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2013年04月24日

『自選 谷川俊太郎詩集』谷川俊太郎(岩波文庫)

自選 谷川俊太郎詩集 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「現代詩と匂い」

 現代詩の書き手として、谷川俊太郎はおそらくもっとも有名な人だ。ほとんど詩など置いてないような町の本屋さんでも、谷川詩集だけは何冊も置いてある。ふだんは滅多に詩など載らない新聞でも、谷川の詩だけはでかでかとスペースをとって掲載されている。国語の教科書でも定番。小学校、中学校、高校と何度となくその作品と出会う。

 これだけ有名なのだから、きっと谷川俊太郎は詩そのものなのだ、と思いたくなるところだ。彼こそ、ザ・口語自由詩。日本語の「詩」を象徴する存在なのではないか、と。ピラミッドの頂点にいる人なのではないか、と。しかし、それは大きな間違いだ。彼はほかのどの詩人とも似ていないし、そういうピラミッドとか、象徴とかいうくくり方とも無縁である。

 現代詩にとっては谷川俊太郎はむしろ困った存在かもしれない。他の詩人についてあれこれ説明しても、谷川についてだけはうまくあてはらまない。中でも大きな問題は、彼が詩を信じていないことである。もっと言えば、言葉を信じてない。こんな詩人、いるだろうか。

 ためしに「おならうた」を見てみよう。

いもくって ぶ
くりくって ぼ
すかして へ
ごめんよ ば

おふろで ぼ
こっそり す
あわてて ぷ
ふたりで ぴょ

 何とわかりやすい詩だろう。というか、こんなにわかりやすいのに詩になるなんて驚きである。とりわけ最後の「ふたりで ぴょ」はすごい。それまでの「ぶ」「ぼ」「へ」「ば」「ぼ」「す」「ぷ」は、まあそれなりに写実的で、おならの状況やお尻の感触も想像できた。「おならはこんな音がするものだ」という私たちの予想の範囲におさまるものだった。でも、最後の「ぴょ」だけはちょっとちがう。「ぴょっていうかなあ?」と思わせる。でも、ひょっとするとそういう音が聞こえるかもしれない。ある種のおならは「ぴょ」かもしれない。あるいはふたりでいっぺんにおならをすると共鳴するということもあるのか。それとも、ふたりでいっぺんにおならしてしまって、びっくりして「ぴょ」となるのか。「げ」「あら」「どき」というような、いわば心理の音が「ぴょ」なのかもしれない。

 …なんていうことを考えるだけで私たちはすでに詩人の術中にはまっている。谷川は「おち」の達人。いろんな技をもっている。とりわけ彼がうまいのは、通常の「謎を提示してそれを解決してみせる」という「おち」の型とはひと味ちがう形で落としどころをつくれること、それから、それを目にもとまらぬスピードでやれることである。

 しかし、この「おならうた」にはもうちょっと意地の悪いところもある。どうだろう、「いもくって ぶ/くりくって ぼ…」という連続を読んでいるうちに、いつの間にか私たちはある物語の枠を思い浮かべていないだろうか。何しろ「おなら」である。できれば他人には聞かれたくないものだ。公の場で堂々とおならを鳴らすには、相当な度胸がいる。だから、おならというだけで、私たちは「こっそりやるもの」と考えている。実際、六行目には「こっそり す」ともある。

 「おなら」は現代詩のことかもしれない。日本の現代詩は、何より「ひそやかな自分」と結びついてきた。公のことばになる前の、個人の心の底にあるもやもやしたもの。黒くて気持ち悪いもの。ひりひりする切実なもの。そうしたものを恥ずかしさを乗り越えてやっと口にするのが詩だった。だから私たちは無意識のうちに、「こっそりおならにこだわる『私』」を読んでしまう。そうとは知らずに。ところが最後の行にきて、いきなり「ふたりで」とあってびっくりする。ここへきて「ふたり」という語の意外性に打ちあたることで、私たちはそもそも自分が「おなら」と「私」とを結びつけていたことを思い知るのである。それで二重の意味でびっくりする。

