« 2013年05月 | メイン | 2013年07月 »

2013年06月28日

『ラノベのなかの現代日本 ― ポップ/ぼっち/ノスタルジア』波戸岡景太(講談社現代新書)

ラノベのなかの現代日本 ― ポップ/ぼっち/ノスタルジア →紀伊國屋ウェブストアで購入

「おとなにも読めるラノベ?」

 ラノベとは何か? ライトノベルの略称だ、くらいはわかる。でも、実際に手に取ったことはないし、手に取る気もないし、どうせ中高生の「こども」が読むくだらん小説だろうと高をくくって、そのくせ「まるでラノベじゃんか」といったセリフだけは口にする「おとな」たち。

 明らかに世代間の断絶があるのだ。本書の目的はそんな断絶をきちっと整理しましょう、理解しましょう、というところにある。単なる断絶に見えるものにも実はつながりがあって、起源や影響があって、でも、微妙な違いもある。別にラノベを擁護しようというのでもなければ、弾劾しようというのでもない。病理として解剖しようというのでもない。あくまで現代日本を理解するための端緒にするのだと著者は言う。本書には「古典的ラノベ」からの抜粋が散りばめられ、さながらミニ・アンソロジー。その語り口からは自ずと著者のラノベ愛も伝わってくる。でも、あくまで中立的なスタンスを保ちつつ、歴史語りに重心を置こうとする意図が見える。

 本書でラノベ理解の鍵になるのは「ぼっち」という概念である。「ひとりぼっち」を語源とする「ぼっち」の位置は時系列的には明確だ。まず学園紛争世代に対して違和感を抱きアメリカ文化へとのめり込んでいった村上春樹的「ポップ」世代がいた。その後にその「ポップ」に乗り遅れた「ポストポップ」世代がくる。そこで強力な勢力となったのが「オタク」である。穂村弘、村上隆といった人々は「オタク」を相対化しつつも「オタク」の旗頭ともなった。しかし、「オタク」はやがて消費文化の波の中で単なるひとつのスタイルとして吸収されてしまう。「ぼっち」がくるのはその後だ。ラノベ世代はもはや「オタク」ですらないのである。

 「ぼっち」という語の由来が示すように、ラノベ世代の最大の特徴はその孤独の形にある。「オタク」が自己卑下と排他性に支えられていたのに対し、「ぼっち」はそうした「オタク」のあり方も含めて「大衆性」と距離をとる。「ぼっち」はあくまで一人なのである。「オタク」世代の典型的人物像が「ドラエモン」の主人公「のび太」だとすると、ラノベ世代の主人公もまた「のび太」なのだが、こちらは「オタク」のように自己卑下をしたり好みを軸に群れ集ったりしなくなった「のび太」なのである。『涼宮ハルヒの憂鬱』のクライマックス部を引用しながら著者は、ファミレスやコンビニやラブホテルが点在するオタク世代の典型的な都市風景に、もはや何の未練も感じなくなった「ぼっち」の感性の在処があると指摘する。

 フツーの世界よりも、アニメ的特撮的マンガ的物語の世界よりも、闇に包まれた閉鎖空間の方が、ずっと現実的で楽しいと感じられる感性が、ハルヒをして、ラノベならではの「ぼっち」なヒロインの原型たらしめているのだ。(87)

 とはいえ、「オタク」と「ぼっち」はかなり近接しており、「え?どこが違うの?」という意見も出そうだが、そのあたりを想定してか、著者はかなり丁寧にオタク世代の「のび太」とラノベ世代の「のび太」の微妙な違いを説明してくれる。詳細に興味のある人は是非本書のページをめくって確認していただきたい。

 他方、本書のページの多くはラノベ以前の現代日本文化論にも割かれている。村上龍、村上春樹あたりを起点とした学園紛争後の日本が、アメリカ文化に憧れ、それを内在化し、やがてはそうした葛藤そのものが消滅してラノベ世代に至った経緯が、日本文化の大きな流れとして描かかれる。終盤で持ち出されるノスタルジア/ノストフォビア(帰郷嫌悪)という概念は、故郷に対するアンビヴァレントな感情を示すものだが、ラノベ世代のノストフォビア特有の「軽さ」を指摘しつつ、彼らを「家出のできない」世代として提示した結末部には、本書の芯となる視点が示されている。

