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2014年03月27日

『ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎』富士川義之(新書館)

ある文人学者の肖像 ― 評伝・富士川英郎 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「父という謎」

 運営者の紀伊國屋書店さんのご事情でまもなくこのサイトは閉鎖されるとのこと。評者の欄も少しずつ店じまいモードになるかと思う。これまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

 今回とりあげるのはやや珍しい「評伝」である。評伝の対象は著者の実父。しかも父が自らの父――つまり著者にとっては祖父――について語った記述も出てくる。富士川家は游、英郎、義之、と代々続いた学者の家系なのである。

 著者の富士川義之はワーズワスからラスキン、ペーター、ナボコフ、さらには現代作家や日本文学まで翻訳や研究を行ってきた英米文学者である。その父英郎はリルケやホフマンスタールなどドイツの詩人や、江戸漢詩の研究で知られた人。さらにその父の游は『日本医学史』などを著した医学史研究の大家だった。実は医業を営んでいた游の父の雪(すすぐ)もたいへん教養の深い人物だったようで、こうした家系を見渡すとほとんど宿命めいた富士川家の知との因縁を感じずにはいられない。

 しかし、本書の眼目はこの知性あふれる一族の華々しい活躍や業績を描くことにあるわけではない。主に富士川英郎に焦点をあてながら、気むずかしい人だったというこの学者の家庭や職場での佇まい振る舞いを、最後までなかなか父に対し心を開けなかったという息子の目や、知人の証言をもとに解明しようとした一種の探求譚なのである。本書をつらぬいてあるのは、父という「謎」をめぐる息子の戸惑いや、反発や、拒絶であり、しかし、それが頁を追ううちに穏やかな理解や平安のようなものに変貌していくさまが感動的でもある。

 おそらく字面に表れている以上に、著者にとって父親の存在は厄介なものだった。「父とわたし」と題された最終章には、こんな記述がある。

母のたっての希望もあって、わたしは結婚を契機に両親の家の庭の一部をつぶして、そこに小さな安普請の平屋を借金して建てたのだが、その家に住むようになってから、深夜まで仕事をしたあと、父の書斎から庭に漏れる明かりを覗きこむことがどういうわけか習慣になった。まだ明かりがついているのを見ると、もう少し頑張ろうかと、再び机に坐り直すこともたびたびあった。そうして明け方まで仕事をつづけることも少なくなかったのである。(三九六)

 面と向かって厳しいことを言ったり、抑圧的な振る舞いをしたりということはそれほどなかったにせよ、著者の内面にはこのような形で父がしっかりと居座っていたのである。この本を書くことで、著者は悪魔払いめいたことをしようとしたのだろう。これまで語りえぬままにきたものを何とか言葉にしようとする様子もあちこちで見られる。しかし、にもかかわらず、最後まで語りつくせなかったものもあったようだ。呪縛はそう簡単にはとけない。

 富士川英郎とはいったいどんな人だったのだろう。著者は、かつて父の生前にはなかなか頁をめくることできなかったというその著作をあらためて紐解き、また日記や友人たちとかわした私信なども参照しながら、少しずつその像を再構成していく。旧制高校生時代には萩原朔太郎に手紙を出して返事をもらうなど、大胆かつロマンティックなところのある文学青年でもあったが、物心ついた著者の目から見ると、父はいつも孤独で、どこか不機嫌そうだった。東京帝大を卒業後、岡山の旧制高校にドイツ語教師として赴任、しかし校長とそりがあわずに佐賀に「左遷」されるなどという事件もあった。

 この時期のことは『思出の記』という英郎晩年の著書に詳しく描かれている。本書のなかにもいくつかその抜粋があるのだが、これが実にすばらしいのである。ここに引きたい部分はいくつもあるのだが、とりわけ印象に残ったものを一つ記そう。時期は戦中。ちょうど英郎が佐賀に赴任したころの記述である。

