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2013年11月24日

『文部科学省 ― 「三流官庁」の知られざる素顔』寺脇研(中央公論新社)

文部科学省 ― 「三流官庁」の知られざる素顔 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「文科省の「うるさい伝説」」


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 著者はかつて「ミスター文科省」と呼ばれた有名人。そこへ来て副題が「三流官庁」なので、新書特有のうすらいかがわしさを嗅ぎ取る人もいるかもしれない。しかし、本書の内容は至極真っ当で、良質の情報が詰まっている。その文章を読めば、寺脇氏がなぜ「ミスター文科省」とあだ名されるようになったかもよくわかるだろう。この人は物語を組み立て、展開させるのが実にうまいのだ。白黒ははっきりし、メリハリも効いている。何しろこれは官庁の職務を説明する本なのであり、目がごちゃごちゃするような行政用語も頻出するのだが、ほとんどスポ根ドラマを見たような爽快な気分になるのだから不思議だ。

 どのあたりが「スポ根」なのかは追ってお示しするとして、まず筆者がこの本を手に取った事情に触れておきたい。大学に限らず教育機関等で働いたことのある人なら、必ず一度や二度は「文科省がうるさいから」ということばを耳にしたことがあるだろう。そう。文科省とは「うるさい」ものなのだ。でも、考えてみるとよくわからない。だいたい「文科省」って誰なのだろう。文部科学大臣? 幹部? 職員? 建物? 法律? それともベールに包まれた別の何か?

 筆者は、ある学会の事務局で働いていたときにこの「うるさい」問題に直面したことがある。当時は公益法人などの形をとる学会は、文科省(文部省)が管轄していたのである。管轄?と不審がる人もいるだろうが、実際、文科省から人がやってきて、財務状況から役員の選び方、事業の方法にまで細かい指摘をし、改善を指示するのである。こっちが研究のためにやってる学会で、営利目的でもないのに、専門家でもない役人がどうして口を出すの?と言いたくなるかもしれない。しかし、そういうことになっていたのだ。まさに「うるさい」存在である。

 惜しいことに何年かに一度というその「文科省のご来訪」の当日、筆者は別の用事で居合わせなかったのだが、対応した事務局の人が口を揃えて言うには、担当のキャリア官僚は「すっごい優秀だった」とのこと。こちらがだらだら要領を得ない説明をしても文句も言わずにじっと耳を傾け、鋭く問題点のみを見抜いて穏やかに、しかし、厳しく指摘する。財務上の知識もピカイチで、「おっしゃる通りでございます」を繰り返すしかなかったとか。何より感動的だったのは、5時間以上も面談したのに「一度もトイレに行かなかった!」ことだそうだ。

 そんなこともあり、文科省の「うるさい」問題にはかねがね筆者は興味を持ってきたのである。この本はそうした疑問の全部とまではいかなくとも、多くの部分に答えてくれる。まず「キャリア」と呼ばれる幹部候補生たちが、いったいどのような人生を歩むのか、どのようなヴィジョンや葛藤や希望や失望とともに仕事を進めているかが、寺脇氏自身の就活体験の披瀝からはじまって、若い頃の出向体験、大臣との付き合い、他省庁とのつばぜり合いなどを通して説明される。

 筆者にとって興味深かったのは、少なくとも寺脇氏の価値観の中心に「一流の官僚たるもの政策を提案し、それに応じた予算を獲得せねばならない」という考えが強固にあるということである。つまり、「事業メンテナンス官庁」ではいけない、知恵を絞って何か新しいことをやれ、というのである。おそらくこれは、相当数のキャリア官僚に共有された考え方なのだろう。

 しかし、まさにこのような政策重視のモデルが、(旧)国立大学をはじめとした、文科省の監督する組織で働く人々との軋轢にもつながる。寺脇氏は小中学校、高校、大学と各レベルの学校組織と文科省がどのように付き合ってきたか、あるいはどのように付き合おうとしているかにも触れているが、紙数が少ないながら大学について述べている箇所では、教官たちの権威主義や保守性に苛立ちを募らせたのがうかがえる記述がある。文科省との人事交流が盛んな大学の事務方に対し、教官たちは事務方の提言や変革意欲を抑圧しようとする抵抗勢力――そんな構図が描かれる。動こうとしない教官たちを、どうやって動かすか。ときに寺脇氏やその同僚は厳しい言葉を使わざるをえなかった。そう、学会事務局を訪れたあのキャリア官僚と同じように「うるさかった」わけである。

