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2012年10月23日

『イギリスの大学・ニッポンの大学 ― カレッジ、チュートリアル、エリート教育』苅谷剛彦(中公新書ラクレ)

イギリスの大学・ニッポンの大学 ― カレッジ、チュートリアル、エリート教育 →bookwebで購入

「東大って、やっぱりダメなの?」

 オックスフォード大学との比較を通し、日本の大学、とくに東大を批判する――たいへんわかりやすい図式だと思う人もいるかもしれないが、ややトーンの変わる第三部に至って、語ろうとする内容をはみ出さんばかりに横溢する著者の熱意に打たれる。筆者自身にとっても生々しい問題なので、今回は多少書評の枠をこえて末尾で私見も述べたいと思う。ともかく、まずは本の紹介から。

 本書は三部構成からなる。第一部はオックスフォードに専任教員として赴任した著者のカルチャーショックを描いた一種の「旅行記」と考えればいい。ただし、『ガリヴァー旅行記』のようなものとちがって視線はまっすぐというか、珍妙なものをおもしろおかしく描くというよりは、まじめで、建設的である。

 なかなかこうはいかない。オックスフォードやケンブリッジの大学システムというのは、はじめて見る人にとってはどうしたって珍妙である。林望(『イギリスはおいしい』)や藤原正彦(『遙かなるケンブリッジ』)をはじめ「英国オールド・ユニバーシティもの」のエッセイは、だいたいはこれら変てこりんな大学やそこに生息する不思議な人々にあきれつつも愛おしむというところから出発するのである。

 まずよくわからないのが「カレッジ」だ(college.「コレッジ」「学寮」とも言う)。たしかにカレッジには「寮」としての機能があるのだが、そこにはまたフェローと呼ばれる教員もいて、主に学部生の教育の面倒を見る。本書で話題になる「チュートリアル」が行われるのもカレッジ単位である。カレッジには貧富の差があって、金持ちカレッジは大々的な投資を行ったり、高級ワインのストックを持っていたり、卒業生である皇太子がヘリコプターで現れたときのためのヘリポートがあったり。絵はがきに写っているおとぎの国の城みたいな建物は、たいていこうした金持ちカレッジの所有物である。有名カレッジの学寮長(master)ともなると、元首相が候補になったりする。対して貧乏なカレッジでは学寮の設備が不十分だったり、お小遣い(グラント)が少なかったり、卒業生にも頻繁に寄付のお願いが送られたりする。新興カレッジは宣伝のためもあってスポーツ推薦にも積極的で、大学ラグビーチームのメンバーのほとんどが特定のカレッジに集中し、寮内は巨漢ばかりなどということにもなる(ややおおげさですが)。

 このカレッジ単位で行われるのが件の伝説的な「チュートリアル」である。学生一~二人につき一人の教員という贅沢なセッションを定期的に行うためには、相当の数のスタッフが必要になる。もちろん熱意のある優秀な人が多いだろうが、中には熱意のない人、抑圧的なだけの人もいる。いつも寝不足の人もいる。二人しか学生がいないのに、学生がレポートを読み上げている間、居眠りする人もいる。どの教員にあたるかは運次第。しかし、入試からはじまってつねに面接で選抜され、面接できたえられた学生たちは弁舌さわやかで頭脳明晰だから、おそらくどんな教員にあたってもそれなりに対応できるのだろう。

 背景にあるのは社交の文化である。本書でも詳述されるように、教員も学生も、メニューこそ別だが、カレッジの同じ食堂で夕食をともにする。専門を異にする研究者たちがワインを傾けながら会話を弾ませ、週に何度かはフォーマルディナーもある。こうした伝統は、いくらうらやましくてもそう簡単に移入できるものではないが、それが結局は苅谷氏の言う「顔の見える教育」にもつながってくるのかもしれない。対面的な環境の中で、あくまで人物本位で相手を教育し、育てる。これに対して、日本的な(あるいは東洋的な)匿名試験の制度が育てたのは「顔の見えないエリート」だった、というのが本論の中心的な議論なのである。

