« 『国語教科書の闇』川島幸希(新潮社) | メイン | 『存在と時間(一)』ハイデガー著 熊野純彦訳(岩波書店) »

2013年10月30日

『第九夜』駱英(思潮社)

第九夜 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「近づきすぎないのが肝心」

 こういうわけのわからないエネルギーに満ちた詩に出会うのは久しぶりなので、何だかお礼に差し上げるものもなくて、おたおたしてしまう気分である。原文は中国語だが、その勢いを見事に日本語に移した訳者・竹内新氏にも敬意を表したい。

 読み始めると、あちこちよくわからない。何より語り手。自分のことを「馬の変種或いは異形」だと言う。では、この人は馬なのか? この作品は「ウマ詩」なのか? でも、別に『吾輩は猫である』みたいに、馬の目から世の中をながめてみたらけっこうおもしろおかしい……などという牧歌的な設定ではない。むしろこの人は、まったくもって人間なのだが、自分を馬と呼ばざるを得なくなった一種の「ウマ人間」。まるで馬みたいに野蛮な(?)、あふれる性の力に自分でもおののいているらしい。

 冒頭部から詩は「オレはついに認めざるを得なくなった。オレは実は馬の変種或いは異形なのだ。/二十一世紀という光り輝く時代、オレは突然、天からは離れ、地獄には隣接するところに身を置く、特殊な種ということになった。」と強烈な口調で、その「思い込み」の激しさはどんどん深化していく。

 例えば、オレの性欲は、オレのあらゆる文化レベルを覆い隠してもおつりが来るほどであり、そんなところからは、たとえどのような言葉を用いたとしても、高層ビルが地球の至るところに建てられた時代のセックス行動は、とうてい説明できるものではない。(中略)
 堕落を享受する過程というのは、ちょうど人が朝のたびに、鏡と自分とに向かって悪態をつき、誰もがいきなり我知らず、鏡を徹底的に打ち砕く羽目になってしまうようなものだ。

 性欲は堕落のそもそもの原因、発育の過程であり、一個のヒト、例えばオレを、どのような情況下においても、取るに足りない、別の言い方をすれば、生きているのか死んでいるのかも不明なものへと変貌させるのに充分なものだ。(10-12)

 この出だしを読んだだけでも、こんな文章を書いたのはどこの変人だ!と怒る人が出てきそうだ。病気だ、という人もいるだろう。確かに設定は雑、というか不明で、そのわりに言葉は強い。しかもイメージは一見平板で、ある種の精神疾患に特有な言葉の機能不全と、それに伴う世界像の縮こまりとを思い起こさせる。言葉が世界の中に降り立っていないように見えるのである。世界の中ににじみ出したり、逆に世界をしみこませたりという親和性のおよそない、とにかく勝手に暴れて仕方の無い言葉。人も、世界も、寄せつけない言葉。

 馬の変種と異形だけが、性欲の発生やその完遂を、二十一世紀に向けて予約あるいはもう一歩進めて言えば、発注することができる。
 だから、もはや自分ではなくなったということによって、オレは自然に性欲の快感や絶頂快感を賞味するに至り、さらに、その故に大いに感激し、誇りを感じた。
 さらに同様に、その故にオレは、一切のヒトたる権利や自尊を、酔生夢死、肉欲至上における最高水準に達するために、自ら放棄することができた。(12)

 こういう所属不明の、どこに達するのか何をしたいのかよくわからない言葉というものは、多くの場合、「未熟」とか「稚拙」などとカテゴリーにわけられ隔離されてしまうのがふつうだ。しかし、この作品にはそうしたカテゴリー化に抵抗し、最後まで「何なのだ、この人は?」とこちらをはねつけつづける持続力がある。まるで自分のまわりに磁場を張って、ぷかぷかとリニアモーターカーのように宙に舞い続けながら最後まで突進するようなエネルギーがある。

 作中ではエリオットの『荒地』やギンズバーグ「吠える」への言及もあるが、たしかにこうした詩人たちの何よりの特色も、こちらを寄せつけない、ほとんど対人恐怖症的な一方通行の語りだった。『荒地』冒頭部がおもしろいのは、その技巧や言及よりも、近づけそうで近づけない、わかりそうでわからない気持ち悪さゆえである。『荒地』を賢しげに読み解いたところで、その「ご立派さ」については語れても、決しておもしろさにまでは言い及ぶことはできないだろう。『荒地』を語るなら、むしろ「いかにわからないか」を語らなければならない。距離が大事なのである。そういう意味では『第九夜』を読むためにも、理解しようなどとは思わずに、詩の言葉に勝手に暴れさせるような距離が必要となる。近づきすぎてはいけない。