 教官には真意を理解されなかったとしても、事務職員には気持ちが伝わる。よく国立大学の学長や教授から、あの人は厳しすぎるとの高等教育局幹部の人物評を聞かされたが、そんな幹部ほど事務職員からは信頼されていた。彼らにしてみれば、学内に君臨する教官たちに大学の抱える問題を直言できるのは本省幹部だけ、と頼みにする気持ちがあっただろう。(66)

 なるほどと思う。しかし、当然反論も出てくるだろう。教育とは本質的に保守的なものである。比較的年長であったり、比較的経験を積んでいたりする者が、比較的若年であったり、比較的未経験であったりする者に知識を伝授したり、思考法を教えたりするというのが、「教育」という思想の出発点にはある。そういう教育概念自体を否定する考え方もありうるだろうが、おそらくそこまで本気で踏みこむ覚悟のある人はそういない。(ほかならぬ寺脇氏の論調にも、明らかに経験に基づいた知識伝授という理屈は見られる。たとえば教育委員会の廃止をとなえる勢力に対しては「60余年にわたる教育委員会の歴史の中で蓄積されてきた経験や実績は雲散霧消してしまう」と反対しているのである)。

 そうである以上、教員たちに古いものや既存のものを尊重しようとする傾向があるのは仕方がないことではないだろうか。むろん、教育にしても研究にしても、ある段階になれば古いものを捨てたり乗り越えたりすることが必要になるが、古いものの実像を知らずにはそれを乗り越えることすらできない。だが、そうした文化の中にいる教員たちに対し、政策を提案し、制度をいじることで教育システムとかかわろうとする側は、じれったさを覚え文句も言う。こうして「うるささ」が発生してきたわけである。

 ともあれ、同じ大学で働く者でも、事務職員はそうした保守の文化からは多少なりと自由なはずだ、と寺脇氏は考える。そんな話の流れからもわかるように、本書はノンキャリアと呼ばれる一般事務職員の業務や職場環境についても多くの紙数を割いて記述している。文科省で実際に働いている多数派の人たちは何をしているのか、どうやって職員になるのか、どのような経歴をたどり、どのようなことにエネルギーを費やしているのかがタイミングよく挿入されるエピソードを通して浮かび上がってくる。

 本書を貫いてあるのは、「家族主義的な官庁としての文科省」という見方である。だからこそ寺脇氏は、どちらかというと華やかな場にいて脚光のあたるキャリア職員の業務だけでなく、ノンキャリアの人たちの仕事ぶりにも極力触れるようにした。日の当たるところにいる幹部だけでなく、粛々と仕事をこなす職員に目をやろうとする姿勢。このような視点は、かつて「三流官庁」と呼ばれ、伝統的に「草食系」が多いという文科省にエールを送る本書の姿勢とも重なってくる。ぎらぎらと野心的で、多少野蛮なことも平気でする経産省官僚などとはちがい、文科省の官僚はくそ真面目でおとなしく、でも誠実で手堅い。歴代大臣に対してはどんなに知識のない人でもきちんと敬意を払ってきた。それに何と言っても、あの田中眞紀子さんと仲良くできたのは、文科省の秘書官だけではないか!外務省の秘書官とは大違い!と。

 で、例の「スポ根」のことである。官庁の歴史を紐解いてみると、明治時代に文部省が発足した頃はカリスマ的な文化人大臣がつづいたこともあり、教育制度の根幹整備にあたって政策官庁としての機能が大いに発揮された。しかし、次第にその気概は失せ、やがて文部省は実質的に内務省に支配されるようになる。内務省で役に立たなかったやる気のない官僚達が文科省で幹部になるというルートもできる。「三流官庁」と呼ばれることになったのはその頃である。制度に対する口出しも許されず、すっかり「事業メンテナンス官庁」と化してしまった。役所全体として、何か新しいことをやろうとするよりは、すでにあるものにしがみつき守ろうとする気風に染まったのである。