 ところで、ひとつややこしいのは、大学が単なるカレッジの集合体ではないということである。オックスフォードにしてもケンブリッジにしてもそれぞれ30を越えるカレッジがあるのだが、こうした封建領主のようなカレッジ群とは別に(一部のカレッジは広大な土地を所有している)、「学部」や「学科」などユニバーシティの枠が存在する。つまり個々のカレッジによる教育を横断するようにして、これらの組織が体系立った、専門の講義などを提供するのである。とくに大学院生の場合はこれらの「学部」や「学科」が教育の中心となっており、指導教員も自分の所属するカレッジのフェローが担当するとは限らない。何と言っても財力があるのはカレッジの方なので、本部たるユニバーシティの支配力はそう簡単には及ばないようだが、そのバランスは変わりつつあるようにも見える。苅谷氏が言うようにオックスブリッジの魅力は、カレッジを基盤としたチュートリアルにあった。それが近年の大学院重点化で、徐々に中央集権化されていくのかもしれない。

 第二部も「旅行記」の続きと言ってもいいが、対象はオックスフォードからイギリスの教育システムそのものへと広くなる。近年のイギリスの教育改革が引き起こした騒動の原因は何だったのか。教育社会学を専門とする苅谷氏の視点がもっとも鋭く発揮されるのはこの部分だろう。問題となったのは、誰が大学生の教育費用を負担するのかという点である。イギリスでは政府の財政赤字圧縮のために、それまでは大学は無償だったのに学生から授業料が徴収されることになり、しかもその額が値上げされつつある。当然、学生からは反発が起きたわけだが、その反発を抑えるためのさまざまな方策が整備されつつもある。ただ、そもそもの問題の根は、一部の階級のためのものだった高等教育が戦後一気に大衆化したことにある。これはイギリス特有の問題とも言えるのだが、苅谷氏がここで日本の問題を接続してみせるところがおもしろい。日本でこれまであまり話題にならなかった、「誰が高等教育の費用を担うのか」という問題がイギリスではこうしてきっちり争点になっている。対して日本では、教育費が親から子への贈与という形を取ってきたことで――つまり個々の家庭まかせになってきたために――費用負担の問題が社会的な視点から論ぜられてこなかった、というのである。

 そして第三部。いよいよ日本の問題である。というか、「日本病」のこと。議論は一気にヒートアップし、もはや旅行記どころではなくなる。日本では大学教育が機能していない。そもそも企業や社会が大学にきちんとした学生教育を期待してこなかったこともあり、東大を始めとする日本の大学は学生を教育するという責務を果たしてこなかったのではないか。大学人も企業人も「コップの中の争い」にばかり目を向け、優秀な人材がグローバルな規模で移動する「コップの外の競争」に太刀打ちできる体勢がまったく整っていないのではないか。苅谷氏は学部を三年制にし、修士課程を拡充するといったプランも提示して、このような日本病を打開する方策を打ち出そうとする。

 議論の中心はおそらくふたつある。ひとつは「コップの中の争いはもうやめないといけない」というメッセージである。イギリスの大学で教えている苅谷氏ならではの視点だと言えるし、説得力もある。では、どうしたらいいか。オックスフォード大学での経験を踏まえて苅谷氏があらためて訴えるのは「批判的な思考」の養成である。日本の大学に足りないのはこれだ、という。大人数の教室で先生の講義を必死にノートするだけでは決して育たないもの。オックスブリッジのチュートリアルはまさにこの「批判的な思考」を、小人数の対面教育を通して教え込んできたのではないか。

 さて。どうなのか。そこで少しだけだが、私見を述べてみたい。
 まず一対一か、一対多かという問題に焦点をあてた点はたいへんおもしろいと思う。これは教育問題をはるかにこえて、近代の文化の中で人々が知とどのようにつきあってきたかという話とも直結するからである。今、私たちは「コピーならいくらでもできます」という状況の中にいる。紙の本という些かなりと手触りの伴う仮想的な「先生」さえ電子化され、自動学習装置やらEラーニングやらで、もはや私たちは誰を相手に勉強しているのかさえわからなくなりつつあるし、ましてや知の機能の一部が、たとえば計算機や、ワープロや、その他の記憶媒体、映像媒体などに外部委託されるのがごくふつうになった。もはや個人の知的活動そのものが分業化されている。そこに「対面」という、一見アナクロな視点を持ち込むことで、あらためて私たちの主体性を根本から問い直すことが可能になる。

