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2013年12月27日

『フランス文学と愛』野崎歓(講談社現代新書)

フランス文学と愛 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「フランス苦手症のあなたに」

 以前から持っていた印象――というか「常識」――をあらためて確認した。やっぱりフランス文学はきらびやかだ。フランス文学を語ることばは華やかで、フランス文学を語る人は颯爽と美しい。英文学の本では『英文学と愛』とか『ラブの英文学』といったタイトルは考えられない。筆者が教わった英文科の先生は「研究者たるもの地味でなければならぬ」「人生いかに地味に生きるかが勝負だ」と、口にこそ出さなかったかもしれないが背中でそう教えてくださった。隣の芝生は青く見えるというが、英仏海峡の向こうのフランス文学の世界はいつもまぶしい。名前だって「チャールズ」より「シャルル」の方が艶があるではないか。

 ……と、こんなことを言っていると、英文学界隈には多い「アンチ・フランス」派や「フレンチ・アレルギー」派の人が口を挟んでくるかもしれない。フランス的とはいかがわしさの権化…。あの意味不明の術語! 曖昧模糊とした美文調! くるくるよく回る舌! 嫌みな頭の良さ! 日本の批評をダメにしたのはまさにフランス一派じゃないか!!と。

 しかし、こういう「フランス苦手症」の人にこそ、本書をお勧めしたい。『フランス文学と愛』は、一方でフランス的なものの華麗さをたっぷりと見せつけつつ、他方ではきわめて明晰に、刺激的に、しかも楽しく「愛」のテーマへと我々を導いてくれる本なのである。朦朧美文派とも、高速頭脳派とも無縁。良質の「フランス性」とはまさにこのようなものだ。

 本書は内容からすると「フランス文化入門」とか「フランス文学史」といった副題が挿入されてもおかしくないほど、新書という限られたスペースにもかかわらず近代フランス文化の全体を見渡すような広々とした視界を持ち、文学史的な枠組もしっかりある。その史観とは以下のようなものだ。そもそも愛=アムールとは神と人間との間に生ずるものだった。人間は神を愛し、また神が人間を愛する。しかし、やがて近代化とともに宗教の力が衰えるとアムールは人間化され、その中心は男女関係に移る。

 本書が概観するのは、時代とともに移りゆくこの愛の形の変貌ぶりである。近代のアムールは決して安定したものではなかった。まず17世紀。宮廷風恋愛の伝統の残る中、ときに危険なほどの爆発的エネルギーでアムールが人々を圧倒し、「恋愛結婚」なるものに価値が見いだされ始めた。それから18世紀。現在の常識からは考えられない、ポルノまがいの露骨さでアムールの快楽が追い求められた時代。その一方で倒錯的なまでの純愛主義が夢想されたり、「初恋」の美が発見されたりもする。そしていよいよ19世紀。スタンダールの『赤と黒』、バルザックの『谷間の百合』、フローベールの『感情教育』『ボヴァリー夫人』、さらにはゾラ、モーパッサン。燦然と輝くこうしたビッグネームを、たっぷり紙数を費やして語る3章、4章は本書の核。しかし、その最大のテーマは幻滅と鬱屈なのである。

 19世紀のアムールにはいったい何が起きたのだろう。野崎氏は18世紀と19世紀の間に大きく横たわる溝を示す格好の例として、モーパッサンの「往時」という作品からの一節を引用してみせる。18世紀を生き、今や高齢に達した老婦人が、19世紀のただ中を生きる孫娘にこんなことを言うのである。

「神聖なのは恋愛だよ。結婚と恋愛はまったく関係ないものさ。結婚なんて一度しかないものだけれど、恋は一生に二十回だってできる。何しろ自然がわたしたちをそんな風に作ったのだから。結婚なんて社会の決まりだろう。でも恋愛は本能ですよ」(78)

ここには「恋愛と結婚は別物」という、現代に至るまで私たちが直面し続けている大きなテーマの芽生えが見える。むろん、この18世紀的老婦人の恋愛観が、ノスタルジアとともに単純に称揚されるのではない。19世紀とはこうした恋愛観を記憶の片隅にとどめつつも、ブルジョワ化した人々が個人の快楽を抑圧し、家庭の平安を優先した時代なのである。そこにはさまざまな軋轢が生じることになるが、その最大の被害者となったのは女性だった。従って、19世紀フランスの男性作家たちは、結婚の幻想を徹底的に暴くことに腐心し、「家庭の安定」という幻想の犠牲になった女性たちの心理や生態を子細に描くことにエネルギーを注ぐことになる。こうした流れはそもそも作家たちが象徴的な「女」だったこととも関係している。ブルジョア的価値観の広まる社会で小説家はマージナルな地位においやられ、社会の「弱者」としての女性ときわめて似かよった立場にあったのである。

