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2013年09月29日

『爪と目』藤野可織(新潮社)

爪と目 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ぜんぶ読ませないと気が済まない小説」

 遅ればせながら芥川賞受賞作。当欄でも、すでに大竹昭子さんが取り上げておられる。

 読みはじめての第一印象は、こちらの読書のぜんぶを面倒みてくれる文章だな、ということだった。たいていの小説はどこか雑然としているから、読んでいると風が吹き抜けたり、ゴミが落っこちてきたり、インターフォンが鳴ったりする。それでけっこう気が散ったり、間が空いたり、下手をすると読むのをやめてぼおっとしたりする。そういうところまでが作品の一部と感じられる。

 「爪と目」の中でも、文字通り風が立ったり空が見えたり、インターフォンが鳴ったりするのだが、それがぜんぜん雑然とした立ち方や見え方や鳴り方ではなく、すべてが隙間無くつながっていると思える。まるで隠れた意図でもあるかのように。呪いでもかかっているかのように。一語一語の選択にも神経質なほどの意思を感じるし、文と文の間にもきっちりプロットがあり、ちょっとゆるくなったかと思うと、すぐにぎゅっとしぼりあげられる。

 それがまさに読みどころでもある。この作品にはところどころでぎゅっとしぼりあげられる、その快楽で読んでしまうところがあるのだ。必ずしも意味ありげな警句などではない。ごくふつうのことばなのだが、どういう加減かそれがワンランク違う響きとともに、ぐいっと割り込んでくる。たとえば次のようなものだ。

父は、できるだけ早くあなたを妊娠させるつもりだった。けれど、うまくいかなかった。(31)

わたしは、ものすごく目がいいから。強度の近視の視界が想像できるくらいに、わたしは目がいいのだ。(33)

でも、わたしがスナック菓子を食べる姿は、わたしが持っているあらゆる未来を食い荒らしているように見えた。(36)

わたしの裸足が踏むコンクリートの床は、場所によってはわたしの足の裏よりあたたかかった。(66)

 こういう部分の語調の、その引き締まった強烈さからは、冷たい観察や嘲りも読めるし、断罪や、怒りだって読めるかもしれない。あるいはもっと純粋な暴力性かもしれない。いずれにしても、何だか得たいの知れないこもった感情性を読みとりたくなる。これは、作品全体に見られる、隙間をみっちり埋めた感じとも通ずるように思う。読者の視界を隈無く引き受ける精妙さの背後にあるもの。それはいったい何だろう。

 その答えを得るためには、これがいったい誰の小説なのかを考えなければならない。この作品、実は主人公が誰なのかが、最初はよくわからない。とくに最初の一文のまわりくどさときたら!

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は『きみとは結婚できない』と言った。

 いったいどういうことだろう?――日本語の試験に使いたいくらいだ。何しろ、短い文に「あなた」「父」「君」、そして言外の「わたし」が一挙に出てくる。読み直してみれば文法的にはわかるだろうが、あいかわらず変な気分は残る。大竹さんがこの作品で使われる「あなた」の不思議さについて「三半規管をおかしくする」という絶妙の比喩で説明しているので、是非、そちらも参照していただきたいが、いちおう設定としては、視点が三歳の女の子におかれているということらしい。より正確に言うと、三歳の頃の自分の状況を回想する大人の女がその陰にいる。でも、作中、この大人の女にはほんのわずかしか言及がない(その言及はたいへん意味深い。どうして二の腕をつかんでいるのだろう…〈69-70〉)。

 この女の子の母は、謎の事故で死ぬ。残された父は浮気相手だった女性と同居することになった。この女性が「あなた」なのである。父と眼科医で出会った「あなた」には生活感が希薄で、友人もおらず、人生に対する意思のようなものがあまり感じられない。美人でもない。でも、なぜか男を引き寄せる。「あなた」は来る者は拒まず、去る者は追わずという態度で、男たちとも何となく付き合ってきた。女の子の父親と同居するようになっても、このやり方は変わらない。

