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2013年05月31日

『根津権現裏』藤澤清造(新潮社)

根津権現裏 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「読んでも大丈夫」

 いよいよこの作品をとりあげる時がきた。NEZU-GONGEN-URAというタイトルの響きからしていかにも物々しいこの長編小説は、かの西村賢太が一方的に脳中で師事してきた大正期の作家・藤澤清造の代表作である。藤澤は1889年(明治22年)生まれで、1932年没。広く世に知られているとは到底言い難い、遠い昔の作家だ。

 1965年生まれの西村はむろん本人とは面識はないのだが、常人離れしたこだわりをこの作家に対して示してきた。全集の刊行を目指して準備を進めながら、資料等の収集はもちろん、作家の弔いにも余念がない。金銭的な困窮にもかかわらず、東京から相当行きにくいその故郷・石川県七尾を毎月欠かさず訪れてはきちんと法要を続け、ついには自らの部屋にその墓標を持ってきたり、自身の墓を藤澤の墓の隣にしつらえるほど。西村賢太のそんな「藤澤愛」を作中に読んで私たちは唖然としつつも、また、興奮するのである。

 しかし、おそらく西村賢太愛好家の多くは、文庫化が果たされた今も藤澤作品のページをひもとくことにはいささかの躊躇をおぼえるだろう。西村作品の中であれほど神格化されてきた作家の作品を実際に手に取れば、作家の手によって精妙に築きあげられてきた藤澤伝説が瓦解するかもしれない。そうしたら西村賢太の「清造物」の読み心地にもいささかの変化が生じないとも限らない。それは困る。

 筆者も文庫版『根津権現裏』を、積み上げた本の一角にちらちらと確認しながら、なかなか思い切れないでいた。いざ手に取ってみても、表紙裏に掲載された藤澤清造の写真が、下手をするとJリーグの下っ端選手のようにも見える、やけに今風の表情なのが何だか心配なのである。

 ところが、いよいよ読み始めてみるとどうだろう。さわやかな安心の風が吹き抜けるというわけにはいかないものの、それまでの心配など遠く忘れさせてくれるような、実に濃厚な「あやしさ」に充ち満ちた作品世界なのである。これはいったい何だ? いったい何が始まるのだ?と戦慄さえ覚える。とりわけ冒頭部のインパクトは相当なものである。

 午前中のことは一切知らないが、私が起きてからも其の日は、まるで底翳(そこひ)の目でも見るように、どんよりと曇っていて、其の陰気さと云ったらないのだ。それに、一夜の中に秋が押しよせてでもきたように、四辺の風物が皆うすら寂しく白けて見えるのだ。私が寝巻にしている、洗いざらしの白地の浴衣を一枚つけていると、不意に剃刀でも突きつけられたような冷たさが、全身へしみてくるのだ。殊に襟元などは、厭にぞくぞくとしてきて、何となく味気ない思いさえしてくるのだ。(5)

 私小説作家の「のだ」に独特の魔力が宿ることは、以前この欄で上林暁の作品をとりあげた際にも触れたが、この冒頭部などまさにそうで、なぜこれほどまでに「のだ」を続けなければならないのかよくわからないだけに、とにかく圧倒された気分になる。たとえば同じ時期の萩原朔太郎の詩作品などで、語り手が一気呵成に語りをつむぐときの、あの興奮と、詠嘆と、いくらかの諧謔の混じった口調を思い出したりもする。

 語りのこうした神経的な震えは終始この作品についてまわる特徴である。この小説では、そもそも巨大な情緒不安定を抱えた語り手がいて、その不安定な情緒をさらにえぐるようにして、事件が発生するのである。岡田や岡田の兄といった中心的な人物たちはいずれも、いかにも粘着質で一筋縄ではいかない者として登場する。出来事もいかにも不幸と邪悪さを隠し持った、底知れぬ闇をたたえている。まさに悪夢のような小説世界。