久留米はその前の日に空爆をうけ、全市が一面の焼野原となって、無事に残っている家は一軒もないような有様であったが、私はその余燼がまだ到るところでくすぶっていた街を通って久留米駅まで歩いて行った。そしてプラットフォームだけ焼け残っていた駅にたどり着いたときには、すでに日がとっぷりと暮れていたので、私はその夜をそこで明かすつもりで、プラットフォームに坐りこんでいたが、小一時間もそうしていると、「汽車が来た!」と誰かが叫ぶ声がした。はっとして起ちあがると、闇のなかから巨大な黒い獣かなんぞのように、一台の汽罐車が、空から見つけられるのを恐れて、すべての灯りを消したまま、煙突からも僅かあかりの煙を吐きだしながら、しゃわ、しゃわとゆっくり近づいてきたのであった。この汽罐車は数両の貨車を曳いていたが、これはもちろん客車の代用で、私はそこに居合わせた数人の人たちといっしょに、その暗い貨車に乗りこみ、ずっと起立したまま、佐賀に帰ってきた。(110)

 富士川英郎とはこういう文章が書ける人だったのである。この一節を見ただけでも、その独特な世界とのかかわり方、距離感のようなものがよく伝わってくる。著者はそのあたり、次のような見方を披瀝している。

父にとって他者とか人間関係という問題はあまり興味もなく、大して現実感も持っていなかったのではなかろうか。これはたぶん他者や人間関係を描くことを基本とする小説に対してほとんど全く無関心であった理由のひとつだろう。現実や他者をとらえ、深く掘りさげ、記述することに専念する小説的思考に親しむといった形跡はほとんど見出せないからである。(409)

 たしかにそうなのだろうと思う。このように世界との間に距離感を持つ人は、饐えたような匂いを放つ人間関係の網の目に首を突っ込んだりはしないのだろうなと思う。人間同士の汚れたかかわりあい方や、情念の絡み合いに興味を抱くというタイプの人ではなさそうだ。そのかわり、騒々しい箇所などは軽く飛び越えて、もっと人間の奥底の部分を鋭くとらえる目をもっていた人なのではないか。

 英郎は、医業とかかわりの深い家系に育ったこともあり、語学教師をやりながら文学研究にふけっている自分を「おれは片輪だからな」と自嘲をこめて語ることが多かったという。リルケの研究ではかなりの業績は残しているものの、ドイツ文学研究から江戸漢詩の研究へと軸足を移してからの方がどこか満ち足りた風であったというのが著者の見解である。晩年には「やぐら」をめぐることを趣味にしていたという。「やぐら」とは鎌倉時代から足利時代にかけての武士の墓窟で、英郎の住んでいた鎌倉の山にはそれが数千は残っていた。それを日々徒歩でめぐり、いったいいくつあるのか勘定するのを日課としていた。著者は父のそんな「やぐらめぐり」の背後にあったのが、二重のノスタルジアだったのではないかと想像する。

「お塔やぐら」にいたるえも言われぬほど静寂なこの谷戸を歩いていると、「いつも涙がでるほどなつかしい」と言う。四、五十年前、関東大震災以前の鎌倉の山には、いたるところにこのような秘境があったことを想起するからである。「お塔やぐら」との出会いは、こうして中世だけでなく、失われた自分の過去との、自分の少年時代との結びつきを確かめさせずにはおかないものとなってゆく。(四二一)

 本書は英郎の幼年時代から説き起こした本格的な評伝である。伝記ではなく評伝である。だから、英郎がリルケ研究に力を注いでいた時代を記述するとなれば、関連する概念や思想を丁寧に解き明かし、漢詩研究の時代に進めば、森鴎外や松本清張など参照しながら徹底的に漢詩人に付き合い、游をめぐる描写では医学史の問題にも果敢に踏みこむ。資料的価値も高い。しかし、その土台となるのはやはり著者と父との微妙な関係ではないかと思う。その部分があればこそ「父という謎」に私たちも共感する。他者に関心がなく、わずらわしい人間関係を超越した世界を逍遥していたとも思える父とは対照的に、息子はそうしたわずらわしい世界のわずらわしさと向き合い、父英郎をその中心に据えて人間の人間らしさを記述することに力を注いだ。そうか、こんな人がいたのだなあ、とその生々しい感触を筆者はたしかに読み取った。


