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2013年03月13日

『ひとりフラぶら散歩酒』大竹聡(光文社新書)

ひとりフラぶら散歩酒 →bookwebで購入

「そこに至るまでの道」

 グルメ本・飲酒本というとまずは高級志向の「通」を謳ったものが目につく。ちょっと背伸びをした読者が、必ずしも自分では実現できないことを案内役の描写をとおして味わい、上等な時間をすごした気分になる。いわば胃文化のファンタジーである。そこには固有名詞があふれるのが通例で、料理名、銘柄、品種、製法、さらにはゆかりの人物、国名・地名、伝説…などが数えきれないほど登場、名詞をながめているだけでもウットリと酔うことができる。エキゾチックで、セレブ的で、芸術や文化の香りがぷんぷんと漂う。

 そんな本はたいてい「作法本」のスタイルをとっている。「君、ちゃんとそばを食うんだったら、~せねばあかん」「パスタときたら、~と~にだけは金をおしむな」「このワインをおいしく飲むためには季節は春先。少なくとも一時間前には開栓し、肉料理に合わせるなら赤肉はダメ。順番とかタイミングがあってだね…」といった蘊蓄がいろいろ。要するに前置きが長い。

 イライラする人もいるだろう。そもそも食通とか酒飲みとかの自己陶酔的な自分語りなんて我慢できないと思う人も人口の三分の一くらいはいるのだ。でも、この「前置きの文化」というのは馬鹿にできないと筆者は思っている。

 そこで今回の本。〝ホッピーロード〟で知られる大竹さんの数ある飲み歩き本のひとつである『ひとりフラぶら散歩酒』は、決して人の悪口を言わないやわらかい語り口ながら、世にあふれる「高級志向本」からはっきりと距離をおいている。大竹さんの好むのは競輪場のコロッケであったり、古雑誌の積まれた町の中華屋さんであったり、登山道の入り口にあるそば屋さんであったりする。出てくる料理はときにややあやしげなのだが、大竹さんの慈愛に満ちた口調で語られると、けっこうおいしそうに見える。ある焼き鳥屋さんで出されるつまみなどそのよい例だ。

 「…ちょっとおもしろいのを出しましょう」
 そういってご主人が焼いてくれたのが、焼き団子のような一品。ジャガイモを煮詰めてから搗いて、でんぷんと砂糖を追加して丸めたおやつのようなもの。ご主人の出身地である北海道で食べるんだそうで、これにバターをたっぷりのせて焼き、粗塩を振ってくれたのだった。
 餅のような粘りがありながらも、風味はじゃがバターであり、それでいてほんのり甘く、ほのぼのした味わいだ。私は先にそばを食ってしまったことを少し後悔したけれど、このうまさは格別で、ひとつならず二個食べた。(178)

 筆者のような「じゃがいも命」的立場からすると、こんなふうにこねたりつぶしたりしてイモを蹂躙するなんて邪道ではないか?と牽制したくなるのだが、「北海道」とか「粗塩」なんてところに至るまでにすっかり説得されている。意外といいかもね、と思っているのだ。

 この本にはこのような「ま、いっか」的瞬間があふれている。もちろんこだわりがないわけでもないのだが、どちらかというとこの著者の持ち味は、こだわりからゆるっと自由になるところにある。革命を起こそうというのではない。言いつのったり、口を酸っぱくしたりしない。あくまで、ゆるっと、だらっと解放される。たとえば冬は熱燗、夏は冷酒という発想は、たいして酒が飲めない著者のような人間からしても自然に思えるのだが、大竹さんは「清酒開眼」して以来、冬場の冷酒、夏場の燗酒に魅了されている。「冷酒のうまい夏場に頼む燗酒というのもオツなもので、身体の中からポッポと温まって、冷たいものにくたびれた胃袋がニコニコ笑っているような気さえする。だから板わさで燗酒、山葵漬けでできればもう一本、という具合になる」(109)。もともとは大竹さんは飲むときはほとんど食べなかった。それがいつの頃からか食べるようになった。飲むなら食うな、というのでもない。やっぱり食わなきゃ、というのでもない。とにかく、あるときからコロッと変わってしまった。これが大竹的なのである。理屈などなくて、どことなくだらしない、なし崩しの感じ。そこがいい。

 こんな調子だから「散歩」にもいきあたりばったりの調子がつきまとう。電車を乗り過ごしたり、急に思いついて訪ねたり。あるいはそもそも断られたり、店が閉まっていたり、「ここはやめとこう」と気が変わったり。パソコンで調べたとおりに乗り替えの電車が来たりすると、大竹さんはかえって照れくさそうになる。競馬や競輪にしても、けっこう勉強して詳しそうなわりに、にらみをきかせた「勝負師の風」など吹かせない。

 「~はいいよぉ」というたぐいの語りは、どうしても「~すべし」という作法書のモードになりがちである。グルメ本、飲酒本のほとんどもどこかに「すべし本」の佇まいをひそませることで商売がなりたっている。それは読者も「すべし」を求めているからだろう。すべて実行には移さないまでも、「すべし!」と言われることの〝拘束の快楽〟に身をゆだねることで、食べ物やお酒はそれまでよりおいしく感じられる。そもそも胃文化というものは半分以上が、ファンタジーの力で出来上がっているのだ。

 では大竹さんの「フラぶら散歩」はどうか。この本に頻出する「南武線の快楽」に開眼する人はいるかもしれないが、大竹さんの散歩の細部をすべて実行に移そうと思う人はおそらくそんなにいないだろう。それは大竹さんが「~はいいよぉ」と言いつつも、「すべし」の語りになることは周到に避けているからだ。ひょっとすると、電車を乗り過ごしたり、どの散歩の終わりにも語られない「後日談」があるように思えたりするのも(三浦半島から新宿までやっと帰還しても、必ず「その後」のことが仄めかされる)、この「すべしからの自由」を全うするためではないかと思えたりする。もちろん「自由であるべし」ではない。あくまでゆるっと自由。

 それにしてもやっぱり大事なのは、「前置き」だ。胃文化では、「そこに至るまでの道」こそがおいしさを生む。この本でも、実は食べ物やお酒の描写はごく控えめであっさり簡潔である。多くの頁は、著者の計画や誤算や発見といった紆余曲折に割かれている。ビールをおいしく飲むために朝から水分の計算をしたり、どの町に出るかを思案したりする大竹さんが、電車を乗りつぎ、人混みをかきわけ、思いがけぬ障害に出会ったりしながらも、ゆるっとしたくつろぎのひとときにたどりつくまでの長い準備。葛藤というにはあまりにおとなしいし、物語的でもないのだが、何だか長い小説を、読み終わる心配などしなくていい心地で読んでいるときの安逸に近いものをじっくり感じさせてくれる本なのであった。


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