 とはいえ、この詩にもまったく取っかかりや枠組みがないわけではない。まず、話題として明確に前景化されているのは性である。「処女」「猥褻」「初潮」「乱倫」「乱交」「絶頂」「淫ら」「独占」「殺害」「陵辱」「性器」「フーコー」「肛門」「乳房」というふうに、ありとあらゆる性にかかわる話題が出てくる。ただ、それらはあくまで記号化され、観念化されたもので、作品の中で個別性とともにときほぐされるわけではない。正確に言えばこれらは話題になっているというよりは、現代のさまざまな言説の中からハサミで切り取られ、コラージュされているのだ。「グローバル化」とか「スタバ」とか、さらには「ハイデガー」「ハイエク」「エリオット」「ギンズバーグ」といった一連の名前も、ほとんど連呼されているだけに聞こえる。にもかかわらず不思議なのは、「フーコー」のような名前に語り手がよくわからないこだわりをみせていることで、何度も何度も「フーコー以降の」といった形で、うわごと的に「フーコー」という固有名が繰り返されるところがおもしろい。

 つまり、この作品では、語り手の話題にしている概念や名前も、どこか宙に浮いた言葉のように見えるということである。そういう言葉を手にとってはどんどん捨てていくようにして、詩が前に進む。言葉のひとつひとつをいとおしむようにして書かれる詩とは、具材の扱い方がまったく違うのである。むろん、こういうやり方に神経を逆なでされる人もいるだろう。しかし、考えてみれば、「ヒステリーの喜悦の喘ぎ」(「第一夜」29)という一節からも想像されるように、この詩はまさに暴れる「神経」そのものを主役にしたものなのだから、神経を逆なでされること自体にこの詩の読書体験の核があるとも言える。

 ところで、この作品にはもうひとつ重要な枠組みがある。タイトルにもある「第九夜」である。詩集は「馬篇」と「猫篇」からなり、それぞれが「前夜」「第一夜」「第二夜」「第三夜」……「第九夜」「終章」という形を与えられている。圧倒的な力を持っていたのは「馬篇」の方だと筆者は思うので、この書評でももっぱら「馬篇」を取り上げているが、その「馬篇」の中でもうねりというか、「夜」ごとのトーンの変化はある。孤独が語られたり、都市の風景に目がいったり、あるいは荒地を眺め渡すような場面もある。とくに印象に残るのは、それぞれの「夜」のトーンを決定する各冒頭の部分である。

 人間達よ。どうした? おまえ達は一体何をしでかしたのだ?!

 敬愛する友よ。言葉を換えれば、おまえ或いはおまえ達よ。馬の変種と異形の身分と地位故に、オレはどうしても、陽の最初のひとすじがオレの船倉を掠めすぎる前に、この問いかけをすっかり終了しなければならない。(「第二夜 馬の誘拐」33)

遁走とは、逃げ去るにしても、遠くへ行くにしても、避け隠れるにしても、いずれにしろ手にしたコーヒーが次第次第に冷めてゆくようなものだ。

 セックスでへとへとにされたとき、遠くへ逃れたいという思いは、過度のセックスと同じように、おまえの心を掘り尽くして空っぽにしてしまうのだ。

 地獄に対する想像から飛び出してしまったら希望は死滅する。(「第六夜 馬の遁走」 75)

 オレは遂に七五六四メートルの高みに到った。

 荒地そして前の一世紀を振り返れば、くっきり見える。草原の一つ一つ、山の一つ一つ、石ころの一つ一つ、土饅頭のひとつひとつ、死体の一つ一つ、すべてがむき出しのまま、危害を加える者と加えられる者との姿勢を保ち続け、独占することと独占の対象となること、楽しむことと楽しみに供されることの余韻を保ち続け、変種にされ異形にされた形状を保ち続けている。(「第七夜 馬の荒地」 87)

 こうした冒頭部がしばしば遠くの何かに呼びかけたり、何かを見渡したりするジェスチャーになっていることには注意すべきだろう。この遙々とした視界の広がりが、きわめて強烈な言葉のエゴと、その裏に隠れた「すき」のようなものを一度にあらわしている。これにつづいて、中盤から後半にかけてはどの「夜」でも叫ぶような歌うような言葉の並列があったりするが、この並列もまた圧倒的で、ホイットマンを同時代に得たような気分になる。

 このウマ人間の語る詩を訳すに際し、訳者はオートバイを主人公にした丸山健二の『見よ 月が後を追う』を思い出しながら訳したという。原詩はごく短期間で書き上げられ、それも「狂わんばかり」に書いたとのこと。それはそうだろうなと思う。こんなもの、冷静に書けたらおかしい。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mt-tb.cgi/5537