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2013年11月08日

『存在と時間(一)』ハイデガー著 熊野純彦訳(岩波書店)

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「4つのハイデガー体験」

 四分冊で刊行中の新訳『存在と時間』。いよいよ完結が間近に迫った。こういうお偉い本は自分には縁がないと思っている人もいるかもしれないが、この熊野純彦氏による新訳にはいろいろ趣向が凝らされており、必ずしも「つ、ついにオレは…ハイデガーを読むぞ!」というような悲壮な覚悟がなくとも手に取ることができる。ぶらっと店内をのぞきこむようにして立ち寄ることのできる希有な版なのである。

 その仕掛けはこうだ。全体はおおまかに言うと、四層からなっている。「梗概」「本文」「注解」「訳注」の四つである。このうち、ほんとうにハイデガーがしゃべっているのは「本文」だけ。「梗概」は訳者が本文に先立って示す「あらすじ」であり、「注解」では、本文を追いかけるようにして訳者が内容を再確認している。ただし、後者では原語を併記しつつ解説が加えられるので、翻訳や解釈の舞台裏に足を踏み入れたような気になる。「梗概」がいわば「『存在と時間』予告篇」だとすると、「注解」は「『存在と時間』おさらい篇」もしくは「読解篇」だと言えよう。これにさらに「訳注」がつくのだが、こちらは「『存在と時間』応用編」。訳者が概念の歴史を解説したり、ハイデガー特有の言い回しをドイツ語原文のみならず、仏訳、英訳などと照らし合わせながら検討したりする。これから本格的に哲学の勉強をしようという人には、この「訳注」がとりわけ役に立つかもしれない。まるで授業の一部のようだ。

 本書の良さは、この四つのどこからでも読めてしまうところにある。もちろん本文だけ読むのもいい。「梗概」だけでもかまわない。しかし、「注解」や「訳注」も立派な読み物として成立している。いずれにおいても語りはハイデガーの鍵語を中心に構成され、しかもそれぞれの層に、微妙に異なる緊張感が設定されているため、異なった気分でハイデガーを体験することができる。もっともテンションの高いのはむろん「本文」だが、全体を眺め渡す「梗概」にもひと味ちがったフォーマルな緊張感がある。その一方、「注解」はいつ中断してもいいような、ときに手を上げて質問してもゆるされそうな〝間〟がおりこまれている。おもしろいのは「訳注」で、内容はすごく高度なのに、逍遙するような気分もまぎれこみ、訳者自身のスタンスが垣間見えたりする。

 そんな本書について、筆者がお薦めする読書モデルは、次のようなものである。  まず最初に40頁ほどの「梗概」を熟読する。世の中には「あらすじ」が苦手という人もいるだろう。そんなもの!とさげすむ。「オレは説明書なんか読まないよ。料理するんだってレシピーなんか見ないし、味見だってしないね。ぶっつけ本番。あたって砕けろさ」というような具合。しかし、まあそう言わずに、この「梗概」は読んでください。日本語がとてもいいから。ハイデガーの用語に慎重に寄り添いつつ、しかし、すっと意味が通るように語られている。徹底的にドライな口調を採用することで、翻訳に伴いがちな不要な「くさみ」や「えぐみ」や「きしみ」を取り去り、ほんとうに必要な「ハイデガー臭」だけを残すようにしてある。だから、変にわかりすぎたり、誤解したりする危険も小さい。

 それから「本文」に行く。むろん冒頭から順番に読み進めるのがいいのだが、「人生なかなか忙しくて…」という人は、「梗概」を読み、気になったところに印をつけておいてそこから始めるという方法もありかもしれない。もちろん、ハイデガー的思考の醍醐味が、たまねぎの皮を一枚一枚めくるようにして話を進める、そのいやらしいほどの粘着性にあるのはまちがいない。全篇ハイデガー語のちりばめられている本書の、その途中を飛ばしてしまったら、用語の意味だってわからなくなるかもしれない。しかし、そんな危険を承知した上で、必ずしも哲学を専門としない人が、まずは自分にとって「おいしそうな部分」から手をつけて喜びを得られるなら、それはそれでいいのではないかと思う。

 そもそもハイデガーは引用されやすい哲学者だ。〝本格哲学〟とは縁のない人でも、「現存在(ダーザイン)」とか「世界の世界性」、「手もとにある/手もとにない」といった概念と出会ったことのある人は多いだろう。そういうつまみ食いは邪道だという意見もあるかもしれないが、ハイデガーの議論の仕方そのものに、そうしたアプローチを誘発する何かがある。とくに「存在」や「時間」といった話題を持ち出すときの、あの這うような語り口。ハイデガーは従来の「存在」や「時間」の理解のされ方に疑問符を付し、そこから自分の議論をつくっていくわけだが、そのやり方はたとえば次のような風である。

「存在」は自明な概念である。すべての認識作用、言明作用において、存在者に対するあらゆるふるまいにあって、じぶん自身へのいっさいのかかわりのなかで、「存在」は使用され、その表現はそのさい「ただちに」理解される。だれもが「空は青くある」(引用者注:イタリックは元々傍点。以下同じ)「私は喜んでいる」等々を理解している。しかし、こうした平均的な理解しやすさが現に証明するのは、理解しがたさであるにすぎない。平均的な理解しやすさがあらわにするのは、存在者としての存在者へとかかわるすべてのふるまいと存在とのうちに、ア・プリオリに一箇の謎があることだ。私たちはそのつどすでに或る存在了解のなかで生き、しかも同時に、存在の意味は暗がりのうちに蔽われている。(80)

