間関係を描くことを基本とする小説に対してほとんど全く無関心であった理由のひとつだろう。現実や他者をとらえ、深く掘りさげ、記述することに専念する小説的思考に親しむといった形跡はほとんど見出せないからである。(409)

 たしかにそうなのだろうと思う。このように世界との間に距離感を持つ人は、饐えたような匂いを放つ人間関係の網の目に首を突っ込んだりはしないのだろうなと思う。人間同士の汚れたかかわりあい方や、情念の絡み合いに興味を抱くというタイプの人ではなさそうだ。そのかわり、騒々しい箇所などは軽く飛び越えて、もっと人間の奥底の部分を鋭くとらえる目をもっていた人なのではないか。

 英郎は、医業とかかわりの深い家系に育ったこともあり、語学教師をやりながら文学研究にふけっている自分を「おれは片輪だからな」と自嘲をこめて語ることが多かったという。リルケの研究ではかなりの業績は残しているものの、ドイツ文学研究から江戸漢詩の研究へと軸足を移してからの方がどこか満ち足りた風であったというのが著者の見解である。晩年には「やぐら」をめぐることを趣味にしていたという。「やぐら」とは鎌倉時代から足利時代にかけての武士の墓窟で、英郎の住んでいた鎌倉の山にはそれが数千は残っていた。それを日々徒歩でめぐり、いったいいくつあるのか勘定するのを日課としていた。著者は父のそんな「やぐらめぐり」の背後にあったのが、二重のノスタルジアだったのではないかと想像する。

「お塔やぐら」にいたるえも言われぬほど静寂なこの谷戸を歩いていると、「いつも涙がでるほどなつかしい」と言う。四、五十年前、関東大震災以前の鎌倉の山には、いたるところにこのような秘境があったことを想起するからである。「お塔やぐら」との出会いは、こうして中世だけでなく、失われた自分の過去との、自分の少年時代との結びつきを確かめさせずにはおかないものとなってゆく。(四二一)

 本書は英郎の幼年時代から説き起こした本格的な評伝である。伝記ではなく評伝である。だから、英郎がリルケ研究に力を注いでいた時代を記述するとなれば、関連する概念や思想を丁寧に解き明かし、漢詩研究の時代に進めば、森鴎外や松本清張など参照しながら徹底的に漢詩人に付き合い、游をめぐる描写では医学史の問題にも果敢に踏みこむ。資料的価値も高い。しかし、その土台となるのはやはり著者と父との微妙な関係ではないかと思う。その部分があればこそ「父という謎」に私たちも共感する。他者に関心がなく、わずらわしい人間関係を超越した世界を逍遥していたとも思える父とは対照的に、息子はそうしたわずらわしい世界のわずらわしさと向き合い、父英郎をその中心に据えて人間の人間らしさを記述することに力を注いだ。そうか、こんな人がいたのだなあ、とその生々しい感触を筆者はたしかに読み取った。


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2013年10月30日

『第九夜』駱英(思潮社)

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「近づきすぎないのが肝心」

 こういうわけのわからないエネルギーに満ちた詩に出会うのは久しぶりなので、何だかお礼に差し上げるものもなくて、おたおたしてしまう気分である。原文は中国語だが、その勢いを見事に日本語に移した訳者・竹内新氏にも敬意を表したい。

 読み始めると、あちこちよくわからない。何より語り手。自分のことを「馬の変種或いは異形」だと言う。では、この人は馬なのか? この作品は「ウマ詩」なのか? でも、別に『吾輩は猫である』みたいに、馬の目から世の中をながめてみたらけっこうおもしろおかしい……などという牧歌的な設定ではない。むしろこの人は、まったくもって人間なのだが、自分を馬と呼ばざるを得なくなった一種の「ウマ人間」。まるで馬みたいに野蛮な(?)、あふれる性の力に自分でもおののいているらしい。

 冒頭部から詩は「オレはついに認めざるを得なくなった。オレは実は馬の変種或いは異形なのだ。/二十一世紀という光り輝く時代、オレは突然、天からは離れ、地獄には隣接するところに身を置く、特殊な種ということになった。」と強烈な口調で、その「思い込み」の激しさはどんどん深化していく。

 例えば、オレの性欲は、オレのあらゆる文化レベルを覆い隠してもおつりが来るほどであり、そんなところからは、たとえどのような言葉を用いたとしても、高層ビルが地球の至るところに建てられた時代のセックス行動は、とうてい説明できるものではない。(中略)
 堕落を享受する過程というのは、ちょうど人が朝のたびに、鏡と自分とに向かって悪態をつき、誰もがいきなり我知らず、鏡を徹底的に打ち砕く羽目になってしまうようなものだ。

 性欲は堕落のそもそもの原因、発育の過程であり、一個のヒト、例えばオレを、どのような情況下においても、取るに足りない、別の言い方をすれば、生きているのか死んでいるのかも不明なものへと変貌させるのに充分なものだ。(10-12)

 この出だしを読んだだけでも、こんな文章を書いたのはどこの変人だ!と怒る人が出てきそうだ。病気だ、という人もいるだろう。確かに設定は雑、というか不明で、そのわりに言葉は強い。しかもイメージは一見平板で、ある種の精神疾患に特有な言葉の機能不全と、それに伴う世界像の縮こまりとを思い起こさせる。言葉が世界の中に降り立っていないように見えるのである。世界の中ににじみ出したり、逆に世界をしみこませたりという親和性のおよそない、とにかく勝手に暴れて仕方の無い言葉。人も、世界も、寄せつけない言葉。

 馬の変種と異形だけが、性欲の発生やその完遂を、二十一世紀に向けて予約あるいはもう一歩進めて言えば、発注することができる。
 だから、もはや自分ではなくなったということによって、オレは自然に性欲の快感や絶頂快感を賞味するに至り、さらに、その故に大いに感激し、誇りを感じた。
 さらに同様に、その故にオレは、一切のヒトたる権利や自尊を、酔生夢死、肉欲至上における最高水準に達するために、自ら放棄することができた。(12)

 こういう所属不明の、どこに達するのか何をしたいのかよくわからない言葉というものは、多くの場合、「未熟」とか「稚拙」などとカテゴリーにわけられ隔離されてしまうのがふつうだ。しかし、この作品にはそうしたカテゴリー化に抵抗し、最後まで「何なのだ、この人は?」とこちらをはねつけつづける持続力がある。まるで自分のまわりに磁場を張って、ぷかぷかとリニアモーターカーのように宙に舞い続けながら最後まで突進するようなエネルギーがある。

 作中ではエリオットの『荒地』やギンズバーグ「吠える」への言及もあるが、たしかにこうした詩人たちの何よりの特色も、こちらを寄せつけない、ほとんど対人恐怖症的な一方通行の語りだった。『荒地』冒頭部がおもしろいのは、その技巧や言及よりも、近づけそうで近づけない、わかりそうでわからない気持ち悪さゆえである。『荒地』を賢しげに読み解いたところで、その「ご立派さ」については語れても、決しておもしろさにまでは言い及ぶことはできないだろう。『荒地』を語るなら、むしろ「いかにわからないか」を語らなければならない。距離が大事なのである。そういう意味では『第九夜』を読むためにも、理解しようなどとは思わずに、詩の言葉に勝手に暴れさせるような距離が必要となる。近づきすぎてはいけない。

 とはいえ、この詩にもまったく取っかかりや枠組みがないわけではない。まず、話題として明確に前景化されているのは性である。「処女」「猥褻」「初潮」「乱倫」「乱交」「絶頂」「淫ら」「独占」「殺害」「陵辱」「性器」「フーコー」「肛門」「乳房」というふうに、ありとあらゆる性にかかわる話題が出てくる。ただ、それらはあくまで記号化され、観念化されたもので、作品の中で個別性とともにときほぐされるわけではない。正確に言えばこれらは話題になっているというよりは、現代のさまざまな言説の中からハサミで切り取られ、コラージュされているのだ。「グローバル化」とか「スタバ」とか、さらには「ハイデガー」「ハイエク」「エリオット」「ギンズバーグ」といった一連の名前も、ほとんど連呼されているだけに聞こえる。にもかかわらず不思議なのは、「フーコー」のような名前に語り手がよくわからないこだわりをみせていることで、何度も何度も「フーコー以降の」といった形で、うわごと的に「フーコー」という固有名が繰り返されるところがおもしろい。

 つまり、この作品では、語り手の話題にしている概念や名前も、どこか宙に浮いた言葉のように見えるということである。そういう言葉を手にとってはどんどん捨てていくようにして、詩が前に進む。言葉のひとつひとつをいとおしむようにして書かれる詩とは、具材の扱い方がまったく違うのである。むろん、こういうやり方に神経を逆なでされる人もいるだろう。しかし、考えてみれば、「ヒステリーの喜悦の喘ぎ」(「第一夜」29)という一節からも想像されるように、この詩はまさに暴れる「神経」そのものを主役にしたものなのだから、神経を逆なでされること自体にこの詩の読書体験の核があるとも言える。

 ところで、この作品にはもうひとつ重要な枠組みがある。タイトルにもある「第九夜」である。詩集は「馬篇」と「猫篇」からなり、それぞれが「前夜」「第一夜」「第二夜」「第三夜」……「第九夜」「終章」という形を与えられている。圧倒的な力を持っていたのは「馬篇」の方だと筆者は思うので、この書評でももっぱら「馬篇」を取り上げているが、その「馬篇」の中でもうねりというか、「夜」ごとのトーンの変化はある。孤独が語られたり、都市の風景に目がいったり、あるいは荒地を眺め渡すような場面もある。とくに印象に残るのは、それぞれの「夜」のトーンを決定する各冒頭の部分である。

 人間達よ。どうした? おまえ達は一体何をしでかしたのだ?!

 敬愛する友よ。言葉を換えれば、おまえ或いはおまえ達よ。馬の変種と異形の身分と地位故に、オレはどうしても、陽の最初のひとすじがオレの船倉を掠めすぎる前に、この問いかけをすっかり終了しなければならない。(「第二夜 馬の誘拐」33)

遁走とは、逃げ去るにしても、遠くへ行くにしても、避け隠れるにしても、いずれにしろ手にしたコーヒーが次第次第に冷めてゆくようなものだ。

 セックスでへとへとにされたとき、遠くへ逃れたいという思いは、過度のセックスと同じように、おまえの心を掘り尽くして空っぽにしてしまうのだ。

 地獄に対する想像から飛び出してしまったら希望は死滅する。(「第六夜 馬の遁走」 75)

 オレは遂に七五六四メートルの高みに到った。

 荒地そして前の一世紀を振り返れば、くっきり見える。草原の一つ一つ、山の一つ一つ、石ころの一つ一つ、土饅頭のひとつひとつ、死体の一つ一つ、すべてがむき出しのまま、危害を加える者と加えられる者との姿勢を保ち続け、独占することと独占の対象となること、楽しむことと楽しみに供されることの余韻を保ち続け、変種にされ異形にされた形状を保ち続けている。(「第七夜 馬の荒地」 87)

 こうした冒頭部がしばしば遠くの何かに呼びかけたり、何かを見渡したりするジェスチャーになっていることには注意すべきだろう。この遙々とした視界の広がりが、きわめて強烈な言葉のエゴと、その裏に隠れた「すき」のようなものを一度にあらわしている。これにつづいて、中盤から後半にかけてはどの「夜」でも叫ぶような歌うような言葉の並列があったりするが、この並列もまた圧倒的で、ホイットマンを同時代に得たような気分になる。

 このウマ人間の語る詩を訳すに際し、訳者はオートバイを主人公にした丸山健二の『見よ 月が後を追う』を思い出しながら訳したという。原詩はごく短期間で書き上げられ、それも「狂わんばかり」に書いたとのこと。それはそうだろうなと思う。こんなもの、冷静に書けたらおかしい。


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2013年09月17日

『アイルランドモノ語り』栩木伸明(みすず書房)

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「だからアイルランドはおもしろい」

 栩木伸明氏は、今、日本でもっとも元気な外国文学者のひとりだろう。専門はアイルランド文学。筆者が最初に手に取ったのは『アイルランド現代詩は語る ― オルタナティブとしての声』(思潮社)という著作で、研究者の本といえばテクスト分析や批評理論の応用が主流の中、直接アイルランドに乗り込み、活躍中の詩人たちに次々に体当たりでぶつかっていくスタイルが新鮮だったのをおぼえている。

 その後も栩木氏はキアラン・カーソン、ウィリアム・トレヴァー、コルム・トビーンなどの翻訳を精力的にこなす一方、持ち前の体当たり式で調査や研究の方もすすめてきた。本書もその成果のひとつである。ただ、体当たり式というと、やや屈強で、ラグビー部フォワード的な印象を与えるかもしれないが、栩木氏の美点は俊敏な突撃性を保ちつつも、決して強引にも、腕づくにも、頭でっかちにもならないところである。本書の後半では交通の便の悪い村に辿り着くためにヒッチハイクをしたエピソードが出てくるが、おそらく道路端で手を上げる栩木氏からは決して相手に襲いかかったり組み伏せたりしそうにない、むしろどんな相手でも逆にもてなしてしまうような、やわらかい包容力が漂っていたに違いない。だから車も停まってくれたのだ。

『アイルランドモノ語り』はそうした栩木氏の持ち味が存分に発揮された本である。タイトルにもあらわれているように、本書はアイルランドを、現地で収集した「モノ」の視点からとらえようとした試みである。栩木氏は「それらのモノたちが語る身の上話に耳を澄ましながら、時空をつなぐ路地歩きを続けた」(259)という。出てくるのは必ずしも狭い意味での「モノ」とは限らない。鶏だったり、馬車だったり、真鍮のボタンだったり、防空気球だったり、ときには生きている人間の手や、泥炭の中の死体や、歴史上の人物だったりもする。

 だが、そうしたモノからモノへの彷徨に共通してあるのは、独特の距離感である。「おや」「へえ」と、まさにモノをのぞき込むようにしてしげしげと対象に見入る栩木氏の眼差しは、モノに没入し、そうすることでその向こうの時間や土地へと飛び立とうとするものである。あえて全体を俯瞰せずに〝近眼〟(ちかめ)を保っているうちに、現地のいろんな人から情報が届けられ、物語が物語を呼ぶかのようにスルスルと話がつながってしまう。

 たとえばトーリー島を訪れた栩木氏は、100年以上前にこの島の灯台の近くで沈没した英国軍艦ワスプ号の話を耳にする。中でも「キング」と呼ばれる、島の長のような人物がじかに語ってくれた話には、物語めかした脚色も加わっていて、思わずつり込まれてしまう。

……さて、この軍艦が灯台近くの岩にぶつかって沈没した後、ひとりの島人が臨時雇いの灯台守として当直勤務していた。これは特別なことではなくて、灯台ではいつも島人が補助員として働いていた。たまたまその時、本職の主任灯台守が外を見回っていて、島人のほうが食堂兼居間にいた。主任は風防つきランプを持っていたんだが、あの時分のランプは性能が悪かったから何も見えなかった。ただ、カモメがやたらに鳴いている声がした。食堂兼居間へ戻った主任灯台守が補助員に、「今夜はカモメがばかにうるさいが、どうかしたのかねえ」と語った。それからふたりは外へ出て、風防つきランプをかざしながら耳を澄ました。島人が言った――「こりゃあカモメじゃありません。人間の叫びですよ!」ふたりは食堂兼居間へ戻ってオイルスキンのコートを着て、長い石塀にはさまれた通路伝いに、灯台の裏へ回った。そして補助員のほうが石塀に手を突いて、塀を乗り越えようとしたんだ。その瞬間、手のひらに触れたのは石塀ではなくて、人間の手だった。生存者の手だったんだよ。(36-37)

 このように不意に「人の叫び」を聞いてしまったり、知らず「人間の手」をさわってしまったりするところに、いかにもアイルランド的な空気が感じられるように思う。人口が152人しかいない過疎の島に「キング」などと呼ばれる長がいて、語り部の役割まで果たしているのもそうだが、アイルランドのスケール感には独特な「近さ」がつきまとう。だからこそ、物語が物語を呼び…というような連鎖性も生まれうる。

 本書はそうしたアイルランドの距離感を、モノと土地に寄り添うような視点を採用することでうまく生かしている。栩木氏は「蛇足をくわえれば」などと遠慮がちの姿勢をとりながらも、思いもかけない地点まで物語の余波をたどっていく。次に引用するのは、1910年代、イギリスからの独立をめざずアイルランドで起きた「バチェラーズ・ウォーク河岸虐殺事件」の顛末を語る一節である。この事件では独立をめざす義勇兵の動きに反応して出動したイギリス兵が、一般市民の抗議に過剰反応して発砲、死傷者を出したのだが、これには後日談があったという。

 さらに蛇足をくわえれば、〈バチェラーズ・ウォーク河岸虐殺事件〉における最年少の負傷者は、現場をたまたま自転車で通りかかったルーク・ケリーという名の少年であった。幸い傷は軽く、長じたケリー氏はプロはだしのフットボール選手になり、水泳も得意だったという。あるとき友人と賭けをして、帽子をかぶったままリフィー川を泳いで横断したところ、賭けには勝ったものの警察に逮捕された。新聞には、「フットボールの有名選手自殺未遂」という見出しが載ったという(Geraghty, _Luke Kelly: A Memoir_, pp.18-19)。このやんちゃ男が結婚した妻との間に生まれてくる男の子にも同じ名前がつけられる。この2代目ルーク・ケリーこそ、1960年代初頭、アイルランドの伝承歌を現代的にアレンジして聞かせる先駆的なバンド、ザ・ダブリナーズを結成し、歌手として名を馳せることになる人物なのだ。(「シャムロックの溺れさせかた」に登場して、「ラグランロードで」を歌ってくれたあのルーク・ケリーである)。彼の得意曲に数々の反英抵抗歌が含まれていたのは、決して偶然ではないだろう。(180)

 こうした後日談の中には、どこまで本当かわからない話もある。「物語というものは語り継がれれば継がれるほど、真実を開く鍵が次々に隠されていくようにできているらしい」と、アイルランドを知り尽くした栩木氏は言ったりする。しかし、もちろん、そうした嘘っぽさまでも含めてのアイルランド性なのである。そこにあるのは単なる嘘ではない。嘘を嘘とは思わせないような、モノのモノらしさを突きつけてくるような、ぬっとせり出して匂い立ってくるような具体性が伴うからこそ、私たちはそれを信じたくなるのである。

 筆者がとりわけ楽しんだのは「防空気球」の話である(201-220)。第二次大戦中、軍需工場があったためにドイツ軍の爆撃にさらされたベルファストでは、なけなしの対抗措置として防空気球なるものが用意された。空に浮かべて爆撃を防いだ(?)という。しかし、ロンドンにはそれが1400個備えられたのに対し、ベルファストにはたった5つしかなかった。これではほとんど役に立たない。くわえて、こんな事件まであったという。