 しかし、ふと立ち止まって考えると、悪夢は主人公の被害妄想的切迫感に発するものにすぎないのかもしれないのだ。だが、そこから逃れる術はない。小説世界に独特の存在感を与えているのはこの逃れる術のない、行き所のないような、どん詰まりの感覚なのである――とくにラストは圧巻。ただ、そんなどん詰まりから、先の「のだ」の連鎖にもあらわえていたような「歌」めいたものが響いてもくる。それは「語ることによって生きる」という方法を知る者にのみ許された「歌」かもしれない。だから、ついそこに耳をそばだてたくなる。

 この小説で中心となる「事件」の骨子は至極単純である。脚を病み、生活にも困窮した語り手は鬱々とした日を送っている。そこへ同郷の友人・岡田の死の報が届く。どうやら自殺らしい。原因はいったい何か? ちょっとしたミステリー仕立てとも見える筋立てだ。主人公の反応も何だかおかしい。やがてこの死をめぐって、少しずつ過去の秘密があばかれはじめる。岡田の死にはいつの間にか殺人事件めいた異臭が漂い、主人公もその渦中に巻き込まれる。

 自殺した岡田の通称は「はな」。生来の蓄膿症に苦しみ、それゆえ精神の安定さえもが揺らいでいたという。岡田は売春婦との付き合いに悩んだり、蓄膿に苦しんだり、またある密告事件を起こしたりして、そのたびに主人公のところにやってきて――ときには寝床にもぐりこんできたりしながら!――あれこれと議論をふっかけるのだった。これが実にだらだらとした堂々巡りのようなやり取りなのだが、二人の間には信じられないほど鋭敏な情緒の共鳴のようなものが発生していて、議論としては前に進まないながら、これでもかとばかりに「どん詰まり」の深みを見せてくれる。

 それにしてもこの小説世界の人物たちはよくしゃべる。よく言い争う。語り手は不必要によけいな細部をつけくわえたり、いちいち相手の話の隠れた部分をも詮索したりする。とりわけ岡田の首つりの状況への興味は、どこか常軌を逸したもののようでもあるのだが、そうした想像が主人公がかつて目撃したという心臓麻痺死の光景へとつながってくるところに彼の持ち味がある。

 私は曾て、病臥後幾許(いくばく)も経ない一人の患者が、突然心臓麻痺の為に果敢なくなって行ったのを目撃したことがある、其の時の苦悶さは真に見るに忍びないものがあった。それは、誇張に誇張を重ねたものだと云われている、あの歌舞伎狂言に現われてくる人物が、不意に殺害されて落入る時の動作其のままだった。即ち、目は凝と一つところを見詰め、口は堅く食いしばられるとともに、双手は虚空を摑みながら悶えるのだ。云ってみればそれは、此の世に於ける苦痛を一身に集めたような苦痛さだった。あるいはそれを、苦痛其のもののようだったと云って好いかもしれない。(153-54)

 こうした部分、語り手が何だか生き生きとしている。そうなのだ。『根津権現裏』は苦痛語りに淫しているとさえ言えるような、まさに苦痛を芯にして展開する小説なのである。岡田の蓄膿症や「私」の脚の病の慢性的な症状は、そうした苦痛の発端に過ぎない。究極的には語り手は、縊死した岡田がいかに苦しんだかを執拗なまでに再現しようとする。それは決して華々しい劇的な形では語られえないのだが、間接体や、想起や、執拗な内省を通し、生々しい痛みとして提示される。

 何より印象的なのは、そうした苦痛がそのあまりの苦しさゆえに当人に死ぬことさえ許さない、などという想像がなされることである。

 だから、私は今これを岡田に就いて考える場合には、彼も屹度死の苦痛を嘗めていったことだろうと思う。それどころか、私の知っている限りでは、彼は死ぬにも死ねない幾多の苦悶を持っていたのだ。それがただ一時の発作に駆られて、誤って彼自身が彼の生活機能に危害を与えたのが因を成して、とうとう亡びて行ってしまったのだ。だから其処には表裏の別は措くとして、泣くにも泣かれない無限の怨恨、悲哀、憤怒、苦痛の凡てが、十重二十重に渦を巻いていたに相違ない。それを思うと、今更に私には彼の死なるものまでが疑われてきてならなかった。よしそれが、――彼の死は事実だとしても、而もそれが、一点苦痛の影をも止めずに行われていたとすれば、飽くまでそれは表面上のことに過ぎない。其の裏面なる心底には、少なくとも憤怒と怨恨とが、猛火のように燃えさかっていたに相違ない。そうだ。そして、彼は其の猛火の為に、遂に身も心もともに、焼きほろぼしてしまったのだ。それが私には、哀れにもかなしかった。(154-55)