ハイデガーが疑問を投げかるのは、「ある」という概念の「自明性」なのだが、そこで問題にされるのが、「「ただちに」に理解される」という点であるのがおもしろい。よりによって「ただちに」をハイライトするとは! 訳者の「注解」にもあるように、ハイデガーの議論はしばしばこうして副詞句を足がかりに――しかも特定の偏愛された副詞句ばかり――前に進むのである。さりげなく使われていると見える「そのつど」というような副詞表現にしても、実はけっこう重要な役割を果たしている。

現存在がそれに対してあれこれとかかわることができ、つねになんらかのしかたでかかわっている存在自身を、実存と名づけよう。この存在者の本質を規定することは、事象として〈なに〉が〔この存在者に〕付帯しているかを挙示することでは遂行されえない。その本質はむしろ、その存在者が、じぶんのものとして、そのつどみずからの存在でなければならない点にある。(115)

「そのつどみずからの存在でなければならない」なんて、よく言ったものだ。しびれる。前の引用でもそうだったが、まさか「そのつど」という副詞ごときで、こちらの視界がぐいっとひらけるなんて思いもよらなかった。でも、このあたりにまさにハイデガー語りの特色がある。「ただちに」にしても「そのつど」にしても、こうして副詞を概念のレベルに格上げすることで、私たちが何気なく時間や存在とかかわっているその「何気なさ」を上手に表に引きずり出し、きっちり、まるで写真に撮るようにキャプチャーしている。一種、ストップモーションで意識をとらえるような方式だと言えよう。

 問題は、こうした方法を本人が採用するからには、ハイデガーを読む側にもそうした方法が伝染するかもしれないということである。「そうか。こうしてストップモーションにすることで、私たちは物事をよりよく理解できるのか」という考えが読者の側に芽生えたっておかしくはない。つまり、「存在」や「時間」と同じく、本来、粘着的な連続体であるはずのハイデガーの思考や文章も、副詞や前置詞のような「足元的」でやや「矮小」な部分を手がかりに微分的に分解され、キャプチャーされうるということである。そういうストップモーション的な読みは、ときとして特定の用語や言い回しの一人歩きにつながるものである。ハイデガー自身がキャプチャー画像化してしまう。

 しかし、そうは言っても、筆者としてはハイデガーを読む楽しみは、このように「ただちに」や「そのつど」といった異様に接近的(「近視眼的」とは言わない)な視点を追体験するところにあるとも思っている。第一巻の山場は「周囲世界」とはどのようなものであるかが語られるところだと思うが、有名なハンマーをめぐるこの語りは、内容に同意するかどうかにかかわらず、「物事をこんなふうに語れるなんて……」という嘆息を引き起こしてもおかしくない。そもそもこのような視線や文体や思考方法が許されるのだと知るだけでも、ハイデガーを読む意味があるように思う。

ハンマーを振るうことは、ただたんに、ハンマーの道具性格をめぐる一箇の知識を有しているというだけのことではない。それ以上に適切ではありえないほどに、ハンマーという道具をじぶんのものとしていることなのである。このような使用する交渉にあって配慮的な気づかいは、そのときどきの道具を構成する、〈のために〉につき従っている。ハンマーという事物が呆然と眺められているのではなく、それがつかみ取られて使用されるほどに、この事物への関係はそれだけ根源的なものとなり、その事物は、それがそのものであるものとして、つまり道具として、蔽われることなく出会われる。ハンマーは振るうことそのものによって、ハンマーに特種的な「手ごろさ」が覆いをとって発見される。道具がそのうちでじぶん自身の側からみずからをあらわにする、道具の存在のしかたを、私たちは手もとにあるありかたと名づけよう。道具は手もとにあるという「自体的なありかた」を有しており、ただひたすら現前するというだけのものではない。(335)

なるほど、実に丁寧……というか、はっきり言ってしつこい。ハイデガーの語りには、自分の語りの流れそのものをコマ送りにするような、一字一句をこちらにつきつけるような執拗さがある。「手ごろさ」とか「手もとにあるありかた」というような言い回しがいちいち焦点化されている箇所はとくにそうだ。

 とにかく、しつこい。でも、そこがいい。このしつこさは人を酔わせるものだ。下手するとものすごく当たり前のことを言っているようにも聞こえなくはないのだが、そんな当たり前の「ハンマーのある日常風景」が、ほとんど魔術的な手際で神秘的な輝かしさを帯びてくる。「道具がそのうちでじぶん自身の側からみずからをあらわにする、道具の存在のしかたを、私たちは手もとにあるありかたと名づけよう」なんていう一節、ほとんど神々しいほどの迫力がある。「手もとにあるありかた」というフレーズそのものが、ひとつの思考法を具現しているのである。訳文で徹底して漢字が開かれているのも、半分は訳者の趣味かもしれないが、もう半分はハイデガー的思考法の反映なのに違いない。なるほど、文は人なりと言うが、『存在と時間』はまさに文体によって生かされている書物なのだ。


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