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2013年03月27日

『スタッキング可能』松田青子(河出書房新社)

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「黄胆汁型」

 ご存じの人も多いだろうが、人間の性格をわけるのに「四つの気質」(four humours)という分類法がある。もともと古典古代からあった考え方がルネッサンス頃になって再び流行したもので、人間の気質が四つの体液のバランスで決まると考える。血液が多いと陽気で社交的、粘液だと鈍く物静か、黒胆汁過多は憂鬱症、黄胆汁の多い人は行動的でかっかと怒りっぽい……といった具合である。どことなく魔術的なあやしさを引きずった知見だが、文学作品の分類にはやっぱり便利かもしれない、と松田青子の『スタッキング可能』を読みながら思った。

 考えてみると世の小説の主流は長らく「黒胆汁型」(=憂鬱気質)だった。勝負はいかに「過去」にこだわるかで決まる。原動力となるのは怨恨とトラウマ。これに対し陽気で饒舌な「血液型」もエンタメ系を中心にそれなりに勢力を保ち、「粘液型」は「しみじみした味わい」などと呼ばれながら私小説などで静かに生息する。

 しかし、怒りっぽい小説というのはどうなのだろう。志賀直哉はいかにも不機嫌だけど、「黄胆汁」というよりはやっぱり「黒胆汁」ではなかろうか。そうすると西村賢太、町田康といったラインが浮かんでくる。少なくとも多数派ではなさそうだ。

 で、松田青子は堂々と「黄胆汁型」ではないかと思ったわけである。どの作品もはっはっはっとホットなのである。憎悪とか怨念ではないし、単にムッとしたというのでもない。はじめのうち、この「ホットさ」は突っ込みや小ネタとして読めてしまうので、ともかくこちらも走る語りに負けないよう、一生懸命併走しようとする。

学生時代の夏合宿の夜、『わたし』がオセロで勝つと、負けず嫌いだなあと言った同じサークルに属していた男。どうして普通にオセロをしていただけで、そしておまえに勝っただけで、負けず嫌いになるのか。おまえがオセロ弱いだけだろ。お好み焼き屋で、『わたし』が率先して取り分けないと、えっ女のくせに取り分けないなんてびっくりしたと言った、同じゼミに属していた男。論外。そいつの一言にふつうに意見を言おうとしただけなのに、まあまあ、怒らない、ムキにならないとなだめてこようとしたバイト先の男。女が言い返すとは、自分と違う意見を返そうとするとはつゆとも想定したことがない男。そういう女が全員怒っているように見える男。(「スタッキング可能」、16-17)

 怒ってるって言うな!と言うが、やっぱり多少怒っているように見える。かっかっとしている。体温が高い。でも、だんだんわかってくるのだが、これは単なる人物の個性とか事件の問題ではない。作品がホットなのだ。文章のあちこちに何とも言えない「早口」な感じがあって、ぼけっとしてるとついていき損ねる。いや、ぼけっとしていなくてふつうに読んでいても、いつの間にか文章においていかれる。
 そういう構造になっているのである。

 表題作の「スタッキング可能」は章ごとにフロアの入れ変わる会社(員)小説で、語り手も登場人物も場所も徹底的に匿名。場面はせわしなくフロアを移動する。にもかかわらず、人物たちの周波数がどこか重なるせいか妙な連続感があって、関係ないはずの会話がかみ合うように見えたりもする。

 会社とはフォーマルな世界である。制服ではなくても、制服まがいの鬱陶しい服装を強要されるし、振る舞いや会話にもいちいちしきたりがある。だから、「スタッキング」(家具などの「積み重ね」)も可能になるのだが、フォーマルなものに対するいらいらはつのる。人物が一見いらいらしていないときも、根底にホットなものがあるのはわかる。