 しかし、次の瞬間、私たちはしてやられたことに気づく。そうだ、そうだ、とうなずく。そもそもこの詩は冗談なのだ、まじめにとりあうだけばかばかしい。「ぴょ」なんてまったくふざけた、漫画みたいな音じゃないか。子供だましもいいところだ、と。

 ところがこんな感慨もまた詩人の術中にはまっている。だって、ばかばかしいというけど、私たちはけっこう本気でびっくりしている。「ふたり」とか「ぴょ」とか言われて、ことばにならないくらいどきっとした。最初からいかにもばかばかしそうな詩を読ませておいて、それでもどきっとさせるなんて、谷川俊太郎という人はほんとうに人が悪い。

 では、この「どきっ」はいったい何だったのだろう。おそらくそれは「そうではないもの」への入り口だったのだ。「詩」ではないもの。「私」ではないもの。谷川俊太郎の「おち」は、「おちへの階段」を登った末にたどり着かれるものではない。たしかに出発点には「詩」や「私」が設定されているのだが、彼はそれをぜんぶひっくり返してその外に出てしまう。テイヤ!とばかりにぜんぶ転覆させる。「詩」につきまとう「ひそやかな私」をひっくりかえし、「こんなのジョークだよ」というライトヴァース的な安心感もひっくりかえす。

 もうひとつ、谷川の「アンチ現代詩」を見てみよう。

心のスケッチA

一本の線を書く
もう一本の線を書く
また一本の線を書く
そうしてまた……
一束の線に
いかなる記号も象徴も見ず
黙っている
それが髪になり
草になり
流星になり
水になるのを
楽しんで
ただ文字になることだけは
決して許さず
一碗の茶を
飲みながら (一三八)

 谷川の作品の今ひとつの特徴は、ことばがとても身軽なことだ。出てくる主な名詞を拾ってみると、「心」「一本」「線」「記号」「象徴」「髪」「草」「流星」「水」「文字」「一碗」「茶」といった具合。どの名詞にもほとんど修飾語はついておらず、説明もない。「線」はあくまで「線」。「髪」はあくまで「髪」。「文字」もあくまで「文字」。ことばがまるで辞書からそのまま飛び出してきたかのようで、文脈や背景や歴史といったしがらみからも自由。抽象的にさえ聞こえる。無菌のことばに見える。

 でも、これは決して悪い意味ではない。こんなふうにことばがほやほやのナマな状態であるおかげで、読者はことばの相貌に威圧されることがない。「しがらみ」の多いことばは、しばしば〝一見さんお断り〟という風情を漂わせる。読者に対し、「お前、どこのもんだ?」「オレの何を知っとる?」とすごんでくる。そういう詩では、私たちはこの「しがらみ」の余韻を読むことを期待される。「しがらみ」は最終的には、詩人自身の「しがらみ」の奥底にまでつながっていく。詩人の抱えている掛け替えのない「私」に連絡している。そんな奥底の薄暗いものなど、そう簡単にわかるわけがないし、ことばにもできない。でも、伝えたい。だから、その薄暗さも含めて詩人はことばにしてしまおうとする。薄暗さやわかりにくさを、複雑な「しがらみ」に託して。結果、ことばにはいろんなものが付着し、重たくなる。ややこしくなる。そうしたわかりにくさにこそが、表現のポイントにもなる。

 これに対し「しがらみ」から自由な谷川俊太郎のことばはとてもわかりやすい。でも、こんなに身軽でほんとうに大丈夫なのか?と心配になる人もいるだろう。ことばに「リアル」な響きを与えるためにはことばを汚すのがいい。谷川のことばはとてもきれいで、従って、通常の意味でのほんとうらしさに欠ける。「心のスケッチA」の「それが髪になり/草になり/流星になり/水になるのを/楽しんで」というところを読んで、「いかにも髪だなあ」「いかにも流星だなあ」と思う人はいないだろう。むしろ詩人はほんとうの「髪」や「流星」からは遠く隔たったところで語っているように見える。