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2014年03月02日

『セラピスト』最相葉月(新潮社)

セラピスト →紀伊國屋ウェブストアで購入

「評伝にはしない」

 ノンフィクションというジャンルの可能性を感じさせる一冊である。
 日本におけるカウンセリングのあり方を取材した本書は、内容からすれば、たとえば中井久夫や河合隼雄の評伝としてまとめられていてもおかしくはなかった。かなりの部分は、中井や河合が統合失調症患者の治療の現場で果たした革新性を強調することに割かれており、最相氏自らがいわば実験台となって中井氏の「風景構成法」による診断を受けるあたりは、資料的価値も大きい。

 しかし、最相氏はあくまでカウンセリングというテーマにこだわった。もしこの本が評伝として書かれていたなら、おそらくカウンセリングをめぐるさまざまな問題意識は、中井久夫や河合隼雄といったカリスマ性に満ちた〝偉人〟の、人生の物語に吸収されてしまっただろう。それだけ二人の人生にはあっと驚くような、そして濃厚な、エピソードがあふれているということでもある。本書でもそうした物語が排除されているわけではないのだが、著者の眼はつねに別の一点をも見据えている。

 それはカウンセリングの根本的な「うさんくささ」ということである。著者は終始この疑念を捨てない。そもそもカウンセリングの歴史はそれほど長いものではない。アメリカでこの言葉が使われるようになったのは20世紀はじめ。日本にもまもなく紹介され、第2次大戦後に本格的に導入されることになる。ただ、長らくカウンセリングには、カウンセラーが相談者を教え導く「善導」という考えがあった。そういう思考法を根本から変えたのが、河合隼雄であり中井久夫だったのである。

 彼らの方法の支えとなったのは「箱庭療法」と呼ばれる診療だった。セラピストが箱庭を用意し、そこにクライアント(患者)がおもちゃを入れていく。そうすると患者にとってうまく言葉にならないものが、無理に言葉にしなくても、この箱庭を通して表に出てくるというのである。河合隼雄は「見ただけでわかるという直感力がすぐれている」日本人には、箱庭療法の可視性がぴったりだと直感し、いち早く国内での治療に導入した。

 この療法にはひとつ鍵となることがあった――これは河合や中井の診療法の全体にもかかわることで、本書の最大のテーマでもある。セラピストがいかに黙るか、ということである。セラピストの沈黙は、それまでの「善導」とは対極にある姿勢だった。診療する側はあくまで患者の言葉が出てくるのを待ち、無理強いしたり、介入したり、やたらと解釈を加えたりはしない。大事なのは、表に出されたものを共有すること。

 こうまとめると、現代人の多くは「それはすばらしい」と安易に賛成するかもしれない。「他者の声に耳をすませる」といったフレーズは今、とても耳に心地良く響く。しかし、ことはそう単純ではない。一口に沈黙と言っても、ただ黙っているというのとはちょっと違う。上手に黙るのである。しかも簡単で明快なマニュアルがあるわけではない。だから実際の診療は、それぞれのセラピストのやり方におおいに依存することになる。黙る、待つ、という方法論にはじめは納得した人も、診療の現場で不安に思ったり、疑念をいだくこともあるだろう。そして、ときにはそんな疑念があたっていることもある。また、「箱庭療法」はとくに統合失調症の患者には、たいへん危険な作用をおよぼすことがあるという。使い方によっては、人の秘密をのぞくことにもつながるし、さまざまな負の側面も想定されるのである。

 最相のスタンスが効力を発揮するのはそのあたりである。「カウンセリングはうさんくさくはないか?」という疑念を最後まで手放さずに語りつづけることで、著者は「箱庭療法」や、これと組み合わせて使われる「風景構成法」を成功物語や魔法の治療法の一部として示すのではなく、うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない、しかし、それまで問題にされなかったものに到達する可能性をもった何かとして描き出し得ている。