 ラノベのなかの「ぼっち」たちにとって、ノスタルジアは積極的な精神の動きでなく、どこまでも受動的なものだ。終戦以来、幾度もの断絶を抱え込んできた「現代日本」という名のノスタルジアの果てで、思い出のない人間の思い入れほど残酷なものはないという横寺青年の洞察は、ラノベという現代の「望郷の歌」の切実さを、どこまでも物語ってやまない。(176)

 さて。そういうわけでラノベ世代の位置はだいたいわかるわけだが、肝心のラノベそのものはどうだろう。本書にふんだんに引用されるラノベの抜粋を読んでも、ひょっとすると「何がいいのかさっぱりわからん」という人もいるかもしれないので、最後に筆者なりの感想を付しておきたい。以下に本書から孫引きするのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の一節である。

 そこは部屋。俺の部屋。首をひねればそこはベッドで、俺は床に直接寝転がっている自分を発見した。着ているものは当然スウェットの上下。乱れた布団が半分以上もベッドからずり下がり、そして俺は手を後ろについてバカみたいに半口を開けているという寸法だ。
 思考能力が復活するまでけっこうな時間がかかった。
 半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光る幾ばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点いている住宅の明かりを確認してから、部屋の中央をぐるぐる円を描いて歩き回った。
 夢か? 夢なのか?
 見知った女と二人だけの世界に紛れ込んだあげくにキスまでしてしまうという、フロイト先生が爆笑しそうな、そんな解りやすい夢を俺は見ていたのか。
 ぐあ、今すぐ首つりてえ!
 日本が銃社会を免れていることに感謝すべきだったかもしれない。手の届く範囲に自動小銃の一丁でもあれば、俺は躊躇なく自分の頭を打ち抜いていただろう。

 ひとつの文に「ぽつぽつと光る」「ちらちらと点いている」「ぐるぐる円を描いて」などとあると、いかにも稚拙というか無防備に見えるかもしれない。「そこは部屋。俺の部屋」といった書き方も何だか雑に感じられる。でも、無防備さや雑さそのものがウリではなさそうだ。引き替えに獲得しているものがあるとすれば、それはスピード感と、切れのある「突っ込み」だろう。

 考えて見れば、頻繁な段替えも自分自身の語りに対する突っ込みとして機能している。あくまで突っ込みだから、鋭い洞察や、深い反省にはならない。短く、浅くやるところがポイント。カッターナイフで皮膚の表面数ミリをぺりっとめくるような、突っかかりや蹴手繰りをことばで行うのである。それがあちこちで繰りかえされる。「夢か?」とか「ぐあ、」といったつぶやきめいた箇所だけでなく、先の「そこは部屋。俺の部屋」のようなところも、いちいちのことばが前のことばをめくり返すようにして投げ込まれている。「日本が銃社会を免れていることに感謝すべきだったかもしれない」といったほとんど意味のないコメントも、そんなカッターナイフ的突っ込みととれば、許容できるのかもしれない。

 そこで急に英文学モードになって言うと、これはあちこちにifを内在させた語りと言ってもいいのかもしれない。ほとんどの言葉が、「~だったりして」という仮定のもとに一種の条件節として語られており、言ったそばから取り消しがきくようになっている(「出してから消せるメール」みたいに)。でも、「これは取り消しがきくんですよ」ということを示すのは、意外と難しい。読者というのは元来まじめなもので、どうしても本気にとる。上手に――それこそ本気で――本気にならないにはどうしたらいいか? 考えて見れば、それは文学の長年の夢だった。というわけで、なんだ、ラノベだって結局目指すところはそれなんだ、というのが筆者のなかにむくむくと起きつつある感想なのである。


→紀伊國屋ウェブストアで購入

2013年06月10日

『憤死』綿矢りさ(河出書房新社)

憤死 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「手首をつかむ」

 本書巻頭の「おとな」は、四〇〇字詰め原稿用紙にして4枚足らずのごく短い作品である。この書評欄にまるごと引用するのも可能なほどの掌編。でも、実にパンチが効いている。これを立ち読みした人は、思わず本を購入するのではないだろうか。