 問題は「何を」教えるかである。「批判的な思考」という考えはきわめて魅力的だと思うのだが、これは果たして学問の手続きとして教えられるものなのだろうか。いや、たぶん教えられる。たとえば今、英文科の大学院でも――うまくいっているかどうかは別として――目指しているのはそういうものだ。みなで文学テクストを読み、文学テクストについて書かれた批評を読み、「この批評ってどうよ?」「この読み方どうよ?」と問う。これはまさに「批判的な思考」の原型である。

 しかし、このような作業に到達する前にやらなければならないことがある。本書でも話題になる「ディシプリン」(discipline)だ。「ディシプリン」は通常「学問」とか「専門分野」と訳される語だが、元々は「規律」「修練」との意味をもっている。よりわかりやすくは、その専門で研究を行うにあたって身につけなければならない「言語」のようなものだと考えればいい。むろん、狭い意味での「語学」とは違う。「語学」はディシプリンの典型かもしれないが、ここで言いたいのは哲学の言語、数学の言語、法律の言語、化学の言語といったものであり……おそらくは教育学の言語といったものもあるだろう。このような言語の習得は地味で、退屈で、抑圧的で、ときには権威主義的だったりするし、少なくとも勉強を始めたばかりの個人の意見などがまかり通る世界ではない。しかし、この部分をいったん通過しないと、そもそも学問的な議論をするための入場券が手に入らない。

 だが、言語を学ぶための修練はこのところたいへん不人気である。反復練習や暗記を通して手続きや方法を習得させる科目は、独創性やら天才やらノーベル賞とは縁がなさそうだし、きらびやかな知的輝きには欠けるように見られる。かわって称揚されるのは「ダイナミックな知的発想」だったり、「従来の規範にとらわれない自由でタフな思考」だったりするのだ。今はやりの〝国際化〟もその延長で語られることが多い。

 明治以来何度目かわからないが、今あらためて国際化という理念が頻繁に唱えられている。東大でもそうである。そこでも必ずからんでくるのは「言語」である。出発点で問題になるのは「留学生を教える言語は?」とか「日本人学生がエジプトに留学して現地の言葉がわかるの?」といったベタなことである。ただ、実は国際化ということをいうときには、言語の問題は最後までついてまわる。教育環境や専門領域といったバックグランドを異にする人々が一堂に会して何かを議論しようというとき、「言語」を共有しなければ、社交辞令をかわして一緒にメシを食っておわりということになるだけだろう。たとえそれがカレッジのフォーマルディナーであったとしても、だ。つまり、グローバル化とか国際化といった派手なことを言えば言うほど、人々が忌み嫌う地味な「言語学習」の問題が前景化せざるをえないはずなのである。

 日本の従来の中等教育は徹底的に「言語学習」的なものだった。意見を言う前に、まず「言葉」を覚えて身につけなさい、と言われる。これは明治以来、まず外国語を覚え、外国的なものの考え方を身につけることが学問の第一歩となった、つまり文字通りすべてが語学からはじまったという歴史とも関係してもいるのだろう。おかげで日本では、つべこべ言わずにまず「言語」を身につける技術がたいへん発達した。

 「批判的な思考」への傾斜はそうした伝統と縁を切るものなのだろうか。それとも「批判的な思考」そのものをディシプリンとして教育の中に組み込むことは可能なのか。  おそらく答えは後者なのだろう。筆者がこうしてわざわざ出しゃばって私見を述べようと思ったのも、イギリスという国では批評の方法が、とりわけ文学テクストの解釈を通して、きわめて早い段階で理論化され洗練されてきたということが念頭にあった。つまり、批判的な思考=critical thinkingを個人芸のレベルで勝手に行うだけでなく(それなら太古の昔から行われていただろう)、制度化・マニュアル化して一種のディシプリンとして大学で教えるようになったのは、イギリスの大学の英文科なのである。苅谷氏の言うように、そこにチュートリアルの伝統がからんでいたと見ることも十分に可能だ。