 しかし、70年代から80年代にかけて文部省は変わる。行政改革の中で、事業拡大と予算の獲得を目指す旧来の「事業メンテナンス」の思考様式をあらため、政策を提案することに重きがおかれるようになると、文科省としてもあたらしい政策を提案する機会が増えてくる。そういう中にはうまくいったものもあれば、挫折したものもある。むろんスポークスマンだった寺脇氏を有名にしたあの「ゆとり教育」も、その一例である。まさに文科省の再生である。まじめで誠実だけれど不器用で鈍重だったカメが、ついに努力の甲斐あってウサギに追いつき追い越そうとしているというわけだ。まるで部員が九人しかいないどん底野球部が、家族的な雰囲気の中でついに甲子園に出場するまでを描く劇画のようなストーリーではないか。

 本書は文科省の職員に対する「エール」だという。たしかに最後の方は応援歌的で、とくに歴代大臣のヨイショがつづくくだりなどは「ん?」と思わないでもない。寺脇氏の私見やバイアスが透けて見えるところもある(氏の教育改革は、ひょっとすると「父殺し」の儀式だったのかと思わせる箇所さえある)。でも、そうでない情報も多数。大学独法化で通産省にまんまとしてやられたところをはじめ(108-109)、思わず釣り込まれるエピソードはあちこちにあり、とにかく読ませる本だ。

 政策重視への転換がほんとに教育という思想とかみ合うのかな?という疑念を持つ人は多いだろう。それぞれ個人商店意識の強い大学教員と、システムの力で全体を動かそうとする政策策定者の間には大きな意識の違いがあることがあらためて実感される。しかし、少なくともどのような構造が「うるさい伝説」を生んできたか読者が想像できるのはいいことだ。就活中の学生さんにもお薦めである。

2013年11月08日

『存在と時間(一)』ハイデガー著 熊野純彦訳(岩波書店)

存在と時間(一) →紀伊國屋ウェブストアで購入

「4つのハイデガー体験」

 四分冊で刊行中の新訳『存在と時間』。いよいよ完結が間近に迫った。こういうお偉い本は自分には縁がないと思っている人もいるかもしれないが、この熊野純彦氏による新訳にはいろいろ趣向が凝らされており、必ずしも「つ、ついにオレは…ハイデガーを読むぞ!」というような悲壮な覚悟がなくとも手に取ることができる。ぶらっと店内をのぞきこむようにして立ち寄ることのできる希有な版なのである。

 その仕掛けはこうだ。全体はおおまかに言うと、四層からなっている。「梗概」「本文」「注解」「訳注」の四つである。このうち、ほんとうにハイデガーがしゃべっているのは「本文」だけ。「梗概」は訳者が本文に先立って示す「あらすじ」であり、「注解」では、本文を追いかけるようにして訳者が内容を再確認している。ただし、後者では原語を併記しつつ解説が加えられるので、翻訳や解釈の舞台裏に足を踏み入れたような気になる。「梗概」がいわば「『存在と時間』予告篇」だとすると、「注解」は「『存在と時間』おさらい篇」もしくは「読解篇」だと言えよう。これにさらに「訳注」がつくのだが、こちらは「『存在と時間』応用編」。訳者が概念の歴史を解説したり、ハイデガー特有の言い回しをドイツ語原文のみならず、仏訳、英訳などと照らし合わせながら検討したりする。これから本格的に哲学の勉強をしようという人には、この「訳注」がとりわけ役に立つかもしれない。まるで授業の一部のようだ。

 本書の良さは、この四つのどこからでも読めてしまうところにある。もちろん本文だけ読むのもいい。「梗概」だけでもかまわない。しかし、「注解」や「訳注」も立派な読み物として成立している。いずれにおいても語りはハイデガーの鍵語を中心に構成され、しかもそれぞれの層に、微妙に異なる緊張感が設定されているため、異なった気分でハイデガーを体験することができる。もっともテンションの高いのはむろん「本文」だが、全体を眺め渡す「梗概」にもひと味ちがったフォーマルな緊張感がある。その一方、「注解」はいつ中断してもいいような、ときに手を上げて質問してもゆるされそうな〝間〟がおりこまれている。おもしろいのは「訳注」で、内容はすごく高度なのに、逍遙するような気分もまぎれこみ、訳者自身のスタンスが垣間見えたりする。

