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2014年01月26日

『渡良瀬』佐伯一麦(岩波書店)

渡良瀬 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「毒を呑む」

 記念すべき本である。仙台在住の佐伯一麦は、このところ大震災とのからみで話題になることが多かった。背景には作風の変化もあるだろう。染織家の妻との結婚生活を描いた作品は葛藤を抱えつつも深い静けさをたたえた、文章にやわらかい筋力を感じさせるもので、ことさらうまそうに書くのではないのに、読んでいるうちにすうっとこちらの息が通る。父の最期を語る『還れぬ家』や、身体欠損を描いた『光の闇』など最近の作品もそうした系譜につらなる。そこにたまたま震災が来ただけのことである。佐伯には震災を受け止めるだけの容量が備わっていた。

 しかし、佐伯一麦の初期作品も是非読みたい。80年代から90年代にかけてのものを読んでから最近のものを読むと、たとえ同じエピソードに言及があったとしても、微妙に力の入れ方やこだわり方がちがっている。合わせて読むと、そうした「視差」のおかげで、それまでには見えなかった奥行きが感じられるのである。

 初期の作品では、今となっては過去の思い出となりつつある出来事が、まだ現在すれすれの生々しさとともに語られる。仙台の実家を飛び出し、東京に出てさまざまな職を経験。やがて電気工に落ち着き、埃まみれの天井裏で作業しながら(後に、ここでアスベストを吸い込んだことがわかる)、行きずりの女性との結婚生活に心身ともに疲労困憊。さらには心中未遂、子供の難病、親子関係のひずみ、自身の病や怪我……。ありとあらゆる困難の中で書き継がれた作品群には、これならどうだ、こう語ってみようか、という作家自身の迷いやためらいも含めた渋みと重みがあった。

 そうした初期の短編は、今、やや手に入りにくくなっている。三島賞を受賞して有名になったのは『ショート・サーキット』だが、それで「初期」を代表させるわけにはいかない。『渡良瀬』はそんな1980年代から90年代にかけての佐伯の声をよみがえらせるには格好の場である。もともとこの作品は、1993年から96年に『海燕』に連載され、雑誌の休刊で中絶したものだが、20年近くの歳月をへてその中絶作品を作家が完成させ、あらためて長編という形で世に出すことになった。

 『渡良瀬』には佐伯作品のエッセンスが詰まっている。電気工事へのこだわり、娘との葛藤、妻とのすれ違い……そして北関東から東京への通勤。その結果、主人公の身体は蝕まれ、集中力の欠如から人身事故まで起こす。肉体労働を続けながら、早朝に起きて執筆活動を行おうとする身にとってはこの生活はあまりに過酷だった。

 そもそも都心から縁もゆかりもない茨城県の古河に引っ越し、延々二時間半かけて千歳烏山の工務店に日々通う主人公の姿には、奇異の念を抱く人もいるかもしれない。もっと近くに住めばいいのでは?と。都心にも安アパートくらいあるでしょ?と。しかし、本書を読むとそこにはある深い必然があるのがわかってくる。北へと向かう主人公の移動は、やはり故郷の東北地方に引きつけられたのではないか。それに「渡良瀬」という川。この流域ではかつて足尾銅山の鉱毒事件が起きている。大きな被害のあった谷中村は古河から川をさかのぼったところにあったが、後に洪水を避けるための遊水池として水没した。作品中でも主人公がこの遊水池近くを散策する様子は印象的に描かれている。

 「渡良瀬」というタイトルには、水や川の持つ生命力への畏怖の念がこめられている。川の流れは電気や電波の流れとも重なり、彼が10代から20代にかけて歩んだ、ときに向こう見ずなほどの挑戦的な生き方を暗示する。しかし、渡良瀬はまた毒を呑んだ川でもあったのだ。そして主人公もそう。アスベストという物理的な毒をはじめ、さまざまな人間関係の軋轢から自身の失態に至るまで、多くの毒を呑みながらそれでも流れ続けてきた主人公の人生は、より深い意味で渡良瀬という川の名と重なり合う。

 佐伯一麦の文章の味を説明するのは容易ではない。何しろ、それは「とにかくいい」と言われる文章がしばしばそうであるように、一見さらさらと水のように透明だ。だが、とくに初期の作品には、淡々と語るようでいてどこかで「どうだ、かかってこい!」と運命に挑戦する姿勢が見える。筆者は佐伯一麦のそういう静かな力みが、けっこう好きだ。

 たとえば『渡良瀬』の出だし近くに、そんな構えがはっきり出ている箇所がある。この作品では主人公拓が古河に流れ着くまでの経緯がたっぷり語られるが、本筋をなすのは東京の工務店への通勤をあきらめ地元の工場で新しい道を模索する彼の姿でもある。工場でも、当然ながら、そんな東京からの「流れ者」に対する周囲の目がどこか猜疑心に満ちていた時期がある。

