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2013年07月28日

『対訳 ディキンソン詩集』エミリー・ディキンソン作・亀井俊介編(岩波文庫)

対訳 ディキンソン詩集 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「ディキンソンの性格」

 筆者は、ディキンソンという詩人は昔からどうも苦手だった。頑固でマイペースなのはいいとして(詩人なんてだいたいそうだ)、言いたいことがあるわりにいつまでも口をつぐんでいて、こっちが「どうかなさいましたか?」と言うのを待ってるようなところがどうも面倒くさいのである。もっと、どんどんいきましょうよ、歌いましょうよ、食べましょうよ、と言いたくなる。

 でも、授業でアメリカ詩をやるとなると、やっぱりとりあげないわけにはいかない人だ。仕方ないから、いかにもこの詩人らしいなるべく陰気な作品を2、3選んで(自分で自分の葬式の場面を想像しながら実況中継するとか、「後悔」とは何かについてじくじく考えるといった詩)、なるべく足早に通りすぎるのである。

 ところが、学生さんの間でディキンソンは意外に人気なのである。ホイットマンよりよほど好まれている。短いからいいのか、陰気な人の方が共感しやすいのか、「ひきこもり」というのがアピールするのか、そのあたりはよくわからないのだが、そういうわけだから、今年の演習では夏学期に「一学期分ほぼぜんぶディキンソン」という試みをやってみた。やっぱり陰気だった。でも、毎週毎週ディキンソンばかり読んでいると、陰気な中にもちょっとちがった輝きが見えてくる。

 たとえば「私は苦悶の表情が好き」('I like a look of Agony')という、実に暗い出だしの作品がある。

I like a look of Agony,
Because I know it's true ―
Men do not sham Convulsion,
Nor simulate, a Throe ―

The Eyes glaze once ― and that is Death ―
Impossible to feign
The Beads upon the Forehead
By homely Anguish strung.

わたしは苦悶の表情が好き、
真実なのだと分かるから―
人は痙攣の真似などしない、
激痛を、装ったりもしない―

いったん眼がかすんできたら―それはもう死です―
見せかけることなどできはしない
質朴な苦悩をつらねた
額の汗のじゅず玉を。
(亀井訳)

本書の注釈にもあるように、この詩は従来、ディキンソンの「真実」に対するこだわりの強さを示すものと考えられてきた。たしかにそういうふうに読める。しかも、そのことを妙に冷静な、奥深い意地悪さをたたえた皮肉な視点から語っている。ディキンソンの「偉さ」を示す重要な作品の一つと考えられてきた所以である。

 そういう意味では「私は苦悶の表情が好き」というタイトルも、一見するほど暗いものではないのかもしれない。むしろ心がおだやかに落ち着いていくプロセスとも読める。「私は苦悶の表情が好き → だって苦悶は嘘をつかないから → だって真実がわかるから → 真実がわかることこそ心の糧」と言えるようになるためには、それなりの達観の境地に達している必要があろう。

 しかし、それだけだろうか。いくらディキンソンが現代人の想像の及ばない「遙かなる人」だったからと言って、この詩人をいたずらに神格化するのはよくないのではなかろうか(亀井氏の強調するポイントでもある)。たしかにディキンソンは、150年以上前のニューイングランドで引きこもり同然の生活を送り、毎日詩を書くくらいしか楽しみがなかった女性だ。しかも、1700篇もの詩を書きながら生前に発表されたのはそのうちの10篇程度しかないという、これ以上ないほどの〝日陰者〟の人生を全うした。しかし、だからと言って、私たちが彼女のことを「ごくふつうの人」として理解してはいけないいわれはない。

 ディキンソン=「ふつうの人」説に則って考えてみよう。たとえばふつうの人なら「わたしは苦悶の表情が好き」なんてわざわざ常識外れのことを言うときには、やっぱり、相手の人が「え?」とびっくりし、どぎまぎする様を期待したりするのではないだろうか。それでうまくいくと、「うふ」と笑ったりするのではないだろうか。そこには相手をびっくりさせてやろう、煙に巻いてやろう、という茶目っ気が読み取れる。とするなら、ディキンソンって、意外とふざけた奴だったのかな?という考えもちらっと浮かぶ。だいたい'Men do not sham Convulsion'(「人は痙攣の真似などしない」)とか、'The Beads upon the Forehead/ By homely Anguish strung.'(「質朴な苦悩をつらねた/額の汗のじゅず玉を。」)といった部分など、Convulsion, Anguishといった用語もいかにも重たげだし、語りの言葉少なな感じもわざとらしくて、やりすぎのB級ホラー映画のようにも見える。この「やりすぎ感」も、ディキンソンの個性の一部なのだ。グロテスクマニアで、注目を集めるのもけっこう好きで、ほとんど子供っぽいようなところがあった人なのではないだろうか。あるいは、そういうふうに思わせるところも魅力なのではないか。