 そんな本書について、筆者がお薦めする読書モデルは、次のようなものである。  まず最初に40頁ほどの「梗概」を熟読する。世の中には「あらすじ」が苦手という人もいるだろう。そんなもの!とさげすむ。「オレは説明書なんか読まないよ。料理するんだってレシピーなんか見ないし、味見だってしないね。ぶっつけ本番。あたって砕けろさ」というような具合。しかし、まあそう言わずに、この「梗概」は読んでください。日本語がとてもいいから。ハイデガーの用語に慎重に寄り添いつつ、しかし、すっと意味が通るように語られている。徹底的にドライな口調を採用することで、翻訳に伴いがちな不要な「くさみ」や「えぐみ」や「きしみ」を取り去り、ほんとうに必要な「ハイデガー臭」だけを残すようにしてある。だから、変にわかりすぎたり、誤解したりする危険も小さい。

 それから「本文」に行く。むろん冒頭から順番に読み進めるのがいいのだが、「人生なかなか忙しくて…」という人は、「梗概」を読み、気になったところに印をつけておいてそこから始めるという方法もありかもしれない。もちろん、ハイデガー的思考の醍醐味が、たまねぎの皮を一枚一枚めくるようにして話を進める、そのいやらしいほどの粘着性にあるのはまちがいない。全篇ハイデガー語のちりばめられている本書の、その途中を飛ばしてしまったら、用語の意味だってわからなくなるかもしれない。しかし、そんな危険を承知した上で、必ずしも哲学を専門としない人が、まずは自分にとって「おいしそうな部分」から手をつけて喜びを得られるなら、それはそれでいいのではないかと思う。

 そもそもハイデガーは引用されやすい哲学者だ。〝本格哲学〟とは縁のない人でも、「現存在(ダーザイン)」とか「世界の世界性」、「手もとにある/手もとにない」といった概念と出会ったことのある人は多いだろう。そういうつまみ食いは邪道だという意見もあるかもしれないが、ハイデガーの議論の仕方そのものに、そうしたアプローチを誘発する何かがある。とくに「存在」や「時間」といった話題を持ち出すときの、あの這うような語り口。ハイデガーは従来の「存在」や「時間」の理解のされ方に疑問符を付し、そこから自分の議論をつくっていくわけだが、そのやり方はたとえば次のような風である。

「存在」は自明な概念である。すべての認識作用、言明作用において、存在者に対するあらゆるふるまいにあって、じぶん自身へのいっさいのかかわりのなかで、「存在」は使用され、その表現はそのさい「ただちに」理解される。だれもが「空は青くある」(引用者注:イタリックは元々傍点。以下同じ)「私は喜んでいる」等々を理解している。しかし、こうした平均的な理解しやすさが現に証明するのは、理解しがたさであるにすぎない。平均的な理解しやすさがあらわにするのは、存在者としての存在者へとかかわるすべてのふるまいと存在とのうちに、ア・プリオリに一箇の謎があることだ。私たちはそのつどすでに或る存在了解のなかで生き、しかも同時に、存在の意味は暗がりのうちに蔽われている。(80)

ハイデガーが疑問を投げかるのは、「ある」という概念の「自明性」なのだが、そこで問題にされるのが、「「ただちに」に理解される」という点であるのがおもしろい。よりによって「ただちに」をハイライトするとは! 訳者の「注解」にもあるように、ハイデガーの議論はしばしばこうして副詞句を足がかりに――しかも特定の偏愛された副詞句ばかり――前に進むのである。さりげなく使われていると見える「そのつど」というような副詞表現にしても、実はけっこう重要な役割を果たしている。

現存在がそれに対してあれこれとかかわることができ、つねになんらかのしかたでかかわっている存在自身を、実存と名づけよう。この存在者の本質を規定することは、事象として〈なに〉が〔この存在者に〕付帯しているかを挙示することでは遂行されえない。その本質はむしろ、その存在者が、じぶんのものとして、そのつどみずからの存在でなければならない点にある。(115)

