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2012年08月24日

『共喰い』田中慎弥(集英社)

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「ぬるぬる的思考」

 よけいなお世話かもしれないが、ひとつ心配をしていた。例の受賞会見で変な注目のされ方をして、この人は本来の読者を取り逃してしまったのではないか、と。多数派ではなくとも寡黙で熱心なファンに守られ、執拗に書き続けるべき人なのではないか、と。しかし、出遭うべき作家と読者は、どのみちお互いに匂いでわかる。ともかくこういう作品が売れるのはいいことだ。田中慎弥は、描写を追うだけでそこに描かれている以上のことがこちらの頭の中に降り注いでくると感じさせる希有な作家なのである。じっくり時間をかけて読むに値する文章を持った書き手だと思う。

 というわけで、「共喰い」もじっくり読みたい。少なくとも2時間半~3時間は使いたい。70頁ほどの短篇にどうして?と思うかもしれないが、この作品の文章には、独特な「動き」があるのだ。ぬるぬると滑るような「動き」。その「動き」に体勢を崩され、「あらら」と足下など確かめているとどうしても時間がかかる。核心部に至るまで、この作品は「ぬるぬる」だらけなのである。

 大事な所をひとつ引用してみよう。ここだけでも、ため息をつきながら読むのに何分も費やしていいくらいの、食べでのある部分だ。主人公遠馬とその恋人・千種のやり取りが描かれている。ふたりは夏祭り前の神社の境内に来たところである。

 そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、
「今日も割れ目やねえ。」
 川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(15)

 一読して、すっと頭に入るたぐいの文章ではないのはすぐわかる。問題はそれがどうわかりにくいか、である。筆者は授業などで読みにくい文章が出てくると、「どうして読みにくいのでしょうねえ?」と参加者に訊いたりするのだが、そういうとき、「読みにくさを通して、読者にじっくり考えさせたいのだと思います(^o^)」と爽やかに言ってすませる人がいる。これでは答にならない。読みにくい文章の多くは単なる悪文やだらしない駄文である。それらと区別するためには、「読みにくさ」がどう仕掛けになっているかをとらえたいのである。

 この部分がわかりにくくなっている最大の原因は、行為の主体を示す「誰が」が遅れて出てくることにある。たとえば最初の文では「千種は」がなかなか出てこない。文はとっくに始まっているのに、である。行為ばかりがすでに五つも先行している。「そうしようとは思っていなかった」(1)のに「とりあえず鈴を鳴らし」(2)、「社に手を合わせ」(3)、さらには「振り向いて」(4)川を「見下ろした」(5)というのだ。でも誰がそれをしたかがなかなかわからない。最後になってやっと、「千種は」が出てくる。

 このように「誰が」の部分が遅れて登場しがちなことは、どうやら語り手も意識しているらしい。それは、千種の「今日も割れ目やねえ。」という一言につづいて「川が女の割れ目だと言ったのは父だった」と明かされるあたりの書き方にもよくあらわれている。「父だった」というふうに「誰が」が文の最後に持ち出され、しかもそこにはちょっとした〝驚き〟の含みがある。あろうことか、千種と父が同じ言葉を口にするのである。行為を共有しているのである。

 こう考えてくると、「まず行為が先に描かれる」という特徴の背後には、もっと大事な法則が隠れていそうな気がする。この作品ならではの決まりである。どうも「共喰い」では、「誰が」をめぐってこそサスペンスや波乱が生じやすいのではないか……。

 もう少し引用部を見ておこう。後半の「上流の方は…」で始まる長い文はとりわけ読みにくい。その大きな要因は、「丘にある社からだと、」という部分だ。ここで急に視点が動いてしまう。そのため、それまでは何となく〝川の話〟だと思えていたものが、急に〝人間の話〟に切り替わる。しかも「誰が」の部分は曖昧なままだ。

 もちろん描かれているのは川の様子。でも、何しろ川だ。いくら生き物のような川だとはいえ、積極的な主体として何かをするわけではない。しかも、その川に蓋がされ見えなくなっているから(このあたり身震いするほどうまい仕掛けだと思う)、川が流れるという運動が潜行して、別の「誰か」の行為とすり替わりそうになる。しかも、ちょうどいい「誰か」がそこにいるのである。まず今、川を見る遠馬と千種。それから、川を語った父。こうして、流れているのは川なのに、その運動を生きるのは川を見たり語ったりする人間たちの方だということになる。