 ただ、「あなた」にはひとつだけこだわりというか、急所があった。目、である。裸眼で度数が0.1もない目にコンタクトレンズをはめて、「あなた」は世を渡ってきた。傷つきやすい繊細な目である。この女性を「あなた」と呼ぶ女の子は、対照的にたいへん視力がいい。そのあたりからしてすでに、目をめぐる緊張関係が仕組まれているのだが、やがてこの薄弱な目をめぐって事件がおきる。はじめはちょっとエロティックだけど些細と思えるような、しかし、最後は実に恐ろしい、読んでいるだけでも神経がつらくなるような出来事である。

 ミステリーめいた気配の中で最後までドキドキしながら読み進めてわかるのは、この作品に二種類の神経が行き渡っているということである。一方は、美人ではないという「あなた」が世渡りのために必要とした神経である。人はときにそうした神経を「計算」と呼ぶかもしれない。たとえば「あなた」は、女の子の父親と同居した後に付き合いはじめた古本屋に、自分の本当の素性はあかさない。

あなたは、わたしが自分の産んだ子どもではないことも、父と入籍していないことも、父に死んだ妻がいることも古本屋には話していなかった。そのことが古本屋とのつきあいに影響をおよぼすとはあまり思えなかったが、説明するのが面倒だったのだ。(42)

たしかに「面倒」だったのだろう。しかし、そこで「面倒」だと思うような、その淡泊さというか、冷たさというか、寡黙さ、無神経さなどとも呼べるもの、それがおそらくは男たちを引き寄せてきたのだろうし、おそらく「あなた」も無意識のうちでそのことを知っていた。つまり、なかば承知のうえで、「あなた」はいろいろなことをしないですませてきた。やらずにすませたり、見ないですませたりしてきた。それが彼女なりのライフスタイルであり、人生に対する神経の使い方なのである。

 これに対し、もうひとつの神経は「わたし」のものである。こちらは、ちょっと違う。爪の先端を食いちぎるような「わたし」の癖にもあらわれているように、「わたし」の神経は小さいものや細かいものにどんどん向かっていく。どんどん見る。どんどんやる。しかし、「わたし」に見えているのは、その細かい先端だけなのである。背景も文脈も見えない。だからこそ、あの恐ろしい結末にもつながった。

 おそらく多くの人は、神経質なまでに無神経を維持することでバランスを保ち、生活を守っているのだろう。しかし、女の子はそうした領域を、容赦なく視線の威力で暴いていく。その精妙なことばは、最初から最後まで電気がぴりっとするような緊張感をはらんでいて、こちらがちょっとでも目をそらそうものなら容赦はしない。「爪と目」はそういう小説として書かれているのである。


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2013年09月17日

『アイルランドモノ語り』栩木伸明(みすず書房)

アイルランドモノ語り →紀伊國屋ウェブストアで購入

「だからアイルランドはおもしろい」

 栩木伸明氏は、今、日本でもっとも元気な外国文学者のひとりだろう。専門はアイルランド文学。筆者が最初に手に取ったのは『アイルランド現代詩は語る ― オルタナティブとしての声』(思潮社)という著作で、研究者の本といえばテクスト分析や批評理論の応用が主流の中、直接アイルランドに乗り込み、活躍中の詩人たちに次々に体当たりでぶつかっていくスタイルが新鮮だったのをおぼえている。

 その後も栩木氏はキアラン・カーソン、ウィリアム・トレヴァー、コルム・トビーンなどの翻訳を精力的にこなす一方、持ち前の体当たり式で調査や研究の方もすすめてきた。本書もその成果のひとつである。ただ、体当たり式というと、やや屈強で、ラグビー部フォワード的な印象を与えるかもしれないが、栩木氏の美点は俊敏な突撃性を保ちつつも、決して強引にも、腕づくにも、頭でっかちにもならないところである。本書の後半では交通の便の悪い村に辿り着くためにヒッチハイクをしたエピソードが出てくるが、おそらく道路端で手を上げる栩木氏からは決して相手に襲いかかったり組み伏せたりしそうにない、むしろどんな相手でも逆にもてなしてしまうような、やわらかい包容力が漂っていたに違いない。だから車も停まってくれたのだ。

