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2013年01月27日

『説得』ジェーン・オースティン作、中野康司訳(ちくま文庫)

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「驚嘆すべき地味さ」

 卒論や修論のテーマが話題になる季節である。英文学界隈で相変わらず人気を保っているのは、シェイクスピアとならんでジェーン・オースティン。今年はおなじみの『高慢と偏見』とならんで、『説得』をとりあげた人がいて「おっ」と思った。

 オースティンの中では『説得』(Persuasion)はかなりしぶ~い作品だ。だいたいタイトルにある「説得」という語からして、満々と渋みをはらんでいる。本来、説得とか口説きと言えば、英文学的伝統の中でももっとも華やかな身振りのはずである。シェイクスピアの『ソネット集』にしても、ジョン・ダンの変態的な詩の数々にしても、アンドリュー・マーヴェルのこの上なく甘美な「はにかむ恋人へ」にしても、いかに上手に、派手に、ひねりを利かせて口説くかが書き手の腕の見せ所となってきた。口説きの瞬間こそが文学の華なのである。

 ところが『説得』の〝説得〟はちょっと違う。「ねえねえ、進もうよ」という前向きの〝口説き〟よりも、その正反対の「やめときな」という負の説得こそが中心となる。この小説の最大の関心事は、起きることより、起きないことなのだ。とりわけ8年前に、起きなかったこと。主人公のアン・エリオットはすでに30近いが、まだ未婚である。実は彼女は8年前、ウェントワース大佐という人と結ばれる直前までいったことがある。ところが、親しい人に「やめときなさいよ」との忠告を受け、「たしかに女の子は慎重であるべきだわ」と考えて、お付き合いをやめてしまったのである。

 ええ? ふつうそこでやめちゃいますかね!! 仮にもヒロインでしょ?と思う人もいるだろう。たしかに近代小説に描かれた女性の多くは、「やめときなさいよ」と言われても「ぜったい、やめません!」と反発することでこそ、主人公となってきた。ジョージ・エリオット、エミリ・ブロンテ、シャーロット・ブロンテといった19世紀英文学を代表する作家たちは好んでそういう女性主人公を描いてきたし、ほかならぬオースティンだって、たとえば『高慢と偏見』ではそういう女性を主人公にすえたではないか。

 しかし、『説得』のアンは違うのである。「やめときなさいよ」と言われればやめるし、小説の最後に至るまで、自分がやめたのは正しかったと信じ続けている。そんな人に主人公となる資格があるのだろうか? ところが不思議なことに、この後ろ向きで、地味で、他の登場人物からは便利屋さんのようにみなされ、27歳にして「最近老けたね」みたいなことばかり言われているアンの身の上話が、読者としてはとても気になるのである。こちらとしては、「そ、それでいったいどうするんです?」と思わず身を乗り出してしまう。しかもアンの日常生活ときたら、実に平穏で単調このうえないのに。

 小説はだいたい三つの段階を踏む。序盤ではまず「エリオット家の事情」が語られる。貴族の家系でありながらエリオット家は無分別と浪費のために財政的に逼迫している。住んでいる屋敷も人に貸さなければならなくなった。3人娘のうち長女のエリザベスと次女のアンはまだ未婚。妻に先立たれた父親は鏡を見てうっとりするばかりの、およそ頼りにならないナルシストの男である。いよいよ屋敷には他人が引っ越してくる。じゃあ、私たちはいったいどこに行きましょう?とすったもんだするうちに、家族それぞれの性格が浮かび上がってくる。身勝手な父ウォルターと長女エリザベス。神経質で文句ばかり言っている三女のメアリ。そんな中で、賢いアンはいつも正しいことを言うのだが、誰も彼女の言うことには耳を貸さない…。

 描かれるのは些末な事ばかりなのにどんどん引きこまれてしまう。派手さのない語りなのだが、要所要所はきっちり引き締まり、まるで主人公アンの折り目正しい性格と相関するかのように、鋭い分析と観察の目が光っている。単なる「事情説明」だけでこれだけ読ませるのだから、作家の円熟ぶりは相当なものである。