 実はこれにつづく部分では、案の定、川の運動が「住人」や「時間」を取りこむことになる。

向う側の国道のあたりと比べてみると、川を中心にして群がっている家屋は、二階屋であっても押し潰されたように低く、一軒一軒は別々の造りなのに、全体がまとまって古びている。川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりも出来そうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。(15-16)

 ここも負けじと読みにくい。かなり無理をした構文である。読みにくさの大きな要因は「時間というものを」という一節が遅れて出てきていることである。ここでも「時間」というプレーヤーが登場することで話の方向がきゅっと変わる。やはりくせ者は「誰が」なのである。しかもこの文のほんとうの「誰が」は「時間」ではなく、川辺の「住人」であることが最後に明らかになる。こうして私たちは「誰が」を求めていろいろさまよい、騙されたり誤解したりしながら少しずつそれを突き止めるのだが、それがこの川だけでなく作品全体の雰囲気をつくりあげることになる。

 …とこんな調子でやっていたら3時間どころか、10時間かけても「共喰い」を読み終わることはできないだろう。でも、これはそういう小説なのだ。時間よ、どんどんたってしまえ、と思いながら読みたいものだ。

 まあ、これは書評なので読みの中に生じる感覚をいちいち言語化しているわけだが、言語化される寸前のもやもやした気持ちをそのまま受け取れるのが読者としてはほんとうは正しい。無理に頭でわかる必要はない。「共喰い」には暴力があふれているというコメントがあちこちにありそうだが、「DV」とか「親子関係うんぬん」などとレッテル化すればするほど、小説からは離れてしまう。そもそも暴力そのものはたいして重要ではないのだ。きらびやかな暴力場面を楽しみにして「共喰い」を読み始めた人はややがっかりすることだろう。それよりも、暴力そのものが先行して、その「誰が」の部分が、まるで暗渠に潜行した水の流れのようになかなか姿を現さない、その不気味な遅延が読み所なのである。その不明さは、川や鰻や高齢売春婦の「ぬるぬるさ」を通して作品のあちこちに表現されている。

 背景にあるのは、いかにも神話的な家庭環境である。主人公遠馬の父は、性行為の際に女を殴ることで快楽を得るタイプの人間として登場する。遠馬の実の母仁子は、すでに夫に愛想をつかして別居し、なくした片腕のかわりに義手をはめて魚屋を営んでいる。父の元には今、琴子という女がいてやはり殴られているようだが、この関係もそう続くとは思えない。そして遠馬自身には千種という恋人。あるとき、彼が千種に手をあげてしまうところから物語が大きく動く……。というわけで、今にも明快な精神分析を誘発しそうな枠組みだが、あちこちに破れ目もあって、単純な父・息子の権力闘争にはおさまらない。遠馬は父の暴力を忌々しくは思っているが、どこか魅了されているようでもある。鬱陶しいのはたしかだが、父を見る目には赦すようなやさしさもある。絶品の描写をひとつ引いておこう。

 父は鰻を食べている時が一番幸せそうだ。そうめんにも箸をつけはするが、食べ応えが足りないとでも言いたげに、次の切身をまた一口でねじ込み、残りの身も続けて食べ尽くしてしまうと、最後に、仁子さんがいつも切り落とさずにおく頭の部分にしゃぶりつき、一度口から出してまだ肉がついているところを確かめ、また吸いつく、ということをくり返す。鰻の細長い頭は、一口毎に肉を剥ぎ取られてゆき、唾液でとろとろに光った。釣り上げる時に作った傷に、父は気がついていない。(38)

 「共喰い」で前景化されるのはむしろ食べる行為である。そして性。暴力はその背後にある。しかし、ここにも典型的にあらわれているように、そうした行為がどれもぬるぬると動いていると感じられる。「誰が」という定点に縛りつけられていないから。行為は特定の人物から離れ、蓋の下の見えないところを流れていく。仁子さんが鰻を処理する場面など、ほとんど「個」の枠をこえた何かを感じさせる。

 竿ごと魚屋の中に持ち込むと、仁子さんはもう義手を嵌めていて、はりすがついたままの鰻を流しに置き、左手で義手のねじを緩める。途端に、ぽこん、と鳴ってゴムが外れる。現れた爪で頭を、捌く時ほどの強さではなく、静かに押さえつけ、暴れる体を左手でしごいて釘を絞り出し、バケツに放り込んですぐに水を張り、大きな鍋の蓋を裏返しに被せ、真ん中のへこみに重しの煉瓦を置いた。こうして一晩かけて泥を吐き出させる。口よりも、顔の傷口から腹の中のものが出てゆきそうだ。(28)