 こうした傾向の頂点をきわめたのはフローベールの『ボヴァリー夫人』だった。この作品を語る段になると、野崎氏の筆致にもおのずと力がこもる。もし、お試し読みをするなら、138頁あたりからの記述がお勧めである。考えてみると『ボヴァリー夫人』ほど評者による再物語化の欲望をそそる作品もないのだろうが、野崎氏のものはとりわけ精彩を放つ。決して悪のりしているわけではない、でも、どこか遠慮がちに講談調で、抑えがたく勢いのいい語り口が、鈍感な夫シャルルと、満たされない欲望をかかえたその妻エンマとによる夫婦生活の描写を、横からおおいに盛り上げる。何といっても19世紀は退屈と鬱屈の時代なのだ。その鬱屈を、まがまがしい行く末までも含めて熱っぽく華麗に語るところに、野崎本の妙味がある。

シャルルが結婚生活に満足し、幸福をかみしめていたことに間違いはない。最初の結婚のときはただ母親のいうがまま、持参金目当てで年上の未亡人と一緒になったにすぎなかった。「不美人で、薪のようにひからびているくせに、春先の木の芽にも似た吹き出物だらけの女」だったとにべもない書かれ方をしているその妻は、シャルルが往診先の農場で知り合った娘エンマに心を惹かれ始めたころ、あまりに好都合なタイミングでぽっくり逝き、そこでシャルルは自分の望む若い娘との再婚を果たす。つまり彼の人生は財産目当ての結婚から「恋愛結婚」――シャルルはそんな気のきいた言葉を口にする種類の人間ではないが――へという時代の潮流を具現するような進展を見せたのだ。(139-140)

 『ボヴァリー夫人』を読んだことのない人も、読んだけどストーリーを忘れた人も、あるいはつい最近読んだばかりの人も、こうした箇所を読めばあらためて哀れシャルルの行く末が気にならざるをえない。待っているのはきっと不幸な結末に違いないのだ。

 新婚のシャルルの幸せはまことに羨むべきものである。妻が髪をなでつけるしぐさを見、窓辺にかかっている妻の麦藁帽子を目にするだけで嬉しくなる。少し前までの、「ベッドにはいっても足が氷のように冷たい後家」との暮らしとは何という違いだろう。(中略)問題はそのとき新妻はどういう気分でいたのかということである。冒頭から第五章まで、もっぱらシャルル側からの描写ばかりで、エンマの内心がいささかも洩らされないままであることがすでにして不吉な予感を読者に与える。シャルルはそんな心とろけるような幸せに値する男ではなく、ただのお人よしでしかないのではないかというわれわれの予感は、たちまち的中することになる。(140)

 野崎氏の文章は明晰ではあっても、がちがちの論文調とは全く無縁。その語り口にはそこはかとない音楽性さえあって、18世紀小説のエロスの横溢であろうと、19世紀小説の結婚の地獄であろうと、作品紹介とは思えないほどの臨場感で読者に追体験を促す。これからフランス小説に(再)入門したい人にはうってつけだ。

 あるいは本書のほんとうに個性的なところは終盤にあるのかもしれない。アムールの展開を通史的に追う中で、第五章では「親子の愛」のテーマが扱われる。フランス人が子どものしつけに厳しいのはよく知られているが(イギリス人から見ると、フランス人にとっては「子どもはにっくき敵」らしい)、たしかに小説に描かれる親子のアムールは単純なものではない。教育論でも知られるルソーに、いろいろ矛盾に満ちた態度があったのもおもしろい。子育てエッセイでも知られる著者ならではの視点だろう。第六章では、20-21世紀フランス小説の翻訳者としても知られる野崎氏が、現代のアムールの行方を見定める。ボーヴォワール、サガン、デュラスからトゥーサン、ウエルベックまで。まだまだ語ることは多い。二十世紀以降、さらなる変貌を遂げる現代のアムールを語るには、おそらく丸々一冊の本が必要となりそうな気配だ。


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