« 2012年08月 | メイン | 2012年10月 »

2012年09月18日

『雲をつかむ話』多和田葉子(講談社)

雲をつかむ話 →bookwebで購入

「つべこべの行方」

 筆者のまわりにも多和田葉子ファンがけっこういて、そういう人たちは『雪の練習生』を絶賛する。あれを読んでしまうとホッキョクグマに対し、もぉ、ただではすまないような感情が湧いてしまうのだ!とみな熱弁を奮う。

 たしかに『雪の練習生』はいい作品だと思うが、でも、ちょっと傾向を異にするこの『雲をつかむ話』だってぜんぜん負けていないし、下手をすると勝ってしまうかもしれない、少なくとも引き分けには持ち込めそうな気がする。ただ、この作品にはホッキョクグマに盛り上がるのとはちがう入り口が必要なだけだ。

 そもそも『雲をつかむ話』は「入り口」そのものにかかわる作品である。冒頭部は降って湧いたようなまったく唐突な一文から始まる。

 人は一生のうち何度くらい犯人と出会うのだろう。犯罪人と言えば、罪という字が入ってしまうが、わたしの言うのは、ある事件の犯人だと決まった人間のことで、本当に罪があるのかそれともないのかは最終的にわたしには分からないわけだからそれは保留ということにしておく。(3)

 実は、ここには周到な「謎」が仕組まれているのだが、でも、はじめのうちは我々はそれが「謎」であることに気がつかない。読み進むうちに「そうかあ、あれは謎だったのかあ」と後から腑に落ちるという仕掛けになっている。キーワードは「犯人」。このあと、作品には続々と犯人が登場するのである。「事件」を差し置いてまず「犯人」が出てくるというあたり、ふつうの小説とはちがうのだが、おかげで楽屋裏から「事件」をのぞき込んでいるような、自分だけが特等席から物語を盗み聞いているような、密やかで特別な気分になる。ひょっとするとこの物語を知っているのは自分一人なのではないか?なんていう錯覚すら起きる。

 ところでこういう冒頭部、人によっては「この作家は最初からつべこべ言うなあ」という印象を持つかも知れない。たしかにそのとおりで、多和田葉子という人は「つべこべ言う作家」なのである。でもそれは饒舌体というのとは違って、余分さや無駄はない。甘えもない。むしろ倹約的で、贅肉がなくて、自分に厳しい文章である。この人の「つべこべ」は細部を書きこんだり描写をふくらませたりして安心感のある物語的クッションのようなものをこしらえるために行われるのではなく、むしろ物語と上手に距離をとるためのものなのである。冒頭部の「保留」ということばに表れていたように、対象からちょっと離れて、語りがぷわっと浮かんでみるための「つべこべ」なのだ。

 たとえば第四章は語り手がある文学祭に招待されたときの変な体験を書いている。高校の先生によって企画されたイヴェントなのだが、作家たちが到着してみると、宿泊するのは古びた居心地の悪そうな養老院。ゲストたちも不満を持つ。と、そんな冴えない気配からはじまった話に次のような一節が挟まれて、世界の底知れなさがちらっと見えたりする。

 時計を見て「もう集合時間だ」と思ったのと、自分の上着に珈琲のしみがあることに気がついたのが同時だった。いつものことだ。あわてて部屋に戻って石鹸を塗って湿らせたハンカチで叩いたが、しみは落ちるかわりに広がっていく。自分の家ならば、「しみ悪魔」(フレツケントイフェル)という名前のしみを落とすための製品を使えば落ちるのだけれど今はそれもない。「しみ悪魔」という商品名が一度思い浮かぶと、そのスペルがしみのように脳にこびりついて消えない。そもそもなぜ悪魔が出てくるのか。まさか、あらゆるしみは悪魔の精液であるとでも言うのか。いつの間にかドレスにしみがついていることに気がついた時、人は恥じる。悪魔と交わってしまったことを秘密にしていたと思われるのが恐くて恥じる。(67-68)

 まさかそんな話になるなんて、と読んでいる方は思う。語り手が「保留」的思考を盾に、上手に物語と距離をとってつべこべ言っているからこそ可能な芸当である。そしてこのあと、やっぱりほんとうの「犯人」が登場するのだ。ほんとに、びっくりだ。