もうひとつ思い出すのは戦争がはじまった頃の話。バリーガリーの小家に引っ込んでいたグレインジ家一同が、バリークレアに持っているパブへ引っ越してきた日のことです。近くに防空気球がいくつか係留してあったのですが、ひとつの気球のワイヤーが根元からはずれて、先っぽが彼らの自動車を引っかけたのです。自動車は空中へ釣り上がり、立ち木に引っかかってようやく止まりました。けが人こそ出なかったものの、見ていた人は皆たまげました。グレインジ家は、バリークレアに所有していたそのパブでワインやスピリッツを自家瓶詰めしていたので、酒瓶に貼る新しいラベルをあつらえました。銀色の防空気球の絵の下に「高級ワインとスピリッツならJ・W・グレインジ」という屋号を入れ、さらにその下に「その他もろもろを見下ろして」というモットーを添えました。今日にいたるまで、バリークレアのグレインジ酒場の破風壁画にそのモットーが書いてあります。(サム・グラスの話、2004年6月8日投稿、BBCのWW2 people's Warのサイトより)(208-209)

 栩木氏自身、この話はさすがにホラかもしれないと疑っているようだが、そもそも防空気球などという牧歌的な兵器の存在に、ファンタジーの香りが漂っているのだから仕方ない。そういえば筆者の聞いたところによると、第二次大戦中のイギリスではドイツ軍の上陸に備え、敵を攪乱するために交通標識がわざとあさっての方角に向け変えられたそうである。ところが戦後、その標識を直し忘れたために今でもイギリスの標識はたいへんいい加減だ、という嘘だか本当だかわからない話がある。一方、栩木氏によるとアイルランドの標識の特徴は「矢印板が指している方向がしばしば微妙」とのこと。しかも、分かれ道そのものに至らないと標識があらわれない。だから、いよいよ道を選択しなければならないその直前になっていきなり「微妙な標識」に面と向かわざるをえない旅人はたいてい道をまちがえるらしい。果たしてこれはイギリス支配の名残りなのか、アイルランド独自の空間感覚なのか、迷うところである。


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2013年07月28日

『対訳 ディキンソン詩集』エミリー・ディキンソン作・亀井俊介編(岩波文庫)

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「ディキンソンの性格」

 筆者は、ディキンソンという詩人は昔からどうも苦手だった。頑固でマイペースなのはいいとして(詩人なんてだいたいそうだ)、言いたいことがあるわりにいつまでも口をつぐんでいて、こっちが「どうかなさいましたか?」と言うのを待ってるようなところがどうも面倒くさいのである。もっと、どんどんいきましょうよ、歌いましょうよ、食べましょうよ、と言いたくなる。

 でも、授業でアメリカ詩をやるとなると、やっぱりとりあげないわけにはいかない人だ。仕方ないから、いかにもこの詩人らしいなるべく陰気な作品を2、3選んで(自分で自分の葬式の場面を想像しながら実況中継するとか、「後悔」とは何かについてじくじく考えるといった詩)、なるべく足早に通りすぎるのである。

 ところが、学生さんの間でディキンソンは意外に人気なのである。ホイットマンよりよほど好まれている。短いからいいのか、陰気な人の方が共感しやすいのか、「ひきこもり」というのがアピールするのか、そのあたりはよくわからないのだが、そういうわけだから、今年の演習では夏学期に「一学期分ほぼぜんぶディキンソン」という試みをやってみた。やっぱり陰気だった。でも、毎週毎週ディキンソンばかり読んでいると、陰気な中にもちょっとちがった輝きが見えてくる。

 たとえば「私は苦悶の表情が好き」('I like a look of Agony')という、実に暗い出だしの作品がある。

I like a look of Agony,
Because I know it's true ―
Men do not sham Convulsion,
Nor simulate, a Throe ―

The Eyes glaze once ― and that is Death ―
Impossible to feign
The Beads upon the Forehead
By homely Anguish strung.

わたしは苦悶の表情が好き、
真実なのだと分かるから―
人は痙攣の真似などしない、
激痛を、装ったりもしない―

いったん眼がかすんできたら―それはもう死です―
見せかけることなどできはしない
質朴な苦悩をつらねた
額の汗のじゅず玉を。
(亀井訳)

本書の注釈にもあるように、この詩は従来、ディキンソンの「真実」に対するこだわりの強さを示すものと考えられてきた。たしかにそういうふうに読める。しかも、そのことを妙に冷静な、奥深い意地悪さをたたえた皮肉な視点から語っている。ディキンソンの「偉さ」を示す重要な作品の一つと考えられてきた所以である。

 そういう意味では「私は苦悶の表情が好き」というタイトルも、一見するほど暗いものではないのかもしれない。むしろ心がおだやかに落ち着いていくプロセスとも読める。「私は苦悶の表情が好き → だって苦悶は嘘をつかないから → だって真実がわかるから → 真実がわかることこそ心の糧」と言えるようになるためには、それなりの達観の境地に達している必要があろう。

 しかし、それだけだろうか。いくらディキンソンが現代人の想像の及ばない「遙かなる人」だったからと言って、この詩人をいたずらに神格化するのはよくないのではなかろうか(亀井氏の強調するポイントでもある)。たしかにディキンソンは、150年以上前のニューイングランドで引きこもり同然の生活を送り、毎日詩を書くくらいしか楽しみがなかった女性だ。しかも、1700篇もの詩を書きながら生前に発表されたのはそのうちの10篇程度しかないという、これ以上ないほどの〝日陰者〟の人生を全うした。しかし、だからと言って、私たちが彼女のことを「ごくふつうの人」として理解してはいけないいわれはない。

 ディキンソン=「ふつうの人」説に則って考えてみよう。たとえばふつうの人なら「わたしは苦悶の表情が好き」なんてわざわざ常識外れのことを言うときには、やっぱり、相手の人が「え?」とびっくりし、どぎまぎする様を期待したりするのではないだろうか。それでうまくいくと、「うふ」と笑ったりするのではないだろうか。そこには相手をびっくりさせてやろう、煙に巻いてやろう、という茶目っ気が読み取れる。とするなら、ディキンソンって、意外とふざけた奴だったのかな?という考えもちらっと浮かぶ。だいたい'Men do not sham Convulsion'(「人は痙攣の真似などしない」)とか、'The Beads upon the Forehead/ By homely Anguish strung.'(「質朴な苦悩をつらねた/額の汗のじゅず玉を。」)といった部分など、Convulsion, Anguishといった用語もいかにも重たげだし、語りの言葉少なな感じもわざとらしくて、やりすぎのB級ホラー映画のようにも見える。この「やりすぎ感」も、ディキンソンの個性の一部なのだ。グロテスクマニアで、注目を集めるのもけっこう好きで、ほとんど子供っぽいようなところがあった人なのではないだろうか。あるいは、そういうふうに思わせるところも魅力なのではないか。

 こんなふうに感じられるようになると、ディキンソンとの付き合いが前よりちょっとだけ楽になる気がする。ディキンソンの詩作品ですぐ目につくのは、「定義詩」と呼ばれる一群の作品である。詩の冒頭が'A is...'という定義の形ではじまり、その定義を深め展開するためにいろんな比喩が繰り出される。要するに、定義すること自体が詩になっているのだ。この選集にも'Exultation is the going,' '"Hope" is the thing with feathers―'といった作品がおさめられている。

 ひたすら定義するなんて、辞書みたいな人である。いかにも杓子定規で退屈な人と思える。でも、ディキンソンの定義癖には、意外と素っ頓狂なところも含まれている。彼女の定義は、決してひとつの正解に達するために行われるわけではない。むしろ定義すればするほど、言葉がずれたり、変なイメージがわりこんできたり、それから一番大事なのは、定義しようとしている本人が、そんな作業のレールから外れて、何だか別の物語を語ってしまったりすることである。今あげた「『希望』は羽根をつけた生き物―」('"Hope" is the thing with feathers―')などもその典型だし、この選集には入っていないが、'Fame is a Bee'という作品もそうだ。

Fame is a Bee.
 It has a song―
It has a sting―
 Ah, too, it has a wing.

名声とは蜂
 歌をうたうし
針があるし
 ああ それに 羽根もあるし

'Ah, too'とあるように、語り手はこの最後の行で思ってもみなかったことを口にしてしまう。蜂(Bee)はあくまで名声(Fame)を説明するために導きこまれた比喩だったのに、この比喩がほんとうに生命を吹き込まれて勝手にぶんぶん飛び始めるのだ。そんなふうに目の前を飛び出した蜂を見て、「あらら、飛んでる」と語り手本人がびっくりしている。まだ詩は終わっていないというのに。いや、この「びっくり」のおかげで詩が終わるのだ。一種の即興詩なのである。

 茶目っ気にあふれ、ちょっと子供っぽくて、悪のりも好き、しかもけっこう気まぐれ……そんなイメージが湧いてくると、毎日真っ白い服を着こんで家にこもった宗教的隠遁者という像も少しうすらぐかもしれない。どうだろう。これなら少しお付き合いしてみていいかな、という人も増えるだろうか。


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2013年02月26日

『恥辱』J・M・クッツェー、鴻巣友季子訳(早川書房)

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「ジャンクフードの意地」

 春の「英語文学の古典」シリーズ第二弾。
 今回は3月に来日予定のJ・M・クッツェーの『恥辱』(Disgrace)をとりあげたい。クッツェーはこの作品で二度目のブッカー賞を受賞しているが、同じ作家が同賞を二度受けたのは史上はじめて。その後ノーベル賞も受賞し、折からの「ポスコロ・ブーム」もあって90年代からゼロ年代にかけてのクッツェーは「もっとも語られる現代作家」の一人となった。

 というわけで『恥辱』は、オーウェルの『1984』やサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』と同じく、あまりに有名でつい読む前から読んだ気になってしまう危険な作品のひとつでもある。たとえば私たちはすでに、『恥辱』の主人公がセクハラのために大学教員の職を追われるらしいことを知っている。なるほど、キャンパスものか…。PCものか…。そして舞台が南アフリカと来れば、何しろ90年代の発表だから、きっと南アのホットな人種問題もからんでくるのだろう、などということを考える。読む前から頭の中にストーリーができあがってしまう。

 むろんどれも間違ってはいない。小説中にはキャンパス倫理から、宗教、ジェンダー、人種、動物愛護、環境など、現代風のトピックがふんだんに出てくるし、たしかに主人公の英文学教員デヴィッド・ラウリーは〝南ア版好色一代男〟よろしく、売春婦から女子学生までありとあらゆる女性にモーションをかけては気楽なお遊びセックスを楽しもうとするような、実に軽薄なセクハラ男である。高邁な理念があるわけでもないし、暗いトラウマを抱えてているのでもない。品行を批判されても謝罪一つせず、「エロスのせいだ」とか何とか言って開き直るばかり。読者として、到底同情できない人物である。

 それだけに、このような概略を知らされて心配になる人もいるだろう。こんな紋切り型の題材ばかりでいったいどうやって小説にするんですか? 軽薄なセクハラ男が罰せられるだけの話で、安っぽいコメディ以上の物語が生まれうるんですか?と。

 正しい疑念である。しかし、まさにそこがこの小説の読み所なのである。つまり、どう考えても八方ふさがりのどん詰まりの状況が、あえて出発点に設定されている。小説史的な視点から見てもネタはすっかり払底し、愛だのロマンスだのエロスだのといった19~20世紀の文学を動かしてきたモチーフがもう機能しなくなっている。そんな中で犯された主人公の「犯罪」もあまりに明白で、どう見ても逃げ場はない。加えて彼はもう50過ぎ。「反省」とか「再生」という年齢でもない。

 ところが驚くべきことに、クッツェーはそこから見事に物語を構築してみせるのである。八方ふさがりに到った主人公の文学教師はまさに「文学」のどん詰まりを示す。エロス依存型の文学はついに荒涼たる地点に逢着した。しかし、その「荒涼」のど真ん中に彼の一人娘ルーシーが残っていた。ルーシーはもはや「性」さえも必要とせず、ポスト・アパルトヘイト後の南アフリカの田舎で、危険に囲まれながら辛抱強く生きている。使用人に裏切られ、強盗に遭って強姦され、犯人の子供まで身ごもっても、決して逆上せずにこの地に根を生やそうとしている。

 そういう意味では、この作品は主人公の〝セクハラ・エロス男〟デヴィッド・ラウリーが「文学」のバトンを娘のルーシーに手渡す物語なのだという読み方も可能だろう。デヴィッドは大学をクビになっても、『イタリアのバイロン』などというオペラを書きながら旧来の「文学」にしがみつこうとしているが、彼が受け入れるべきは「文学の死」であり、それとともに旧植民地的ないわゆる〝白人男性中心主義的価値観〟も消し飛ぶはずなのである。ジェンダーや環境をめぐる葛藤もあちこちにのぞいているし、南アに何の縁もなく、今まで知識も関心もなかった人が読んでも、思わずこの土地の匂いを嗅いでしまうだけの細部も手際よく書きこまれている。

 でも、そのような「立派」な部分ばかり語ったのでは、この小説の持ち味は伝わらないだろう。二度のブッカー賞&ノーベル賞を獲得したこの作品の芯の部分にあるのは、きわめてジャンクな要素でもある。小説の終わり近くに、主人公のデヴィッドが久しぶりにケープタウンに戻ってスーパーでかつての女性の同僚とばったり遭遇する場面が描かれている。元同僚のトローリー一杯の商品には、全乳のアイスクリームやイタリアのクッキー、チョコバーも混じっている。高級アイスや輸入物のクッキーは高価ではあっても、彼女なりの「お楽しみジャンクフード」なのだ。そこで彼は思わず独り身の女の侘びしさを想像するが、そうした感慨はアイスクリームや甘口のワインは軽蔑しても、別の「ジャンク的甘さ」からは決して自由になれない彼自身を逆に照らし出すことにもつながる。小説の目線がきわめて低いところに設定されているのがよくわかる箇所だ。「恥辱」と題されたこの作品は、たしかに身も蓋もないことや、惨めなもの、見苦しいものについてもどんどん語る用意がある。

 もっと言えば、『恥辱』には文章からしてジャンク臭がただよっている。一般に現在形で語られる小説には、どことなく気まぐれさや軽さがつきまといやすいものだが、この小説では語り手が早々に主人公を見放しているかのようで、心理描写にも〝突っ込み〟か〝やじ〟かと見まごうものまで混じっている。たとえば主人公が被害者の女子学生メラニーに接近しつつあるときも「ここでやめておきゃいいのにさあ~」(That is where he ought to end it.〈18〉)などという一言が入るし、明らかに嫌がっているメラニーにしつこくデヴィッドがからむときの会話は次のように書かれている。

'Are you worried about the two of us?'
'Maybe,' she says.
'No need. I'll take care. I won't let it go too far.'
Too far. What is far, what is too far, in a matter like this? Is her too far the same as his too far? (19)

「ふたりの関係を心配しているのか?」
「そうかも」彼女は言う。
「なら心配いらない。気をつけるよ。行きすぎないようにしよう」
 行きすぎる。この手の話で、〝行く〟だの〝行きすぎる〟だの、なんのことだ? 彼女の行きすぎと、こちらの行きすぎは、果たしておなじなのか?(30-31)

 この地の文がいったい誰の「声」なのかは英文学研究者の方々にじっくり議論してもらうとして、少なくとも小説を読んでいる我々としては、何だか地の文の言葉があっちこっちにふわふわ付和雷同的に流れていくような印象を持つはずである。訳者の鴻巣氏の言葉を借りれば「ことばが重たさを感じさせない」。

 たしかに『恥辱』の言葉は終始軽いのである。こんなに重い話題で、この軽さ。しかし、このジャンクな軽さなくしてはこの作品は成り立たなかったのではないか。この言葉の軽さは主人公の軽さとも連動しているのだが、デヴィッドは軽い男だけれどなかなかしぶとい男でもある。軽薄な好色男ならではのしぶとさ。それは訴えられて八方ふさがり・万事休すとなったときに、セクハラ査問委員会を前にして示されるその無駄な「意地」によくあらわれている。一言「ごめんなさい」と言えばいいのに、彼は理屈をこねて意地を貫き通すのである。そして私たちはそんなデヴィッドのことをたぶん応援はしないのだけれど、よくわからないまま、彼の「意地」にやけに引き込まれてもいる。

 こうした「意地」は小説中の他の箇所でもしばしば顔をのぞかせ、おかげであちこちで実に読み応えのある会話が展開されることになる。中でも印象に残るのは父デヴィッドと娘ルーシーとの会話で、それはそれは強烈な「意地」のぶつかりあいなのだ。やっぱり親子だなあ、と思ってしまう。そして、だいたいにおいて勝つのは娘なのである。決して「重さ」で勝つのではない。演説や雄弁で勝つのではない。そういうやり方は、おそらく旧来の「文学」の戦術なのである。ルーシーが頼るのは、彼女なりの「意地」としかいいようのない抵抗である。無抵抗と限りなく近い、でも、頑として動かないような抵抗。そういう抵抗はおそらく動物や、原住民や、そして何よりアフリカという土地の抱えているものに遠くつながっていく。そういう部分を読んでいると、まだまだ小説にしか語れない「リアル」があるのではないかという気がして、ヒヤッとしたりする。

 クッツェーは最後までデヴィッド・ラウリーにその「セクハラ性」を全うさせる。作家として、主人公に対する惨酷なほどの仕打ちとも見える。しかし、あっぱれだ。デヴィッドは与えられた役を全うするのである。もちろんベヴ・ショーとの性交や、メラニーのお父さんとの再会の箇所は、それが小説の論理構成にうまくはまりすぎているだけにかえってやり過ぎに見えなくもなかったが、あの八方ふさがりから出発して、軽さの言葉でここまでの世界をつくりあげる手腕はお見事。なお、作品中の引用を含め「英国ロマン派」のおちょくりは相当なものだが、日本のロマン主義研究者の方々はデヴィッドとは違い、いたってまじめであることを、念のため、申し添えておきたい。


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2013年01月27日

『説得』ジェーン・オースティン作、中野康司訳(ちくま文庫)

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「驚嘆すべき地味さ」

 卒論や修論のテーマが話題になる季節である。英文学界隈で相変わらず人気を保っているのは、シェイクスピアとならんでジェーン・オースティン。今年はおなじみの『高慢と偏見』とならんで、『説得』をとりあげた人がいて「おっ」と思った。

