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2013年02月26日

『恥辱』J・M・クッツェー、鴻巣友季子訳(早川書房)

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「ジャンクフードの意地」

 春の「英語文学の古典」シリーズ第二弾。
 今回は3月に来日予定のJ・M・クッツェーの『恥辱』(Disgrace)をとりあげたい。クッツェーはこの作品で二度目のブッカー賞を受賞しているが、同じ作家が同賞を二度受けたのは史上はじめて。その後ノーベル賞も受賞し、折からの「ポスコロ・ブーム」もあって90年代からゼロ年代にかけてのクッツェーは「もっとも語られる現代作家」の一人となった。

 というわけで『恥辱』は、オーウェルの『1984』やサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』と同じく、あまりに有名でつい読む前から読んだ気になってしまう危険な作品のひとつでもある。たとえば私たちはすでに、『恥辱』の主人公がセクハラのために大学教員の職を追われるらしいことを知っている。なるほど、キャンパスものか…。PCものか…。そして舞台が南アフリカと来れば、何しろ90年代の発表だから、きっと南アのホットな人種問題もからんでくるのだろう、などということを考える。読む前から頭の中にストーリーができあがってしまう。

 むろんどれも間違ってはいない。小説中にはキャンパス倫理から、宗教、ジェンダー、人種、動物愛護、環境など、現代風のトピックがふんだんに出てくるし、たしかに主人公の英文学教員デヴィッド・ラウリーは〝南ア版好色一代男〟よろしく、売春婦から女子学生までありとあらゆる女性にモーションをかけては気楽なお遊びセックスを楽しもうとするような、実に軽薄なセクハラ男である。高邁な理念があるわけでもないし、暗いトラウマを抱えてているのでもない。品行を批判されても謝罪一つせず、「エロスのせいだ」とか何とか言って開き直るばかり。読者として、到底同情できない人物である。

 それだけに、このような概略を知らされて心配になる人もいるだろう。こんな紋切り型の題材ばかりでいったいどうやって小説にするんですか? 軽薄なセクハラ男が罰せられるだけの話で、安っぽいコメディ以上の物語が生まれうるんですか?と。

 正しい疑念である。しかし、まさにそこがこの小説の読み所なのである。つまり、どう考えても八方ふさがりのどん詰まりの状況が、あえて出発点に設定されている。小説史的な視点から見てもネタはすっかり払底し、愛だのロマンスだのエロスだのといった19~20世紀の文学を動かしてきたモチーフがもう機能しなくなっている。そんな中で犯された主人公の「犯罪」もあまりに明白で、どう見ても逃げ場はない。加えて彼はもう50過ぎ。「反省」とか「再生」という年齢でもない。

 ところが驚くべきことに、クッツェーはそこから見事に物語を構築してみせるのである。八方ふさがりに到った主人公の文学教師はまさに「文学」のどん詰まりを示す。エロス依存型の文学はついに荒涼たる地点に逢着した。しかし、その「荒涼」のど真ん中に彼の一人娘ルーシーが残っていた。ルーシーはもはや「性」さえも必要とせず、ポスト・アパルトヘイト後の南アフリカの田舎で、危険に囲まれながら辛抱強く生きている。使用人に裏切られ、強盗に遭って強姦され、犯人の子供まで身ごもっても、決して逆上せずにこの地に根を生やそうとしている。

 そういう意味では、この作品は主人公の〝セクハラ・エロス男〟デヴィッド・ラウリーが「文学」のバトンを娘のルーシーに手渡す物語なのだという読み方も可能だろう。デヴィッドは大学をクビになっても、『イタリアのバイロン』などというオペラを書きながら旧来の「文学」にしがみつこうとしているが、彼が受け入れるべきは「文学の死」であり、それとともに旧植民地的ないわゆる〝白人男性中心主義的価値観〟も消し飛ぶはずなのである。ジェンダーや環境をめぐる葛藤もあちこちにのぞいているし、南アに何の縁もなく、今まで知識も関心もなかった人が読んでも、思わずこの土地の匂いを嗅いでしまうだけの細部も手際よく書きこまれている。