 苦悶をめぐる語りはこうして熱を帯びてくる。演劇的に示されるのではない。あくまで死後鑑定の立場から、回り道に回り道を経て「其処には表裏の別は措くとして、泣くにも泣かれない無限の怨恨、悲哀、憤怒、苦痛の凡てが、十重二十重に渦を巻いていたに相違ない」というような語られ方がされるのである。思弁と分析と推量の果てに想起される苦悶なのである。それでいて語り手はそんな鑑定を、最後は「哀れにもかなしかった」と情の言葉でまとめてみせる。

 この情緒過多な小説世界のひとつの到達点は、苦痛をこのように情化=浄化することにあるのかもしれない。藤澤清造の語りでは、語るということと感じるということとがほとんど区別つかないくらいに結びついているのだ。このような筆法はあの磨き抜かれた西村健太の芸風とすぐに重なるものではないかもしれないが、読んでいると、たしかにあちらこちらで西村的世界を思い出させる何かがある。「あっ、この言葉遣いは!」と線を引きたくなる箇所もある。そう簡単に言葉では説明できないのだが、西村がこの作家に惚れ込んだ理由は何となく感じとれる。ともかく心配はご無用。読後も西村賢太の小説は十分楽しめるし、ひょっとするとそれ以上のいいことがあるかもしれないのだ。


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2013年05月06日

『英語は科学的に学習しよう』白井恭弘(中経出版)

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「英語教育の大騒ぎ」

 うわっ、これはひどい。みなさん先週の朝日新聞をお読みになっただろうか。オピニオン欄の「大学入試にTOEFL」特集(5月1日朝刊)で、「TOEFL導入」の旗振り役の自民党教育再生実行本部長・遠藤利明先生がインタビューに答えておられるのだが…。

 中学高校で6年間英語を学んだのに英語が使えない。コミュニケーションできない。それが現状です。これではもったいない。ならば変えましょうということです。
 どうやって変えるか。まず目標を決め、そこから逆算して教育の中身を決めていくことが確実です。探したら米国にTOEFLというテストがある。聴く・話す・読む・書くを全部測れます。130カ国で使われ、米国留学につながるなど汎用性が高い。これを目標にしようというわけです。
(中略)
 英語教育の専門家にも聞きました。みなさん、さまざまな説をおっしゃるけど、どれが正しいのかわからない。一番簡潔なのがTOEFL導入です。

 いったい何が「確実」なのだろう。「簡潔」なのだろう。要するに「おい、皆の衆! 何だかよくわからんが、アメリカにはTOEFLとかいうテストがあるみたいじゃぞ。有名なテストらしい。これこそ最新流行じゃ。とりあえず突撃あるのみ。注目を集めるフレッシュなもんなら何でもええっちよ。おいこら。新聞記者!」ということらしい。

 筆者はTOEFL導入には基本的には反対だが、アイデアとしてまったく見当違いとも思わない。聴くべき意見もあるだろう。しかし、トップがこれではTOEFL推進派のブレーンの方々もたまらない。「自民党国際局長」をお務めになった遠藤先生のお悩みはパーティだという。「公式な会合は通訳がつきますが、大事なのはその前のあいさつから始まって、夜のパーティとか、みんなでわいわいやっている場での会話です。それが次の会合に生きてくる。でも悔しいことに英語で話せない。中高で6年もやったのに。そんな英語教育を直しましょうよ」とのこと。TOEFLを導入すれば、「みんなでわいわいやっている場」で遠藤先生が突然流麗な英語でしゃべり始めると信じる人はいったいどれくらいいるだろう。

