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2013年07月15日

『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋(新潮社)

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「なぜ他人に触られると気持ちいい?」

 私たちはときに「やっぱり皮膚感覚が大事だよね」などと口にする。まるで「皮膚感覚」がハードな学問や綿密な思考よりも上位に立っているかのように。しかし、そのような言い方で「皮膚感覚」に言及するとき、本当は私たちは「皮膚感覚」をあまり信用せず、軽視しているようにも思う。皮膚など所詮表層=表面=覆い=見かけにすぎない、本当はその下にある内臓や血管や、財産や法律や、命や魂の方が大事に決まっている、と。だからこそ、つかの間、「皮膚」にこだわってみせるのだ、と。

 本書の著者傳田光洋は「皮膚」のことを本気で、徹底的に考えてきた人である。つかの間どころではない。この本を読むと、私たちが何気なく「やっぱり皮膚感覚だよね」などと口にしてしまう背景に、たいへんな歴史があることがわかってびっくりする。傳田の仮説はこうだ。人類は120万年前に体毛を失った。それまでは人類は「毛づくろい」を通して互いに快感を与え合いコミュニケーションを行ってきた。しかし、体毛を失うことで、人類はその道具を失ってしまった。人類が体毛にかわるものとして言語を獲得したのは約20万年前。それから現在に至るまで、言葉は人類にとって最大のコミュニケーションの道具となってきた。言葉によって人類は互いに愛撫し、抱擁し、慰め合ってきたのである。しかし、体毛を失ってから言葉を得るまでの100万年の間、ヒトはいったいどうしていたのか? そこで大きな機能を果たしていたのが、コミュニケーション装置としての皮膚だった、と傳田は言う。

 傳田は皮膚をめぐる古くからの常識から最新の科学的知見までをわかりやすくならべ、情報を読み取ったりエネルギーを制御したりする装置としての皮膚の賢さを示してみせる。皮膚は光りを感じ、音をとらえる。若い女性が皮膚温の低下を通して、男性の気持ちが冷めたことを見抜くといった、一見お茶の間心理学的・バラエティ番組的な話題も、皮膚の組成や実験を通し実証的に解説されていく。

 化学用語になじみがない人は(筆者もそうだが)、こうした説明が本格的になればなるほど理解に困難を感じるかもしれないが、それにつきあう価値は十分ある。とくに読み応えがあったのは、「感覚」と「知覚」の区別を出発点に、人間の自己意識がどこから生まれてきたかを考察する箇所である。傳田はその背景にある考え方を以下のように手際よくまとめてみせる。

 多細胞生物が現われ、全身にいきわたる神経網が形成されるようになると、感覚で得られた情報を再構築しはじめます。それは、大きくなった個体が、環境の変化に対して、より効率よく対処するための有効な手だてです。そのように処理された感覚情報をハンフリー博士は知覚と定義します。そして進化に伴って複雑になった知覚を統御するために「自己意識」が必要になってきた、というのです。個人の意識は物理的な実体のあるものではなく、さまざまな脳の生理学的状態であって、それ以上のものではないのです。(132)

こうした部分からもわかるように、著者は心身二元論を否定する立場である。心とか魂でことを説明したりはしない。そしてあらゆる思考の中で数学的思考が最上位にあり、数学こそはまさに神が人間に与えた最高の恵みだと考える。そういう意味での「神」しか、著者は認めないという。

 こうした考え方に反発する人もいるだろう。筆者自身の感覚としても、意識は脳の生理反応にすぎませんと言われて、素直に「よくわかりました」とは言えない気がする。筆者の「皮膚感覚」が、疑問を呈するのである。もちろん、その「皮膚感覚」が間違っている可能性は大きいのだが。ただ、おもしろいのは、これだけ柔軟な思考をし、物理や化学だけでなく、レヴィ・ストロースからトーマス・マンまで幅広いジャンルからの引用を駆使しながら、皮膚という境界領域のその曖昧さゆえのおもしろさを理系文系の両面から上手に説く著者が、ほとんど頑固なほどに「自分は心身二元論は受け入れない」と強調している、ということでもある。

 研究者としての著者を支えてきたのは、「環境に接する境界」、すなわち「皮膚」にこそ情報やエネルギーを統御する機能が集中しているのが合理的だという生命観である。「皮膚感覚」という、下手をすると扱いの難しい領域を探究するにあたって、著者はこうした強固な信念を持ってきた。その土台の揺るがなさゆえに、さまざまなジャンルへの越境もスムーズに行われ、「なぜ自分で自分をくすぐっても、くすぐったくないのか」とか、「なぜ自分の声を録音して聞くと不快なのか」「なぜ自分のおならは(それほど)臭くないのか」といった身体感覚一般についても合理的な説明が加えられる。

 ただ、注意しておいていいのは、皮膚という領域のもつ「あやしさ」をいかに抑制するかに、著者がたいへん気を遣っているということでもある。中には、皮膚感覚を扱った本書を読み、その内容に満足しつつも、同時に次のような感想を持つ人もいるだろう。すなわち、なぜ「スキンシップ」のことは書かれていても、「性」のことは書かれないのか?と。あるいは、人に触られて気持ちいいこともあるけど、気持ち悪いこともあるでしょう?と。

 このことが著者の心身二元論に対する態度とつながりがあるのかどうかはわからないが、少なくとも性の問題を封印することでこそ、この本が豊穣な思考の場を提供してくれていることは間違いない。つまり、性や愛の問題がはいってくると、境界領域をめぐるせっかくの微妙な議論が粗くなる可能性がある。性愛の問題は、とかく「何でもあり」になりがちなのだ。いや、「何でもあり」の気分をもたらすことこそが、ひょっとすると性愛の最大の機能なのかもしれない。

 著者が化粧品会社の研究所に勤めていることが関係あるのかどうか、後半ではメイクアップの問題にも一章が割かれる。でも、油断してはいけない。化粧はいいですよ、やっぱり化粧品にお金をかけましょう、などという単純な話ではない。古代の入れ墨が、実は人間のツボの位置を示していたなどいう説が紹介されると、あらためて皮膚問題の深さに感嘆するのである。


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