こんなふうにぬるぬると動く描写を読んでいると、読んだ以上のものまで読んでしまった気になるのである。

 物語の最後の十数頁は、美しい体操競技のように華麗なフィニッシュになっている。それまでの「ぬるぬる」がここでは型にむかって、つまりれっきとしたとした「意味」にむかってきれいに収束する。最後まで鰻を処理したり食べたりする場面のようでもよかったのに、あの「ぬるぬる」の感触がよかったのに、という意見もあるかもしれない。対して、いや、これでいいのだ、これこそ小説だという声も聞こえる。筆者は「ぬるぬる」の部分を思い切り楽しんだ口で、いったいどうなるか、いつ読み終われるかと不安に思ったくらいだから、ともかく最後まで辿り着けてほっとしている。


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2012年08月02日

『ドリアン ― 果物の王』塚谷裕一(中公新書)

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「ドリアンと〝消える魔球〟」

 本書の冒頭に、「ドリアンという言葉を聞くと、たいがいの日本人はにやりとしはじめる」とある。さっそく、ある飲み会の席上「すいません、実はドリアンのことなのですが…」と切り出してみると、あら不思議、みな「にやり」としはじめた。これはすごい。みなドリアンのことを知っている。しかも、ドリアンと聞くと、思わず口元にゆがんだ笑みを浮かべずにはおられないようなのだ。

 たしかにドリアンは人騒がせな果物である。とにかく臭い。本書目次のトップにはわざわざ「1-1ドリアンは臭くない」というセクションがあって、これだけでもすごくあやしいのに、「1-2」は「ドリアンが臭いと感じる人もいる」、そして「1-3香りの感じ方」、さらに「1-4ドリアンの香りをめぐる論争」とあり、これをながめているだけで鼻がむずむずしてくる。

 実はドリアンが臭いか臭いないかはほんとうのところは決定不能で、要するに「匂いの反応には個人差がある」「嗅いでいるうちに鼻が麻痺してくることもある」「臭いドリアンは外れ。優良ドリアンは臭くない」ということらしい。ただひどいドリアンになると、ほんとうに鼻が曲がるような匂い(を感じる人もいる)とのこと。「腐ったキャベツ」「にんにく臭」「古くなった肉」などとも形容される匂いだそうで、著者が研究室で学生とドリアン・パーティを行ったときには、隣の研究室の人々が「ガス臭がする!」と騒ぎ出して、本当にガス会社に通報してしまったこともあったという。

 しかも、あの見かけである(本書にはドリアンの近影が満載)。まるで「鬼に金棒」の「金棒」についている突起みたいだ。ハリネズミの針のようでもある。漫画に出てくるダイナマイトのようでもある。ボーリングの球くらいの大きさだから、20~40メートルもあるドリアンの樹から果実が落ちてきて頭を直撃したら、あの棘が刺さって死んでしまうかもしれない。実際、オランウータンが樹の上から雨あられとドリアンを投げつけ、人間を追い払ったという事例もあるらしい。(これこそ漫画だ)

 にもかかわらず、著者の塚谷裕一氏はドリアンがいかにクリーミィーな美味か、いかに安いか、いかにこだわり甲斐のあるすばらしい果物であるかを切々と説くのである。何よりも東南アジアに行って、街角で売られているのを食べるのがいい。そういうときに、売人に騙されずにいかにいいドリアンを見分けるか。どうやって皮を割って種を覆う果肉にたどりつくか。どうやって指ですくって食べるか。食べきれなかったら、いかに煮詰めて羊羹にするか。いかにドリアンジャムだって作れるか。とにかくおいしいドリアンに出会ったときのその幸福ときたら……。ドリアンの美味を描写する様々な作家たちの文章をならべながら、塚谷氏は「ドリアン的幸福」を生きなおすかのようである。

 というわけで、本書はタイトルから想像される通り、ドリアンのさまざまな魅力を、正確な科学的知見をもとに読みやすくてやわらかい、それでいてきちっとした安定感のある文章でつづったものである。しかし、筆者が今回の評で伝えたいのは、それだけではない。本当に気になるのは、この本の著者・塚谷裕一その人である。というか、この人の体現する「植物学的知」のようなものが気になるのである。本書のあちこちにもそれはあらわれている。