 もちろん「中高で6年やったのに日常会話ができない!」という嘆きは、比較的高学歴の方々からもときおり聞こえてくるが、大人になってから一度でも本気で英語(もしくはどんな外国語でも)の勉強をしたことがある人なら、「そんなの、あたりまえじゃん」と言えるはずだ。ところが「かつて俺は、高校の英語の成績はまずまずだった」というような人に限って、説明してもわからない。要するに、ふだん英語の「え」の字とも縁のない生活を送っている人が、突然「わいわい」できるわけがないのですよ。

 お見受けしたところ、遠藤先生はTOEFLの試験問題など開いたことすらなさそうだから、そういう人には説明するだけ無駄かもしれないが、もう少しまともに英語に取り組もうという人に一冊あげるとするなら、たとえばこの白井泰弘『英語は科学的に学習しよう』などいかがかと思う。白井には『外国語学習の科学 ― 第二言語習得論とは何か』(岩波新書)など関連する著作も多数あり、第二外国語学習の方法についてはかなりの時間とエネルギーを費やして考えている人なのだが、本書の特徴は、今回の騒動で「え? え? このおじさんたち何言ってるの?」とびっくりしているであろう一般の中学生、高校生を想定読者にすえ、「そこまで丁寧にやらなくても」というぐらいのレベルまでおりていって、英語習得の方法や心構えを指南しているところにある。何よりの売りは白井自身の〝英語学習自分史〟の詳細な記述で、失敗や屈辱のエピソードもたくさん織り込まれているから、こちらとしても励みにはなる。

 しかし、もう少し本気のレベルの話でいうと、本書の読みどころは後半にある。とりわけ白井が『外国語学習の科学』などでも持論にしている「インプット重視」説と、学習過程における心的プロセスへの注目は、いずれも興味深い論点を持っている。

 まず「インプット重視」の方だが、これは筆者なりに言い直すと、英語学習において「興味」というファクターを最大限に活用する方法である。しゃべったり、書いたりするためにまず大事なのは、聞いたり、読んだりすることである。母国語を含めて、言葉とは所詮「他人のもの」なのだ。それを上手に使いこなすためには、まずは流通する言葉に身をさらさなければならないに決まっている。そんなことは多くの人は知っていたはずだが、だんだん横着な人が出てきて、「ある日突然、わいわいしゃべりたいのだ!」などと言い出す。

 とはいえ、「身をさらせ」と言っても、実践するのが難しいと思う人もいるかもしれない。そんな人に白井は、「英語を使って情報収集せよ」というアドバイスをする。その際の具体的な注意点については本書を参照して欲しいが、ともかく話すためには話す練習だけすればいい、書くためにはとにかく書く、という考え方がいかに短絡的かがよくわかる。アウトプットの前に、まずは大量のインプットだ。

 ここで筆者の個人的な意見を言えば、英語の技能習得で大事なのは「知的リスニング」である。リスニングを通して、英文読解に近いくらいの論理的思考やらニュアンス把握を行う練習をすれば、読むスピードもあがるし、書く力だって伸びる。それは言葉を身につけるために必要なのが、言葉の運動性能を知ることだからである。言葉の乗り心地を知りたい。言葉がしっくりくる感じを体験したい。だから、語られている言葉の紆余曲折ぶりでも、渋滞ぶりでも、ストンと落ちる感じでも何でもいい、動いている言葉に触れるのである。ただ、そこには是非、知的要素もからめたい。でないと、言葉の運動を自分のこととして体験することはできない。

 そこで鍵になるのが「興味」の問題である。学校の英会話の授業がしばしば崩壊するのは、受講者の知的レベルを馬鹿にしているからである。ラジオ体操じゃあるまいし、「よく使うフレーズ」とやらをみんで一斉に発声させられて、本気になれる人がどこにいるだろう。「何なのだろう?」「どこ?」「どうして?」といった、人間の基本的な注意本能を駆動させるような情報との向き合い方をさせなければ、インプットはうまくいかない。