 拓は、腹の辺りに力を込めた。すると、弱気を嘲ら笑うような、流れ者のふてぶてしい笑みが自然と口の端に浮かんだ。「そうさ、たしかに俺は流れ者だ」と開き直るように拓は呟く。ほとんどが現地採用されている工場の同年代の工員たちは、拓のことを陰でそう呼んでいた。彼らの多くは、農家の次男坊三男坊だった。流れものとは、いい加減で、何か揉め事を起こしては去って行く、どうせこの土地には根付こうとしない男たちに対する蔑称だった。おまけに、拓はそれに、東京者、という言葉が加わった。(26)

 挑戦的とはいっても、任侠ドラマに見られるようなこけおどしや気障な捨て科白とは違う。ここにあるのは、腹の奥底に隠し持った負けん気であり、そう易々とは口にも出されない。ほとんどの箇所ではそれとも気づかないほどだ。でも、この力みは『渡良瀬』の文章の隅々まで行き渡っているものでもあると思う。主人公はいわば心のうちに「少年のような強い自分」をずっと隠し持っているのだ。もちろん、どこかでそんな自分を、脱力して見つめる冷静な目もあるけれど。

 だが、お前たちの先祖だって、流れ者だったじゃないか、と拓は思い直すように呟く。土質のよくない関東ローム層を力にまかせて開墾した者たちのことを思い浮べた。それから、平安時代に天皇に反抗して東国で叛乱を起こした平将門の本拠も、すぐ近くの土地にあった。この野に吹き荒ぶ風の中で土地を耕し、馬を駆るつわものたち、その姿を拓は自分に親しい者として想像した。(27)

 拓の負けん気はつまらない対人的ないざこざに収斂するものではない。むしろそうした小さな葛藤を超え、長大な時間をも超え、まさかという想像に結びつく。しかし、読者はその大げささに微笑ましい気持ちになることはあっても、決して嘲笑する気にはならないだろう。拓の姿には、別にそうであってもなくてもいいものではなくて、ぜったいこうであらざるをないと思わせる何かがある。拓の負けん気も根拠のないものではない。この抜き差しならぬ必然が、文章に風格を与える。『渡良瀬』という作品は、さまざまな毒を呑みながらも川の流れるような人生を歩みつづけてきた主人公の航跡を、執拗なほどの気迫で刻みつけたものなのである。

 読者がおそらく気づくのは、この長編の中に何度も繰り返し語られるエピソードがあることだろう。とくに、主人公に激しく叱責されてから口がきけなくなり、「緘黙症」という症状に陥った長女の話は、これでもかとくり返し語られるものだ。佐伯が個々の作品の枠を超えて同一のエピソードをくり返し語ることはよく知られている。それは佐伯の私小説作家としてのあるこだわりを示し、読者もまた読んだことのあるエピソードの変奏に出会うたび、何ともいえない感慨へと誘われるのだが、『渡良瀬』では作品内でもそれが起きる。

 『渡良瀬』はひとつの長い川の流れとして構想されているということである。川はつねに流れている。どこまでがどこ、と区切ることはできない。海に至るまでひと連なりの連続体なのである。だからこそ、過去の思い出は何度でも呼び覚まされ、ときには主人公を苦しめ、ときには力づける。一本の長い川のような人生を、一本の長い川のようにして描かれた小説が模倣する。そもそも佐伯一麦が書いてきた作品のすべては、その全体がひとつの長い川のようにつらなったものと考えることができるだろう。そう考えるとあっと思うのは、結末近くに出てくる蛇。あれは佐伯一麦なりのちょっとしたいたずらなのか、象徴なのか。ともかく、その行方を見守りたいと筆者は思った。

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2014年01月19日

『すっぽん心中』戌井昭人(新潮社)

すっぽん心中 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「戌井節とは?」

 戌井昭人は独特な節回しを持った作家だ。ぱっぱっと投げやりに話を進める語り口には、馴れ馴れしいような、あつかましいような、ぐりぐりと物語を押しつけてくる強引さがあり、それがとても心地良い。かと思うと芯の部分がさっぱり淡泊で、「え、もうちょっと…」というような哀切感や名残惜しさも感じる。

 戌井節と呼んでもいい。ちょっと詐欺っぽいところがあり、するっと底が抜けるような結末にバカされた気分になる。でも、落語的人情物的な結末にどさっと落着し、安心することもある。本書の表題作「すっぽん心中」はどちらかというと後者。戌井氏の作品の中でもかなりいいものだと思う。

 主人公の田野は、漬け物の配送をしていて若いセレブタレントの女性の車に追突され、ひどいむち打ち症になったばかり。首が曲がらず、おしっこをするときも横向きなので「命中度」が低い。そんな田野が仕事を休んで不忍池でぶらぶらしていると、自称モモなる女性があらわれる。話を聞くと、福岡から上京して以来、男たちにひどい目に遭わされつづけたとか。でも、マッサージはうまいという。そして、「首揉んであげるよ」とあっさりラブホテルに入る。