 オースティンの中では『説得』(Persuasion)はかなりしぶ~い作品だ。だいたいタイトルにある「説得」という語からして、満々と渋みをはらんでいる。本来、説得とか口説きと言えば、英文学的伝統の中でももっとも華やかな身振りのはずである。シェイクスピアの『ソネット集』にしても、ジョン・ダンの変態的な詩の数々にしても、アンドリュー・マーヴェルのこの上なく甘美な「はにかむ恋人へ」にしても、いかに上手に、派手に、ひねりを利かせて口説くかが書き手の腕の見せ所となってきた。口説きの瞬間こそが文学の華なのである。

 ところが『説得』の〝説得〟はちょっと違う。「ねえねえ、進もうよ」という前向きの〝口説き〟よりも、その正反対の「やめときな」という負の説得こそが中心となる。この小説の最大の関心事は、起きることより、起きないことなのだ。とりわけ8年前に、起きなかったこと。主人公のアン・エリオットはすでに30近いが、まだ未婚である。実は彼女は8年前、ウェントワース大佐という人と結ばれる直前までいったことがある。ところが、親しい人に「やめときなさいよ」との忠告を受け、「たしかに女の子は慎重であるべきだわ」と考えて、お付き合いをやめてしまったのである。

 ええ? ふつうそこでやめちゃいますかね!! 仮にもヒロインでしょ?と思う人もいるだろう。たしかに近代小説に描かれた女性の多くは、「やめときなさいよ」と言われても「ぜったい、やめません!」と反発することでこそ、主人公となってきた。ジョージ・エリオット、エミリ・ブロンテ、シャーロット・ブロンテといった19世紀英文学を代表する作家たちは好んでそういう女性主人公を描いてきたし、ほかならぬオースティンだって、たとえば『高慢と偏見』ではそういう女性を主人公にすえたではないか。

 しかし、『説得』のアンは違うのである。「やめときなさいよ」と言われればやめるし、小説の最後に至るまで、自分がやめたのは正しかったと信じ続けている。そんな人に主人公となる資格があるのだろうか? ところが不思議なことに、この後ろ向きで、地味で、他の登場人物からは便利屋さんのようにみなされ、27歳にして「最近老けたね」みたいなことばかり言われているアンの身の上話が、読者としてはとても気になるのである。こちらとしては、「そ、それでいったいどうするんです?」と思わず身を乗り出してしまう。しかもアンの日常生活ときたら、実に平穏で単調このうえないのに。

 小説はだいたい三つの段階を踏む。序盤ではまず「エリオット家の事情」が語られる。貴族の家系でありながらエリオット家は無分別と浪費のために財政的に逼迫している。住んでいる屋敷も人に貸さなければならなくなった。3人娘のうち長女のエリザベスと次女のアンはまだ未婚。妻に先立たれた父親は鏡を見てうっとりするばかりの、およそ頼りにならないナルシストの男である。いよいよ屋敷には他人が引っ越してくる。じゃあ、私たちはいったいどこに行きましょう?とすったもんだするうちに、家族それぞれの性格が浮かび上がってくる。身勝手な父ウォルターと長女エリザベス。神経質で文句ばかり言っている三女のメアリ。そんな中で、賢いアンはいつも正しいことを言うのだが、誰も彼女の言うことには耳を貸さない…。

 描かれるのは些末な事ばかりなのにどんどん引きこまれてしまう。派手さのない語りなのだが、要所要所はきっちり引き締まり、まるで主人公アンの折り目正しい性格と相関するかのように、鋭い分析と観察の目が光っている。単なる「事情説明」だけでこれだけ読ませるのだから、作家の円熟ぶりは相当なものである。

 物語が多少なりとも動き出すのは、屋敷に海軍提督が引っ越してきてからである。以外な事実が明らかになる。クロフト提督の奥さんの弟が、何と、かつてアンと婚約していたあのウェントワース大佐だったのである。当然ながら大佐がクロフト提督夫妻を訪れる機会も生ずる。8年前に婚約を解消した相手のまさかの再来に、アンは気まずい思いで一杯になる。二人が知り合いだったことを知ったらまわりの人はいったいどう思うかしら!みたいなことに始まり、アンは人知れずもじもじと悩むわけである。ところが、そんなアンの心配をよそに、ご近所さん同士の間でさまざまなイヴェントが企画され、アンもそれに参加せざるをえなくなる。中盤ではこうしたイヴェントが、たっぷりスペースをとって細々と描かれるのである。

 もちろんイヴェントと言っても、せいぜい食事とか散歩とか遠足である。ところがそののどかな遠足のさなかに、ウェントワース大佐を巻きこんだ事件が起きる。おそらく『説得』中最大の大事件である。マスグローブ家の二人姉妹のひとりルイーザが、はしゃぎすぎて転倒するのである。 え?それだけですか?と思うかもしれないが、何しろ渋みと地味さの覆う『説得』の世界である。これだけで十分、大波乱なのである。この転倒&負傷事件をきっかけにそれはそれはいろいろな騒ぎがまきおこり、余波があり、出会いや発見まで発生する。人が人を好きになり、再会があり、アンとウェントワース大佐の関係にも少なからぬ影響が生まれる。表向きはほとんど口もきかない二人だが、視線の動きや心理描写から、大佐を思うアンの気持ちがじわっと濃厚なものになっていくのがよくわかる。

 そしていよいよ終盤。舞台は高級保養地バースに移る。英国でも有数の社交の地である。このような社交場につきものなのは、遭遇と、目撃と、恋と、噂と、悪意と、噂と、結婚。こうして物語はいよいよ佳境に入るわけだが、あいかわらず、たいした出来事が起きるわけではない。中心となるのは、もっぱら噂や証言をとおした「過去の再解釈」である。にもかかわらず、この終盤がかなり読みごたえがある。最後はアンとウェントワース大佐が8年のブランクをへてやっぱり結ばれるという、この上なく地味な結末が待っているのだが、このA(アン)=W(ウェントワース大佐)という解に至るまでの経過がすごい。出来事もないくせにやけに錯綜した人間関係が、言ってみれば、

1-ax-by-axy=1-by-a(1+y)w=f(w)

…というような、ほとんど数学の演算式のごとき論理過剰の説明を通してきれいに整理されるのである。まるで手品だ。中には「これでは強引なツジツマ合わせではないか?」と文句を言う人もいるかも知れないが――そしてたしかにそういうところもあるが――筆者はこのツジツマ合わせの術に酔ってしまった。オースティンって、けっこう頭がいいのです。

 さて。いつものことながら、オースティンの小説では脇役が光っている。『説得』では何と言ってもアンの妹のメアリーがいい。口数が多くヒステリー気味であれこれと我が儘を言ってはまわりに迷惑をかけるあたり、『高慢と偏見』のベネット夫人を思い出させるが、ベネット夫人よりもずっと洗練されている。遠足のとき、夫が片手をアンとつなぎ、もう片方を自分とつないでいるのに、草をはらうときにはいつも自分とつないでいる側の手ばかり放してる!ずるい!と言って騒いだりする場面など、思わず膝を打ちたくなる。一家のお父さんのウォルター卿もなかなかの人物だが、冒頭で派手に登場して以降、あまり表舞台には出てこなくなる。もう少し場を与えられたらもっと活躍しただろうにと思う。残念。それにしても、こんな脇役が活躍するのも、アンの「目」があればこそ。地味でおとなしい人というのはまったく侮れませんね、というのがやっぱり小説的世界の鉄則なのだ。


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2012年06月19日

『失われた時を求めて1 スワン家のほうへI』プルースト作・吉川一義訳(岩波書店)

失われた時を求めて1 スワン家のほうへI →bookwebで購入

「プルーストの投球術」

 プルーストは誤解されやすい作家だ。『失われた時を求めて』と聞くと、まず思い浮かべるのは難解な文章でつづられる曖昧模糊とした世界と、あふれるナルシシズムとスノビズムとノスタルジア、それと目もくらむほどの「長さ」!ではないだろうか。

 これでは読む気がしないのも仕方がない。しかし、いずれも虚像だ。とりわけ気をつけたいのは、プルーストが実は「短い」ということである。多くの将来ある若者はきっと(何しろ将来あるくらいだから)「俺はプルーストなんて読むヒマはないぜ」と思っている。たとえば岩波文庫・吉川一義訳は各巻400頁あまりで、ぜんぶで14巻もある。構想から第一巻の刊行までに約10年、全巻完結までにはさらに10年かかるという。若者ならずとも眩暈がしそうになる。

 しかも、勇気をふるって第一巻『スワン家のほうへI』を手にとってみると、いきなり地名やら登場人物やらの説明がたっぷりあり(これだけで怖じ気づきそうになる)、ようやく冒頭部にたどり着いてもまさに評判通りで、その回りくどさときたら。眠れるとか眠れないとかいう話をするのに、「安らぎの暗闇」とか「われわれのまわりに存在する事物の不動の状態」とか、さらには「身体にやどる記憶が、肋骨や、膝や、肩にやどる記憶が、かつて寝たことのある部屋をつぎつぎに提示してくれるのだが、そのあいだも身体のまわりで、さまざまな目に見えない壁が、想いうかべた部屋の形に合わせて位置を変えつつ……(以下略)」なんていう表現が続く。難しげな顔の語り手がくだくだとしゃべりつづけているという印象だ。何たる面倒くささ。何たる退屈。

 しかし、本を閉じるのはまだ早い。思い切って36頁あたりまで早送りしてみよう。すると、さっきまでの霧がすっと晴れてくる。もちろん、いきなり血湧き肉踊る活劇が始まるわけではないが、このあたりから『失われた時を求めて』を読むための作法が見えてくる。この語り手がなぜこんなにしつこいのか、その意味がわかってくるのだ。

 プルーストの得意技は一種の「むっつりギャグ」である。この人はとにかくじっと待っている。くだくだしく見えるのは、実はこの「待ちの間」にほかならない。長い長いセットポジションだと思えばいい。そして待ちながら、意地悪く観察しているのである。いつぴゅっと牽制球を投げてやろうか、あるいは牽制と見せかけて、バッターに投球してやろうかとうかがっている。牽制なのか投球なのか、脱線なのか本筋なのか、その境い目にむずむずするような緊張感がある。

 そして40頁、50頁と進むと、いよいよ本領発揮である。鋭い牽制球がはじめは小出しに、やがてたっぷりスペースをとって投じられる。父や母といった直近の親族だけでなく、祖母や叔母といったワンクッション置いた人にも語り手の観察眼は働くようで、かなりくすぐったいポイントを突いてくる。庭を歩きながらさりげなくバラの位置を整えたりする祖母の姿について、「理髪店であまりにも平らにされた息子の髪に片手を入れて膨らませようとする母親とそっくりである」(46)なんていうコメント。こういう一節は読み飛ばしたくない。

 作品の柱になるのは幼年時代の回想である。登場するのは親族やスワン氏をはじめとする友人、コンブレーの町、鐘塔、庭、散歩の方角……。しかし、想起は秩序だって行われるわけではない。実に気まぐれで、突飛。しかも、あちこちに意表をつく小さな比喩がしかけられている。象徴主義的な隠喩にありがちな、なし崩し的にぜんぶを同系色にくるむ「うっとり系」ではない。有名なマドレーヌの箇所にしてもそうだが、言葉はいちいち論理的で緻密。ときには数頁にもわたるそんな比喩のひとめぐりに最後まできっちり付き合ってみると、もやもやした頭の奥にぽこっと穴があいて光が差しこみ、爽快な「知」の瞬間がもたらされる。『失われた時を求めて』はこの小さな瞬間の集積なのである。決してフル装備で一気に登らなければならないような、難攻不落の高山などではない。ひとつひとつの瞬間と出会うようにして、エッセイ集をめくるようにして、ゆっくり時間をかけて読めばいい。本質的には「短い」作品なのだ。

 たとえば「匂い」についての印象的な一節がある(121-122)。叔母の寝室の描写が、いつの間にか「匂い」の話題へと発展する。語り手は問う。私たちがうっとりするのはどんな匂いだろう、と。それは「美徳や、英知や、習慣など、密やかで目には見えないけれど、過剰な精神生活から発散し、空中にただよう無数の匂い」でないか、という。ふつうならそこで、ふうん、とわかったようなわからないような気分になればいい。しかし、この語り手はやめない。執拗に「匂い」にこだわる。そして、比喩が次々に繰り出され、出発点にあった「匂い」のイメージがふくらみとともに描きだされる。

出不精な人に特有のこもった匂い
透明で美味なゼリーとなり、果樹園から食料戸棚へと移った趣
肌をさす白い霜の寒さがほかほかのパンの温かさで和らげられた匂い
村の大時計のように、暇をもてあましているものの、きちんと時間を守る匂い
のらくらした、それでいて堅気の匂い
呑気でありながら、用意周到な匂い
リネン類の匂い
早起きで信心ぶかく、平穏で味気ないのを幸せと感じる匂い

「村の大時計のように、暇をもてあましているものの、きちんと時間を守る匂い」なんて、語り手が遊んでいる感じがありありだが、右往左往しながらもどこかを目指している感じがある。そして「早起きで信心ぶかく、平穏で味気ないのを幸せと感じる匂い」あたりまでくると、あ、そうか、と思う。脱線のようでいて、比喩の列挙の中から、本筋が立ち上がってくる。

 つまり問題となるのは、日常性といかに付き合うか、ということなのだ。日常の奥に潜むものを引っ張り出し、精妙な言葉の力で突っついたり裏返したりしながら、その味わいを引き出す。そこには、もはや「つまらない日常」などと軽んじることのできないような、まぶしいとも真っ暗ともつかない思いがけない奥深さがあらわれている。

 プルーストを読みながら心躍るのは、こうした小さい話との遭遇なのである。もちろん全体の流れを無視するべきではないだろうが、語り手の目がいたずらっぽく照準をあてて「さあ、次はこんな見立てでいきますよ」と仕掛けてくる、その牽制とも脱線ともつかない「突っつき」がこちらも病みつきになる。決してすべてを暴いたりしない、独特な隔靴掻痒の伴う「突っつき」なのだが、背後にあるのは主人公ならではの思考法―「隠れ家の思考」―である。

 といっても私の思考こそ、もうひとつの隠れ家と言えるのではないか。私は、その隠れ家の奥にもぐりこんで外のできごとを眺めている気がする。自分の外にある対象を見つめるとき、それを見ているという意識が私と対象のあいだに残り、それが対象に薄い精神の縁飾りをかぶせるため、けっして対象の素材にじかに触れることができない。その素材は、いわば触れる前に蒸発してしまうのだ。(194)

なるほど、「隠れ家」とは言い得て妙である。これが『失われた時を求めて』の主人公の世界とのかかわり方なのだ。隠れたところからこっそり見つめる、密やかな視線を持った主人公なのである。

 それにしても、これほど自分の内面に執拗にこだわり続ける作品は珍しい。にもかかわらず、こちらをナルシシズムでうんざりさせたりしない。おそらくそれは「私」を語れば語るほど、言葉が研ぎ澄まされてドライになっていくからだろう。自己語りは決して甘い耽溺調に陥るのではなく、切なさや甘さを仄めかしつつも、あくまでしなやかにまた軽快に、「まさかそうくるとは!」と言いたくなるような爽快なジャンプを生む。

 圧巻は、382頁あたりから描かれる「見えないもの」をめぐる経験だ。

…突然、とある屋根や、小石にあたる陽の光や、土の道の匂いなどが私の足をとめ、格別の喜びをもたらしてくれた。それらが私の足を止めたのは、目に見える背後に隠しているように感じられるものを把握するよう誘われていながら、いくら努力してもそれを発見できない気がしたからである(382)。

ここも隔靴掻痒。でも、変に神秘化しようというのではない。むしろ、ここがまさにプルーストの魅力なのだろうが、そうした感覚をごく散文的な、科学の言葉にさえ通じるようなシラッと冷静な言葉でねちねちと開いていくのである。

私はじっとそこにとどまり、目を凝らし、匂いをかぎ、わが思考とともにそのイメージや匂いの背後にまで到達しようと試みた。祖父に追いついて散歩をつづけるほかないときは、目を閉じてそれをふたたび見出そうとした。私が、屋根の線や石のニュアンスなどをなんとか正確に想い出そうとしたのは、なぜかわからないが、いまにもそれらの蓋が開いて詰っている中味を引き渡してくれるように思えたからである。(382)

 こんな思考の迷路にやがて「鐘塔」があらわれる。夕陽を浴びた鐘塔は「馬車の動きやジグザグに曲がる道のせいで」位置を変えるかのようだ。そうして彼は考える。

 これら鐘塔の、尖塔の形や輪郭の移動や表面の陽の当たり具体などを確かめ、注視しても、私が感じた印象を突きとめることはできない気がした。この動きの背後に、この明るく光るものの背後に、鐘塔に含まれていながら隠されているものがある気がしたのである。(384)

「鐘塔に含まれていながら隠されているものがある」という言い方の何とぎこちないことか。そしてそのぎこちなさが何と利いていることか。遠くにあると思ったのに、ふと見ると近くにあったりするこの神出鬼没の鐘塔の、その奇妙な存在感をあらわすには、このような迂遠な表現が必要なのである。

 登場人物たちの何とも言えないおもしろみも、この鐘塔と同じような奇妙さから生じている。とくに要注目はレオニ叔母。この叔母がいつも小さい声で話すのは、「頭のなかに何か壊れた浮遊したものがあって、大きな声で話すとその位置がずれてしまうと信じている」(123-24)からだという。この人は「決して眠らない」(!)ことを自慢にしていて、まちがえて「目を覚ました」などと言ってしまったときにも、いちいち言い直すほど。この叔母を観察する語り手の目は、全巻にわたってたいへん冴えている。

 訳文は日本語としてもリズムがあって見事である。プルーストの長文を切らないように、しかも順番通りに訳すように心がけたという訳者はたいへんな苦労をしたのだと思うが、ひとつひとつの句や節や文の意味が丁寧に読者に差し出されていて、まさにじっくり読むに値する文章になっているし、いたずらっぽく意表をつくプルーストのとぼけた持ち味もよく伝わってくる。図版も豊富だから、読書に疲れたらながめるのもいい。現在第4巻までが既刊。この先も楽しみだ。


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2012年01月23日

『石の記憶』田原(思潮社)

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「《は》の効用」

 すごい詩人が現れたものだ。これなら現代詩アレルギーのひとにも自信を持って薦められる。おおらかで、力強くて、土の中から生えだしてきたかのような安定感がある。それでいて実に柔軟。間接がやわらかいのだ。まさに一流の運動選手のような肉体を持った言葉である。