 白井もそのあたりにはたいへん意識的で、いかに学習者の関心を持続させるかを、その心理プロセスに注目しながら方法的に検討している。たとえば白井が示すのはretrievalという方法である。これは英語の表現を覚える方策の一つなのだが、単に覚えるのではなく、「あ、何だっけ」と思うような関連づけを織り込んで想起させる。つまり、心に表現が浮かぶプロセスそのものを体験させるのである。たしかに私たちの知識は、きわめてコンテクストに依存したものであり、コンテクストの中から特定の情報が浮かびあがってくるパターンを管理できるようになれば、言葉の運用も円滑になる。この関連づけが、その言葉が実際に使われる具体的な状況と肉薄していればいるほど、学習者にとってその表現は生きたものとなるだろう。逆に言うと、いくら頭に残っていても、「参考書のページの右上にあった、あれ」とか「たしか去年受けたTOEFLに出たやつ」ではだめなのである。

 ところで、この本の中でもとりわけ「お得度」が高いのは、もう少し応用的な技術に触れた箇所である。「困ったことが起きたときに使うストラテジー」(p.135)という項では、実際に英語をしゃべっていて、言いたいことを表す表現が見つからないときにどうしたらいいか説明されている。まず、ひとつ目の方策はcircumlocution(もしくはparaphrasing)。簡単に言うと「言い換え」である。たとえば「リュックサック」と言いたいときに、英語の単語が思いつかないので、A bag that you carry on your back.と言えばいい。

 なんだあ、と思うかもしれないが、実はこれがけっこう奥が深い。もともと知っている単語だって、いや、知っている単語だからこそ、言い換えるのは意外にたいへんなのである。だからこそ、やる意味もある。「これをどうやって言葉にしよう…」と私たちが悩むとき、むにゃむにゃした無定形の「感覚知」と、がっちりした「概念知」とが、厳しい緊張関係を保っている。自分が頭でわかっているつもりのことを、あるいは肌で知っているつもりのことを、いかに言葉にしていくかという作業には、人類の知の根幹にもかかわる何かが潜んでいると筆者は思う。

 白井はそこまでは深入りしていないが、本書の他の部分でも触れられている、国語力をも含めた根本的な言語運用能力を考え直すためには、この「言い換え問題」(翻訳問題にもつながる)を馬鹿にしてはいけない。発話というものは、単語やフレーズの陳列でなされるのではなく、「あれ」や「それ」にたどり着こうとする試行錯誤のプロセスとして生起するのだから。巻末のQ&Aのセクションで白井は「言語はルールで割り切れると思っているのが大きな間違い」と指摘しつつ、同時に、「ルールと例外だけという考え方も間違っています」と言っているが、実に示唆的である。そう。言葉には「ルール」にも合わないけれど「例外」でもない、どっちつかずの中間域というものがあるのだ。ドロッと曖昧なこの中間域の部分といかに付き合うかが、言葉を上手に操るためには決定的に重要になる。

 白井のあげるもうひとつの「ストラテジー」は、fillerである。I meanとかah...とかyou knowとかいうやつ。ただ、実はこの部分については筆者は多少警戒心も持っている。たしかに沈黙がつづくのをさけるのに、こうした表現は便利だ。しかし、ときに私たちはこれを使いすぎる。アメリカ滞在から帰ったばかりの人が英語を話すと、やたらとyou knowとかlikeを連発することがあるが、いかにも英語らしく言おうとするあまり、結果として発言内容が伝わりにくくなるようにも感じられる。日本語で「えー」とか「あの」という間投詞がけっこう許容されていることとも関係があるのかもしれないが、ともかく、この「ストラテジー」を覚えるとつい過剰に使ってしまうことには注意した方がいいだろう。

 本書には具体的な英語のフレーズや文法の決まりなどが列挙されているわけではない。そのかわりにretrievalとかcircumlocutionに代表されるような、ちょっとした練習法や方策がいろいろ出てくる。その英語学習の方針について、筆者は完全に考えを同じくするわけではないのだが、あちこちで「そうだよね」とも思った。本格的な学習をはじめる人がどこかの段階でこういう本を手に取っておくのはいいことだろう。なお、TOEFLを使った英語学習の功罪にも最後に触れられているが、バランスのとれた意見が示されていると思う。


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