 ちょっと都合よすぎ?と思う人もいるだろうか。何しろ直線的で要約しやすいストーリーだ。長い沈黙とか、逡巡とか、細々した描写など一切なし。ぐりぐり話が進む。

 ただ、要約からはわからないだろうが、モモの台詞がけっこういいのである。決して意味ありげだったりはしないのだが、いちいちに運動神経が通っていて、読んでいると、飛び出す絵本みたいにぬっとこちらに迫ってくる。たとえば二人が不忍池で出会う場面。田野のクッキーのカスに鳩が群がってくる。どうということのない会話が交わされるのだが、台詞がモモの存在にぴたりとフィットしていて、何だか清々しい。

「餌あげてるんですか?」
「いや、餌、あげてるつもりはないんだけど」
 女の顔は童顔で、愛嬌のある感じだった。
「でも、すごく集まってますよ。餌くれる人と思われてますね」
「クッキーのカス払ったら、どんどん集まってきちゃったんだよ」
「そうか」
「まいったな。こんなに集まってきちゃって」
「気持ち悪いね、鳩」
「うん」
「あたし、鳩、嫌い。お兄さんは好き?」
「おれも好きじゃない」
「ですよね」というと彼女は、突然、「こんにゃろう!」と怒鳴り、鳩を蹴散らしはじめた。田野は驚いた。池を見ていた老夫婦もふりかえってこっちを見ている。彼女はお構いなしに、ハイヒールの靴底を地面にコツコツと激しく響かせていた。(15-16)

「こんにゃろう!」がいい。物語の展開の上でも、「こんにゃろう!」の瞬間は大事で、モモという人の必死な部分、やや大げさな言い方をすると、「どん底の心の声」がちらりと見える。そして後々、この必死さがより明確に出てくることになる。

 むろん戌井氏自身はそんな野暮な見せ方はしない。戌井節の勘所は、ぐりぐり押しつけてくる一方であくまでしらっと淡泊なところ。それは視点人物となる主人公の田野の淡泊さとも重なる。田野は主人公のくせに何だか冷静で、いつも白けていて、セックスしていても、果てても、さてどこまでほんとうに楽しいのか。およそ執着がない。「ただ目の前に起きたことをやり過ごしていくのが人生」(45)だと思っている人なのだ。モモの人生の濃厚さを、「ほお」とばかりにちょっと離れたところから見ていて、モモがスッポンを獲りに行こう!お金儲けしよう!と言い出しても、ふうん、と冷めている。もちろんモモの「どん底」にやたらと感動したりもしない。

 でも、戌井節はそこがいいのである。物語の中心は、この二人がたまたま見たテレビ番組からヒントを得て、モモが幼少時に住んでいた霞ヶ浦にスッポン獲りにいくいわば冒険譚のところにあるが、スッポンを捕まえようとして逆に指を噛まれた田野は「ぐわっ!」とか「痛たたたた」と言うわりに、あんまり抒情的に痛そうではない。あくまで物理的に痛そうなだけ。これに対し「指、もげとらんよね?」というモモの博多弁の方が、どこかしみじみと情感がこもる。博多弁の男っぽく乱暴で、でも女っぽくキュートでもあるところがうまく出ている。

 モモは男に家を追い出されたばかり。金もない。住むところもない。「やっぱりこうなったら、もうフーゾクでもいいかな」などと言っている。まさに人生の「どん底」だが、その「どん底」の見え方が、淡泊な田野の眼を介しているせいか、ベトッとしたものにならない。ヤマ場で田野の指に食いついたスッポンをやっつけるところなど、いささかハリウッド冒険映画的展開ではあるが、すっぽんが物理的にはぐちゃぐちゃな一方、心理的なぐちゃぐちゃには直結しないところがおもしろい。

 モモはすかさず大きな石を拾って、田野の指にぶら下がるすっぽんの尻を持ち上げ、鉄橋の柱に押さえつけて、石ですっぽんの背中を叩きつづけた。すっぽんは田野の指に噛み付いていたが、甲羅が割れて内蔵だかなんだかわからないものが飛び出てきて、噛んでいた指を離して下に落ちた。すっぽんはまだ動いていたが、モモはさっと拾い上げ、田野の買ってきたトートバッグの中に入れた。(48)

 人生の「どん底」にいる人の必死さ。でも、どこかうすら漫画チックで、しかもその向こうに微妙に哀感が漂う。読み応えがある場面だ。それをこんなさっぱりした言葉でやるなんて。

 田野の指からは血がぽたぽた垂れていて、川に流れていった。
 すっぽんの生命力は凄まじく、トートバッグの中でまだ動いていた。するとモモはトートバッグの取っ手を両手で持ち、野球のバットをスウィングするように、鉄橋の柱に何度も叩きつけた。「くしゃっ、くしゃっ、くしゃっ」、鈍い音がトートバッグの中から聞こえてくる。モモは凶暴性が一気に沸点に達したみたいな目をしていた。(48)

 野球のバットをスウィングするように!
何と鮮烈なイメージだろう。あまりに鮮烈すぎて、もう一押しすれば――もうちょっと悪のりすれば――シュールな世界に行ってしまいそうだ。でも、この作品では戌井は我慢して、踏みとどまった。正解だったと思う。同書に収録の「植木鉢」もいい。

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