 日本語による第一詩集『そうして岸が誕生した』から、巻頭の「夢の中の木」を引いてみよう。

その百年の大木は
私の夢の中に生えた
緑色の歯である
深夜、それは風に
容赦なく根こそぎにされた

風は狂った獅子のように
木を摑んで空を飛んでゆく
夢の中で、私は
強引に移植されようとする木の運命を
推測できない

木がないと
私の空は崩れ始める
木がないと
私の世界は空っぽになる

こういう自然に憑依されたような言葉で語ることのできる詩人を、筆者はそれほど知らない。近いのは新川和江か。変に頭を使ってはいけないということを、実に明瞭に示してくれる作品である。

 もちろん読者も気をつけないといけない。もしこのような一節を読んで「???」と思った人がいたら、よけいなことかもしれないが、頭を使いすぎずに読むための簡単なポイントがある。この詩のまずどこを読んだらいいか。「は」である。

その百年の大木は/(それは)/風は/(私は)/私の空は/私の世界は
この一連の「~は」に、ちょっとだけ注意して読んでみよう。単に力をこめるというのではない。軸として意識してみる。「気」の置き所にする。そうすると、視界が開けてくると思う。この詩は「~は」から始まるための詩なのだ。「~は」とはじめた勢いが、どうやって言葉を伝って流れ出していくか、その流出感のようなものに身をまかせたい。

「は」が示すのは主語であり、話題である。でも、田原の「は」にはそれ以上のものがある。それは非常に屈強な「は」なのだ。そしてその強さは、相手に届こうとする呼びかけめいた意思のようなものを――つまり、言葉的な距離の想像力のようなものを――持っている。

そのように長い歳月を経て
川の流れは疲れ果てた包帯だ
それは傷ついた村や山を包み縛っている
世の激しい移り変わりの船着き場は
遠くに清く澄んだ水源を眺め
あたかも老いるのを待っている船頭のように
ひとしきり咳に付き従って
黒い苫舟を漕ぎ
川を遡って帰る
(「田舎町」 『石の記憶』より)
「は」の作用は、和歌の上の句と似たようなものでもあるかもしれない。百人一首で「~は……」と長く伸ばして読むときのあの心地にあるのは、何かを呼び覚まして目の前に浮かび上がらせようとする「お願い」のような気分である。そういう意味では田原の詩の多くには、相手にむかって呼びかけ手を伸ばそうとするような姿勢が見える。
一本の大木が倒された地響きは
森の溜息だ
鳥たちは
銃声の傷を背負って
帰巣して卵を産む
ムササビは黒い幽霊のように
木から木へと跳んで
食べ物を見つけようとする
(「狂騒曲」 『石の記憶』より)
と同時に、彼の安定感を作っているのは、「は」を介した呼びかけを口語自由詩の中の一種の「型」にまで昇華させてしまう執念のようなものでもある。じっくり語る。決して「~は」から流れ出して、あとは野となれ山となれではない。何度でもあらためて「は」の地点に立ち返ろうとする気概がある。体力もある。そしてそれは、ときに怨念めいた凝視をも生む。四川大地震のことを描いた「堰止め湖」(『石の記憶』)という作品の終わり方は典型的だ。
一万年後 お前はそのときの人々に
感嘆され称賛される景色になっているかも知れない
しかし 私はこの詩を証として書き残しておきたい
西暦二〇〇八年五月のお前は
何億もの人々の涙が溜まってできたものであることを
詩とは時間や空間の威力に抗して語ろう、記録しよう、刻みつけようとする、人間的な抵抗の、もっとも原初的な形なのだ。

 田原(でんげん、ティエン・ユアン)は中国・河南省出身。大学では中国文学を専攻し将来を嘱望されていたが、天安門事件に参加したために当局に目をつけられ、方針転換して日本に留学することになった。広く海外の詩にも親しみ、ロルカ、パステルナーク、ホイットマン、ウォレス・スティーヴンズなどを愛読。詩は中国語でも日本語でも書くというバイリンガル詩人である。ざっくりと言葉を鷲づかみにするような剛胆さと、ひょいとイメージからイメージに飛び移る敏捷さとを兼ね備えているあたり、たしかにホイットマンやスティーヴンズと通ずるものを感じる。谷川俊太郎の研究者でもある。

 実は最近、勤務先で講義をしていただいた(東大朝日講座――知の冒険)。「詩は他者への愛によって書かれる」「詩には謎がなければならない」「良い詩は良い読者を見つける」――いずれも発言の場から切り離して引用すると鮮度が落ちてしまうのが残念なのだが、こうした言葉がこれほど自然に口にされ、しかもそれがこちらに届くというのは希有な体験だった。まさに温度のある詩人である。田原さんは雪の舞う空にパーカー一枚という出で立ちで驚くほどの熱気をあたりに充満させ、講義中何度も嗚咽しながら、激しい感情とそれをコントロールしようとする強い意志とのバランスの中で、未発表の自作を含めて何編かの作品を朗読してくださった。

 「浮浪者」「津波」といった作品が近々活字になる。乞ご期待である。


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2012年01月04日

『パミラ、あるいは淑徳の報い』サミュエル・リチャードソン著、原田範行訳(研究社)

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「パミラはいったい何をしたのか?」

 ついに『パミラ』の翻訳が出た。1740年版の初版テクストを元にしたものは本邦初訳。記念すべき出来事である。パミラはおそらく英文学史上もっとも有名な人物のひとりだが、考えてみるとその実像は意外に知られていない。パミラとは何者なのか?この女、いったい何をしたのか?

 とりあえず誰もが知っていることから確認しよう。ときは18世紀前半のロンドン。英国ではすでに印刷術がかなり普及し、書物はもはや一部の上流層の独占物ではなくなりつつあった。むろんもっとも需要の多かった出版物はキリスト教関係のものだが、これとならんで大いに人気を博したのが〝お作法系〟の入門書である。あいさつ、しゃべり方、歩き方、うれしがり方……。18世紀とは何でもかんでも「やり方」が指南される時代だったのである(当時のお作法問題については、こちらも御参照ください)。とりわけこの時代に注目を浴びつつあったのは、書き言葉をめぐる作法だった。サミュエル・ジョンソンによるはじめての英語辞典は18世紀半ば。英語の句読法が整備されたのも同じ時期である。

 さて、ここにサミュエル・リチャードソンという印刷業者がいた。「業者」とはいえ文章力には定評がある。すでに何冊か一般向けの本も出している。このリチャードソンに対してある出版者が、手紙の書き方の模範文例集を出しませんか?と持ちかけた。どうやらこれが50歳になるリチャードソンの心の何かにヒットしたらしい。彼は大いに乗り気になり「よし、じゃあ、せっかくだから人はどのように振る舞うべきか、指南書のようなものにしよう」とのアイデアまで出し、さっそく全体を書き上げた。所要期間わずか2ヶ月。当初の手紙の模範文例集という企画はどこかにすっ飛び、翻訳版で総頁800近くの長大なドラマがそこには展開されていた。これが『パミラ』である。

『パミラ』は発売後たちまちベストセラーとなる。二巻揃いで今の日本円にして1万円から1万5千円という本があっという間に版を重ねて、一年もたたないうちに1万5千部も売れた。単純計算で一億円を優に越える売り上げである。いったい何が起きたのだろう?パミラはいったい何をしたのか?

 タイトルにあまりにも明瞭に示されているように、『パミラ』は「淑徳を守ったおかげで報われた女」の話である。主人公パミラは上流階級のB―氏のお屋敷で働く召使い。まだ若い彼女にとってはすべてが新しい経験ばかりで、生活の詳細を両親への手紙の中でいちいち細かく書き綴っている。ところが、やがてあやしい気配が漂ってくる。主人であるB―氏の魔の手が伸びてくるのだ(本の装丁はこれを意識しているらしい。「手」が見える)。まあ、たいへん、とパミラは動転する。いったいどうすればいいの?しかし、彼女は折れない。B―氏による、それはそれはしつこくいやらしい攻勢をはねかえすのである。攻勢はエスカレートし、彼女は軟禁状態にさえ置かれるが、それでも負けない。そして、紆余曲折の末、彼女はついに勝利をおさめるのである。「勝利」とは……結婚であった。彼女は見事、B―氏に正妻として迎えられるのである。

 それにしても、まあ、何というストーリーだろう。こんなものをいったい誰が読みたいと思うのか?英文学史の授業で、「『パミラ』は最初の近代小説であ~る。最初の小説は書簡体だったのであ~る」などいう触れ込みとともにこのような粗筋を聞かされた学生たちはきっと「ふ~ん。小説って昔はおそろしく退屈なものだったんだね」と目配せし合っただろう。「昔の人に生まれなくてよかったね♪」などと囁きながら。

 たしかに『パミラ』は私たちが知っている小説とはおよそ似ていない。私たちがほっとするような小説的な心地良さはほとんど期待できない。しかし、回路を切り替えてみたらどうだろう。「最初の近代小説」などというよけいな先入観を捨て、小説ではなく、ともかく『パミラ』を読む。そうすると、この作品、たしかに小説らしくはないが、妙なところで「小説」という形式と血が繋がっているのがわかってくる。そして、そこには「ひょっとすると小説がそうであったかもしれない別の顔」が覗いてもいる。私たちの知っている「小説」の背後にもあるかもしれない何か。根源的な言葉のエネルギーのようなものが、そこには宿っているのである。

 『パミラ』では、とにかくみんなよくしゃべる。もちろん筆頭は主人公のパミラである。一回話しはじめたが最後、なかなかマイクを放さない。B―氏とのことで、パミラは頼りにしている召使い監督のジャーヴィスさんにしきりに相談をもちかける。

そこで私はまた訊きました。「あのあずまやでの一件のことをあの方は悔いているとおっしゃいましたね。でも、それがどのくらい長続きしたというのでしょう。私がひとりでいるところを見つけるまでだけのこと、そして今度は前よりもひどくなった、それでまた後悔する。かりに私のことをお好きなのだとしても、そしてそれがあなたのおっしゃるように無理もないことだとしても、また機会があれば、三たび私を苦しめるということになりはしませんか。本で読んだことがあるこのですが、男の人って、はねつけられると恥ずかしがるくせに、うまく行けば恥ずかしく思わないって言うではありませんが。それにね、ジャーヴィスさん、もしかりにあの方が力づくでどうのということをお考えではなかったとしても、だからどうだというのでしょう。私に気を引かれずにはおられないとか、あなたはおっしゃいましたが、そう、確かに愛するなんてありえませんものね!――でも気を引かれるだけということは、結局あの方は、私の同意の上で私の身を滅ぼそうとなさっているということにはなりませんか」そして私は強く言いました。「私は絶対に、いかなることがあっても彼の誘惑に負けてはいけない、と考えているのです」(62-63)
万事この調子なのである。もちろんアクションもある。B―氏がパミラの部屋に潜んでいて、パミラが着替えてベッドに入ったところを襲うなどという場面だってある。まさに危機一髪。中盤から後半にかけてはアンドレ・ザ・ジャイアントみたいな大男も登場。軟禁されたパミラが脱出をこころみて、「パミラ走る!」「大男走る!」などということにもなる。ほとんどどたばたコメディの世界だ。しかし、そうした場面も含めて、ほんとうのところでこの作品を支配するのは、危機と苦難に直面しつづけるパミラの、つねにぴりぴりと緊張しつづける神経そのものである。うわずった神経の声が、読者をひっぱる。

 とにかくよくしゃべる。休みなくしゃべる。書簡体小説には地の文なるものがないから、語り手が出ずっぱりなのは仕方がないとはいえ、このように神経の突っ張ったインフレ気味の語りがつづくと、さすがにこちらもくたびれてくる。山あり谷ありどころか、山の連続である。しかし、このようにこちらをくたびれさせるところにこそ、この作品の一番の真実があるのかもしれない。リチャードソンはたったの二ヶ月でこれを書き上げたというが、それはパミラの体現する種類のエネルギーを彼自身がうちに宿していたということではないのだろうか。

 『パミラ』はよく売れたが、それだけに批判にもさらされた。徳を胸に誘惑をはねつけるパミラの人物像はすでに当時から「偽善的」などと嘲笑されたりした。しかし、実際に読んでみるとわかるが、この800頁にはとにかくパミラ臭があふれていて、とてもではないが徳だの純血だの結婚だのといった骨張った議論に回収されるものではない。しゃべりまくる女たちの語りの力は圧倒的なもので、しかもそれは女が語る女の語りではなく、男が女に語らせる女の語り。つまり、50歳のおじさんの視点から「女の語り」へと没入するリチャードソン臭が混入しているのである。だからこそ、独特の過剰さがつきまとう。

 そんな女の語りを日本語に訳出するのはなかなかたいへんなことだったと思うが、訳者の原田範行氏はどうやら「男が女に語らせる女の語りを男が訳す」というねじれを意識しながら、徹底的に過剰さを表沙汰にする方策をえらんだようである。

十時頃、彼はジュークスさんをよこして、彼のところへ来るようにと言いました。どこへ?と私が尋ねると、案内してあげるよ、と彼女。階段を三、四段下りると、彼の寝室へと向かっているのが分かりました。扉が開いているのだもの。あそこへは行けません!と私が言うと、バカなことを言うんじゃない、さあ、来るんだ、危ない目には遭わせないよ!と彼女。死んでも行きません、と私が言うと、あの人の声がした。こちらへ来るように、来なければもっとひどい目に遭うぞ。もう僕はあの娘に自分で話をするのが耐えられないのだ!――私、絶対にまいりません、うかがうことはできません、そう言って私は上へ上がってクローゼットに籠ってしまいました。力づくで引きずり出されるかもしれない。(298)
 たいへんテンポのいい訳である。こうして本来重苦しくなってもおかしくないこの元祖セクハラ小説は、つねにしゃべりつづけるパミラやその他の女たちのおかげで、「じとっと徳を守る女」のイメージからはおよそかけ離れた、もっと不定形な語りの力を示し続けるのである。私たちの知っている小説特有のメリハリや陰影やその他の技巧は欠いていても、この走り続けようとする語りの力には見覚えがある。こんな形でご先祖さまと出会うなんて、実に楽しいではないか。


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2011年08月16日

『対訳 イェイツ詩集』高松雄一編(岩波書店)

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「〝老い〟という解放」

 英語の詩を読みたい。ひとりだけ選ぶなら、どの詩人がよろしいか?
 ときにこんな質問をもらう。しかし、「ひとりだけ」というのはなかなか難しい。英詩人は個性派揃いなので、できれば軟派から硬派、閑寂から疾風怒濤、変態系からまじめ派まで合わせて読んでもらうのが一番である。でも、とてもそんなヒマはないというなら、では、誰から始めるべきでしょう。

 そんなときに筆者が勧めるのはまずはシェイクスピアの『ソネット集』である。何しろエリザベス朝の詩人だから英語の使い方は古めかしいし、初心者にはやや変態度も強すぎるかもしれないが、とにかく言葉の甘さが圧倒的なのだ。頭がくらくらするほどで、読むだけで虫歯になりそうな気がする。訳や注釈がいろいろ出ているのも助けになるし、これだけ読んでおけば、まあ、「英詩をかじりました」くらいのことは言えるだろう。

 ただ、実は人によっては初体験はこちらの方がお気に召すのではという詩人がいる。アイルランドの詩人W・B・イエイツである。イエイツは若い頃は〝うっとりなめらか系〟の詩人だった。朝だか夜だかわからない黄昏の空気が世界を覆い、うつらうつらとしているうちに、妖精が出てきたり、蜂がぶんぶん飛び出したり。ああ、哀しい、ああ、切ない、ああ、心地良い、と思わせてくれる詩を書いていた。日本でも昔から人気があるのは、この時期のイェイツ作品である。

 しかし、イェイツがもっとおもしろくなるのは、中期、そして後期である。〝うっとりなめらか系〟の詩人が、中年期になるとだんだんイライラしてくるのである。このイライラには焦燥感やら冷笑やら怒りやら自己嫌悪やらいろんな感情が混入していて、おかげでイェイツが元々得意としていた哀切感や甘さの表現にぐっとコクが増してくるのである。とりわけ大事なのは〝老い〟の自覚である。たとえば「釣師」という作品は、幻の釣師のために詩を書こうという宣言とともに終わる詩で、そういう意味では英詩人によく見られる「所信表明の詩」となっているのだが、そこには「老いぼれるまえ」にという焦りが入っている。

そうして私は叫んだ、「老いぼれるまえ、
この男のために一篇の詩を書こう、
おそらくは夜明けのように冷たくて
情熱にあふれる詩を書こう」と。

……
And cried, 'Before I am old
I shall have written him one
Poem maybe as cold
And passionate as the dawn.'(124-127)


 だから詩も、老いつつある中年男ならではの独特の感情を孕んでいる。'as cold/ And passionate as the dawn'(「夜明けのように冷たくて/情熱にあふれる」)というのは、まさにこの時期のイェイツを象徴する表現なのである。冷たいけれど熱烈で、冷笑と興奮との狭間にあって、怒っているんだか喜んでいるんだかわからない、泣いているのか笑っているのかわからない、そういう詩が書かれるようになる。

 おそらく背景にあるのは、イェイツにとっての永遠の女モード・ゴン(Maud Gonne)との関係の変化である。イェイツは写真で見るとなかなか男前だが、モード・ゴンという女性も相当な美人だった(http://www.websters-online-dictionary.org/definitions/Maud+Gonne?cx=partner-pub-0939450753529744%3Av0qd01-tdlq&cof=FORID%3A9&ie=UTF-8&q=Maud+Gonne&sa=Search#922など参照)。イェイツはこのモードにゾッコンになり、永遠の美女として何度も詩に登場させている。ところがモードの方はイェイツをまったく相手にせず、三度のプロポーズを断ったあげく革命家と結婚してしまった。ふたりがあっという間に離婚したのを見て、イェイツはさっそくモードに再求婚したのだが、またまた「ノー」の返事。ついにイェイツはモードの娘にまでプロポーズするが、これもうまくいかなかった。

 しかし、モードに言わせれば、「あたしが拒絶しているおかげであなたは詩を書けるんじゃないの」ということなのである。たしかにそうかもしれない。モードにふられつづけたイェイツは50歳過ぎまで独身で通すが、この「ふられ男のパワー」のようなものがイェイツの詩の原点にはある。革命運動に入れあげたモードは美人は美人だが「あたし、ぐちゃぐちゃ物事を考えるの好きじゃないのよ」などと言う人でもあり、イェイツとは性格が正反対。拒絶することでこそ、イェイツの詩作に貢献したのだとも言える。