 こんなふうに感じられるようになると、ディキンソンとの付き合いが前よりちょっとだけ楽になる気がする。ディキンソンの詩作品ですぐ目につくのは、「定義詩」と呼ばれる一群の作品である。詩の冒頭が'A is...'という定義の形ではじまり、その定義を深め展開するためにいろんな比喩が繰り出される。要するに、定義すること自体が詩になっているのだ。この選集にも'Exultation is the going,' '"Hope" is the thing with feathers―'といった作品がおさめられている。

 ひたすら定義するなんて、辞書みたいな人である。いかにも杓子定規で退屈な人と思える。でも、ディキンソンの定義癖には、意外と素っ頓狂なところも含まれている。彼女の定義は、決してひとつの正解に達するために行われるわけではない。むしろ定義すればするほど、言葉がずれたり、変なイメージがわりこんできたり、それから一番大事なのは、定義しようとしている本人が、そんな作業のレールから外れて、何だか別の物語を語ってしまったりすることである。今あげた「『希望』は羽根をつけた生き物―」('"Hope" is the thing with feathers―')などもその典型だし、この選集には入っていないが、'Fame is a Bee'という作品もそうだ。

Fame is a Bee.
 It has a song―
It has a sting―
 Ah, too, it has a wing.

名声とは蜂
 歌をうたうし
針があるし
 ああ それに 羽根もあるし

'Ah, too'とあるように、語り手はこの最後の行で思ってもみなかったことを口にしてしまう。蜂(Bee)はあくまで名声(Fame)を説明するために導きこまれた比喩だったのに、この比喩がほんとうに生命を吹き込まれて勝手にぶんぶん飛び始めるのだ。そんなふうに目の前を飛び出した蜂を見て、「あらら、飛んでる」と語り手本人がびっくりしている。まだ詩は終わっていないというのに。いや、この「びっくり」のおかげで詩が終わるのだ。一種の即興詩なのである。

 茶目っ気にあふれ、ちょっと子供っぽくて、悪のりも好き、しかもけっこう気まぐれ……そんなイメージが湧いてくると、毎日真っ白い服を着こんで家にこもった宗教的隠遁者という像も少しうすらぐかもしれない。どうだろう。これなら少しお付き合いしてみていいかな、という人も増えるだろうか。


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2013年07月15日

『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋(新潮社)

皮膚感覚と人間のこころ →紀伊國屋ウェブストアで購入

「なぜ他人に触られると気持ちいい?」

 私たちはときに「やっぱり皮膚感覚が大事だよね」などと口にする。まるで「皮膚感覚」がハードな学問や綿密な思考よりも上位に立っているかのように。しかし、そのような言い方で「皮膚感覚」に言及するとき、本当は私たちは「皮膚感覚」をあまり信用せず、軽視しているようにも思う。皮膚など所詮表層=表面=覆い=見かけにすぎない、本当はその下にある内臓や血管や、財産や法律や、命や魂の方が大事に決まっている、と。だからこそ、つかの間、「皮膚」にこだわってみせるのだ、と。

 本書の著者傳田光洋は「皮膚」のことを本気で、徹底的に考えてきた人である。つかの間どころではない。この本を読むと、私たちが何気なく「やっぱり皮膚感覚だよね」などと口にしてしまう背景に、たいへんな歴史があることがわかってびっくりする。傳田の仮説はこうだ。人類は120万年前に体毛を失った。それまでは人類は「毛づくろい」を通して互いに快感を与え合いコミュニケーションを行ってきた。しかし、体毛を失うことで、人類はその道具を失ってしまった。人類が体毛にかわるものとして言語を獲得したのは約20万年前。それから現在に至るまで、言葉は人類にとって最大のコミュニケーションの道具となってきた。言葉によって人類は互いに愛撫し、抱擁し、慰め合ってきたのである。しかし、体毛を失ってから言葉を得るまでの100万年の間、ヒトはいったいどうしていたのか? そこで大きな機能を果たしていたのが、コミュニケーション装置としての皮膚だった、と傳田は言う。