『アイルランドモノ語り』はそうした栩木氏の持ち味が存分に発揮された本である。タイトルにもあらわれているように、本書はアイルランドを、現地で収集した「モノ」の視点からとらえようとした試みである。栩木氏は「それらのモノたちが語る身の上話に耳を澄ましながら、時空をつなぐ路地歩きを続けた」(259)という。出てくるのは必ずしも狭い意味での「モノ」とは限らない。鶏だったり、馬車だったり、真鍮のボタンだったり、防空気球だったり、ときには生きている人間の手や、泥炭の中の死体や、歴史上の人物だったりもする。

 だが、そうしたモノからモノへの彷徨に共通してあるのは、独特の距離感である。「おや」「へえ」と、まさにモノをのぞき込むようにしてしげしげと対象に見入る栩木氏の眼差しは、モノに没入し、そうすることでその向こうの時間や土地へと飛び立とうとするものである。あえて全体を俯瞰せずに〝近眼〟(ちかめ)を保っているうちに、現地のいろんな人から情報が届けられ、物語が物語を呼ぶかのようにスルスルと話がつながってしまう。

 たとえばトーリー島を訪れた栩木氏は、100年以上前にこの島の灯台の近くで沈没した英国軍艦ワスプ号の話を耳にする。中でも「キング」と呼ばれる、島の長のような人物がじかに語ってくれた話には、物語めかした脚色も加わっていて、思わずつり込まれてしまう。

……さて、この軍艦が灯台近くの岩にぶつかって沈没した後、ひとりの島人が臨時雇いの灯台守として当直勤務していた。これは特別なことではなくて、灯台ではいつも島人が補助員として働いていた。たまたまその時、本職の主任灯台守が外を見回っていて、島人のほうが食堂兼居間にいた。主任は風防つきランプを持っていたんだが、あの時分のランプは性能が悪かったから何も見えなかった。ただ、カモメがやたらに鳴いている声がした。食堂兼居間へ戻った主任灯台守が補助員に、「今夜はカモメがばかにうるさいが、どうかしたのかねえ」と語った。それからふたりは外へ出て、風防つきランプをかざしながら耳を澄ました。島人が言った――「こりゃあカモメじゃありません。人間の叫びですよ!」ふたりは食堂兼居間へ戻ってオイルスキンのコートを着て、長い石塀にはさまれた通路伝いに、灯台の裏へ回った。そして補助員のほうが石塀に手を突いて、塀を乗り越えようとしたんだ。その瞬間、手のひらに触れたのは石塀ではなくて、人間の手だった。生存者の手だったんだよ。(36-37)

 このように不意に「人の叫び」を聞いてしまったり、知らず「人間の手」をさわってしまったりするところに、いかにもアイルランド的な空気が感じられるように思う。人口が152人しかいない過疎の島に「キング」などと呼ばれる長がいて、語り部の役割まで果たしているのもそうだが、アイルランドのスケール感には独特な「近さ」がつきまとう。だからこそ、物語が物語を呼び…というような連鎖性も生まれうる。

 本書はそうしたアイルランドの距離感を、モノと土地に寄り添うような視点を採用することでうまく生かしている。栩木氏は「蛇足をくわえれば」などと遠慮がちの姿勢をとりながらも、思いもかけない地点まで物語の余波をたどっていく。次に引用するのは、1910年代、イギリスからの独立をめざずアイルランドで起きた「バチェラーズ・ウォーク河岸虐殺事件」の顛末を語る一節である。この事件では独立をめざす義勇兵の動きに反応して出動したイギリス兵が、一般市民の抗議に過剰反応して発砲、死傷者を出したのだが、これには後日談があったという。