 そんなモードとの長いかかわりをへて中年期のイェイツは「イライラ」を発見するわけだが、それは恋愛感情の摩耗ともかかわっていた。イェイツは「モードにふられても前ほどがっかりしない自分」に愕然とするのである。'The Wild Swans at Coole'(「クールの野生の白鳥」)などは、かつてモードにふられて湖の畔でしんみり白鳥を数えたけれど途中でみんな飛んでいってしまった、その同じ場所で、19年をへてまたまた白鳥を数えるという詩なのだが、近眼のはずのイェイツが今回は59羽ぜんぶ数えきってしまったなどというほとんど嘘っぽい設定にもかかわらず、その執念深さのメランコリーが実に味わい深い。対象の喪失よりも、喪失を喪失と感じなくなっていく自分にイェイツは敏感になっていくのである。

 恋愛から自由になった人はしぶとい。不思議なことに、イェイツは年をとればとるほど生命力を増したのである。表向きはしきりに精力の減退を嘆いているが、言葉そのものは若さから解放されてむしろ生き生きとしている。後期イェイツの代表作に「小学生たちのなかで」('Among School Children')という拍子抜けするようなタイトルの作品があって、内容としては、まあ、「詩人はみずからの人生や肉体を犠牲にして、美を生み出すべきなのか否か」というイェイツならではのテーマを中心に据えているのだが、いちいちの連でぎゅっとつまった思弁が繰り広げられていることもあり、なかなかさらっとさわやかに読めるものではない。ところが先に進むにつれ、そのぎゅっとつまった怨念のようなものが段々と煮詰まり、最後は怒りとも悲しみとも喜びともつかない高揚感とともに、ほとんど爆発せんばかりの力が発散されるのである。

魂を喜ばせるために肉体が傷つくのではなく、
おのれに対する絶望から美が生まれるのではなく、
真夜中の灯油からかすみ目の智慧(ちえ)が生れるのでもない、
そんな場所で、労働は花ひらき踊るのだ。
おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお、輝く眼ざしよ、
どうして踊り手と踊りを分つことができようか。

Labour is blossoming or dancing where
The body is not bruised to pleasure soul,
Nor beauty born out of its own despair,
Nor blear-eyed wisdom out of midnight oil.
O chestnut-tree, great rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance? (240-241)


'O'とともに呼びかけの入る最後の四行など、英詩ならではの〝泣き〟というか、小節を感じさせるが、そこで語られるのは単なる哀切感や甘い酔いではない。「踊り手と踊りを分つことができようか」の一節は、詩人は単なる職人であっていいのか?自分の人生を生きなくていいのか?との強烈な問いを悔恨と絶望と昂揚とともに突きつけてきてたいへん力強い。まさにcold and passionateとでも呼びたくなる、節くれ立った興奮なのである。

 そんな節くれ立った生命力が最後の輝きを見せるのは、この詩選集でももっとも後の方に収録されている、詩人最晩年の作品「サーカスの動物たちは逃げた」('The Circus Animals' Desertion')だろう。もう自分には詩は書けない、自分のまわりにはかつて詩の中に登場させたものたちががらくたとなって散らばっている、という詩である。そのかつての登場人物たちに取り囲まれた詩人がいよいよ地面に横たわるという最終連はとりわけ感動的だ。

完璧だからこそ横柄なこれらの幻像は
純粋な精神のなかで育った。だが、もともとそれは
何であったか? 屑物(くずもの)の山、街路の塵芥(ちりあくた)、
古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、
古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて
喚(わめ)き立てるあの売女。私の梯子(はしご)が消えた今は
あらゆる梯子が始まる場所に、心という
穢(けが)らわしい屑屋の店先に寝そべるほかはない。

Those masterful images because complete
Grew in pure mind, but out of what began?
A mound of refuse or the sweepings of a street,
Old kettles, old bottles, and a broken can,
Old iron, old bones, old rags, that raving slut
Who keeps the till. Now that my ladder's gone,
I must lie down where all the ladders start,
In the foul rag-and-bone shop of the heart.(312-313)


 この最後の連のぐしゃぐしゃぶりはどうだろう。とくに'Old kettles, old bottles, and a broken can,/Old iron, old bones, old rags, that raving slut/ Who keeps the till.'(古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて/喚(わめ)き立てるあの売女。)というところなど、かたかたと乾いた音が聞こえてくるかのようだ。無機質で死を予感させる音なのだが、やけに元気でもある。お祭りのようでさえある。干涸らび、枯渇し、もう何もないかもしれないというのに、それをお祝いしている。絶望しながらも喜んでいる。まさにイェイツの老人的生命力の極みではないかと思う。

『イェイツ詩集』中林孝雄・中林良雄訳(松柏社 1990)、『W・B・イェイツ詩集』鈴木弘訳(北星堂 1992)、『イエイツ詩選』尾島庄太郎訳(北星堂 1997)、『イエイツ詩集』加島祥造編訳(思潮社 1997)など、近年も新訳の出続けているイェイツは、当分「気になる英詩人リスト」の上位を占め続けることになりそうだ。


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2011年05月18日

『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ/岸本佐知子訳(新潮社)
『No One Belongs Here More than You』Miranda July(Scribner)


いちばんここに似合う人
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No One Belongs Here More than You
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「いきなり筆で」

 遅ればせながらミランダ・ジュライである。この本、かの「キノベス」でも堂々一位に輝き、すでにあちこちで話題になっている。しかし、こうした熱烈な反応、実は筆者にはやや意外だった。というのも、ジュライの文章の持ち味はなかなか翻訳では伝わりにくいと思えたからである。

 たとえば「階段の男」という作品の冒頭部。深夜、語り手の女性が物音に眼を覚ます。階段に人の足音がするような気がする。それで思わず隣に似ているパートナーのケヴィンの手首を握りしめる、という下りがある。

I squeezed Kevin's wrist in units, three pulses, then two, then three. I was trying to invent a language that could enter his sleep. But after a while I realized I wasn't even squeezing his wrist, I was just pulsing the air. That's how scared I was; I was squeezing air. (33)
I was trying to invent a language that could enter his sleep.なんてことがさらっと言えるところがいい。観念的(to invent a language)だけど官能的(that could enter his sleep)。ボーイッシュで乱暴だけど、急に甘えるような、猫みたいに背中を丸めた言葉遣いになる。

 すごくおおざっぱな言い方だが、英語小説の語りというのは概してテンポがいい。どんどん語り、どんどん進む。ご存じのように日本語の場合は高級感や深刻さを出すために、文章の呼吸を調整しつつさながら間接照明のごとく余韻を使ったりするから、英語とはリズムの作り方が異なってくるのだが、そういう違いを乗り越えて英語の語りを日本語に移すことには翻訳者も慣れている。読み手の方も翻訳文に非日本語的饒舌が入ってくることには寛容だ。いや、日本語そのものがその非日本語的饒舌を模倣することさえある。

 これに対し、ジュライの語りというのは、まさに今の一節がそれをあらわしているのだが、いちいち語り手が「言語を発明」しながら前に進んでいる感じがする。だから、語り口としても言葉が時にボトッと止まったりする。下手に滑走したりしない。この「ボトッ」は日本語的な余韻と似ていそうにも見えるし、違いそうにも見える。

I don't believe in psychology, which says everything you do is because of yourself. That is so untrue. (134)
 たとえて言えば、真っ白い画面にいきなり筆で色を塗っていくような感じだろうか。重ね塗りではない。下拵えもなし。ともかく言ってしまう。それで語り手も「あっ、こんなふうに言っちゃった」なんて思っている。書道や水墨画の筆遣いを想起させなくもないが、それほど〝崇高〟でもない。もっといたずらっぽくて、気まぐれ。そう考えると、この本の訳者として岸本佐知子はこれ以上ないほどぴったりかもしれない。

 上記の二箇所の訳はそれぞれ次のようになっている。

かわりにケヴィンの手首を握ってパルス信号を送ろうとした。まず三回、それから二回、また三回。そうやって、なんとかケヴィンの眠りを破る新しい言語を編み出そうとした。でも気がつくと彼の手首なんか握っていなかった。ただ空気をつかんでいるだけだった。それくらい怖かった。空気をつかむだなんて。(52)
心理学によると、人間の行動の動機はすべて自分自身にあるのだそうだけど、そんなの絶対に嘘だ。(181)
  英語をぴったりそのまま日本語にできるわけがないから、訳者はどこかで決断を迫られる。この部分の英語と日本語を較べると、そのあたりの「決断」として気づくのは、語りの中の「女」の処理である。「空気をつかむだなんて」とか「そんなの絶対に嘘だ」といった部分、思い切って「女」の分量を多めにしたなと思う。ちょっと色気が増した。原文ではときどきブツッと止まったり、「あら?」と振り返ったりするところに「女語り」の色気を出しているが、日本語訳ではそのあたりを「それくらい怖かった。空気をつかむだなんて」とか「……動機はすべて自分自身にあるのだそうだけど、そんなの絶対に……」といった連続感で拾っているところがおもしろい。

 こうしてみると本書の短編はどれも、この「いきなり筆塗り」の語りを生かしている。この「階段の男」でも、足音の話からいつの間にかふたりの性生活に話題が移り(We both fantasize about other people when we're having sex, but he likes to tell me who the other people are, and I don't.というような小ネタが効いている)、さらには語り手の友達関係の話、ガソリンスタンドでの少年との遭遇というふうに、視界をさっと横切るようなエピソードの連続の果てにオチがくる。読んでいて楽しいのはストーリーの展開というよりも、語り手がときおり小声になったり立ち止まったりして差し挟む言葉のひねりや、そこから漂い出してくるこの作家の世界に対する態度そのものである。

『いちばんここに似合う人』に収められた短編を読んでいると、「そう簡単に物語にはなりませんよ」とばかりにプィッと横を向くような負けん気の強い仕草を感じる一方で、語るという行為についての根本的な前向きさのようなものを感じる。とくに「水泳チーム」なんていう作品。80過ぎた老人たちに、洗面器をつかって水泳を教えるという馬鹿馬鹿しい話なのだが、馬鹿馬鹿しいはずの筋なのになぜか盛り上がる。語ることの楽しさのようなものがむくむくと湧きだしてくるのである。

I was the kind of coach who stands by the side of the pool instead of getting in, but I was busy every moment. If I can say this without being immodest, I was instead of the water. I kept everything going. I was talking constantly, like an aerobics instructor, and I blew the whistle in exact intervals, marking off the sides of the pool. They would spin around in unison and go the other way.(17)
わたしは水に入らないでプールサイドに立ってるタイプのコーチだったけど、いっときも休むひまはなかった。偉そうな言い方かもしれないけど、わたしが水のかわりだった。わたしがいっさいを取りしきっていた。エアロビクスのインストラクターみたいに絶えず声を出していたし、きっちり同じ間隔でホイッスルを鳴らしてプールの端を知らせた。するとみんなそろってターンして、反対方向にむかって泳ぎだした。(28-29)
水はないけれど、「わたしが水のかわりだった」(I was instead of the water)なんて随分めちゃくちゃなことを言っているように聞こえるけれど、ジュライの小説を読んだ印象はまさにこれではないかと思う。筋も出来事もかなり大味だけど、一番大事なのは語る「わたし」がいることなのだ。「わたし」そのものが水であり物語であり宇宙である。しかもそれを怒濤のような圧倒的な雄弁で行うのではなく、ちょっと剽軽で、ちょっと意地悪な、ちょっと斜に構えた「わたし」がするところが洒落ている。

 おそらくどの作品にも共通するのは、「恋愛未満」とか「恋愛から外れて」という感覚だ。ちょっと妙で、ちょっとずれている。何か変だなあというそんな直観を、キレのいい言葉でとらえるのがジュライはすごくうまい。

We had loved people we really shouldn't have loved and then married other people in order to forget our impossible loves, or we had once called out hello into the cauldron of the world and then run away before anyone could respond.('It was Romance,' 61)

わたしたちはかつて愛してはならない人たちを愛して、かなわぬ愛を忘れるためにべつの人たちと結婚した。私たちは煮えたぎる世界の大釜の中に向かっておおいと叫び、返事が返ってくる前に逃げ出した。(「ロマンスだった」、89)


People just need a little help because they are so used to not loving. It's like scoring the clay to make another piece of clay stick to it.('Ten True Things,' 138)

人はみな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎていて、だからちょっとした手助けが必要だ。粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいに。(「十の本当のこと」、187)


 収録作品の中でもとりわけお薦めなのは、「何も必要としない何か」(レズビアンの三角関係で敗れた主人公がピンク産業で働く話)、「十の本当のこと」(主人公の女性が上司のパートナー(女性)を誘惑する)、「モン・プレジール」(東洋趣味の男女のややフェティッシュな生活を描く)あたり。実在しない〝妹〟をダシに男が男を誘惑する「妹」はストーリーとしては一番ひねりが効いている。また、手術で除去したはずの痣が後になって浮かび上がる「あざ」は、この短篇集にはめずらしく寓話的だ。


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2009年12月24日

『初夜』イアン・マキューアン 松村潔訳(新潮社)

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「乗り遅れた60年代」

 これだけ主人公をおちょくっておいて、しっかり感動的な小説として仕上げてしまうのだからたいしたものだ。原題はOn Chesil Beachだが、邦訳は『初夜』。このややストレートな邦題が示す通り、エドワードとフローレンスの初夜の出来事を描いた作品である。焦点となるのは、ふたりの性。

 エドワードはちょっと血の気の多いところもあるけれど、大学では歴史を学んだごくふつうの青年。十代のはじめに性にめざめてからは、マスターベーションを欠かしたことがない。しかし、初夜を前にして、なんと一週間も我慢した、という。何しろ、フローレンスは堅い女性なのである。エドワードはにじり寄るように進むしかなかった。10月にはじめて彼女の裸の胸を目撃。だが、手で触れることを許されたのは12月19日。実に2ヶ月かかった。2月にはじめてのキス。しかし、乳首に触れるまでにはさらに3ヶ月。それだって唇でちょっとさわった程度。下手に先走ると、何ヶ月もの慎重な努力が水の泡となることは経験上わかっていた。『蜜の味』(A Taste of Honey)なる映画を見に行ったときに、劇場で思わずフローレンスの手をとって自分の股間にあててしまったのは大失敗だった。彼女は完全に引いた。あのために何週間分、逆戻りしたことか…。

 一方のフローレンス。実業家の父と大学教師の母とを持つ彼女は、音楽家志望で友人と弦楽四重奏団を作っている。グループではリーダー格。音楽のことになると、実に冷静かつ的確な判断を下すことができる。しかし、男性については未経験。興味もなかった。いや、相手を好きにはなる。エドワードを愛しているのは間違いない。でも、身体のことは耐え難い。エドワードの望みをかなえるように、少しずつ門戸を開いてきたけど、エドワードはもっと、もっと、と言ってくる。どうしても嫌なのだ。自分はいったいどうしたらいいのか。

 そしていよいよ初夜。フローレンスは覚悟を決める。食事もそこそこに彼女は自らエドワードの手をとってベッドへと導く。「おヨソ」用の靴を自分で脱ぎ捨てる。ところがここで事件が起きる。フローレンスを抱き寄せたエドワードは、空いている方の手でそのワンピのジッパーをはずそうとするのだが、これが片手ではどうもうまくいかない。しかし、もう一方の手はフローレンスを抱き寄せるのに使ってしまっている。フローレンスは内心思う、あたしが助けてあげるべきかしら…、と。でも、それはまずいわ、というのが慎み深い彼女の判断だった。エドワードは片手で孤軍奮闘、ついにジッパーは布地を噛んで、ドレスは永遠に脱げなくなってしまった。

 しかし、エドワードは事を進める。その手が伸びてくる。小説家の描写も徹底的に「じらし」の戦術を使う。原文も引いておこう。文末の句が実に効いている。

...she could imagine, she could see, precisely his
long, curving thumb in the blue gloom under her
dress, lying patiently like a siege engine beyond
the city walls, the well-trimmed nail just brushing
the cream silk puckered in tiny swags along the
line of the lacy trim, and touching too -- she was
certain of this, she felt it clearly -- a stray hair
curling free.
いや、実際に見えるような気がした。城壁の外で待ちかまえている攻城兵器みたいに、それは忍耐強くじっと待っていた。きちんと手入れされた爪が、レースの縁取りに沿って小さなひだをつくっているクリーム色のシルクをかすめ、はみ出している縮れ毛にふれていた――それは間違いなかった。感触ではっきりそうとわかった。

エロチックと言うよりはコミックな場面かもしれないが、小説ではここがひとつの転機となる。この一本の毛の感触を通し、彼女ははじめて自分の欲望に目覚めかけるのである。これであたしもみんなと同じようになれるのかしら…そんな想いをフローレンスは抱く。

 次のステップである。いよいよ彼の硬くなったモノの感触。でも、不思議と嫌ではない。まだ見るのはぞっとしないけど、今までのような気持ち悪さはない。彼女の思いはひとつになる。とにかく、彼に満足を与えたい。そうすることで、彼にもっと深く愛されたい。彼女は自らの手で彼のモノを導く。そういうところで、いちいち、気の利いた一節が挿入されているのがマキューアンの魅力だ。

She was pleased with herself for remembering that
the red manual advised that it was perfectly
acceptable for the bride to 'guide the man in.'

花嫁が「男性に手を添えて導き入れる」のはまったく差し支えないことである、とあの赤い手引き書に書いてあったが、その助言を覚えていたのがわれながらうれしかった。

しかし、運命は過酷なものだった。彼女は心に決めたとおり、進もうとする。こんな妙なもの、犬や馬についているならまだしも、人間の大人にあるなんて信じられないわ、などとの想いを抱きつつも、彼のモノをおっかなびっくり、しかし最大限の注意を払って自分へと運ぶ。指でかるくさすったりしながら。しかし、これが仇となった。とくに、おっかなびっくりの手つきは致命的だ。あの「一週間も我慢」もよくなかった…。

 というのが、この小説のメインプロットである。『人のセックスを笑うな』という小説があったが、『初夜』の「性」は、あきらかに笑いが先に立っている。それにしても、今時、こんな「恥ずかしいセックス」はないだろう、と思う人もいるかもしれないが、まさにそこがこの作品のポイントなのだ。作品の舞台は1960年代の初頭。作品でまちがいなく意識されているのは、フィリップ・ラーキンの有名な「驚異の年」('Annus Mirabilis')という詩だろう。次のように始まる作品だ。

Sexual intercourse began
In nineteen sixty-three
(Which was rather late for me)--
Between the end of the Chatterley ban
And the Beatles' first LP.