 でも、谷川はほんとうらしく聞こえないことをまったく恐れていないのだ。ほんとうらしく聞こえるとは、いかにも現実に起きているように、いかにも過去にあったように、いかにも自分にかかわっているように、いかにも「私」が語っているように、いかにも「私」がほんとうに思っているように……ということ。つまり「ほんとうらしく」とは、詩人が自分のことばに誠実であるための必須の要素である。そう簡単に放棄できるはずがない。だからこそ、ほとんどの詩人は、そこに賭けている。ほんとうらしく語ることこそが目標になる。ことばを思い切り汚して、自分だけの匂いを発生させようとする。ところが谷川俊太郎はそんなのどこ吹く風。自分の匂いになど、まるで興味がない。

 彼はそんなところでは勝負しようと思っていないのだ。でも、勝負そのものを捨てているわけではない。自分の匂いを語ることに興味がないかわりに、彼は世界に興味を持っている。世界をいかに理解しようかといつも考えている。

 「心のスケッチA」はそのような勝負をことばにした詩ではないかと思う。「それが髪になり/草になり/流星になり/水になるのを/楽しんで」という抽象的な風景から読みとれるのは、世界をこんなふうに語ったらどうだろう?あんなふうに喩えたらどうだろう?と試行錯誤している詩人の姿である。

 しかし、彼は同時に警戒してもいる。そういうふうな喩えがほんとうのように見えてしまうことを。喩えを本気にしてしまうことを。だからこそ、「ただ文字になることだけは/決して許さず」という。しかも、そのあとにはいかにも皮肉な風情で、「一碗の茶を/飲みながら」とつづいている。まるで「わかること」を疑う自分をも疑っているかのようだ。どうしてそこまで疑り深くなるのか。「世界がわかった」と思った瞬間に、私たちが世界を取り逃してしまうからかもしれない。全体に安心しつつもつねに圧倒されなければならないから、かもしれない。そうやっていつも疑っていなければ、私たちは世界のことなどわからない。でも、ここでも私たちは谷川の術中にはまっている。だって、そんな問いを重ねてわかろうとする時点ですでに、私たちは十分にこの詩を読んでしまっているのだから。


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2013年04月07日

『呑めば、都』マイク・モラスキー(筑摩書房)

呑めば、都 →bookwebで購入

「禁欲的飲酒法」

 春の飲み歩き本シリーズ第二弾。今回はマイク・モラスキー氏の『呑めば、都』をとりあげたい。先月見た大竹聡さんの『ひとりフラぶら散歩酒』と読みくらべるとおもしろい本だ。どちらも最大の目的がひとりでふらふら飲み歩くことにあるところはそっくりで、モラスキーさんのアンチ高級志向や、「はげ」「おやじ」「ガイジン」「肝臓いじめ」といった自虐的な自己意識も――「はげ」や「ガイジン」といった細部は別として――大竹さんもある程度は共有しているかもしれない。競馬場に足繁く通うあたりにも共通したスタイルが見て取れる。

 でも、この二冊、かなり対照的でもある。『呑めば、都』は、ぶらぶら散歩エッセイという設定にもかかわらず、きわめて禁欲的なのだ。日本酒の銘柄と味覚が列挙され、おやじたちと交わした会話や店主の挙動もしっかりメモされる。国立マダムの会話の法則を調査したかと思うと、競馬での勝敗表は十円単位まで記録に残す。しかも、ふと気づくと州崎、王子、立川といった町の背景にひそんだ実に興味深い過去が、よどみなくしかも某大な参考資料を支えに語られていたりする(巻末の注釈はこの本の読み所のひとつだ)。いったいいつ酔っぱらう暇があるのだろう!というほど忙しいのである。休む間もなくせっせと飲み屋をハシゴし、目と耳を最大限に駆動させながら、一生懸命モラスキーさんは呑んでいる。何と変わった人だろうと思う。

 とりわけおもしろいのは、モラスキーさんの空間分析である。飲み屋のカウンター席の構造について、モラスキーさんは独自の「コの字型理論」を展開する。

 居酒屋で最もありふれている形は一本のまっすぐなカウンターであり、ほかに「L字型」のもあれば、たまに炉端焼き屋などで見られる四角いものや、長方形のカウンターもある。しかし、「コの字」という形は比率では一番多くなくても、最も客同士の間の共同体意識を生み出す形ではあると思う。ゆえに、下町の大衆酒場で好まれるのだろう。やはり、一本のまっすぐなカウンターの場合、両隣の席の客以外を(よっぽど騒いだりしていないかぎり)さほど意識することはないだろう。顔も見えにくく、すぐ近くに座っていても、別の空間を占めているように感じる。(中略)簡単に言えば、「コの字」のカウンターは「みんなの場」だという認識を強調する構造を持っているわけである。(122)