 しかし、そのような批評の流れと付き合ってきた英文学の研究者の一人として言うと、たしかにイギリスの知的伝統の中に批判/批評という行為は深く根づいているし、活字上であれ口頭であれ討論を円滑に運ぶ技術もたいへん優れている、そのおかげで、制度化された批評行為もたいへん洗練されたものにはなったのだが、同時に、マニュアル化されすぎた批評理論ほど退屈で刺激に乏しいものはない。いや、退屈なだけでなく、多くの場合、それは見当違いの結論しか導き出さず、あまり役に立たないものなのである。

 もちろん、議論の妥当性を論理的に問うという作業は、どんな学問においても必須のプロセスだろう。しかし、「批判的な思考」とはその一歩先を行くものであるはずだ。論理を辿りさえすれば誰もがたどり着ける地点を目指すだけではなく、ふつうなら見損ねるものを見極めたり、なかなか気づかない暗部に光りをあてたりする、苅谷氏の言うのはそのような知的作業のことだろう。そうであるなら、それはマニュアル化などはできないし、むしろ教えられた瞬間にその命を失うかもしれない非常にデリケートなものである。

 もしcritical thinkingなるものに〝コツ〟があるとするなら、それは外にでる、もしくは斜めから見るということではないかと思う。あらかじめ設定された視点からはずれたところから対象をとらえる。そのために、つねに立ち位置をずらす。そうすることで、惰性的な枠組みや、意図的に仕組まれた誤謬の罠から自由になれる。そういう意味での国際化、もしくは「国外化」にはたいへん意味がある。しかし、言うのは簡単なようだが、どこまでそれは〝習得〟できるのか。ましてや〝伝授〟できるものなのか。そこでふと思い出すのは、イギリスの大学の、あのアナクロで珍妙なあり方である。ひょっとすると、あの〝ずれ〟が関係しているのか。がちがちのようで、巧妙にゆるい部分が仕組まれている。変な方向にそれる。妙なこだわりにも寛容。それに、あのイギリス人の脱力的なギャグ! そう、「遊び」の思想がなくては、斜めから見るなんてことができるわけがないのだ。

 というわけで、筆者の「私見」にはふたつのポイントがあった。国際化という華やかな看板が、地味な「言語習得」の問題と無縁ではありえないこと。それから、「批判的な思考」との付き合い方の、その魅力と難しさ。どちらも本書の議論と対立するものではないし、むしろ本書に触発されて考えたことなのである。


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2012年10月09日

『森敦との時間』森富子(集英社)

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「これというものをひとつ書けばいい」

 森敦は、その実人生の「物語」で知られた人である。作家を志して旧制一高を中退、菊池寛や横光利一の推挙で若くして文壇デビュー。太宰治をはじめ当時の花形作家とも交わり、22歳にして『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載を持った。ところが、その後小説の発表は途絶え、山形、新潟、三重と各地を放浪する生活が始まる。おもしろいことに、その後も作家の間には森信者が増え続け、小島信夫、後藤明生、三好徹、勝目梓といった人々がしがない印刷会社に勤める無名の森敦に助言を求め続けた。人呼んで「森敦詣で」。以前、この書評欄でもとりあげた勝目梓『小説家』では、森の独特な振る舞いが次のように描写されている。

 あるとき、池袋の居酒屋の二階の座敷で開かれた『茫』の合評会に、主宰者の高田欣一が、見るからに曲者といった印象の眼光鋭い五〇年配の人物を連れてきた。そうして、その人物はどこか胡散臭い感じを漂わせながら、しかし自信に満ちた断定的な口調で、その号に掲載されている作品の批評をはじめた。曲者然とした胡散臭い印象とは裏腹に、その批評は犀利である上に、問題の捉え方にきわだった独創性をうかがわせるところがあった。つまりその人物は、『茫』に掲載されている作品それぞれをタネにして、自身のユニークな文学観を開陳しているのだった。そうしてその場はその人物の独り舞台のようになっていた。(362-63)