セックスは1963年にはじまった、という。そこが分水嶺で、その以前には『チャタレー夫人の恋人』の発禁があり、その後にはビートルズのデビューがあった。カッコの中の台詞がおもしろい―「僕にはちょっと遅すぎた」というのだ。つまり、1922年生まれのラーキンは、「60年代」には乗り遅れてしまったのである。

60年代に起きたさまざまな「解放」の中でも、とりわけ大事だったのは、性の抑圧からの解放だった。そのことをめぐる悲喜こもごもは、60年代に青春を送ったひとたちにより、嫌というほど語られてきた。しかし、同時にそこには「乗り遅れた」人たちがいた。そのちょっと前に青春を送ってしまった人たち。ちょっと前の常識から結局、自由になれなかった人たち。

 おそらく文学とほんとうに馴染みがいいのは、この「乗り遅れ」の感覚ではないだろうか。人間や人生を、お祭り騒ぎの騒音の中でではなく、地味に、静かに、微細さのうちにとらえるのは文学の得意技のひとつ。『初夜』が小説として立ち上がってくるのも、この「乗り遅れた」苦みにフォーカスをあてるときである。エドワードとフローレンスの何ともいじましい「初夜」は、ふたりの一生に大きな影響を与えることになるのだが、そんなことがあんな風にありえたのも、まさに「解放」前夜だからこそなのだ。

 小説は、初夜の場面を中心に描きながらも、あちこちにフラッシュバックを挿入していく。ときに「やりすぎではないか?」と思わせるほど悪のりした技巧を見せるマキューアンの筆裁きだが、フラッシュバックされる情景で重いもの、苦いもの、悲しいものを書き込む際の抑制の案配はさすがである。おかげで、表の喜劇と裏の悲劇が、クライマックスでついに合流して、何とも言えない余韻を残す作品となっている。こんな訳しにくい技巧派小説をきちんと訳した訳者も立派だと思う。


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2009年10月20日

『Julius Winsome』Gerard Donovan(Faber)

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「ゼリー状の夢をぷちっと破って」

 この語り手、少し変ではないか? と思わせる小説は日本語でもよくある。へらへらと饒舌だったり、京都弁だったり、怒りっぽかったり、子供っぽかったり。「変な語り手」を設置することで、読む側からすると、語りが壇上からこちらに降りてくるような気がする。親しみやすい。でも、そのせいで、あてにならないとも聞こえる。何だ馬鹿馬鹿しい、読むだけ無駄、と思われるかもしれない。私たちは小説の文章には、ほんとうは君臨してもらいたい。すべてを信じたいし、だまされたい。

 難しいところである。語り手の信憑性を揺るがせば、リスクも大きくなる。親しみやすい語り手といっても、権威を欠いたら意味がない。しかし、中にはまったく逆方向の「変さ」もある。反対の意味でのリスクを取る小説。親しみやすいどころか、強面で、屈強で、神秘的。殻に隠って、閉じた語り手。自分で自分にむかって呟く語り手。この『ジュリアス・ウィンサム』はまさにそういう作品である。何しろ、この小説の語り手は連続殺人犯。舞台はアメリカ北部のメイン州で、その深い森の小屋に彼は一人きりで暮らす。執着気質で思いこみが激しく、人ともまじわらない。語る言葉は所々おかしい。教養もない。

 しかし、ふつうの意味での教養はないが、彼の小屋には父から譲り受けた本が三千冊ほどある。彼のお気に入りはシェイクスピアのソネット。だから、一見、舌足らずに聞こえる英語なのに、ときどき17世紀の言葉がまじったりする。素朴かつ単純な語りは、エレガントとも雄弁とも言い難いのだが、しばしば自然そのものと混じり合うかのような、やさしい美しさを見せる。あらゆる構えを取り去ったかのように、静かに、ソフトに、裸になるような言葉だ。それから、もうひとつ。彼はライフル射撃の達人である。ほんとうに人間を仕留めたいときは歯を狙え、と言われるが、彼は半マイルほど離れたところから、ターゲットの歯を打ち抜くほどの腕を持っていた。

 物語はスリラーめいた筋立てになっている。ある日、ジュリアス・ウィンサムの愛犬のホッブスが、何の前触れもなく、何者かに射殺される。深い森にはほとんど人気がない。彼の小屋は、ただ一軒孤立して立っている。ホッブスは至近距離から打ち抜かれていた。きっとなつくようにして吠えながら近づいていったに違いない。唯一の友人を失ったジュリアスは、次第に悲しみから怒りと憎しみにとらわれていく。町に出て、犯人の情報を求めるポスターを貼るが、そこには心ない落書きが…。

 ジュリアスの中で何かが変わる。彼は復讐の鬼と化し、森で猟を楽しむ男たちを次々にライフルで狙う。このあたりの描写は作家ドノバンの腕の見せ所で、銃の照準越しに交錯する視線の緊張感に、ジュリアスの妙にイノセントな自然意識がかぶさるあたりは実に見事である。荒涼とした死の風景が、「変な語り手」特有の視線を通過することで、不思議な詩情を醸し出すのである。

 やがてジュリアスは、はたと真犯人に思い当たる。それは意外にも女性だった。それもかつて彼を愛した女である。森の中に迷いこんできたクレアは、孤独に慣れ、ひとりきりで暮らしていくことに何の苦労も覚えていなかったはずのジュリアスにはじめて「寂しさ」を思い知らせた女だった。ホッブスを飼うことを進めたのもクレアである。まさか、という思いの中でジュリアスは揺れる。そうして物語は、クレアの周辺から更なる展開を辿ることになる。

 こうして粗筋だけ見ると、心理サスペンスと読んでもいい作品と思える。たしかにそういう側面もあるのだが、何より読む者をとらえるのは「森」の匂いである。

There is a day, an hour when winter comes, the second
it slips in the door with its weather and says, I am here. If
snow falls early enough, it drifts down into red forests and
piles along lakes ringed with blue ice, but the visit is
temporary: the white handprint of north vanishes with
the next sunny day, polished off the hills and trees of
Maine by the cloth of sunshine, the blow of warm fall
breath on wood. If late, winter arrives on the back of
a windstorm that blows every color before it but white,
while under it, lakes turn to frozen spit and bare trees
split, cracked open, and the forests stretch up to the
shivering lit skin of the northern lights.

きらびやかな表現で飾ろうとするのではない。写実的に冷たく見定めようというのでもない。ジュリアスの目は森に親しげに寄り添うが、そうして森を人間化するというよりは、おとぎ話めいた柔和な衣を頼りにしつつも、むしろ死の世界に通ずるような冷たい自然にたどり着くように思える。『ウォルデン』のソローをはじめとする、アメリカの森の作家達の系譜も、その背後には見えるだろう。

 野心的な小説である。アイルランド出身のドノバンが、アメリカ的な自然や人間観に安住することなく、しかし、アメリカをその芯のところでとらえるような森の神話を作り上げた。その成功の秘密は、やはり、この分裂的な「変な語り」を最後まで生かしたことにあるだろう。ひどくやさしく情緒豊かになるかと思うと、不意に血も涙もない殺人鬼と化す。人間や生命を慈しむ目が、一瞬の後には、機械のように精密な視線で獲物を狙う。奇妙なほどの論理へのこだわりがあるかと思うと、恐ろしく脈絡のない、矛盾に満ちた行動に走る。この危ういバランスが、まさに森そのもの。そこでは恐怖と安逸とが、硬いものと軟らかいものとがつねに混じり合っている。

 そんな状況をよく表す一節を最後に引用しよう。いつも切りつめた言葉でしゃべるから、その言葉を水で割らないとこちらも理解できないというジュリアスの父の口を通して、祖父の戦争体験が描写される。

That's it, a gun leaves a battle loaded with dead men.
Your grandfather must have seen so many times their
faces through the telescopic sights, the surprise on the
face of the man he shot that he was shot,
that he was shot and not the man next to him or someone
way down the line or on another battlefield altogether,
so much surprise that those men crawled twenty years
toward him with their fingertips, and when they got to him
he was lying asleep in his bed, so they pressed those
fingers into his dreams and punctured them like wet jelly,
entered into those dreams and stood up and he saw them,
all of them, in that jelly, in their uniforms, sick to their
boots of the long journey into his dreams. And then
they pointed those fingers at him and said, Remember
me? You killed me.

殺した相手が亡霊となって現れるという妄想は珍しいものではないが、「ぬるぬるしたゼリーのような夢をぷちっと指で突いて破り、こちらに侵入してくる」というような描写は、そう簡単にできるものではない。限りなく器用で、繊細で、精密な文体を操るドノバンだが、この作品ではその精密さを存分に生かしながら、むしろ言葉の不自由さを書ききっている。不自由な言葉と、あやういバランスを取る精神を通して、眩暈がするほど生々しい感覚をとらえているのである。



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2009年01月26日

The White Tiger (邦題『グローバリズム出づる処の殺人者より』鈴木恵訳 2月刊予定) Aravind Adiga (アラヴィンド・アディガ)(Free Press)

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「いかにして私はボスを殺害したか」

 昨年来話題の水村美苗『日本語が亡びるとき』。筆者も友人から「読め、読め、読め、」と言われて半分くらいまで来たところだが、今回のアラヴィンド・アディガ『ホワイト・タイガー』は、まさに水村的な文脈で読みたくなる作品かもしれない。

 舞台はインド。語りは回想記の形をとり、貧困層の出身で、さる金持ちの運転手として働くことになった主人公バルラムが、底辺の生活を送るうちにいくつかの魂を震わせるような出来事をへて、ついに決定的な選択をする、という筋書きである。英語が話せないという設定の主人公の語りは粗雑で、気まぐれで、無教養。だから小説の出だしは何となくがちゃがちゃした印象があるのだが、実はその「英語のできない語り手の語り」を表す英語そのものは意外にニュートラルかつクリアで、出だしの喧噪がおさまった中程あたりからは、次々に生起する「事件」につり込まれるようにして読んでしまう。

 さまざまな事件の果てにくるもの。バルラムの決定的な選択とは、殺人であった。
 バルラムの雇い主アショークは、脱税の便宜をはかってもらうために政治家への裏金を赤いバッグに詰めこんで運んでいる。ホンダ「シティ」にその裏金を積み込むのを手伝うこともあったバルラムは、周到な計画を建てる。ここで象徴的な役割を果たすのが、ジョニー・ウォカーの空き瓶である。インドのブラックマーケットでは、有名ブランドのスコッチの空き瓶にいい値がつく。中味を入れ直せば、高く売れるからだ。欧米国際資本の先兵となったインド経済の、その繁栄の危うさを示唆するような話である。

 バルラムの運転するホンダ・シティにもジョニー・ウォーカーの空き瓶がころがっていた。アショークのビジネス仲間が乗り込んできて、「なんだ、お前、車の中に酒もないのか!それじゃ、装備不足だぞ」と持ち込んできたものだ。バルラムはその空き瓶を、人気のない駐車場で叩き割る。高級ウィスキーの空き瓶は、まさにその頑丈さゆえに、ぎざぎざのついた怖ろしい凶器へと生まれ変わる。

 決行に至るまでの日、バルラムは、これから自分に殺されようという雇い主アショークの、驚くほどの「鈍さ」に打たれる。目の前に座っている運転手が、自分を殺害して金を奪い取ろうとしていることに気がつかない鈍感さ。自分を人間扱いしていない証拠か。それどころか、である。次にあげるやり取りは、ドライなブラックユーモアとセンチメンタリズムとの間を行ったり来たりするこの小説に、何とも言えない哀切感がほの見える箇所かもしれない。

What is it, Balram?
Just this, sir ― that I want to smash your skull open!

He leaned forward ― he brought his lips right to my ear ― I was ready to melt.
"I understand, Balram."
I closed my eyes. I could barely speak.
"You do, sir?"
"You want to get married."
"…"
"Balram. You'll need some money, won't you?"

「どうかしたのか?」と訊かれて、思わず「あんたの頭をかち割ってやりたい!」と本音を言ってしまうバルラム。それをアショークは「これを聞いたら、頭がぶっ飛びますよ」程度の意味と勘違いし「なんだ、そういうことか」などと応ずる。アショークはこともあろうに、バルラムが結婚すると思ったのだ。そうか、結婚か、なら金がいるだろう…と。何というおめでたさ!

 さらにその次の一節がとてもいい。ここまでくると、完全にブラックユーモアモードに逆戻りである。

I saw him take out a thousand-rupee note, put it back, then take out a five-hundred, then put it back, and take out a hundred.
Which he handed to me.

なら金がいるだろう、と太っ腹な愛情を示したアショークだが、財布をひろげてから、千ルピー、いや、五百ルピー、あ、やっぱり百ルピーとだんだん格下げして、結局よこしたのは百ルピー一枚! こういうところを読むと、つくづく英文学だなあ、と思ってしまう。

 いかにして私は金持ちのボスを殺害したか――それがこの小説の明白なテーマである。ひき逃げをしたボスの妻の身代わりを強要されるあたりからはじまって、じわじわと殺意が募っていく、そのプロセス。もちろんそれは個人的な体験として書かれるのだが、作品の強みでもあり、弱みでもあるのは、実際にはこの殺意にそれほどの個人性が感じられないということだろう。バルラムの殺意は、村や貧困層の全体を背負ったものとして書かれ、だから、読者もそこに『罪と罰』的な内省を読むかわりに、共同体の祭儀のようなものを読む。多用される動物のイメージともあいまって、寓話的とも、おとぎ話的とも、ファンタジー的とも呼べそうなストーリー展開は、その焦らしも含めて、ほぼ「見え見え」(predictable)なのだが、それでもなお読ませるのが筆力というものか。ところどころに挿入される脱線めいた場面も読み所である。

 次にあげるのは、獣の足跡を追っていったバルラムが、真一列にならんでウンコをしている労働者たちと出逢う場面である。まるで石の像のように動かず、しゃがんでいる男たち。バルラムもつられるようにしてしゃがみ、にっと笑いかける。すると…。

 A few immediately turned their eyes away: they were still human beings. Some stared at me blankly as if shame no longer mattered to them. And then I saw one fellow, a thin black fellow, was grinning back at me, as if he were proud of what he was doing.
Still crouching, I moved myself over to where he was squatting and faced him. I smiled as wide as I could. So did he.
He began to laugh ― and I began to laugh ― and then all the crappers laughed together.

 目をそらす者。ぼうっとこちらをながめる者。ところがひとりだけ、バルラムに笑い返してくる者がいた。痩せて、色黒。ウンコしながらも、「どうだ」とばかりに堂々とした様子である。バルラムはさらに近づいていって、満面に笑みを浮かべてみせる。男もさらに大きく笑顔。ふたりが笑いをはじけさせると、ついにほかの男たちも笑い始める。
 いざ、殺人、という直前に、こんな場面があったりする小説なのだ。

 インド人は籠のニワトリだ、と語り手は言う。次に殺されるのが自分だとわかっていても、反乱もおこさなければ逃げ出しもしない。ただ、だまって指をくわえて自分の番を待っている。運転手だって、一ルピーやそこらの小金はすぐくすねるくせに、何百万ドルという大金が目の前にあっても手は出さない。

 そういうインドの民衆が閉じこめられている闇を告発するかのような、一種の変形リポルタージュと読めてしまうところがこの作品にはある。「英語ができない」という設定の語り手でありながら、だんだんと明晰な、いわば「ふつうの英語」へと収束してしまう文章。これ、誰の英語?と思わないでもない。インドに生まれながらもオーストラリアで育ち、米コロンビア大と英オックスフォード大に通ったという著者の略歴を見るまでもなく、どこかに優等生臭を感じざるを得ないのは確かである。果たしてアディガは、水村流に言えば、「普遍語」たる英語にとりこまれた作家の典型なのか。

 2008年度のマンブッカー賞受賞作だが、文体が魅力という作品ではない。同じブッカー賞の候補だった、たとえばセバスチャン・バリーの方がよほど端正な文章を書く。ただ、文体どうこうにかかわらず確実にファンをつかんでいった大先輩ディケンズのような存在が英文学にはいるし、紋切り型の展開に、ブラックユーモアを山ほどつめこんで、何だかお腹一杯にさせてしまう物語の力みたいなものは、それなりに大きな声としてこちらに訴えかけてくる。こういう小説を読んでしまう気分というのは、多くの人が持っているのではないか。

(なお、『日本語が亡びるとき』は「書評空間」では大竹昭子さんが取り上げておられる)。


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2008年10月17日

『乱視読者の英米短篇講義』若島正(研究社)

乱視読者の英米短篇講義 →bookwebで購入

「明晰な情事」

 大学生にお薦めの批評入門第二弾。文学とのお付き合いの方法がわからないという人には、是非手にとってもらいたい一冊である。いわば恋愛指南の書。

 著者はこの何十年、文学という異性とさまざまな形で付き合ってきた。声かけ(ナンパ)や、十年越しの片思いや、別れや、喧嘩や、場合によって悲恋や、あるいは思わずこちらが赤面するほどのディーーーーップな秘め事もあった。いやあ、先生、お盛んですな、と思わず言いたくなる。しかし、そんなに情熱的で経験豊かなのに、まるで何事もなかったかのように淡々と、明晰に語ってみせるところが何よりすごい。ほんとうの淫乱とはこういうものかと思う。

 著者の若島正は、英文学界では知らない人はいないほどの学者だが、果たして一般にはどうか。渋谷のセンター街で道行く女子高生に「若島正って誰?」と聞いても、ちゃんとした答えを返してくるのはせいぜい10人中1~2人くらいだろう。未熟者め!と思う。

 しかし、若島正の魅力は、決してポップにはならないところにこそある。なぜポップにならないかというと、若島正はいつもほんとうのことを言うからである。批評めいたものを一度でも書いたことのある人なら経験があると思うが、書くという作業には、どこかでウソをつくことでつじつまを合わせて、それでやっとほんとうのことを言う、というような側面がある。別に悪いことではない。それは会社経営に喩えるなら、一方で借金して、その借金を投資に回すことで利益をあげる、というようなやりくりと似ている。

 いや、本書も完全な無借金経営ではない。思わせぶりな謎かけや偶然の出遭いはお手の物。「ふふふ。もうおわかりかと思うが…」なんていう明智小五郎みたいな台詞も頻出する。いずれも、経験豊かな京風遊び人ならではの恋愛「テク」の一端だ。そこにはほどよいウソが紛れこんではいる。

 しかし、肝心のところで甘くは落とさない、つまり、ウソをついてまで無理矢理盛り上げたりしないのが若島流なのである。次にあげるのは、おそらく本書の中でももっとも感動的な一節である。