 でも、そのような「立派」な部分ばかり語ったのでは、この小説の持ち味は伝わらないだろう。二度のブッカー賞&ノーベル賞を獲得したこの作品の芯の部分にあるのは、きわめてジャンクな要素でもある。小説の終わり近くに、主人公のデヴィッドが久しぶりにケープタウンに戻ってスーパーでかつての女性の同僚とばったり遭遇する場面が描かれている。元同僚のトローリー一杯の商品には、全乳のアイスクリームやイタリアのクッキー、チョコバーも混じっている。高級アイスや輸入物のクッキーは高価ではあっても、彼女なりの「お楽しみジャンクフード」なのだ。そこで彼は思わず独り身の女の侘びしさを想像するが、そうした感慨はアイスクリームや甘口のワインは軽蔑しても、別の「ジャンク的甘さ」からは決して自由になれない彼自身を逆に照らし出すことにもつながる。小説の目線がきわめて低いところに設定されているのがよくわかる箇所だ。「恥辱」と題されたこの作品は、たしかに身も蓋もないことや、惨めなもの、見苦しいものについてもどんどん語る用意がある。

 もっと言えば、『恥辱』には文章からしてジャンク臭がただよっている。一般に現在形で語られる小説には、どことなく気まぐれさや軽さがつきまといやすいものだが、この小説では語り手が早々に主人公を見放しているかのようで、心理描写にも〝突っ込み〟か〝やじ〟かと見まごうものまで混じっている。たとえば主人公が被害者の女子学生メラニーに接近しつつあるときも「ここでやめておきゃいいのにさあ~」(That is where he ought to end it.〈18〉)などという一言が入るし、明らかに嫌がっているメラニーにしつこくデヴィッドがからむときの会話は次のように書かれている。

'Are you worried about the two of us?'
'Maybe,' she says.
'No need. I'll take care. I won't let it go too far.'
Too far. What is far, what is too far, in a matter like this? Is her too far the same as his too far? (19)

「ふたりの関係を心配しているのか?」
「そうかも」彼女は言う。
「なら心配いらない。気をつけるよ。行きすぎないようにしよう」
 行きすぎる。この手の話で、〝行く〟だの〝行きすぎる〟だの、なんのことだ? 彼女の行きすぎと、こちらの行きすぎは、果たしておなじなのか?(30-31)

 この地の文がいったい誰の「声」なのかは英文学研究者の方々にじっくり議論してもらうとして、少なくとも小説を読んでいる我々としては、何だか地の文の言葉があっちこっちにふわふわ付和雷同的に流れていくような印象を持つはずである。訳者の鴻巣氏の言葉を借りれば「ことばが重たさを感じさせない」。

 たしかに『恥辱』の言葉は終始軽いのである。こんなに重い話題で、この軽さ。しかし、このジャンクな軽さなくしてはこの作品は成り立たなかったのではないか。この言葉の軽さは主人公の軽さとも連動しているのだが、デヴィッドは軽い男だけれどなかなかしぶとい男でもある。軽薄な好色男ならではのしぶとさ。それは訴えられて八方ふさがり・万事休すとなったときに、セクハラ査問委員会を前にして示されるその無駄な「意地」によくあらわれている。一言「ごめんなさい」と言えばいいのに、彼は理屈をこねて意地を貫き通すのである。そして私たちはそんなデヴィッドのことをたぶん応援はしないのだけれど、よくわからないまま、彼の「意地」にやけに引き込まれてもいる。

 こうした「意地」は小説中の他の箇所でもしばしば顔をのぞかせ、おかげであちこちで実に読み応えのある会話が展開されることになる。中でも印象に残るのは父デヴィッドと娘ルーシーとの会話で、それはそれは強烈な「意地」のぶつかりあいなのだ。やっぱり親子だなあ、と思ってしまう。そして、だいたいにおいて勝つのは娘なのである。決して「重さ」で勝つのではない。演説や雄弁で勝つのではない。そういうやり方は、おそらく旧来の「文学」の戦術なのである。ルーシーが頼るのは、彼女なりの「意地」としかいいようのない抵抗である。無抵抗と限りなく近い、でも、頑として動かないような抵抗。そういう抵抗はおそらく動物や、原住民や、そして何よりアフリカという土地の抱えているものに遠くつながっていく。そういう部分を読んでいると、まだまだ小説にしか語れない「リアル」があるのではないかという気がして、ヒヤッとしたりする。