そういう先輩たちはというとすごかった。それぞれ自分の担当分野に精通していた。担当分野では無敵だった。それにあのよどみのない電話対応。こなれた様子で完璧な敬語を使いこなす姿。かっこよかった。敬語を自由に操れるのってかっこいい。英語のほかにフランス語を話せるくらいのかっこよさだ。自分のたどたどしい、板についていない、尊敬語も謙譲語もごっちゃになった敬語とはぜんぜん違った。
 これはこうこうこういうかたちになっておりまして、こちらはこういうかたちになっております。そうですね、そういうかたちになります。ええ、ええ、そういうかたちでおねがいします。そのかたちですね、そのかたち。(57)

 いらいらさせるのは、オフィスの「かたち」なのだ。その延長で、小説という形式もついでに蹴飛ばしてしまいそうな勢いである。しかし、必ずしもそうはならない。「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」のように小ネタだけで楽しめる小篇もあるが、「スタッキング可能」とか「もうすぐ結婚する女」といった作品がけっこう油断ならないのは、最終部で意外に小説的に落ちついていくところである。登場人物は匿名で、設定や物語からもどんどんエントロピー的に離脱していきそうなのに、何かが引っかかっている。

 その「何か」が直接名指されるような野暮なことはない。でも、終わりにかけ、それまでのはっはっとしたホットな語りをなだめすかすような描写が入ってくる。たとえばL木が食べ終わった菓子パンのゴミをまとめて、コンビニ袋の空気を抜いているところ。

 たいした空気量じゃないから聞こえるはずないのに、抜けていく空気のおとが聞こえるような気がした。抜けていく空気の色が見えるような気がした。コンビニの袋はぺしゃんこになった。C木は知らないが、L木は明日から会社に来なくなる。だからこれはC木が最後に見たL木の姿で、C木はこれから先、さみしさやむなしさといった概念について考えるたび、静かに空気を抜いていたL木さんの姿が脳裏に浮かぶようになる。(79)

 こういう場面が「黒胆汁型」の小説にあったら、いかにもウェットな終わり方になりそうだ。しかし、何しろ「スタッキング可能」は「黄胆汁型」なのだ。小説のせわしないホットさと、この「ガス抜き」とがひと味ちがったバランスを作り出す。次のような一節もそうだ。まずは、男性社員の「黒胆汁的」な夢想がある。

 朝もすごい。朝のオフィスは明るい。すべての窓にブラインドが下りていても、どうしても明るい。朝!としか形容のできない明るさだ。窓の外にあるジャンクションの上を車が途切れなく流れていく。一〇階のオフィスは重なったジャンクションのうち一番上の高さにあるジャンクションとだいたい同じ高さだ。ジャンクションを大型トラックが通るとすぐにわかる。大型トラックが通ると、オフィスの向こうの隅からこっちの隅まで黒い影がブラインドをざざっと通過する。まるで大きな鳥が頭上を通過したみたいに、全身が翼に持っていかれたみたいになる。浮遊感に襲われる。寝不足の時などそのまま持っていかれそうになる。(83-84)

 何と陶酔的なのだろう。そして、たしかに多くの小説は、このような朝陽や夕陽をながめるような感慨とともに落着していくのである。しかし、「スタッキング可能」では、そのすぐとなりに、その社員をじっと見つめる「黄胆汁」の語りがある。

『わたし』は男性社員がさっきまで立って熱心に外を眺めていた窓に近付いた。何を見ていたんだろう。別にいつも通りの景色だった。夕焼けの橙色がまぶしかった。
 知っている。あの男性社員はなんでもセクハラで済ませればいいと思っている。(中略)ほかの男性社員が女性社員にくだけた調子で話しかけると、ちょっと踏み込んだ質問をすると、女子社員が答えようとする前に、一緒に笑おうとする前に、こう言う。「おまえ、それセクハラだぞ」「おいおい、セクハラやめろよな」そして理解してますよみたいな調子でこう言う。「セクハラですよって言った方がいいぞ」「なあ、セクハラだよなあ。まったく困った奴らだよな」。(87)