 とにかく座談の名手。電話魔。作品への感想を求める作家たちとひとりひとり順番に面会し、思わせぶりな語り口に昔話や文学論を織り交ぜながらも貴重なコメントをしてくれる。「深淵の帝王」などとも呼ばれた。その森が62歳にしてついに「月山」で芥川賞を受賞することになる。今も破られていない芥川賞の「最年長受賞記録」である。「とにかくひとつこれというものを書けばいいのだ」というのは森の持論でもあったが、ついにそれを果たしたことになる。

 『森敦との時間』はこうして遅いデビューを果たした森の姿を、養女としてその生活を支えた富子の立場から描いたもので、『森敦との対話』につづく評伝となる。森敦は芥川受賞後、その波乱に富んだ人生や独特の雰囲気が話題になり、原稿の注文だけでなく、テレビ、ラジオの出演依頼も殺到した。住んでいたおんぼろアパートには毎晩のように崇拝者や編集者たちが押し寄せ、狭い四畳半にぎゅうぎゅうになって森の話に耳を傾ける。会社から帰った富子は毎晩その接待に追われた。缶詰をあけた程度のつまみも、あっという間になくなる。疲れ果てて缶詰めをあける余裕もないときは、鮨を頼むのだが…。

 届いた鮨桶を卓袱台の中央に置くと、いっせいに客の箸がのびてくる。二重に並んでいた客が、右半身の一重の列になって、のばした箸で鮨をつまむ。みな右利きだから右手をのばせばいい。もし左利きがいたらおかしなことになるだろう。チチまでも半身に構えているからおかしい。(6)

 富子自身も作家志望だった。養女になったのも、森敦と同人誌で一緒だった縁からである。しかし、今の引用箇所からもわかるように、本書には作家的な、文学的な文章を書こうとする暗い情念や執着からついに自由になったような身軽さがある。語る自分の言葉に拘泥することなく、急ぎ足で、さっぱりした気分で、「まったく何言ってんだか!」というような突き放した口調とともに、「チチ」である森敦をからかうように、文句を言いながらも、愛おしんで語るのである。途中、文の主語が森敦なのか森富子なのかわからなくなるところもあるのだが、森の最晩年を描いた最終部では、それがくるっと感動的な場面に転換する。

会議で帰宅の遅い日は、冷蔵庫から料理を詰めたお重を食べる習わしが続いていた。しかし、私の帰宅を待つようになった。食卓に腰掛けて待つ姿を見るのはつらい。(252)

もちろん「会議で帰宅の遅い」のは、会社勤めの富子である。「冷蔵庫から料理を詰めたお重を食べる習わし」は、外食嫌いの森敦のこと。「食卓に腰掛けて待つ」のは森敦で、それを見て「つらい」のは富子。ところがこの場面は、こんなふうに続く。

……食卓に腰掛けて待つ姿を見るのはつらい。わざと大声で「ただいま!」と叫び、冷蔵庫からお重を出し、ビールで乾杯をする。
「これ、飲んでくれないか」
 湯飲み茶碗くらいの小さなコップに入ったビールだ。それが飲めない! どうしたのだろう。
「そう」
 明るい声で言いながらコップを受け取って、私は一気に飲む。
「美味しかったね」
 チチは、さも自分が飲んだかのように言った。(252)

 なるほど、こういうことだったのだ。富子の飲んだ一杯のビールを、さも自分が飲んだかのように「美味しかったね」と言うようになった最晩年の森敦。養女になって一五年、一度も言われたことのなかった「ありがとう」という言葉を頻繁に口にするようになったのもこの頃だ。「美味しかったね、ありがとう」などとも言った。

 主語がなくてこんがらかるのは、決して一心同体ということではない。名前が言えないのはどこか関係が不安定なのである。どこか照れくさい。だから「チチ」なんていう窮余の策で言及する。困った人だけど愛しい。富子にとって森敦は終始「まったくもお」的な存在であった。自宅で散髪してあげたら、前髪のことで「こんなに、短く切ってしまって!」と大騒ぎ(たしかに写真で見るとふだんの森敦は前髪が長い)。富子が引いた電話なのに「長い」「使うな」と文句を言うかと思うと、自分では残飯の処理ひとつできない。テレビに出れば、ズボンの裾から下着が見えている。