 物語が多少なりとも動き出すのは、屋敷に海軍提督が引っ越してきてからである。以外な事実が明らかになる。クロフト提督の奥さんの弟が、何と、かつてアンと婚約していたあのウェントワース大佐だったのである。当然ながら大佐がクロフト提督夫妻を訪れる機会も生ずる。8年前に婚約を解消した相手のまさかの再来に、アンは気まずい思いで一杯になる。二人が知り合いだったことを知ったらまわりの人はいったいどう思うかしら!みたいなことに始まり、アンは人知れずもじもじと悩むわけである。ところが、そんなアンの心配をよそに、ご近所さん同士の間でさまざまなイヴェントが企画され、アンもそれに参加せざるをえなくなる。中盤ではこうしたイヴェントが、たっぷりスペースをとって細々と描かれるのである。

 もちろんイヴェントと言っても、せいぜい食事とか散歩とか遠足である。ところがそののどかな遠足のさなかに、ウェントワース大佐を巻きこんだ事件が起きる。おそらく『説得』中最大の大事件である。マスグローブ家の二人姉妹のひとりルイーザが、はしゃぎすぎて転倒するのである。 え?それだけですか?と思うかもしれないが、何しろ渋みと地味さの覆う『説得』の世界である。これだけで十分、大波乱なのである。この転倒&負傷事件をきっかけにそれはそれはいろいろな騒ぎがまきおこり、余波があり、出会いや発見まで発生する。人が人を好きになり、再会があり、アンとウェントワース大佐の関係にも少なからぬ影響が生まれる。表向きはほとんど口もきかない二人だが、視線の動きや心理描写から、大佐を思うアンの気持ちがじわっと濃厚なものになっていくのがよくわかる。

 そしていよいよ終盤。舞台は高級保養地バースに移る。英国でも有数の社交の地である。このような社交場につきものなのは、遭遇と、目撃と、恋と、噂と、悪意と、噂と、結婚。こうして物語はいよいよ佳境に入るわけだが、あいかわらず、たいした出来事が起きるわけではない。中心となるのは、もっぱら噂や証言をとおした「過去の再解釈」である。にもかかわらず、この終盤がかなり読みごたえがある。最後はアンとウェントワース大佐が8年のブランクをへてやっぱり結ばれるという、この上なく地味な結末が待っているのだが、このA(アン)=W(ウェントワース大佐)という解に至るまでの経過がすごい。出来事もないくせにやけに錯綜した人間関係が、言ってみれば、

1-ax-by-axy=1-by-a(1+y)w=f(w)

…というような、ほとんど数学の演算式のごとき論理過剰の説明を通してきれいに整理されるのである。まるで手品だ。中には「これでは強引なツジツマ合わせではないか?」と文句を言う人もいるかも知れないが――そしてたしかにそういうところもあるが――筆者はこのツジツマ合わせの術に酔ってしまった。オースティンって、けっこう頭がいいのです。

 さて。いつものことながら、オースティンの小説では脇役が光っている。『説得』では何と言ってもアンの妹のメアリーがいい。口数が多くヒステリー気味であれこれと我が儘を言ってはまわりに迷惑をかけるあたり、『高慢と偏見』のベネット夫人を思い出させるが、ベネット夫人よりもずっと洗練されている。遠足のとき、夫が片手をアンとつなぎ、もう片方を自分とつないでいるのに、草をはらうときにはいつも自分とつないでいる側の手ばかり放してる!ずるい!と言って騒いだりする場面など、思わず膝を打ちたくなる。一家のお父さんのウォルター卿もなかなかの人物だが、冒頭で派手に登場して以降、あまり表舞台には出てこなくなる。もう少し場を与えられたらもっと活躍しただろうにと思う。残念。それにしても、こんな脇役が活躍するのも、アンの「目」があればこそ。地味でおとなしい人というのはまったく侮れませんね、というのがやっぱり小説的世界の鉄則なのだ。


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2013年01月10日

『星を撒いた街』上林暁(夏葉社)

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「〈である〉と私小説」

 私小説が話題になるとき、上林暁は必ずしも筆頭にあがる名前ではないだろう。でも、4、5人のうちには入っているかもしれない。10人に枠を広げればまず当確。つまり、知ってはいても、意外に読む機会の少ない作家、ちょっとグレーゾーンの作家なのである。