 クッツェーは最後までデヴィッド・ラウリーにその「セクハラ性」を全うさせる。作家として、主人公に対する惨酷なほどの仕打ちとも見える。しかし、あっぱれだ。デヴィッドは与えられた役を全うするのである。もちろんベヴ・ショーとの性交や、メラニーのお父さんとの再会の箇所は、それが小説の論理構成にうまくはまりすぎているだけにかえってやり過ぎに見えなくもなかったが、あの八方ふさがりから出発して、軽さの言葉でここまでの世界をつくりあげる手腕はお見事。なお、作品中の引用を含め「英国ロマン派」のおちょくりは相当なものだが、日本のロマン主義研究者の方々はデヴィッドとは違い、いたってまじめであることを、念のため、申し添えておきたい。


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2013年02月14日

『錯覚学 ― 知覚の謎を解く』一川誠(集英社新書)

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「目の間違いが、役に立つ」

 筆者の知り合いに探偵小説作家がいるのだが、この方は会議の最中に物思いにふけるような遠い目になるときは、たいてい探偵小説のトリックを考えている。あるいは深夜の新宿三丁目のまったりしたバーで、悲しげな無言とともに壁などを見つめているときも、頭にあるのはトリックのことだ。

 おそらく世の中の探偵小説作家たちはみなそうなのだ。いかにも深い自己省察にふけるようでいて、隙あらばトリックのことを考えている。トリックにはつきせぬ魅力がある。人は騙されるのも、騙すのも好きなのだ。

 本書には人の目がいかに騙されやすいかが、豊富な例とともに詳しく示されている。目は人間の緻密で鋭敏な知性を示す知覚器官として近代文化の中枢を担ってきたが、ときにコロッと騙される。止まっているのに動いて見える、同じ色なのに違って見える、小さいはずなのに大きく見える……。いわゆる「錯視」である。探偵小説のトリックを助ける素材としても、おそらく錯視は王道をいくものだろう。

 正確な言い方をすると、錯視とは「物理的量と知覚される量との間に存在する乖離を指す」(45)とのこと。筆者はこのところ凝視に凝っていたので、その延長で錯視のことも気になってきたが、凝視とちがって錯視は学会で発表されたり、Best Illusion of the Yearなどというコンテストまであって、華やかで楽しそうである。「凝視学会」とか、「凝視コンテスト」などというものは聞いたことがないし、あったとしてもきっと陰気なものにちがいない。

 人が「錯視」に寄せてきた関心は深く古い。おそらくそれは人間の知性のあり方そのものを体現している。本書に収められている錯視例の多くにはしっかり発見者の名前がついて、さながら「古典的錯視アンソロジー」である。錯視コンテストでも「見事な錯視ですなあ」「いや、ありがとうございます。長年の努力が報われました」といった会話が交わされているにちがいない。錯視などという言い方をすると、何しろ「目の間違い」を示すわけだから、失敗、愚かさ、病いなども含意されそうだが、実際には、錯視と出会うことでこそ私たちは人間の特性を見出してきた。本書でも触れられているように、錯視との遭遇は人を大いなる知的興奮へと導くのである。おそらくそれは錯視が「知ることについて知る」ための入り口となってきたからだろう。遠く哲学へとつながる「知を知りたい」という野望の発端には、「目の間違い」があった。

 錯視についての本は数多く出版されているが、本書の特色のひとつは「人はなぜ錯視するのか」という難しい領域に果敢に踏みこんでいることだろう。土台になっているのは進化論的な考え方だから、必ずしも証明ができるわけではないのだが、なるほどという指摘はいくつもあった。たとえば著者は次のように言う。