 わたしには人間がわからない。人間のなかでもとりわけ女性がよくわからない。  たぶん、子供のころから将棋盤の上の世界に取り憑かれていたせいなのだろう。盤上で駒たちが形作る複雑な磁場や、抽象的な数学が、自分にとっては一番しっくりくる世界なのだ。ところが、人間たちが織りなす心理模様となると、突然わからなくなる。人間によって構成された社会の力学には、まったくと言っていいほど関心がない。文学をやりはじめたのは、そうした歪みをいささかなりとも矯正したいという自己治療の意味合いが大きかったのかもしれない。それでも、やはり人間というものがよくわからない。他人というものに興味がなくて、自分自身のことばかりを考えているのは、一種の病いなのだろうかとよく思う。
 あまりに本質的なことを言われてしまって、どう反応していいかわからないくらいだ。渋谷センター街のヤンキー女子高生よ、よく聞け、と言いたい。

 この一節、本書のかなり後の方に出てくる。私たち読者が若島流の文学遊びを堪能したあとに、とどめの一撃のようにして繰り出される言葉なのだ。「あとがき」に、もとの雑誌連載時には編集長の津田正氏(このブログのお隣さん)に尻をいじられながら、そそのかされるようにして書いたとある。だとすると、この一節は著者自身にとっても、ようやくどこかに辿りついたような感慨とともに思わず書いたものなのかなという気がする。こんなことを、こんなにあっさりとわかりやすく言ってしまう書き手を、信用しないわけにはいかないでしょう、ということだ。怖い人だな、とも思う。こういうところを出発点にしている批評――あるいはいっそ「文学」と言ってもいいのだが――は、ちょっとやそっとではへこたれない。

 本書は、文学を隅々までわかってしまった人の自伝的自慢話的「お講義」などではないのだ。人間も世界もよくわからないで、日々冷や汗を書きながら生きている人が、いかに文学作品と情事を重ねることで、世界をいわば裏側から理解してきたかを語る書物なのである。

 だからこそ、どの章もいきなり作品の話からはじまるのではなく、著者若島正を起点にすることで、じわりそろりと始動するという体裁をとる。この書評もついつい著者のことばかり書いてしまったが、そもそもがそういう本なのだから仕方がない。全体は、英米それぞれ12の章と、「シニコー夫人への手紙」と題された秀逸な「おまけ」からなるが、作家名で言うと、アメリカ編ではアンブローズ・ビアス、ジョン・アップダイク、ウラジミール・ナボコフといった有名どころの間に、コンラッド・エイキンやシャーリー・ジャクソンといった名前ががひょろっと入っていたりする。イギリス編ではもう少し偏愛性が強く、ウィリアム・トレヴァーやH・G・ウェルズ、ヴァージニア・ウルフ、ジェームズ・ジョイスの狭間に、A・E・コッパード、ショーン・オフェイロン、フラン・オブライエンといった作家が並ぶ。

 批評の方法としておもしろいのは、若島氏が下手に読者に語りかけたりしないことだろう。説得なんか興味ない。言いっぱなし。やりっ放しである。ふだんの講演でもそうなのだが、若島氏の話術というのは、いろいろと仕掛けがあるにもかかわらず、まるで独り言のように聞こえるところにある。文章は誘惑的に読みやすいのだが、こちらは誘惑されていることに気づかない、そんな文章だ。

 一箇所、読んでいて「え?」と思うのは、著者が「わたしは文章が書けない」と述懐するところである(ギャスを扱った章)。まさか、と、まあ、思う。しかし、これはつまらない謙遜などではない。この一節に触れてからあらためて気づくのは、若島氏がリズムに乗って語ることのウソっぽさに敏感だということだろう。よけいな比喩もつかわない。(比喩を使うときには照れまくりなところもおもしろい。「陳腐な比喩で気が引けるが、もぎたての桃をかじるような、そんなみずみずしさがオフェイロンの文章にはみなぎっているのである」というような一節、たいへんいいです)

 すでに引用した箇所だけでも十分おわかりいただけたかと思うが、今時めずらしいほど、たたずまいの立派な文章なのである。凛としている。走らないし、揺れない。踊らない。ごまかさない。だから、短いスペースの中でも、鋭く作家の急所が突ける。ためしに覗いてみるなら、まずは「ちぎれた足」と題された最終章のジョイス論をお薦めする。ジョイスは若島正にとっては、永遠の恋人などでは決してないのだが、にもかかわらずずっと気になっているという実に微妙な作家である。その章の中で若島はこんなことを言う。

わたしには、この退屈なダフィー氏という人物がよくわかる。なぜなら、わたしもまた彼そっくりに退屈な日常を送る男だからである。まるで鏡を見ているような気がするほどだ。こういう人間が退屈な日常を逃れようと思えば、おそらく銀行員をやめるしか手はない。そうすれば、グレアム・グリーンが傑作『叔母との旅』で描いたような、心躍る冒険が待っているのかもしれない。しかし、それは小説の中だけでしか起こらない出来事であり、現実には残念ながら、こういう人間は永遠に銀行員でありつづけるしかないのである。それがダフィー氏の宿命だ。言葉を誤解されたと受け取って人間関係の絆を自ら断ってしまう、それがダフィー氏の限界だ。
こういう一節を読んで、こんな文章は書けないであろうわたしたちも、つかの間、若島正と同一化して「まるで鏡を見ているような気がする」と思ったりする。それが批評というものの不思議な作用であり、治癒力なのだろう。

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2008年10月04日

『The Natural』Bernard Malamud(Farrar Straus & Giroux)

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「野球格差」

 文学関係者の間ではよく、「文学がわかる奴」と「文学がわからない奴」の線をどこで引くかが話題になることがあるが、そう言えば、かつて日本の小学生男子は「野球をする者」と「野球をしない者」とに分割されていたと思う。いわゆる「野球格差」である。

 ゴムボールによる草野球であれば、だいたい双方五人くらいいると、「透明ランナー」や「投げあてアリ」といったルールを使わなくてもいいような、そこそこもっともらしいゲームができる。あと2~3人欲しいというとき、誰に声をかけるか?そういうとき、「非野球者」は対象外となる。

 実際にその「野球っぷり」を見ないまでも、「非野球者」は顔でわかるとも言われていた。まあ、天体観測が趣味であったり、山岳部に入っていたり、将棋がやたらと強かったりする人が「野球者」である可能性は低い。小説を読むのが好きだったり、女の子に詩を書いて送ったりする人間は、どんなに基礎体力があっても(反復横跳びが速いとか、バク転ができるとか)、決して野球者にはなれないとも信じられていた。

 こう考えてくると、後に大人になって文化の中枢を担うことになるような男子は、子供のときはだいたい「非野球者」だったのではないかとも思えてくる。差別的で、封建的で、野蛮で、群衆的で、五分刈り的な「野球者」の共同体には、あまり文化の香りがしないのだ。

 日本でも評価の高いアメリカ作家、バーナード・マラマッドのデビュー作は野球小説だった。1952年の出版だが、80年代に映画化されてすっかりポピュラーになったので知る人も多いだろう。今でもメジャーリーグでは、小説の主人公ロイ・ホッブスをニックネームとしてつけれられる選手がいるくらいである。

 しかし、あの禁欲的で、正確で、皮肉の効いた文章の達人マラマッドが、いくらデビューするために出版社に認められる必要があったとはいえ、野球のことを書くとなるとここまでするのか、と思わせるくらいに、この『ナチュラル』という小説は漫画チックである。数ある野球漫画を私たちはすでに読んできたが、まるでそのまんま。

 主人公のロイは、30代半ばでメジャーデビューをする。そのプロ初打席。手に握るのは、雷に打たれた木を自分で削って作ったという「ワンダーボーイ」と称する怪しげなバット。しかし主人公がひと振りすると、放たれたボールはマウンド付近を襲う。かろうじて投手がグラブに収めたのはボールの皮だけで、何とボールの芯は遙か彼方まで飛んでいきました、というような場面が平気で起きる。ありえない。

 ある批評家が言っているように、『ナチュラル』はアメリカ版アーサー王伝説なのだ。ワンダーボーイは、アーサー王の魔法の剣エクスカリバー。王が傷だらけになることもまた、神話らしさを深める。冒頭で謎の女に銃弾を撃ち込まれる主人公ロイは、奇跡の復活を果たすも、ふたたび女にかどわかされ、最後は心身ともに傷つき、一度手にした栄光さえも失ってしまう。

 この小説、映画化は84年だが、もっと早く映画になってもおかしくなかったと思えるくらい、映画的シーンがふんだんにある。出だしは、たまたま同じ電車に乗り合わせたメジャーリーグMVP三度というスラッガーが、ロイに挑戦するというシーン。信じられれないような剛速球でロイは、このスラッガーをきりきり舞いさせる。しかし、ここから彼の運命が変わる。スポーツ選手の襲撃に快楽を見出す殺人鬼ハリエットは、このシーンを見て、ロイをターゲットとすることに決める。彼を部屋におびきよせ、いきなりピストルを取り出す。

 怪我から復帰してメジャーリーグデビューするまでに実に15年。弱小チーム・ニューヨーク・ナイツ(Knights、つまり騎士団)で何とか選手登録し、訝る監督の信頼を得て試合に出場しはじめると、ロイは驚くべき活躍を始める。そのプロセスでナイツの中心選手バンプがフェンスに激突して死ぬ、などという出来事があったりもする。そのバンプの残された恋人に、ロイは惚れてしまう。命取りになるのは、この片思いである。

 ギャンブルあり、買収あり、暴露あり。野球と闇社会とのつながりも、思い切り派手に描かれるし、悪役の描き方も徹底している。ストーリー展開は実にスピーディー、かつ暴力的なほど、単純。キャラクター描写とか、内面の掘り下げなどは後回し。

 しかし、なぜか読んでいて許せるのは、やはり野球と漫画の相性のよさゆえか。「ピッチャー投げました! あ、あ、何と言うことでしょう! こんなことがあっていいのでしょうか・・・!?」というシーンを、私たちは何度となく野球漫画で読んできたが、そういう懐かしいいかがわしさの源流がここにあるのだ。

A pitch streaked toward him. Toomey had pulled a fast one. With a sob Roy fell back and swung.
Part of the crowd broke for the exits. Mike Barney wept freely now, and the lady who had stood up for Roy absently pulled on her white gloves and left.
The ball shot through Toomey's astounded legs and began to climb. The second baseman, laying back on the grass on a hunch, stabbed high for it but it leaped over his straining fingers, sailed through the light and up into the dark, like a white star seeking an old constellation.
Toomey, shrunk to a pygmy, stared into the vast sky.

「観客が席を立ち始めたまさにそのとき!ピッチャーの股間を抜けたボールは天高く舞い上がり、夜空の星座の一部となりました・・・」(やはり基本はセンター返しなのだ)。野球俗語をふんだんに用い、語りのスタイルもその俗語のノリに合わせて粗っぽくしてある。そのガタゴトした語りの中で、あり得ない神秘の瞬間を幾度となく描くというところに、中世ロマンスと野球ロマンスの接点が見られるようだ。


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2008年07月17日

『For All We Know』Ciaran Carson(Wake Forest Univ Pr)

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「現代風ソネット」

 英語圏の現代詩というと、どうしてもアイルランド方面に目がいってしまう。現存の詩人では、骨太さと感覚美の同居するイーヴァン・ボーランド、意味不明の快楽を官能的に味わわせてくれるメーヴ・マッガキアンなど、すぐに名前があがってくる。イエイツから始まり、トマス・キンセラからシェイマス・ヒーニーにいたるまで20世紀の文学史にはアイルランド詩人の名前が頻出するが、その背景には歌うことを愛し、個人が詩を朗読したり出版したりすることを受け入れてきた風土がある(そのあたりは栩木伸明『アイルランド現代詩は語る』(思潮社)に詳しい)。

 キアラン・カーソンもまた、若くして古典化しつつある詩人のひとりである。言葉を魔術師のように扱える人で、ゲール語からの翻訳にも意欲的。まだ60になったばかりで、実験精神も旺盛。1993年にT・S・エリオット賞を受賞したFirst Language『第一言語』やその後のOpera Et Cetera『オペラその他』では、アイルランド古来のバラードに使われた韻律法をもとに、英語詩に新境地を切り開いてきた。その特徴は長い行からなるカプレットで、一例をあげると次のようである。

F stands for forceps, or rather a wrench with adjustable jaws. I rubbed
The milled-edge Zippo callus on my thumb, and felt that everything was dubbed:
Fは鉗子 もしくは調整可能なレンチ
ジッポの端のぎざぎざで親指を容赦なくこすり なめらかに仕上げた気分

口のうえで言葉を転がすように読むと、心地良さがよくわかる。口の粘膜をくすぐるように、短い音節がくちゃくちゃとぶつかりあう感じが楽しい。童謡を思わせるテンポの良さは、「意味の呪縛」から離脱する軽さがあればこそだろう。

 しかし、今回とりあげるFor All We Know(『たぶん』)の実験は、またひと味ちがう。恋愛詩という設定なのだが、それをソネット連作という形でやろうという。ソネットは14行からなる英詩の形式である。イタリア起源で、16世紀にイングランドに輸入されるとまもなく大ブームとなり、宮廷詩人の誰も彼もがソネットを書いて当時のエリザベス女王のご機嫌をとろうとした。ソネット連作もこの頃流行したもので、いくつものソネットを連ねてぼんやりとストーリーを浮かび上がらせるソネット・シークエンスと呼ばれる作品がいくつも書かれた。

 ソネットが語るのは、何より恋愛である。それも貴婦人に愛を捧げるという「宮廷風」恋愛のパタン。語り手の男は従僕であり、とにかく女性のこの世ならぬ美しさをレトリックを駆使して褒めそやす。ソネットという枠の中なら、言葉は徹底的に甘く官能的になることがゆるされた。その極地を行ったのがシェイクスピアの『ソネット集』である。(ただし、お相手が女性ではなく、美青年であるところがおもしろい)

 今どき、ソネットなんてなあ、と思わないでもない。何しろ、口が曲がるほど甘いのがあたりまえ。エリザベス朝の文学習慣は今のものとはぜんぜん違っていたのだ。「褒めること」「心地よくさせること」が文学の目的で、今のように苦いもの、辛いもの、嫌なものがどんどん書かかれるということはなかった。今の私たちは文学に甘い嘘よりも、苦い真実を求めるのだろう。甘い嘘なら、文学でない場所にいくらでもあるから。

 カーソンも恋愛詩は苦手らしい。それでいろいろためして書いたようだが、エリザベス朝のソネット連作とは全然ちがうものになった。そもそも14行(もしくは二倍の28行)という枠は守ってはいても、エリザベス朝期のソネットに特有の、囲い込むような密集感はない。二行連句が続くが、韻は踏まないし、むしろ何となく散逸的なのだ。レトリックも抑え目。語り口は素っ気なく、「熱烈さ」があるんだか、ないんだか。というか、全体に冷えた感じがする。

 むしろこれらのソネットに恋愛詩らしいたたずまいを与えているのは、舞台に選ばれたいくつかの場所 ― 東西分断の痕の残るドレスデンやベルリン、60年代のパリ、紛争時のアイルランド ― の荒廃とメランコリーだろう。恋愛特有の物憂げさと、場所の重さとがかさなってくる。
 
 しかし、冷え切った恋愛を書くための詩ではない。荒廃した場所に降り積もる塵埃を通して見えてくる何かがある。

I thought for a split second I'd seen your Doppelganger.

As it were. For when he glanced up and met my eye, his face
was unreadable. It was as if he had just come to

as you had gone away. What is it in us that makes us
see another in another? All the way to Dresden

I could see you when I shut my eyes, remembering you
as you were ― this wordless annunciation of youself

clothed momentarily in the body of another,
thinking in another language had you been spoken to ―

as strange to me as when I first saw you in your own flesh,
as we go with each other as we have done, fro and to.


激しくも甘くもないけれど、「ドッペルゲンガー」を通して浮かぶのは、じわっと静かな執着である。息がとても近い。淡々とした語りに、放したくない、という切ない気持ちが刻まれている。'this wordless annunciation of yourself/ closed momentarily in the body of another'(言葉もなしで、あなたが来たとのお告げ 別人の身体に束の間、あなたは宿る)などという一節、さりげなく書かれているが、カーソンらしい「一筆書き」調がたいへん小気味良い。

 ソネット風なのに、むしろ散文調をいかした作品である。ちょっとミステリアスな暗さもある。ストーリーがあるのか、ないのか、恋愛ものにありがちな過剰さはなく、しっとりと窪んでいる。つい取り逃がしてしまいそうな密かな恋愛である。


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2008年04月30日

『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』ホイットマン 飯野友幸訳(光文社)

おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)

→『おれにはアメリカの歌声
が聴こえる―草の葉(抄)』
Leaves of Grass
→“Leaves of Grass”

「ホイットマンをゆるす」

 ホイットマンの名を聞いたことがないという人は少ないだろう。英語圏の詩人の中では、おそらくシェイクスピアについでもっともよく知られた存在である。小説中心の「古典新訳文庫」シリーズでも、ただひとり詩人としてラインナップに名前を連ねている。

 しかし、ホイットマンの詩はあんがい読むのがむずかしい。言っていることがわからないのではない。いや、言ってることはわかるのに、なおわからないところが難しいのである。たとえば「古典新訳文庫をかたっぱし読んでやる!」とやる気満々の人がいたとする。そういう人が、「あ、ホイットマンがいる。そうか詩か。よし、読むぞ!」と思ったとする。しかし、もし「そうか詩か(どんと来い!)」と意気込んだとしたら、すでにホイットマンはうまく読めなくなる可能性がある。

 そもそも詩というのは、読む前にこちらが「読みのモード」を切り替えないとうまく世界にはいっていけない、ということが多い。シェイクスピアのソネットであれば、小さい部屋で熱い言葉をかわすわけだから、それなりの身繕いというか、ツメを切ったり、歯を磨いたり、という気持ちが大事になる。『失楽園』のように、悪魔がうようよ現れて大演説会を開いたり、魔王がヘリコプターみたいに空から舞い降りてきたりする作品の場合は、まずは雨戸を閉めて部屋を暗くし雰囲気を出すのもいい。

 モードの切り替えが忙しいのは躁鬱系の詩人だ。たとえばワーズワスなどは突然落ち込んだかと思うと、何の前触れもなくはしゃぎだし、歩き出し、山にのぼり、わけのわからない哲学を開陳して、あげくには涙ながらに岩だの木だの川だのに感動して、興奮の頂点にのぼりつめる。これなら、ひたすらめそめそするのが得意なテニスンのような詩人の方が、まだ付き合いやすいかもしれない。が、いずれにしても、こういう詩人たちは「よし、ではおつき合いしましょう」というこちらの心構えに、それなりに答えてくれる。どこかに連れて行ってくれはする。