 語りは幼い頃の夢の話から始まる。「何だあ、子供の夢かあ」と思う人もいるかもしれない。何となく展開が読めそうな気がする。きっと、少しだけ不思議で、少しだけ不安になるような、ほどほどに幻想的な、でも感傷的な余韻に満ちた終わり方をするんだろう、などと。実際、冒頭部では、幼い頃は「年月が過ぎてもいつまでも色あせず忘れられない夢があり、思い出と呼ばれる現実の過去と、ほとんど同じ量が頭にストックされている」というような一節があって、その後も、弟が寝る前にぐずったとか、自分が同じマンションに住む夫婦に預けられたといった、何となくもよもやした、ぼやぼやした、それほど緊張感のあるわけでもない日常風景が描かれている。

 1頁め。2頁め。読者は思う。ああ、もう終わりが近い。残された分量は2頁もない。このまま終わるのかなあ、と。すると、少しずつ胸騒ぎがしてくる。そういえば、あの昼寝の夢は変だった。母親も預けるのは不安だったようだ。そこへ、急に言葉が割り込むようにして入ってくる。

 と思っていたのがいまから二〇分前までの私だ。書き始めて気づいた。五歳だった私が、あんな夢を見られるわけがない。(8)

 何だかにわかに言葉の「顔色」が変わったような気がする。何がどう違うのかはわからないけれど、今までのうすらセピア色の感傷的な雰囲気がどこかに吹き飛んで、マンションの部屋が白々と蛍光灯で照らしだされたような気分である。はっと目が醒めたような。それまで積み上げてきた物語がぐらっと傾く。語り手が自分のストーリーに割り込んでくるなんて、ポストモダン小説の手法によく見られた転覆的な仕掛けだろうか。でも、それともちょっと違う。そんな陽気で、祝祭的なものではない。ここから始まるのは、もっと怖い話である。ぐいっと手首を摑むような。刑事に逮捕されるような。

 私は家族とともに、とうの昔に引っ越ししたが、あの夫婦はいまもあのマンションに住んでいるだろうか。その確率は低い。しかし二人がまだ関西に住んでいる可能性はそれよりは高い。私はペンネームを使っているが、もしかしたら彼らは、あのりさちゃんが違う名前で小説を書いているとどこかから聞いてすでに知っているかもしれない。もし知っていたら昔のよしみで興味をひかれて、この本だって読んでいてもおかしくはない。(8)

 あれ、「りさちゃん」なんて言ってる。そういえば「綿矢」というのはペンネームだが、「りさ」は本名だったはずだ。何、じゃあこれ、ほんとの話? え? え? ……こんなふうに思わせるあたり、芸が細かい。でも、ほんとに手首がしめあげられるのはその次だ。言葉の顔色がいよいよ怖いものになってくる。語り手はさらにじりっと身を乗り出して、こう続けるのだ。

ねえ、おぼえていますよ。ほかのどんなことは忘れても、おぼえていますよ……。(8)

 いや、引用はこれくらいにしておこう。小説はあと10行足らず。ぜひ、この最後の数行の醍醐味を実際に作品を手にとって味わってほしい。え、ほんとの話?と思わせる部分も含めて、書き手の存在の重みを感じさせる部分だ。これは小説家として、勝ちだろう。とくに最後の一行は見事。

 『憤死』はある意味ではいびつな構成の作品集だ。冒頭の「おとな」はたった4頁だが、それにつづく作品は「トイレの懺悔室」=62頁、「憤死」=35頁、「人生ゲーム」=59頁。別に掌編小説集というわけではない。ただ、冒頭に「おとな」が置かれていることの意味は、全編を読み通してみるとよくわかる。なるほど。作家はあれをやりたくてこれらの小説を書いたんだな、と思う。つまり、「おとな」のあの言葉の〝割り込み〟である。急に顔色の変わった言葉が、いきなり手首をぐいっと摑む。

 本書の残りの三編のうち、「トイレの懺悔室」と「人生ゲーム」は〝ホラー〟などと呼ばれてもおかしくない筋立てになっている。「トイレの懺悔室」では、子供達を家に呼びこみ、トイレを使って懺悔ごっこのような儀式をしていた男の「その後」が描かれている。男は大病をして見る影もない姿。かつて幼少期に主人公とともに儀式にくわわっていたゆうすけが、今、男の面倒を見ているという。しかし、実際に家に行ってみると何だか話しが違う。それで主人公が例のトイレに行くと…。ラストも含め、けっこう理詰めで展開される話なのだが、そうした論理よりも声の響かせ方に強い印象を受ける。クライマックスでは、「声だけがものすごく近くで皮膚にまとわりつ[く]」のだ(71)。ぐいっと聞こえてくる声なのである。