「そのつどみずからの存在でなければならない」なんて、よく言ったものだ。しびれる。前の引用でもそうだったが、まさか「そのつど」という副詞ごときで、こちらの視界がぐいっとひらけるなんて思いもよらなかった。でも、このあたりにまさにハイデガー語りの特色がある。「ただちに」にしても「そのつど」にしても、こうして副詞を概念のレベルに格上げすることで、私たちが何気なく時間や存在とかかわっているその「何気なさ」を上手に表に引きずり出し、きっちり、まるで写真に撮るようにキャプチャーしている。一種、ストップモーションで意識をとらえるような方式だと言えよう。

 問題は、こうした方法を本人が採用するからには、ハイデガーを読む側にもそうした方法が伝染するかもしれないということである。「そうか。こうしてストップモーションにすることで、私たちは物事をよりよく理解できるのか」という考えが読者の側に芽生えたっておかしくはない。つまり、「存在」や「時間」と同じく、本来、粘着的な連続体であるはずのハイデガーの思考や文章も、副詞や前置詞のような「足元的」でやや「矮小」な部分を手がかりに微分的に分解され、キャプチャーされうるということである。そういうストップモーション的な読みは、ときとして特定の用語や言い回しの一人歩きにつながるものである。ハイデガー自身がキャプチャー画像化してしまう。

 しかし、そうは言っても、筆者としてはハイデガーを読む楽しみは、このように「ただちに」や「そのつど」といった異様に接近的(「近視眼的」とは言わない)な視点を追体験するところにあるとも思っている。第一巻の山場は「周囲世界」とはどのようなものであるかが語られるところだと思うが、有名なハンマーをめぐるこの語りは、内容に同意するかどうかにかかわらず、「物事をこんなふうに語れるなんて……」という嘆息を引き起こしてもおかしくない。そもそもこのような視線や文体や思考方法が許されるのだと知るだけでも、ハイデガーを読む意味があるように思う。

ハンマーを振るうことは、ただたんに、ハンマーの道具性格をめぐる一箇の知識を有しているというだけのことではない。それ以上に適切ではありえないほどに、ハンマーという道具をじぶんのものとしていることなのである。このような使用する交渉にあって配慮的な気づかいは、そのときどきの道具を構成する、〈のために〉につき従っている。ハンマーという事物が呆然と眺められているのではなく、それがつかみ取られて使用されるほどに、この事物への関係はそれだけ根源的なものとなり、その事物は、それがそのものであるものとして、つまり道具として、蔽われることなく出会われる。ハンマーは振るうことそのものによって、ハンマーに特種的な「手ごろさ」が覆いをとって発見される。道具がそのうちでじぶん自身の側からみずからをあらわにする、道具の存在のしかたを、私たちは手もとにあるありかたと名づけよう。道具は手もとにあるという「自体的なありかた」を有しており、ただひたすら現前するというだけのものではない。(335)

なるほど、実に丁寧……というか、はっきり言ってしつこい。ハイデガーの語りには、自分の語りの流れそのものをコマ送りにするような、一字一句をこちらにつきつけるような執拗さがある。「手ごろさ」とか「手もとにあるありかた」というような言い回しがいちいち焦点化されている箇所はとくにそうだ。

 とにかく、しつこい。でも、そこがいい。このしつこさは人を酔わせるものだ。下手するとものすごく当たり前のことを言っているようにも聞こえなくはないのだが、そんな当たり前の「ハンマーのある日常風景」が、ほとんど魔術的な手際で神秘的な輝かしさを帯びてくる。「道具がそのうちでじぶん自身の側からみずからをあらわにする、道具の存在のしかたを、私たちは手もとにあるありかたと名づけよう」なんていう一節、ほとんど神々しいほどの迫力がある。「手もとにあるありかた」というフレーズそのものが、ひとつの思考法を具現しているのである。訳文で徹底して漢字が開かれているのも、半分は訳者の趣味かもしれないが、もう半分はハイデガー的思考法の反映なのに違いない。なるほど、文は人なりと言うが、『存在と時間』はまさに文体によって生かされている書物なのだ。


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