 ではホイットマンはどうか? この人、モードということで言うと、明らかに「躁」である。暗い内容のはずなのにやけに明るい。何でもかんでも、大きな声で言ってしまう。まずここが、「そうか詩か。よし、読むぞ」という意気込みとそぐわない理由のひとつである。詩を読む人には、たいがい「まじめオーラ」のようなものが出ている。筆者も、自分でそれに気づくことがある。少し神経をぴりっとさせ、口数少なくなり、煩悩苦悩を忘れ、下手をすると眠りに落ちそうにも見える。ほんとうに寝ちゃったりもする。

 この「まじめオーラ」は実際に効果があるのだ。悪魔の大演説会であろうと、哲学ハイキングであろうと、こちらの心に受け皿をこしらえてあげるのが大事なのだが、そのためには自分の意識を抑え、鎮め、灰色の地のようなもの――「心の沼」のようなものを用意すればいい。これが詩を読むための器となる。そうすると意識の圏域から片脚だけでも外に出すような、意識と意識の外側とのあわいに遊ぶような心地に至ることができる。

 こうした「まじめ」の根本にあるのは、「静けさ」だろう。灰色で、地味で、波風の立たない空っぽさ。ところがホイットマンという人は、はじめからそういう「まじめ」の外にいるようなのだ。その代表作「おれ自身の歌」の出だしはこうだ。

おれはおれを祝福し、おれのことを歌う。
そしておれがこうだと思うことを、おまえにもそう思わせてやる。
おれの優れた原子ひとつひとつが、おまえにもそなわっているからだ。

何だか雑で、いい加減。騒々しく、図々しい。これが詩かよ、と思う。ただ、そう思いつつも、あれ、こういうのもありかな?という気にもなる。百年にひとりくらい、こういう人がいてもいいのかな、という寛容な気持ちが芽生えてくる。自分の図々しさを突きつけつつも、「まぁ、いいっか」とこちらに思わせるような、素っ頓狂で、天然で、アク抜けしたような饒舌。どうやらホイットマンを読むとは、こうしたホイットマンらしさのようなものを「ゆるす」ということのようなのだ。筆者の知人がある著名な学者の文章について「不愉快寸前」という絶妙の形容をしていたが、ホイットマンについてもこの表現を借用したくなる。「寸前」のところで、ゆるすのだ。

 私たちが「まじめ」に詩を読むとき、そこには頭(こうべ)を垂れて相手の門を叩く、という姿勢が織りこまれている。詩に限らず、多くの読書はそういう体験であろうし、私たちが「読む」という行為に期待するのはそういうものなのだ。頭を垂れるのは、そう難しいことではない。もちろん、ホイットマン門の前で頭を垂れるのも可能なのだが、多くの人は途中で「何だ、こいつ」と我慢できなくなる。「こっちが下手に出てると思って、いい気になりやがってぇ」と思う。

 見ての通り、今回の飯野訳では若い頃の詩は一人称が「おれ」になっていて、一瞬たじろいだ。「<おれ>かあ…」と思った。正直、今まで筆者が持ってきたイメージとは違う。しかし、飯野訳を通して読んでいくと、「おれ流」の一貫した文体効果が感じられてくる。「おれ」ならではの、荒っぽさやわざとらしい強引さ、そして何より、詩とは思えないほどの構えのない、準備のない、あけすけでスキだらけで、まるっきり空気のよめていない愚鈍さと、テキトーさと、鬱陶しさとが、妙に爽快に感じられてくる。

おれは肉体の詩人であり、おれは精神の詩人だ、
天国の喜びはおれとともにあり、地獄の痛みはおれとともにある、
おれは天国をおれに接木(つぎき)して繁茂させる、おれは地獄を新しい言葉に翻訳する。

おれは男の詩人であるとともに女の詩人でもある、
そしておれにいわせれば、男であることと同じくらい女であることもすごい、
そしておれに言わせれば、人の母であることほどすごいものはない。

おれは拡大と矜持(きょうじ)の賛歌を歌いあげる、
もう逃げたり、人をけなしたりするのはやめた、
おれは証明してやる、時間がたてば大きくなるんだと。


面識もないエマソンに自分の詩集を送りつけ、好意的な返事が来るとそれを勝手に新聞に転載したりするのがホイットマンという人であった。空気が読めないのはまさに地なのである。臆面もなく、自分の本を書評して褒めたりする。もちろん詩の中でも自分を賛美する。

ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙、マンハッタンの息子、
荒々しく肉体的で官能的で食って飲んで子をつくって、
感傷にひたることもなく、男たち女たちに威張りもしない、冷たくもしない、
謙遜でもなければ不遜でもない。

私たちはふつう、図々しい人やがめつい人というのは嫌いなものだ。理由は簡単で、そういう人は私たちに損をさせるから。被害を与えるから。本能的に私たちはそういう人を避ける。だけどなぜかはわからないが、私たちには、そういう人の中でもとりわけ札付きの者を異端として祭りあげ「ゆるす」ことを喜ぶ気持ちもある。ふつうは嫌だけど、たまにはいい。ごく稀に、「異端」として注目してみると何とも言えない愛嬌を発揮する人がいるのだ。だから「いけ、いけ、もっとやれ、」と思ってしまう。ホイットマンの奴、実はそんなこと、わかっていたのかなとも思う。それなら、なおさらゆるし難い厚かましさだ。だからよけい、ゆるすのも気持ちがいい。

 ホイットマンというと、すぐ英詩の革新者とか、自由詩の創始者などと技法的な面が言われることが多いが、これほど詩人本人の鬱陶しさが露出する詩人も珍しいと思う。ギンズバーグなんて足元にも及ばない。

 飯野訳には英語原文もおまけでついているので大変便利である。是非、英語も参照しながら読んでもらいたい。そして最後まで読んだら、次はより分厚い岩波文庫版〈上〉〈中〉〈下〉を手に入れ、ペンギン版を注文し、と先に進むといい。最後に英語原文からの引用をひとつ。

I do not press my fingers across my mouth,
I keep as delicate around the bowels as around the head
and heart,
Copulation is no more rank to me than death is.

I believe in the flesh and the appetites,
Seeing, hearing, feeling, are miracles, and each part and tag of me is a miracle.

Divine I am inside and out, and I make holy whatever I
touch or am touch'd from,
The scent of these arm-pits aroma finer than prayer,
This head more than churches, bibles, and all the
creeds....

もしホイットマンが愚かに見えるとしたら、それはおそらく、ここまで堂々と「賢者の言葉」を語ってしまうからだろう。賢くみせようとする言葉は、しばしば愚かしく見えてしまうものだ。しかし、同時に、堂々と愚かになれる言葉には、ほんのたまに――ごくごく稀に――すごい迫力が宿る。この絶妙のバランスを実現する人は、そうはいないのではないか。


Leaves of Grass『おれにはアメリカの歌声が聴こえる―草の葉(抄)』岩波文庫版『草の葉〈上〉』岩波文庫版『草の葉〈中〉』岩波文庫版『草の葉〈下〉』


2007年10月28日

『The Zoo Father』Pascale Petit(Seren)

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「英詩の二大派閥」

 筆者の専門は英米詩研究なので、たまにはこの方面の本を取り上げてみよう。

 英詩の言葉遣いを思い切り単純化して、ざっくりふたつの流派に分けるとどうなるか。一方は滑らかでつるつるして口当たりの良い「流麗派」、もう一方はごちごちして、どたばたとうるさく落ち着かない「喧噪派」となるかもしれない。

 流麗な詩は読んでいて気持ちがいい。安心できるし、陶酔感にもひたれる。が、酔っぱらったときにあまり頭が働かないのと同じで、陶酔したまま語れる内容となると、どうしても制約が出てくる。言葉を流麗にするためには、いろいろと犠牲を払わなければならないのだ。

 これに対し、喧噪派の詩の特徴は、何でも言えるということだろう。喧噪派の詩人は難しい理屈を述べるかと思うと、怒ったりわめいたりする。あるいは常人には思いつかないような突飛なことを口走る。異常心理あり。人格分解・崩壊あり。要するに雑音や不協和音までとりこんで詩に変換してしまうのだ。肉でもパンでも靴でも放り込んでしまえる鍋のような詩。

 史上最も有名な喧噪派は17世紀のジョン・ダンという詩人である。この人の詩では愛し合う恋人同士はコンパスになっている。だからふたりが近づくと「おっ立つ」。離ればなれでも、真ん中の「彼女」がしっかりしていれば、男の方はきれいな円を描いて元の場所に戻ってくるさ、なんていう、どこまで本気なのかわからないことをべらべらとしゃべる詩である。

 流麗派の詩を読んだあとにダンの詩などを読むと、何だかぜんぜん耳に馴染まなくて、すごく変な感じがする。違和感が強くて、どう乗っていいのかわからない。で、やだなあ、と思って投げ出すとそれで終わりなのだが、「そうか、この<変な感じ>そのものを味わえばいいのか」という境地にまで達すると、何かすごく珍しい世界に足を踏み入れるような、ぞくぞくっとする興奮が感じられてくる。アクの魔力とでも言おうか。こうなると流麗派の詩では物足りなくなる。(ダンの詩は、岩波文庫の湯浅信之訳『ジョン・ダン詩集』をはじめ、数多く翻訳されている)

 英詩の歴史とは、流麗派から喧噪派へと覇権が移るプロセスだったと言っても過言ではないと思う。日本の現代詩もそうかもしれないが、詩というものは先鋭になればなるほど、方法について意識的になったり、様式や言葉そのものの破壊にむかったりと、どうしても「喧噪」に傾くものだ。変態自慢とでもいうのか、「こんな事もやれるぞ」、「これならびっくりだろ」という風に、神経を逆撫ですることに血道を上げるようになる。詩に限らず、文学というものに人が求めるのは、ただ、うっとり安心することよりは、ちょっとざらついたり、毛羽だったりすることなのかもしれない。

 筆者もひたすら流麗なだけで歯ごたえのない詩というのは、あまり楽しめない。ただ、たいへん流麗で気持ちいいわりに、何だか変なことを言ってる、という作品がたまにある。今回掲げたのはそういう作品である。

 著者のパスカル・プティーはフランス生まれのウェールズ育ち。彫刻家でもある。The Zoo Fatherというタイトルは、『動物だらけの父』くらいのニュアンスだろうか。というと、何かほのぼのしているように聞こえるかもしれないが、この詩集に収められているのは父を呪い殺すような作品ばかり。いや、呪い生かす、と言った方が適切か。

 どうやら語り手の父には死期が迫っているらしい。ベッドに横たわった父を看病しながら、語り手は父の醜悪な行動や、忌まわしい過去を、誘惑的なまでに流麗で、甘美で、官能的な言葉にくるみ込むようにして語っていく。流麗な言葉の最大の魔力は、それがつるつるっと麺みたいにつながってしまうということである。その麺に引き寄せられるように、語り手の想像力は増殖する。

 たとえば「父の身体」という作品。出だしは「あなたの手を握りつつ、あなたが強姦魔だったことを思うと・・・」とはじまる。「あなたの頭が縮まるだけでは十分ではない」のだと語り手はいう。だから自分の彫刻家としての技術を使い、身体全体を「縮めてあげる」という。ここからはさながら黒魔術の世界で、火山の熱だの、火の川からの水だの、河床からの砂だの、と材料を揃えたあげく、首から胴、脚にかけて父の身体の皮を剥ぎ、肉を投げ捨てて動物たちに与える、といった話になる。が、その言葉が実に繊細で、やさしく、流麗なのである。

I'd use volcanic heat,
water from Fire River,
hot sand from its bed
and I'd sing to my materials.
They'd sing back, glowing.
Even Jivaro headhunters
would be shocked at how easily
I'd slit the sides of each limb,
peel the skin from your neck
and torso down to your feet.
How I'd discard your meat
and ask all my animals
if they were hungry.

 英詩を読み慣れた人なら、父を呪う作品というとDaddy, daddy, you bastard, I'm throughと終わるシルヴィア・プラスの「ダディ」を思い出すかもしれない。プラスは現代詩人の中でも喧噪派の最右翼で、とくに「ダディ」はその絶叫調が呪術的な域にまで達したものである。喧噪派の詩人というのは、ダンにしてもプラスにしてもエゴがたいへんに強く(なぜでしょうね?)、そのあたりに辟易する人も多いのだが、プティーの詩はここがよくわからない。プラスはときに雑で、破れかぶれなところもあったが、プティーは言葉を徹底的に磨き、つるつるにしたうえで、口元には笑みさえ浮かべている感じがする。いたずらにしては結構本気っぽくも見えるし、ときどきやけにお父さんにやさしくなるのが、また不気味でもある。いずれにしても、ジャングルの動物たちが父の病室に現れてくつろぐというイメージは、たいへん強烈であった。

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2007年08月24日

『To the Lighthouse』Virginia Woolf(Penguin)

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「ご婦人対おやじ」

 日本でもファンの多いヴァージニア・ウルフ。神経を病み自死を遂げた悲劇の小説家というイメージが強いが、いたずらっぽくておしゃべり好きなところもあった。『灯台へ』は『ダロウェイ夫人』とならんでその代表作。今回、ゆえあって読み返したのだが、筆者はやっぱり『灯台へ』派だ。とても良い。

 ウルフの小説というのはだいたいそうなのだが、この作品、ぷんぷんと匂い立つような雰囲気にあふれている。薄らパステルカラーとでもいうのか、どこを向いても真っ白とか真っ黒というのはなく、何となく色に染まっている。何となく香り立っている。そういう世界はくどくて嫌だ、という人には向かないかもしれないが、でも、そういう世界をいっちょ体験してみっか、という気があるなら、是非手にとってもらいたい。ラララ~とかすかな鼻歌が聞こえてくるような世界だ。(翻訳も御輿哲也訳『灯台へ』(岩波書店)や、伊吹 知勢訳『燈台へ』(みすず書房)などいくつかあるので参考になる。ちなみに『ダロウェイ夫人』の方も、丹治愛氏による最新訳をはじめ数点ある)

 『灯台へ』は、元祖「何も起こらない小説」のひとつだ。灯台へ行くのか。行かないのか。天気はどうだろう。きっと雨だ。何しろスコットランドというところは、快晴の日が一年に2~3日しかない。風が強くて、年がら年中霧が出たり、雨がふったり、陰鬱な天気では世界のトップレベルだ。舞台になっているHebrides(「ヘェッ!ブルディーズ」という感じで発音する)は、ただでさえブリテン島の上の方にあるスコットランドの、さらに上の方にある島々の名称で、名前を聞いただけで「ああ、遠いなあ、寒いなあ、天気が悪そうだなあ」という印象を受ける。

 ラムジー家はここに別荘を持っている。主は哲学者。奥さんは専業主婦。子供が八人。さらに友人やら、風来坊やら、未婚の画家やら、弟子やらが出入りし、ちょっとしたサロンが形成されている。語りは、ラムジー夫人を中心にすえつつも、実際には「主人公」がいるのかいないのかわからないつるつるした身動きの良さで、「灯台へ行くのか行かないのか」と逡巡する登場人物たちの心象風景を描いていく。

 作品は1927年の出版である。ちょうどモダニズムの盛期で、この作品も斬新な実験小説として読まれることが多かった。そのせいもあり、フェミニズムや言語理論などによって、いろいろと理屈をつけられがちだが、硬く考えることはない。土台になっているのはご婦人たちの心の中で展開される、とりとめのない「おしゃべり」なのである。やるのかやらないのか、言うのか言わないのか、ああだこうだとやっているうちに限りなく境界があいまいになる。具体的だった話が急に形而上学に飛躍したり、うっとりと叙情的になったりする。愛すべきラムジー夫人や画家のリリーは、頭の中がつねに「おしゃべり」を遂行しているような人たちで、想像力と連想力と脱線力とがあふれんばかり、あれこれと言葉が言葉を、イメージがイメージを呼ぶ。論理的説明や段階的発展はストーリーの上でもほとんどなく、転換はだいたい唐突に起きるし、人物たちの思考も「思いつき」によることが多い。

 だから油断していると、何の話だかわからなくなる。Sheって誰だっけ?場所はキッチン?あれ、今、夜だっけ?などなど。だいたい小説というのは大船に乗ったような気持ちで読めるはずのものだ。一二行読み飛ばしてしまっても、まあ、大事なことが起きるときにはわかるようになっている。ちょうど野球中継のように。ついつい餃子とビールに注意が行っても、「ああっと、ランナーのタイロン・ウッズが挟まれました。ばかですねえ」とアナウンサーが知らせてくれれば、ちゃんと試合に戻ることができる。

 ところがこの小説ではそもそも実況中継というのがあてにならなくて、しゃべっているのがアナウンサーなのか、登場人物なのかわからないし、いつの間に人物が入れ替わったりもする。ただ、繰り返すが、こうした入れ替わりが難しげに行われているわけではなく、いかにもご婦人の「おしゃべり」にありがちな気安さと、気品と、甘さと、繊細さと、ちょっとした意地悪さに特徴づけられている。単語もやさしい。婦人たちは少し行き詰まると「あらら~」とばかりに感極まって、急に愛のことを語ったり、人生の意味を訝ったりし、そのあげくに投げ出すようにしてイメージを霧散させる。でも、評者が「いいなあ」と思うのはたいていそういう所だ。うわぁーっと伸びをして血がめぐるような、不思議な解放感がある。

 ところでこうしたご婦人の「おしゃべり」と明確なコントラストをなして、この小説のもう一方の極にあるのが、「おやじの思弁」である。「おやじ」とは一家の主で哲学者のラムジー氏。理屈っぽくて、現実的で、自己憐憫的。妙に高尚で、言葉には慎重。詩にはうっとりするよりも、いちいち感動する。偉そうなのだ。いつもつまらなそうにむすっとしているが、たぶん誰よりも長生きするに違いない。とりわけ「おやじ」なのは、空気が読めないところ。ジェームズの灯台行きの希望に冷や水を浴びせ、自分の靴がいかにすばらしい革で作られているかを得々とリリーに説明する。ラストの感動的なシーン、いよいよ灯台に船が到着、というところでは、急に「腹減ったな」とサンドイッチをむしゃむしゃ食べ始める。実に愛すべき「おやじ」なのだ。

 この作品には誰のものともしれない「おしゃべり」が蔓延し、究極の権威としてのこの「おやじ」に対して意地悪に振る舞いつづけるが、でも、最後にはすべてをゆるしているのかなという気もする。わかりあえないけど、まあ、いいかというぐらいの緩さがある。舞台は「ヘェッ!ブリディーズ」だが、実際のモデルはウルフがいつも夏を過ごしたぽかぽか暖かいコーンウォルのセントアイヴズだと聞くと、そうか、とも思う。どきっとするほど悲しいことや、辛いことや恐ろしいことも書かれているのだが、全体を寛大さとぽわぽわした雰囲気とが包んでいるところが洒落ている小説だ。


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