 とりわけ注目すべきは、最相の声の重ね方である。ノンフィクションがさまざまな証言の集積を土台として組み立てられるのは当たり前のことだが、しばしばそこには強力な物語が生じてしまう。つまり、証言の数が多くても、そこにわかりやすい筋書きが見えてしまうことがままある。では、相対立する証言をぶつけあえばいいかというと、必ずしもそうではない。むしろ証言が鋭く対立すればするほど、そこにはいかにも悩ましげな〝ドラマ〟が生じてしまうのだ。そこでは問題は〝文学化〟している。

 本書では最相は極力そうした〝ドラマ化〟や〝文学化〟を避けているように思える。話をわかりやすくしすぎない。おもしろくしすぎない。典型的なのが、先にも触れた中井との面談の記録である。これが冒頭、中程、そして終盤と三箇所で挿入されるのだが、真ん中のそれは実際に最相が「風景構成法」による診断をうけた様子の記述である。著者がいかに物語化を避けようとしているか、その苦労が偲ばれる記録になっている。

 記録の中で中井は、「風景構成法をやってしまいますか」と言うと、A3の紙を用意して「枠があるほうとないほうと、どっちが描きやすいですか」というような言葉をかけながら、少しずつ最相に描画をうながす。決して強制的ではないやり方で、さりげなく何を描くかを指示する。

「まず、『川』がくるんですよ、なぜか」
「はい」
「むろん、どこに流してもいいですよ」
「はい。これまでの取材や資料で見た他の方の絵が頭に浮かんでしまうのですが、自分が思い浮かぶ川はこれしかないという川がありまして」
「それしかないというなら、ご自分の川でいいんじゃないでしょうか」
 では、とサインペンをもち、川を描く。紙の中心から手前に向かって流れてくる川である。遠近法で描いているため川上は狭く、川下に向けて川幅が広がっている。ちょうどスコットランドの旗のように長方形をXで四分割した下方の三角形が川になっているというイメージである。
「ほう……」
……。
「『山』、ですね」
 川に続いて、山を描く。さきほどの川の右側に山を描くが、中腹で切れて頂上は見えない。山は複数あってもよいというので、最初の山の奥にもう一つ山を描く。こちらはてっぺんが見えている。
「山ですねえ。そうすると『田んぼ』でしょう」(一六七)

 実に散文的な会話である。緊張感や、方向感が薄く、小説ならこんな部分はボツだろう。しかし、どことなく気の抜けたような会話だからこそ、きっと当事者の何かをゆるくしてくれる作用が働いているらしい、ということがうっすらとわかる。何となく〝その向こう〟に穏やかに到達していく感じがある。いや、〝その向こう〟とは、ほんとうはこんなふうにぼおっとしながら到達するものなのかもしれない。私たちは刺激の強い〝ドラマ〟に慣れすぎているのだ。

 実はこのあと、中井のゆるやかな誘いにうながされつつ、最相自身が自分の描いたものについてのある解釈に到達することになる。ここはこの本のひとつの山とも言えるところだ。実験台になった著者が、自らの苦い部分に引き合わされる。しかし、本来なら情動とともにこみあげてくるものを描写してもおかしくないその部分でも――そしてセラピーではしばしばそういうことは起こりうるだろうが――著者の感傷は極力抑えられている。

 本書にはカウンセリングをめぐる問題を、個人の物語として完結させまいとする意識が強く働いている。評伝にはなるまいとしている。しかしそれは同時に、すべてを個人の物語として完結させたいという隠れた衝動が強かったことをも示唆する。本書では明らかに河合隼雄と中井久夫という二人の巨人が屹立している。が、それだけではない。今ひとつの物語も見え隠れする。著者自身の物語である。この物語は完全に封殺されることなくあちこちに顔をのぞかせるが、しかし、著者の社会的な問題意識を呑みこむこともない。途中で明るみになるのは、著者が幼少の頃からずっと「そもそも私の話など聞いてもらえないだろう」と思いながら育ってきたことである。語ることをめぐる抑圧にまみれた過去があればこそ、こうして「私の物語」と「カウンセリングの問題」は最後まで拮抗したのかもしれない。少なくとも評者にとってもっともおもしろかったのは、この拮抗だった。

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