 傳田は皮膚をめぐる古くからの常識から最新の科学的知見までをわかりやすくならべ、情報を読み取ったりエネルギーを制御したりする装置としての皮膚の賢さを示してみせる。皮膚は光りを感じ、音をとらえる。若い女性が皮膚温の低下を通して、男性の気持ちが冷めたことを見抜くといった、一見お茶の間心理学的・バラエティ番組的な話題も、皮膚の組成や実験を通し実証的に解説されていく。

 化学用語になじみがない人は(筆者もそうだが)、こうした説明が本格的になればなるほど理解に困難を感じるかもしれないが、それにつきあう価値は十分ある。とくに読み応えがあったのは、「感覚」と「知覚」の区別を出発点に、人間の自己意識がどこから生まれてきたかを考察する箇所である。傳田はその背景にある考え方を以下のように手際よくまとめてみせる。

 多細胞生物が現われ、全身にいきわたる神経網が形成されるようになると、感覚で得られた情報を再構築しはじめます。それは、大きくなった個体が、環境の変化に対して、より効率よく対処するための有効な手だてです。そのように処理された感覚情報をハンフリー博士は知覚と定義します。そして進化に伴って複雑になった知覚を統御するために「自己意識」が必要になってきた、というのです。個人の意識は物理的な実体のあるものではなく、さまざまな脳の生理学的状態であって、それ以上のものではないのです。(132)

こうした部分からもわかるように、著者は心身二元論を否定する立場である。心とか魂でことを説明したりはしない。そしてあらゆる思考の中で数学的思考が最上位にあり、数学こそはまさに神が人間に与えた最高の恵みだと考える。そういう意味での「神」しか、著者は認めないという。

 こうした考え方に反発する人もいるだろう。筆者自身の感覚としても、意識は脳の生理反応にすぎませんと言われて、素直に「よくわかりました」とは言えない気がする。筆者の「皮膚感覚」が、疑問を呈するのである。もちろん、その「皮膚感覚」が間違っている可能性は大きいのだが。ただ、おもしろいのは、これだけ柔軟な思考をし、物理や化学だけでなく、レヴィ・ストロースからトーマス・マンまで幅広いジャンルからの引用を駆使しながら、皮膚という境界領域のその曖昧さゆえのおもしろさを理系文系の両面から上手に説く著者が、ほとんど頑固なほどに「自分は心身二元論は受け入れない」と強調している、ということでもある。

 研究者としての著者を支えてきたのは、「環境に接する境界」、すなわち「皮膚」にこそ情報やエネルギーを統御する機能が集中しているのが合理的だという生命観である。「皮膚感覚」という、下手をすると扱いの難しい領域を探究するにあたって、著者はこうした強固な信念を持ってきた。その土台の揺るがなさゆえに、さまざまなジャンルへの越境もスムーズに行われ、「なぜ自分で自分をくすぐっても、くすぐったくないのか」とか、「なぜ自分の声を録音して聞くと不快なのか」「なぜ自分のおならは(それほど)臭くないのか」といった身体感覚一般についても合理的な説明が加えられる。

 ただ、注意しておいていいのは、皮膚という領域のもつ「あやしさ」をいかに抑制するかに、著者がたいへん気を遣っているということでもある。中には、皮膚感覚を扱った本書を読み、その内容に満足しつつも、同時に次のような感想を持つ人もいるだろう。すなわち、なぜ「スキンシップ」のことは書かれていても、「性」のことは書かれないのか?と。あるいは、人に触られて気持ちいいこともあるけど、気持ち悪いこともあるでしょう?と。

 このことが著者の心身二元論に対する態度とつながりがあるのかどうかはわからないが、少なくとも性の問題を封印することでこそ、この本が豊穣な思考の場を提供してくれていることは間違いない。つまり、性や愛の問題がはいってくると、境界領域をめぐるせっかくの微妙な議論が粗くなる可能性がある。性愛の問題は、とかく「何でもあり」になりがちなのだ。いや、「何でもあり」の気分をもたらすことこそが、ひょっとすると性愛の最大の機能なのかもしれない。

 著者が化粧品会社の研究所に勤めていることが関係あるのかどうか、後半ではメイクアップの問題にも一章が割かれる。でも、油断してはいけない。化粧はいいですよ、やっぱり化粧品にお金をかけましょう、などという単純な話ではない。古代の入れ墨が、実は人間のツボの位置を示していたなどいう説が紹介されると、あらためて皮膚問題の深さに感嘆するのである。


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