 ほら、はっはっしている。でも、だからといって、男性社員の「黒胆汁型」のメランコリーを全否定するわけではない。「黒胆汁」と「黄胆汁」が、それぞれの持ち味は失わないまま、二つの流れとして交錯し、いかにも終わりにふさわしい空気を漂わせるのである。一種の哀愁かもしれない。が、「黒胆汁」依存のどっぷりと耽溺的なそれとは根本的にちがっている。人と人とが鋭利にずれることから生ずる何か。こんなふうに小説的エッセンスが取り出されるとは!と感心した。小説を壊したいわけではないのだ。構築しているのだ。

 「もうすぐ結婚する女」もお薦め。こちらも、何人も出てくる「もうすぐ結婚する女」を、いちいち「もうすぐ結婚する女」と呼ぶかっかとした「黄胆汁」的な部分ばかりがはじめは目につくが、終わりにかけ「え、この小説、こんなふうに終われるの!」とびっくりするほど落着的な仕掛けが見えてくる。小説としてはぜんぜん似てないけど、この空気、案外ジョイスの『ダブリン市民たち』あたりと似ているなあ、と唐突に思ったりもした。語りがいつも別の目を隠し持っている世界に遠く通じているのかもしれない。


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2013年03月13日

『ひとりフラぶら散歩酒』大竹聡(光文社新書)

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「そこに至るまでの道」

 グルメ本・飲酒本というとまずは高級志向の「通」を謳ったものが目につく。ちょっと背伸びをした読者が、必ずしも自分では実現できないことを案内役の描写をとおして味わい、上等な時間をすごした気分になる。いわば胃文化のファンタジーである。そこには固有名詞があふれるのが通例で、料理名、銘柄、品種、製法、さらにはゆかりの人物、国名・地名、伝説…などが数えきれないほど登場、名詞をながめているだけでもウットリと酔うことができる。エキゾチックで、セレブ的で、芸術や文化の香りがぷんぷんと漂う。

 そんな本はたいてい「作法本」のスタイルをとっている。「君、ちゃんとそばを食うんだったら、~せねばあかん」「パスタときたら、~と~にだけは金をおしむな」「このワインをおいしく飲むためには季節は春先。少なくとも一時間前には開栓し、肉料理に合わせるなら赤肉はダメ。順番とかタイミングがあってだね…」といった蘊蓄がいろいろ。要するに前置きが長い。

 イライラする人もいるだろう。そもそも食通とか酒飲みとかの自己陶酔的な自分語りなんて我慢できないと思う人も人口の三分の一くらいはいるのだ。でも、この「前置きの文化」というのは馬鹿にできないと筆者は思っている。

 そこで今回の本。〝ホッピーロード〟で知られる大竹さんの数ある飲み歩き本のひとつである『ひとりフラぶら散歩酒』は、決して人の悪口を言わないやわらかい語り口ながら、世にあふれる「高級志向本」からはっきりと距離をおいている。大竹さんの好むのは競輪場のコロッケであったり、古雑誌の積まれた町の中華屋さんであったり、登山道の入り口にあるそば屋さんであったりする。出てくる料理はときにややあやしげなのだが、大竹さんの慈愛に満ちた口調で語られると、けっこうおいしそうに見える。ある焼き鳥屋さんで出されるつまみなどそのよい例だ。

 「…ちょっとおもしろいのを出しましょう」
 そういってご主人が焼いてくれたのが、焼き団子のような一品。ジャガイモを煮詰めてから搗いて、でんぷんと砂糖を追加して丸めたおやつのようなもの。ご主人の出身地である北海道で食べるんだそうで、これにバターをたっぷりのせて焼き、粗塩を振ってくれたのだった。
 餅のような粘りがありながらも、風味はじゃがバターであり、それでいてほんのり甘く、ほのぼのした味わいだ。私は先にそばを食ってしまったことを少し後悔したけれど、このうまさは格別で、ひとつならず二個食べた。(178)