 多和田葉子の文章は立ち止まらない。はじめから動いている。はじめから構えがない。内容よりもまずリズムが聞こえてきて、ふと気づくと何頁か読み進めているという読み方をしてしまっていいのだ、きっと。だから作品の冒頭や、各章の頭も、あらためて「さあさあ、みなさん」と大上段に構えるのではなくて、はじめから等身大で、身近で、すぐ接続可能になっている。次から次へと新しいエスカレーターに乗り移るようにして読み進めることができる。まるで目がまわるような感じだが、それが実に楽しいし、エスカレーターを乗り換えるたびに少しずつ束縛から解放されていくような、軽躁状態のような高揚感が生まれる。

 第七章で出てくる「犯人」はオスワルドという。冒頭は例によっていきなりああだこうだと考えにふけるような「つべこべ」から始まる。

 双子だとは知らなかったので、しばらくは混乱させられた。今から考えると、初めにみたのはオスワルドだったということになる。わたしはフリードリッヒ通りで路面電車に乗った。駆け込み乗車してきた女性の荒い息、線路のきしむ音、窓枠に切り取られる町並み。(126)

 やがて路面電車に「犯人」が登場する。我々は「まさかこんなところにも犯人が仕組んであったなんて!」という爽快な驚きをおぼえる。しかし、そこで油断してはならない。この犯人オスワルドがほんとうの姿を現すのはもっと後だ。いったいどんな人なのか。実に印象深い一節がある。

 オスワルドは怠け者ではなかったが、書類を期限内に提出するのが苦手だった。書類に自分に関する情報を書き込むのが何より嫌いで、細かい線で紙の表面が区切られているのを見ているだけでいらいらしてきて、その線を無視して、斜めの線を何本も引きたくなってくる。縦横の線のこちら側に閉じ込められてたまるか。格子のように見える葦だって、風が吹けばなびくだろう。なびいてみんな斜線になれ。(146)

 いったいどうしてこんな気持ちのいい文章が書けるのか、と感心する。つながりの妙の軽やかさ。スパイスのきいた斜めの視線にこめられたひねり。にもかかわらず、どこかに向けて、しっかりこちらを導いていく強さまである。

 『雲をつかむ話』にはいろんな人物が出てくる。そこでひとつ気づくのは、男女のねちねちした関係よりも、女と女のどこか調子っぱずれで素っ頓狂な付き合いが前面に出てくることである。第八章のブリッタもそんなひとり。語り手とは腰痛体操の教室で知り合った。日本語の文法に興味があるとかで、小説家であることを隠して「日本語の文法を教えています」と名乗った語り手に、輝く瞳で「素敵ですね」と近づいてきたのである。そのブリッタに付き合って日本映画を見に行ったときの描写が、やけにおもしろい。

 ブリッタが日本映画だというだけの理由で選んだのはとんでもない映画で、髪を短く刈りあげた筋肉質の男たちが駐車場で腹を殴り合ったり靴で股を蹴り上げたりしていたかと思うと、今度は縄で縛られた男の胸毛に包まれた小さな乳首が裁縫ばさみで切り取られたりして、それでもまだ満足できないのか、風呂に入っている男の腹が刺され、腸が湯の中にこぼれでたところで、ブリッタがうっと吐きそうになって口を手の平で押さえて、映画館から飛び出してしまった。わたしはせっかく払った入場料がもったいないのでブリッタの後を追わずに映画を最後まで観てから家に帰った。(160)

 こういう箇所が不釣り合いなほどに精彩を放ってしまう、そんな細部の唐突な突出感が『雲をつかむ話』の魅力のひとつなのだ。全体を覆う世界の気配はむしろ鬱っぽいというか、灰色でメランコリックなものであり、その正体は最終章の女医との会話で明かされるのだが(ここにも女同士の妙な関係!)、部分部分には今にもはしゃぎ出しそうな陽気さが詰まっている。躁と鬱とが絶妙なバランスをとっているのだ。ふたつの要素が牽制し合うようにして、お互いつかずはなれず距離を保つ。だから語り手も決して物語に深入りはしない。物語とはきっと本質的にメランコリックでロマン主義的なものなのだ。そういう物語の鋳型にはとりこまれずに、なお物語を語るというのは、ほんとうに離れ業のように思える。しかも最後にはしっかりつじつまが合うのである。結末近くで発せられる、語り手の親友の女医による決めぜりふは、何しろ多和田葉子だから涙を流すというようなウエットな雰囲気では決してないのだが、やっぱりちょっと感動してしまうのであった。