 その上林暁が、ある時期、やけに目についた。某大型啓文堂書店のわりと目立つ平棚に置いてあって、何週間たっても、しつこく居る。まわりをタレント本やらハウツーものやらに囲まれ完全に孤立しているのだが、場違いにレトロな装丁がじわっと目を引く。タイトルの「傑作小説集」という古めかしい言葉にも、何となく哀愁。妙な気配を発しているのである。

 それでいざ頁を繰ってみると、ほらね、というか、距離感が妙なのだ。思わずたじろいでしまう。冒頭の作品「花の精」は、植木屋が自宅の庭の月見草をグリグリとねじ切る場面からはじまるのだが、そのむごさに呆然とする語り手のめそめそした執着ぶりときたら。遠慮もなくこちらにナマの感情を押しつけてくるこの語り手、いったい何なのでしょう。

 その月見草の太い株が、植木屋の若い職人が腰に挟んでいた剪定鋏で扭(ね)じ切られているのを見たとき、私は胸がドキドキして、口が利けなかった。私は自分の全身から血の引くのがよくわかった。
 私は茫然として、縁側に立っていた。
(中略)その月見草の株は、逞(たくま)しく蟠(わだかま)っていたので、ナイフを当てがっても、なかなか思うように切り取れない。しかし職人は、根株を徹底的に片づけて、もう二度と芽など出させないようにするつもりらしく、何度も何度もナイフを当てがって切りさいなむのであった。彼は、私が大事に大事にしていた月見草だとは知らず、只の雑草と思い込んで、月見草のまわりに花をつけているあやめの株を生かそうがために切ったものらしく、私の口惜しさなどまるで気がつかないのであった。のさばりかえっていた月見草を平らげたので、彼の素振りは、むしろ得意げであった。それを見ると、私の口惜しさはいよいよ募り、ちぐはぐした感情のために、いらいらして仕方がなかった。(8-9)

 何だか、見ず知らずの人から、道端で「何とかしてくださいよ~」と苦情を言われて対応を迫られているような気分になる。文章も小説的抑制があまり効いてなくて、粗雑にさえ見える。でも、単なる粗雑さでもないのである。スレスレのところでやっている。

 上林暁の作品の中でもよく知られているのが「病妻物」だ。精神病を発病して入院した妻を支えて貧乏作家が生きていく、その生活をたっぷり情感をこめて描く。この「花の精」もそんな作品の一つで、冒頭の月見草のイメージが病気の妻を思う気持ちとが重なるのである。発表は昭和十五年、妻の発病が昭和十四年だから「病妻物」の走りとも言える。本書には「病める魂」(昭和十七年)や「晩春日記」(昭和二十一年)のような、より本格的な「病妻物」も収められているが、この「花の精」を巻頭にもってきたのは意味があると思う。この作品には、まだ妻が病気であることにすっかりひたりきっていない、どこか落ち着かない様子があって、いちいち「ぼくの妻は病気です!」と訴えずにはいられない変な興奮状態が、作品の推進力をつくっている。つまり神経の腫れっぷりで音響を生みだすような、捨て身の書き方なのである。

 そんなわけでこちらとしては、このアクの強い腫れ物のような語りにがっちり手首をつかまれた気分で読み進めわけだが、ところどころに、「あ、そうだよ、これが私小説だ」と思わせる瞬間がある。たとえば以下のような部分である。

 私は今、妹に三人の子供の世話をさせながら、淋しい生活を送っている。妻はいないのである。半年ばかり前から、私の妻は或る病院に入院しているのである。どんな病院であるか、また書くことがあると思うから、今はあまり言いたくない。(19)

 二年ばかり前、妻がまだ元気であった時分、私は文学と生活に行き詰まって途方にくれていた。妻の病気も、もとはと言えば、その頃の生活が根をひいているのである。私は面白くもない月日を送っていたが、そういう途方にくれた私を毎日慰めてくれたのが、庭に咲いた二本の月見草の花であった。(20-21)

 注目したいのは、語尾の「~のである」だ。全体の流れの中では、こうした部分はいわば「沈静期」にあたっており、ひりひりと腫れ上がった語りが過去をふりかえりつつ暗い気持ちにひたることで、かえって束の間の落ちつきに至るわけだが、そのような刹那に「~のである」という語尾がきわめて有効に働いている。