 なるほど、コの字型でしたか! 気がつきませんでした、すっかり酔っていたもので……という反応がかえってきてもおかしくない。でも、これがモラスキーさんの持ち味なのだ。

 こうした箇所にもよくあらわれているのは徹底した観察へのこだわりと、理解への欲望、そして何よりあふれんばかりの好奇心だ。モラスキーさんの禁欲は、ほとんど少年のように明朗快活で剥き出しの知識欲とセットになっていて、読んでいる方もその不思議な前向きさに引きこまれる。本人もあとがきで触れているように、エッセイのスタイルは章ごとにどんどん変わる。冒頭、溝口の章などでは設定通りの下町探訪風「ふらふら」が体験記風に綴られるが、第三章で州崎を扱うあたりから、社会学や歴史学にも精通した地域研究者としてのモラスキーさんの別の顔が見えてくる。いわゆる赤線の歴史。慰安婦問題。米軍との関係。あれ?こんな話だっけ?というほど硬派の話題なのである。しかし、それとて、「ふらふら」探訪の延長にある。いや、そこまで達しなければモラスキーさんの「ふらふら」は完結しないのである。

 モラスキーさんはきっと町そのものからエネルギーを得るような、「再生可能エネルギー型」の人なのだ。携帯嫌い・チェーン店嫌いその他小さなこだわりはいろいろあるのだが、基本的には自分のイデオロギーをふりかざすことはない。自分の熱量を相手に押しつけたりはしない。そのかわり、居酒屋で隣り合ったおじさんの一言や、路地の暗がりの掘り出し物を出発点にして、わくわくするような知的冒険に乗り出していく。居酒屋探訪がいつの間にか「下町ノスタルジーとは何か?」「懐かしさとは?」といったがっちりした日本文化論につながっていくのもそういう意味ではごく自然なことなのである(とくに第五章)。

 そんな変遷をたどる本書の中でも、とりわけ印象に残るのは西荻窪・吉祥寺を扱った第六章や、モラスキーさんの現在の居住地の国立を扱った第七章である。引っ越し魔を自認するモラスキーさんは日本に来てからもさまざまな町に住んできたが、自分の「心の故郷」はどこかと問われれば間違いなく西荻窪をあげるという。実際、過去に住んだ町をリストにしてみると、何度となく西荻窪が登場する。昔ながらの頑固オヤジがやっている小規模酒場を好みそうなモラスキーさんが、下町ではなくどちらかというと山の手的な中央線の西荻窪を好んできたのはなぜか。モラスキーさんはそこに自分の「山の手文化に対するアンビバレンス」(210)が反映されていると告白する。

 おや?と思う。本書前半のシビアで禁欲的な観察者&研究者としてのモラスキーさんが、ここへ来てちょっと違ったスタンスを見せるのである。中央線沿いに住んでも、喫茶店をハシゴすることでアイデアを得ようとするあたりはあいかわらず「再生可能エネルギー型」なのだが、そういうオレって何?という視線が芽生えてもいる。

 この「目」は、お洒落な文教都市・国立を語る段になっていよいよ冴えてくる。何しろ、鼻持ちならない国立マダムが跋扈する高級住宅街である。喫茶店で読書や執筆をしようにも、マダムたちの「騒音」のために作業が進まない。最大の問題は「重複」と「反復」にあるとモラスキーさんは指摘する。まず「重複」の方だが、マダムたちは「ひとりが話しながらもうひとり、または相手のふたりとも、部分的ではあれ、同時に――つまり、重ねて――話すことがある」。たしかにそうだ! 筆者の知り合いでも――国立マダムでこそないが――こちらの話が終わっていないのに「重複する」のが得意な人がいる。マダムたちが相手の話を聞かず、とにかく「発信」することに熱心だとはよく言われる話だ。そして……