 さらに蛇足をくわえれば、〈バチェラーズ・ウォーク河岸虐殺事件〉における最年少の負傷者は、現場をたまたま自転車で通りかかったルーク・ケリーという名の少年であった。幸い傷は軽く、長じたケリー氏はプロはだしのフットボール選手になり、水泳も得意だったという。あるとき友人と賭けをして、帽子をかぶったままリフィー川を泳いで横断したところ、賭けには勝ったものの警察に逮捕された。新聞には、「フットボールの有名選手自殺未遂」という見出しが載ったという(Geraghty, _Luke Kelly: A Memoir_, pp.18-19)。このやんちゃ男が結婚した妻との間に生まれてくる男の子にも同じ名前がつけられる。この2代目ルーク・ケリーこそ、1960年代初頭、アイルランドの伝承歌を現代的にアレンジして聞かせる先駆的なバンド、ザ・ダブリナーズを結成し、歌手として名を馳せることになる人物なのだ。(「シャムロックの溺れさせかた」に登場して、「ラグランロードで」を歌ってくれたあのルーク・ケリーである)。彼の得意曲に数々の反英抵抗歌が含まれていたのは、決して偶然ではないだろう。(180)

 こうした後日談の中には、どこまで本当かわからない話もある。「物語というものは語り継がれれば継がれるほど、真実を開く鍵が次々に隠されていくようにできているらしい」と、アイルランドを知り尽くした栩木氏は言ったりする。しかし、もちろん、そうした嘘っぽさまでも含めてのアイルランド性なのである。そこにあるのは単なる嘘ではない。嘘を嘘とは思わせないような、モノのモノらしさを突きつけてくるような、ぬっとせり出して匂い立ってくるような具体性が伴うからこそ、私たちはそれを信じたくなるのである。

 筆者がとりわけ楽しんだのは「防空気球」の話である(201-220)。第二次大戦中、軍需工場があったためにドイツ軍の爆撃にさらされたベルファストでは、なけなしの対抗措置として防空気球なるものが用意された。空に浮かべて爆撃を防いだ(?)という。しかし、ロンドンにはそれが1400個備えられたのに対し、ベルファストにはたった5つしかなかった。これではほとんど役に立たない。くわえて、こんな事件まであったという。

もうひとつ思い出すのは戦争がはじまった頃の話。バリーガリーの小家に引っ込んでいたグレインジ家一同が、バリークレアに持っているパブへ引っ越してきた日のことです。近くに防空気球がいくつか係留してあったのですが、ひとつの気球のワイヤーが根元からはずれて、先っぽが彼らの自動車を引っかけたのです。自動車は空中へ釣り上がり、立ち木に引っかかってようやく止まりました。けが人こそ出なかったものの、見ていた人は皆たまげました。グレインジ家は、バリークレアに所有していたそのパブでワインやスピリッツを自家瓶詰めしていたので、酒瓶に貼る新しいラベルをあつらえました。銀色の防空気球の絵の下に「高級ワインとスピリッツならJ・W・グレインジ」という屋号を入れ、さらにその下に「その他もろもろを見下ろして」というモットーを添えました。今日にいたるまで、バリークレアのグレインジ酒場の破風壁画にそのモットーが書いてあります。(サム・グラスの話、2004年6月8日投稿、BBCのWW2 people's Warのサイトより)(208-209)

 栩木氏自身、この話はさすがにホラかもしれないと疑っているようだが、そもそも防空気球などという牧歌的な兵器の存在に、ファンタジーの香りが漂っているのだから仕方ない。そういえば筆者の聞いたところによると、第二次大戦中のイギリスではドイツ軍の上陸に備え、敵を攪乱するために交通標識がわざとあさっての方角に向け変えられたそうである。ところが戦後、その標識を直し忘れたために今でもイギリスの標識はたいへんいい加減だ、という嘘だか本当だかわからない話がある。一方、栩木氏によるとアイルランドの標識の特徴は「矢印板が指している方向がしばしば微妙」とのこと。しかも、分かれ道そのものに至らないと標識があらわれない。だから、いよいよ道を選択しなければならないその直前になっていきなり「微妙な標識」に面と向かわざるをえない旅人はたいてい道をまちがえるらしい。果たしてこれはイギリス支配の名残りなのか、アイルランド独自の空間感覚なのか、迷うところである。


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