 ところが女医はわたしが危険な目にあうのが絶対に嫌なのである。「危険を避けていたら、面白い体験はできない」と言ってみると、恐い顔をして、「面白い話は他人のものでしょう。あなたの話ではないのだから。それを奪って商売するのですか。あなたの人生は退屈で幸福なものであっていいのです」と答えた。

 わたしは唖然となった。確かにわたしはその人たちと出会って、まるで自分のことのように人間の中に入っていった。しかし、わたしが一方的に入っていったと感じているだけで、女医の言うように、彼らが他人であることに変わりはない。そうやって危ない境域をさまよっているうちに、わたしの方が足を踏み外して落ちることもあるだろう。それを密かに期待しているわたしは、慢性の自殺未遂を試みているようなもので、だからこそわたしと似た人たちを引き寄せてしまうのだろうし、そういう状態を女医は風邪と呼んでいるのかもしれない。(254-255)




→bookwebで購入

2012年09月03日

『ケータイ化する日本語 ― モバイル時代の〝感じる〟〝伝える〟〝考える〟』佐藤健二(大修館書店)

ケータイ化する日本語 ― モバイル時代の〝感じる〟〝伝える〟〝考える〟 →bookwebで購入

「ケータイ作法のポリティクス」

 以前、週刊誌の中吊り広告に、「(笑)という記号をメールで多用する女性は結婚しない可能性大」というような見出しがあって何となく気になっていたのだが、結局読むのを忘れてしまった。あれはいったいどういう内容だったのだろう。

 いずれにしてもおもしろいのは、こういう話題が涌いて出るほどケータイの周囲には強烈な「だよね~」の磁場が形成されているということである。ルール。マナー。気配。使用者を拘束する力があるのだ。これこそ文化。しかし、それは通常の対面的な人間関係や黒電話時代の作法意識とは何かが違う、というのが本書の著者佐藤氏の考えである。

 こんなふうに言うと警戒する人もいるかもしれない。何しろ社会学者による「ことば」をテーマにした本で、タイトルには「ケータイ」。それで「作法」とくると、いかにもお叱りを受けそうな気配がある。しかし、著者はそんな流れに陥らないようにきわめて丁寧に議論を準備する。冒頭の章では、ことばとはいったいどんな道具なのでしょう?という広大な問いが立てられるのである。そのうえで身体、社会、空間、歴史といったキーワードを軸に、少しずつことばについて考えるための肩慣らしがなされていく。

 というわけで、1~4章は序論みたいなもんだなと思って油断していたのだが、40頁あたりで、むむ、と力が入った。

[道具としてのことばに伴うのは]分裂や抗争の危険性であり、相互理解を壊し、不信や疑心暗鬼の邪推を生みだす、マイナスの可能性である。誤った意味や、ズレた理解、あるいは誤認や不信の生成といった問題もまた、道具としての「ことば」のコミュニケーションの力を考える論点として無視できない重要性を有する。(40)

 意味の「ズレ」「誤認」「不信」となると、何だかキナ臭い感じがあってとてもいい。もちろん「誤解のないようにしましょうね」などというぬるい話ではない。さらに進むと、翻訳についての考察の中で、「動詞形」という概念が出てくる。

 意味は名詞形の存在ではない。それよりも、読む者に「わかったという感覚を与える」こと、と動詞形で考えるほうがよい。理解したという経験を、相手に生みだすことである。そう考えると、「翻訳」から見える風景が違ってくる。そこでの翻訳は、「わからないことば」で書かれたり話されたりしていて理解できないことを、常日ごろ使いなれ使いこなしていて身体的に「わかることば」に直すという経験の創造を指すことになる。(42)

 実は筆者自身、「名詞」はマイブームなので、こういう議論が出てくるとつい色めき立ってしまう。意味が「名詞形の存在ではない」というのはまったくその通り。ただ、この「名詞の呪縛」から自由になることの難しさときたら! Wikiなどの隆盛をみてもわかるように、私たちの「知」は今、どんどん名詞化している。語ることすらが、名詞化されつつあると言ってもいいだろう。あらゆることが「それって、×××だよね」とジャーゴン化されそうな勢いだ。