 とくに作家の持ち味が出ていると思ったのは、「憤死」である。出だしからして、実にとんがっている。

小中学校時代の女友達が、自殺未遂をして入院していると噂に聞いたので、興味本位で見舞いに行くことにした。(77)

 こんな冒頭部があったら、もう行けるところまで行ってしまえそうだ。実際、作品はこの冒頭部のインパクトを生かして、どんどん歩みを進める。回想もあるし、考察もあるのだが、語りの進み行くスピードはぜんぜん落ちない。自殺未遂を犯したのは、昔から太って醜かった佳穂(かほ)。凡庸なくせに「自慢しい」の子で、およそ人間的な魅力にも乏しかったが、友人のいない語り手にとってはとにかく一緒にいられる数少ない人間のひとり。好きではない、むしろ嫌いなくらいなのに、「特別嫌いというわけでもなかった」という消極的な理由でずっと近くにいた。

 小説では醜く凡庸な佳穂の今昔がたっぷり描かかれるが、それと同じくらいに、その佳穂に対して語り手が持ってきた、こもった感情が描出される。彼女は隠し持った悪意とともに生きてきた人物である。それが語りのトレードマークにもなっている。とんがって意地悪なそのいちいちの叙述は、言ってみれば小説中の「宣言された悪意」であり、看板であり、語り手にとってはそれを背負いつづけることが仕事なのだ。

 そんな自意識過剰な「意地悪屋さん」の彼女と、どちらかというと無意識過剰の佳穂との妙な拮抗を、作家は最後まできちんと描いてみせる。ふたりが実際にかわす言葉にはそういう関係だからこその、お互いに了解済みの「嘘」も多いようだが、小学生時代に佳穂が怒りを爆発させたときの「いいえ、なんでもありません」(90)という場違いな言葉はすごく印象に残る。佳穂の怒りは、周囲の理解から飛び出してしまうような予測不能で捕捉不能の感情なのである。どうしていいかわからない、手のつけられない怒り。これが作品のテーマとなる。

 どうやら佳穂は今回、また怒りを爆発させたらしい。怒りのあまり死を選びそうになった。その事情を知って、語り手はふと「憤死」という言葉を想起する。「ああ」と思う人も多いだろう。お楽しみの部分だ。あったよねえ。憤死。ありえないよね。憤死とか。噴飯とか。あははは…。筆者はそこで「発狂」という言葉も思い出した。「憤死」が歴史の授業の定番だったのに対し、「発狂」はもっとカジュアルに使われた、しかし、やっぱり「憤死」と同じくらい変な言葉である。わけのわからないものを指す言葉だから、言葉そのものにもわけのわからなさがつきまとう。

 「発狂」にしても「憤死」にしても語り手には遠く手が届かないものだ。でも、醜く凡庸な佳穂はそれを知っている。そんな佳穂のことを、語り手がほんとうは好きなのか嫌いなのかは最後までよくわからない。語り手には背負った看板があって、彼女の感情はその看板の隙間から漏れ聞こえてくるだけである。とにかく「すごい」とは思っている。だから負けまいとする。ラストは小説の言葉らしいたしなみや奥ゆかしさなど放擲され、佳穂に対しての言葉で終わる。

 お姫さま、死ななくてよかった。人には嫌われるかもしれませんが、いつまでも天真爛漫でいてください。(110)

 佳穂に対しての言葉だが、本人には決して聞こえないだろう。語り手は最後までほんとうの感情は隠し持ったままなのである。でも、言葉だけがぬっと小説の外に出ようとしている。ともすると小説的言語が陥る微温的で散逸的な世界の外に、出たい。何かをぐいっと掴みたいのである。

 冒頭の「おとな」の話に戻ろう。実は筆者はこの作品は活字で読む前に、ある人による朗読を聞いていた。その朗読者のパフォーマンスがすばらしかったこともあるのだろうが、この作品、実際に声に出して読まれると、インパクトがさらに増す。そういう潜在力を持った作品なのだ。声がぬっと飛び出して手首を摑んでくる感覚を、生々しい朗読で味わうのもいいかもしれない。


→紀伊國屋ウェブストアで購入