 考えてみると、私小説の何よりの特徴は、こんなふうに堂々と「~のである」で言葉を終えることが許されることなのである。そもそもこれらの「~のである」は何を意味しているのだろう。断定だろうか。主張だろうか。それにしても、フィクションの中で、いまさら断定されたり、主張されたりしても困る。読んだ実感としても、論文などの「~のである」とちがって私小説中の「~のである」は、「何かが決定的に決まってしまった!」という感じはさせない。

 むしろ、そこに含まれているのは断定や主張より、訴えや働きかけのニュアンスではないだろうか。語り手は決して思考者や報告者として屹立してはいない。威張ってもいない。自信満々でもない。こちらに何かを押しつけるわけでもないし、訳知り顔でもない。むしろ、「何とかしてくれよ」と言わんばかりの、しなだれかかるような「弱さ」が目立つ。ただ、弱いくせに、こちらの注目を引くことには一生懸命なのである。実際、そこで開陳されるのは、まあ、それほどたいした情報でもないのだが、こちらはつい、それまでよりも熱心に耳を傾けてしまう。情報よりも、「ねえ、聞いてよ」という語り手のジェスチャーそのものを嘆賞してしまうのである。

 どうやらクセ者は「弱さ」なのである。この「弱さ」には、「あんたが話を聞いてくれないとほんとに困る」と訴えかけてくるような、そして「ああ、話を聞いてあげないとこの語り手も困るのかもねえ」とこちらに錯覚させるような、妙な引力がある。それはほとんど「芸」の領域に達している。

 私たちがなぜわざわざ私小説などというものを読みたくなるのか、というのは大いなる謎である。(ついでに言えば、読みたくなる人と、まったく読みたくならない人がいるというのもおもしろい。)この謎を解く鍵の一つは、この「~のである」の隠しもった「弱さ」ではないかと思う。「花の精」では、夫に死なれて戻って来た妹が家族の面倒を見ているわけだが、その妹に語り手がいちいち苛々すると同時に、苛々した自分にがっかりしたりもする。妹には炊事洗濯以外も著者印票への検印押しから、将棋の駒磨きといった仕事まで与えられるが、とにかく要領が悪い。しかも仕事が一段落すると、すぐ昼寝などしている。しかし、それを見ながら語り手がこんなふうに思う場面がある。

 しかし、そのうち、妹が朝っぱらから寝そべっているのを見ても、私は怒鳴らなくなった。自分が朝っぱらから寝そべることがあるのは問わずとして、いかにも疲れたらしく、物憂そうに鼾を立てているのを見ると、妹の途方に暮れた心事が私に伝わって来て、どうしたって怒鳴れないのだ。それは正(まさ)しく、来し方行く末の心労に苛まれて、眠りを貪っているひとの姿なのだ。殊に妹が、少し鼻が悪くて、グツグツと鼻を鳴らせながら寝ているのを耳にすると、その感が格別深いのである。(28)

 また「~のである」だ。「のだ」も効いている。こうした語りには、弱さを「芸」として自覚した語り手の、いろんな隠し味がつまっているような気がする。不器用で、過剰で、聞き手=読者に対して依存的で、優柔不断で、不安に満ち、どこに行くかもわからないし、つねに情緒不安定。そんな因子を背負いながらも、「である」は語りのモードとしては、ズブッと結論的なのである。無理をしてでも、そこで言い終わろうとする気負いがある。収めよう、鎮めようとするのである。だからこそそれは、私小説を構成する生理的サイクルの要となっているのではないだろうか。

 私小説とは、自分の生活の生理的な部分と「文章の生理」とを限りなくシンクロさせつつ、どこかで文章の力で生活にくさびを打ち込もうとする野望をひめたものなのかもしれない。あるいは少なくともそのような期待を、ジェスチャーとして示している。もちろんそんな試みが成功するとは限らないところがおもしろいわけだが。

 本書の編集は山本義行氏。「私の身体のなかには上林暁が入っているので、少し大げさにいうと、上林の作品なら何を読んでも、どの小説を読んでも楽しめてしまうのだ」という山本氏は、今回はあえて世に知られた「病妻物」の比重を小さくしたとのこと。そんな「病妻物」の一つの「和日庵」(昭和三十一年)などは、すでに洗練はされつつも以前の作品のごつごつした感じを保っていてたいへん読みごたえがあった。


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