 筆者のような「じゃがいも命」的立場からすると、こんなふうにこねたりつぶしたりしてイモを蹂躙するなんて邪道ではないか?と牽制したくなるのだが、「北海道」とか「粗塩」なんてところに至るまでにすっかり説得されている。意外といいかもね、と思っているのだ。

 この本にはこのような「ま、いっか」的瞬間があふれている。もちろんこだわりがないわけでもないのだが、どちらかというとこの著者の持ち味は、こだわりからゆるっと自由になるところにある。革命を起こそうというのではない。言いつのったり、口を酸っぱくしたりしない。あくまで、ゆるっと、だらっと解放される。たとえば冬は熱燗、夏は冷酒という発想は、たいして酒が飲めない著者のような人間からしても自然に思えるのだが、大竹さんは「清酒開眼」して以来、冬場の冷酒、夏場の燗酒に魅了されている。「冷酒のうまい夏場に頼む燗酒というのもオツなもので、身体の中からポッポと温まって、冷たいものにくたびれた胃袋がニコニコ笑っているような気さえする。だから板わさで燗酒、山葵漬けでできればもう一本、という具合になる」(109)。もともとは大竹さんは飲むときはほとんど食べなかった。それがいつの頃からか食べるようになった。飲むなら食うな、というのでもない。やっぱり食わなきゃ、というのでもない。とにかく、あるときからコロッと変わってしまった。これが大竹的なのである。理屈などなくて、どことなくだらしない、なし崩しの感じ。そこがいい。

 こんな調子だから「散歩」にもいきあたりばったりの調子がつきまとう。電車を乗り過ごしたり、急に思いついて訪ねたり。あるいはそもそも断られたり、店が閉まっていたり、「ここはやめとこう」と気が変わったり。パソコンで調べたとおりに乗り替えの電車が来たりすると、大竹さんはかえって照れくさそうになる。競馬や競輪にしても、けっこう勉強して詳しそうなわりに、にらみをきかせた「勝負師の風」など吹かせない。

 「~はいいよぉ」というたぐいの語りは、どうしても「~すべし」という作法書のモードになりがちである。グルメ本、飲酒本のほとんどもどこかに「すべし本」の佇まいをひそませることで商売がなりたっている。それは読者も「すべし」を求めているからだろう。すべて実行には移さないまでも、「すべし!」と言われることの〝拘束の快楽〟に身をゆだねることで、食べ物やお酒はそれまでよりおいしく感じられる。そもそも胃文化というものは半分以上が、ファンタジーの力で出来上がっているのだ。

 では大竹さんの「フラぶら散歩」はどうか。この本に頻出する「南武線の快楽」に開眼する人はいるかもしれないが、大竹さんの散歩の細部をすべて実行に移そうと思う人はおそらくそんなにいないだろう。それは大竹さんが「~はいいよぉ」と言いつつも、「すべし」の語りになることは周到に避けているからだ。ひょっとすると、電車を乗り過ごしたり、どの散歩の終わりにも語られない「後日談」があるように思えたりするのも(三浦半島から新宿までやっと帰還しても、必ず「その後」のことが仄めかされる)、この「すべしからの自由」を全うするためではないかと思えたりする。もちろん「自由であるべし」ではない。あくまでゆるっと自由。

 それにしてもやっぱり大事なのは、「前置き」だ。胃文化では、「そこに至るまでの道」こそがおいしさを生む。この本でも、実は食べ物やお酒の描写はごく控えめであっさり簡潔である。多くの頁は、著者の計画や誤算や発見といった紆余曲折に割かれている。ビールをおいしく飲むために朝から水分の計算をしたり、どの町に出るかを思案したりする大竹さんが、電車を乗りつぎ、人混みをかきわけ、思いがけぬ障害に出会ったりしながらも、ゆるっとしたくつろぎのひとときにたどりつくまでの長い準備。葛藤というにはあまりにおとなしいし、物語的でもないのだが、何だか長い小説を、読み終わる心配などしなくていい心地で読んでいるときの安逸に近いものをじっくり感じさせてくれる本なのであった。


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