 その間、会話が〈重複〉することになり、そのため一人ひとりが普通の大きさの声で話していても、二、三人の声が多少なりとも重なってしまうので、実際にその間、二倍、または三倍の声が鳴っている計算になる。(中略)同じようなグループがいくつもあり、しかも五、六人でテーブルを囲んで喋っているグループも加わると、店内の音量がたちまち増幅する。それに、音量が上がるにつれ、自分たちのテーブルの会話が聞こえにくくなるため、今度こそ一人ひとりが声を上げて喋るという悪循環が生じ、そのうちに店内が爆音寸前状況に及ぶ。(274-75)

 ああ、まさにその通り。国立に限らず、マダムグループの出現する喫茶店では仕事をしようとしてはいけない。
 それから、「反復」も重要だ。

 ひとりが話しており、もうひとりが相槌を打っているという場面。普通なら「そうよね」や「そうそう」と言えば足りそうなところ、この女性は「そうそうそうそうそうそうそう!!!」と、七回もくり返して言った。相槌が七回もくり返されると、ふたりのことばが同時進行する時間が延び、結果として会話全体の音量が増す。(275)

 なるほど。よくわかりました。モラスキーさんの気持ちはよくわかりました。しかし、そんな国立を、モラスキーさんは嫌いになることができないのである。ここにもやっぱり彼の「山の手文化に対するアンビバレンス」があるらしいのだが、それがアメリカ中西部とからめて説明されるところがおもしろい。そもそもモラスキーさんの出自はどちらかというと東京東部的であり、下町的なのだ。

アメリカ――ことに中西部――では、ヨーロッパのような貴族文化の伝統が浅いだけでなく、気取ったふるまいや、エリート志向や、いわゆる「高尚な文化」に対する不信感や反感をもつ人が多く、またその反感自体が美徳とされがちである。言い換えれば、多くのイーストサイド住民と同様に、私が生まれ育った環境からみれば、クニタチに溢れているような上品ぶったマダムや上昇志向を露骨に表す教育ママたちに対する対抗意識がより強いゆえに、この誇り高い文教都市に住んでいること自体が悩ましいということである。

 ところが、である。そこにアンビバレンスが生まれる。

 アメリカ社会を少しでも観察すれば分かるように、高級・上流志向に対する反感を表しながらも、それに対する好奇心と憧れも混在している場合が少なくない――上品に聞こえるイギリスアクセントが国内のアナウンスに使われることもあり、金持ちやセレブたちの優雅な生活に焦点を当てるテレビ番組などもその矛盾を反映している。

 そうしてモラスキーさんは自分自身を分析してみせるのである。

 アメリカに生まれ育っただけに、似たような矛盾を、ある程度、受け継いで抱えているはずである。だから、私は東京のなかで中央線文化圏の町をもっとも居心地良く感じているだろうと思う。つまり、それらの町が私自身の矛盾を多かれ少なかれ反映しているゆえに、さほど意識せずに暮らせるわけである。(254)

 そうか、だから国立なのか、だから西荻窪なのか、と思う。しみじみさせる箇所だ。

 モラスキーさんは文献渉猟も徹底しているが、国立マダムの「重複」と「反復」をめぐる分析など、独自の実地調査も得意だ。店員同士のやり取りでどのように声のイントネーションが変わるかを記述した箇所など、思わずこちらも意見を言いたくなるほどおもしろかった(126)。読者の中にも「それなら、オレ(あたし)もモラスキー流の観察行に参加したい」と思う人も出てくるだろう。でも、海外を訪れたときにこうした観察や内省にふけったことのある人は少なからずいるはずだが、これほどの徹底ぶりで事にあたった人はそうはいないと思う。モラスキーさんは趣味も豊富で、ジャズピアニストにして、将棋、尺八、太極拳などにも凝っているらしいのだが、その根本にもやっぱり「観察する人」がいるのは間違いない。そういう意味でもこの本は、マイク・モラスキーという希有な人物の記録になっているのだ。

*4月13日(土)にモラスキーさんの講演があります。詳細はこちら


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