 …大きさや角度などの空間的特性に関する錯視は、進化の過程での自然環境の中で接することがないような構図の幾何学図形の観察で生じやすい。平面上に描画された幾何学錯視図形や不可能図形などは、そうした図形の典型例である。(114-115)

 たしかに、人間にとって平面との出会いは、立体との出会いよりもずっと遅れて発生したものだ。今、私たちは立体的環境に足を踏み出すことなく、紙にせよ、スクリーンにせよ、いかに平面上ですべてを理解し処理するかに多大のエネルギーを注いでいる。ときには、立体的環境に直接手を伸ばしたほうがはるかに簡単なときでさえ、である。「省略し縮減し図示する」というのが近代のひとつのキーワードとなってきたのだ。しかし、そのような平面との付き合いは人間にとってはまだまだ珍しい新しいものでもある。そして珍しく新しいだけに、初期不良が生じやすい。私たちにとっては、立体との付き合いの方がはるかに馴染みが深いのである。著者は写真を用いた錯視の例に言及しながら、「これらの写真観察で生じる錯視は、進化の過程で獲得された、立体を見るための仕組みが、平坦な画像の観察に誤って適用されたことで生じたのだろう」(115)と言っているが、たしかに平面を理解するのに、誤って立体を知覚するときの要領でやってしまうという説明には説得力がある。

 また、このような進化論を背景とした考察の中では、「錯視は実は人間にとって合理的な選択なのかもしれない」という主旨の見解も提示される。筆者もおおいに同意する。

 生存のためには、何でも「正しく」見えればよいわけではない。たとえ正確さが犠牲にされて、全体的な構造としては破綻しているような見えが得られたり錯覚が生じたりしたとしても、生存にとって十分な特性さえ見間違えず、大雑把な構造的特性の情報が得られれば生き残っていける。逆に、時間や労力のコストをかけて錯覚が生じないようにする戦略は、そもそも解にたどり着くのが困難である上、生存における合理性に欠けるのかもしれない。(114)

   

 筆者にとって意外だったのは、高速道路などを走る車輪が逆方向に回転して見えるようなおなじみの錯視について、必ずしもその原因が突き止められていないということである。これは「ワゴン・ホイール錯視」と呼ばれているそうだが、明滅している光の下で特定のホイールが誤って関係づけられるような状況ならともかく(ジブリの展示にありますね!)、自然光のもとでなぜそのような錯視が生ずるのかははっきりわかっていないそうである。おそらくは私たちの視覚処理過程の「周期的特性」に原因があるのではとの説が有力だそうだが、このような身近な錯視でも案外すべてがわかっていないというのはかえって、こちらの知的好奇心をかき立てる。

 本書の後半では運動と色彩をめぐる錯視が話題となる。いずれも今何かと注目されるテクノロジーと深く関係したホットな領域である。ここでも「運動表象の惰性」(動いている対象の位置が進行方向側に行きすぎて見える)、「コントラスト錯視」(明るさや色相の見え方が、空間や時間における相対的な関係によって決定される)、「同化現象」(違う色が同じように見える)といった代表的な錯視についての踏みこんだ解説が、短いスペースで手際よくなされるが、説明を読みながらあらためて思うのは、このような錯視が目にかぎらず私たちの知の領域全般を覆っているということである。私たちの知は、「進行方向側に行きすぎる」ことがあるし、「相対的な関係によって決定される」こともあるし、その逆に「違う色が同じように見える」こともあるのだ。

 もちろん、だから気をつけろ!というような単純な議論ではない。私たちはそうした人間の特性と付き合わざるを得ないし、おそらくそれがかえって役に立つことだってある。巻末でのいわゆる「色覚異常」についての著者の見解も、そういう意味では冷静で合理的なものだ。かつて「色盲」と呼ばれた、通常よりも少ない色しか見ない「2色覚者」に対する見方は、逆に通常よりも多くの色を見る「4色覚者」もいることを知らされるとがらっと変わるはずである。色覚のタイプを越えてわかりやすい色彩を提供する「ユニバーサルデザイン」という考え方も、今後はおおいに普及していくだろう。


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