 しかし、こんなふうに「まったくもお」の地点に持ってくるまでには、富子だってきっとたいへんだったのだ。あまりにカリスマ的だった森敦という人の言葉を、やわらかくほぐしてみせたのは富子の手柄の一つである。たとえば「月山」の生原稿紛失事件がちょっとしたサスペンスまじりに語られる箇所があるが(どこぞの「見目麗しい女性」にでもあげたのではないかと富子は疑ったりする!)、これにからめての以下のような一節がある。

チチは、ノートに書いている。
〈「存在」を意識するとは、失われたものがよみがえる(原文は傍点。以下、太字については同)ということである。失われたものがよみがえる(同)という概念が如何に重大であるか、これを見ても分ると思う。われわれが「存在」を意識するとき「嘔吐」するとは〈或は「笑う」とか、「絶望」するとか)この失われ(同)、そしてよみがえったものに対して、「嘔吐」するということである。〉(「吹雪からのたより」)
 チチの言う「存在」を「生原稿」と置き換えてみる。生原稿という存在を意識すると、失われた生原稿がよみがえってくる。よみがえってくるたびに、絶望的な気分になるし、ときには笑いが止まらぬほど喜劇的な気分になる。つまり、失われた生原稿に対して、「嘔吐」するのだという。
 チチと話した後に、嘔吐することがある。それは胃腸が弱いために起こる生理的な現象だと思っていた。嘔吐するのは、失われた生原稿がよみがえるからだろうか。 (125)

 森敦の省察にちょっと横からちょっかいを出して、厳かな「神話」をひっくり返そうとしたとも読める部分だが、最後の下りは逆に意味深長である。何しろ失われた生原稿には、「女」がからんでいたかもしれないのである。「養女」富子はいろいろと苦しい思いをしていたのかもしれない。

 急ぎ足に淡々と語るかのような口調なのに、何度も繰り返し出てくる話題がある。会社からの帰宅時に富子は電車に乗っていられなくなって何度もトイレに駆け込んだ。何時間もかけて都心から布田まで帰ったこともある。「途中下車病」などと富子はひょうきんに言ってみせるが、今で言うパニック障害だろう。接待ストレスだけではない。その根本には、折に触れて森敦から「書いてない!」と言われた富子の心の緊張があるように思える。もちろん、それは富子だけの問題ではない。書けるか、書けないか、というぎりぎりの境地を生きながら懸命に放浪した森敦にとっても、文章で生きるというのは苦しい怖ろしいことだったのである。

 将来を期待されながら原稿が書けず、ついに作家デビューを果たす機会を失ってしまった若き日の森敦。そのことがあったから、芥川賞受賞後の殺人的なスケジュールを体調を崩しながらも懸命にこなした。一度注文を断ったら、もう来なくなるかも知れない…、そんな恐怖感があった。ついに入院。富子はどんどん仕事を断った。しかし、断ったのは主にテレビやラジオの仕事だった。「そうかあ。もう仕事がないのか」と森敦は寂しそうだったが、富子は「侘びしい境地になれば、小説が書けるかもしれない」と思ったのである(133)。

 下手に文学的になるまい、と覚悟を決めて書いたようにも見える著者の筆が、最後に少しだけ居住まいを正したようになる箇所がある。腹部大動脈瘤で急死した森敦に霊安室で付き添う富子は、泣き崩れたいのに一滴の涙も出ない。そのとき、隣の部屋から女性の泣き声が響いたのである。

 韓国の男性が交通事故死したという。泣き声は途切れることがなく、高く低く響く。チチへの手向けの泣き声のように聞こえる。(262)

 天才とははた迷惑なものだとよく言う。傍らにいる人には、本人の分も含めて言いようのない「負担」がかかる。森敦が天才だったのかどうかは筆者にはわからないが、ともかく理解しがたい人を「天才」と呼んですませるのは安易なような気もする。書ける・書けないという地点に踏みとどまり、その苦難を味わいつづけたからこそ、彼は「書く人」に伝えるべき言葉を持ち得たのではないだろうか。


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