 さて、第五章以降はいよいよ「ケータイ」の問題へと進む。文体は軽快でペースも一定、豊富な具体例など含めてどんどん読める(とくに呼び出し電話のエピソードはよかった)。その中で、先ほどの名詞/動詞のような話題がどのように本筋の「ケータイ」につながるかが、より具体的な着眼点とともに示される。いくつかあげてみよう。

 まず坂部恵の議論を足がかりにした「ふれる」ことについての考察。テレビ電話がなかなかうまくつかわれないのはなぜかというと、どうも空間に何か問題があるのではないかと考えられる。そこで参考になるのが「ふれる」と「さわる」の違いだという。

たしかに「ふれる」ということばが引き起こす感覚には、「さわる」という動詞が立ち上げる世界とは異なる奥行きがある。外形的には同じような行為を指しながら、「ふれる」には主客未分と表現するにふさわしい、作用の場を想像させざるをえない何かがあり、未知で底の知れない何かと肌を接していることへのおののきのような身体感覚がある。(112)

このような「ふれる」が体現する「相互性と共同性」が空間に欠けると、対話はうまく成立しないのではないかと佐藤氏は考えるのである。

 そして沈黙の問題。カウンセラーが患者に接する際に、いかに沈黙そのものを有用な心理療法の手段とするかという話から出発して、著者は次のように言う。

 現実空間では、沈黙もまた空間を満たす重要な要素だと感じられるのに対して、電話空間では多くの場合、沈黙は無言と見分けられることなく、音が聞こえていないことを意味するだけに終わってしまう。(137)

 実はこのあたりについては、筆者も多少意見を持った。ケータイでは、通話にせよ、メールにせよ、「沈黙」が以前にも増して濃厚な意味を持っているのではないか。もちろん通話相手の沈黙が、こちらに注意を向けていることを示唆するとは限らないのはたしかなのだが(つまり、単に居眠りしていることもありうる)、そのような沈黙のニュアンスの曖昧さをふくめて、使用者は沈黙にはかなり敏感になりはしないか。耳を傾けている沈黙から、悪意ある沈黙、「事故」としての沈黙まで。メールもそうだ。レスがないのは「しない」のか「できない」のか「待っているのか」。レスがないだけで強迫的なパニックに陥り、どんどんメールを出して人間関係を壊してしまうという例は実にあちこちで耳にする。もっと微妙な例では、こちらからのメールの問いに選択的にしか応えてこないような返信のニュアンスなども、考え出すときりがないし、ちょっと別の見方をとると、レトリックの問題としても実に興味深い。もちろん、このあたりの事情は著者も意識していないわけではなく、世代によってはコミュニケーション意識に違いがあるかもしれないとフォローはしてあるのだが(138)。そういう意味ではメール・レトリックに特化した著者の考察をあらためて読んでみたいとも思った。

 沈黙につづいて、このあとも本書では「親密」「内密」から「第三者の扱い」というふうに、ケータイとは関係なしにでもいろいろ考えたくなる話題が次々に出てくる。本書の核には「礼儀作法」をめぐる問題意識があるが、これは決して規範的な(つまり「お叱り」的な)ものではなくて、作法をポリティックスの一環と見なして議論してみましょうということなのである。その着地点は次に引用するように、我々がある程度親しんできたメディア論的なものである。

電話空間のなかで「伝える」とか「通じる」という機能的な部分が薄れて、「つながる」という存在論的な安心が、気分の前面に出てきた。(172)

[こうしたなかで進んでいる事態は]一言でいうならば、個室空間の析出と他者の退場である(同)

 しかし、こうした議論の土台には、きわめて具体的で、と同時に奥行きのあることばについての考察が含まれている。

 著者は柳田国男の研究者でもある。なるほどことばに敏感なわけである。本書後半でも言及されているように、柳田は近代日本語の問題について考えつづけた人だ。佐藤は柳田研究を通して、近代日本語が三つのメカニズムによって「抑圧」されているという図を提示した。これは本書の中心テーマでは必ずしもないが、所々で議論を補強した視点だと思う。参考までにあげておこう。

①「国家・行政のことば」と「生活・身体のことば」の二重構造。
②「名詞への従属」(「○○的」とか「○○する」という言い方の氾濫)。
③「話すこと」の中心化に伴う思考停止。

より詳しくは佐藤健二『読書空間の近代』などを参照してほしい。


→bookwebで購入