 すでに絶版なのが残念だが、塚谷氏には『漱石の白くない白百合』(文藝春秋 1993)という著作がある。表題作は、漱石『それから』に出てくる白百合が「白くない」ことを植物学的に論証したもの。その他、泉鏡花、志賀直哉、安倍公房、三島由紀夫、井伏鱒二などさまざまな作家が作中で描いた動植物にこだわって、独自の緻密な推理をめぐらすという趣向の文学×植物学エッセー集である。たいへんおもしろい。しかし、おもしろいだけならそれほどのことはないのだが、何より気になるのはこれらのエッセーを読んでいると、途中で「消える魔球」に出遭った気分になることなのである。

 何が魔球なのか。まず塚谷氏が文学作品からそのターゲットとなる植物を取り出す手際は見事である。植物の形状や季節、呼び方、場面のニュアンス、作家の時代、土地といった要素を実にてきぱきとつないで、息もつかせぬ考察を展開する。殺人事件など起きていないのに、まるで殺人事件があったかのような緊迫感とともに植物学的知見が駆動される。

 球が消えるのはそこである。出だしの設定の見事さと、結論のあざやかさに読者としては目がくらむような思いがするのだが、ほんとうにたまらないのは話が植物学の専門的な話題になったときの、そのふっと潜行するような冷徹さなのである。つまり出だしと結末で、淡々とした文章ながらも読者に対してサービス精神を見せていた書き手が、ふっと本気で「知」の言葉を語ってしまう。そのすべるような移行の素っ気なさというのか、怜悧さというのか、そこがいい。よくキレのいいスライダーは途中で消えるように見えるというが、きっとそんな感じではないかと思うのである。

 何でそんなことにこだわるのかというと、塚谷氏の見せる怜悧さというのは、実は必ずしも「理系的」と呼べるような限定的なものではなく、広く世界に対する感受性のようなものを示していると思えるからである。塚谷氏の著述については、一般には「植物学者なのに文学をも扱う幅広い人・珍しい人」という言い方がされるのかもしれないが、両者はそもそも分離される必要があるのだろうか。こうして塚谷氏の目を通してあらためて文学作品を見ると、少なくとも近代文学のある時期までは、植物的教養のようなものが作家と世界との関わりにおいて重要な役割を果たしていたのではないかと思えてくるのである。いや、それは必ずしも狭い意味での植物学に限定される必要もないだろう。世界のあり方について、ふっと潜行するようにして、すべるようにして、ひやっと怜悧な目を光らせる瞬間が文学作品のそこここにはあったのではないか。もちろん今だってあっていい。

 単におもしろいのではない。ふっと球が消えるような気がして筆者はどきっとしたのである。つまり、自分がそんなふうには世界を見なくなっていたことに気がついたわけである。だから球が消えて見える。ということは、小説の読むべき箇所を読み逃しているということだろうか。もしくは、そのように死角と出遭うことこそが、小説を読むという体験なのか。ともかく、『漱石の白くない白百合』のようないかにも際どい著作に限らず、より一般的な『ドリアン』でも、そこに引用されるさまざまな文献に仄見える「植物学的知」に接してみて、あらためて考えさせられることは多かった。

 もちろん『ドリアン』にはほかにも読み所がある。ドリアンは戦前の日本人の「夢」の跡でもあった。かつて大東亜共栄圏を幻想し南方進出を夢見た日本人は、南方系の甘味の勝った果物に憧れを抱いた。戦後そのような幻が消し飛び、入れ替わりに西洋風の価値観が流入すると、果物に対する態度がころっと変わる。「酸味のイデオロギー」の登場である。甘味中心の南方系の果物に対し、酸味の混じり具合を評価するのが西洋風の果物観だった。塚谷氏の「ドリアン礼賛」は、そうした西洋一辺倒の風潮に異議を唱えるものでもある。なるほど、こちらは言わば「ドリアンの社会学」である。

 本書は2006年の刊行。つい最近の「図書」(2012年6月号)にも著者が「ドリアンの時代とマーラーの時代」という秀逸なエッセーを書いているので、まずはこちらをのぞくのもいい。この本の執筆で世にドリアン旋風を巻き起こそうとした著者の思惑ははずれたようだが、それもまた一興である。


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