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2012年07月02日

『括弧の意味論』木村大治(NTT出版)

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「理想の授業」

 何とまあ、いい感じに地味なタイトルだろう。こういう本はぜったいにおもしろいはず!と期待感とともに手に取ったが、予想以上に興奮した。「理想の授業」を受けたような気分である。若い頃にこんな授業を受けていたら人生変わっていたかもしれない。

 著者は一九六〇年生まれだから、まさにニューアカ世代。元々の専門が文化人類学というのも時代を感じる。バブルだの軽薄だのと批判を浴びることも多い年代かもしれないが、こういう頭の使い方ができる人がいるのが強みだ。言語学的なソリッドな考え方をベースにしつつも、哲学、論理学、数学、社会学、人類学といった領域にも上手に浮気をして飛躍の助けにする、そのバランス感覚がたいへん魅力的なのである。文学的な鋭敏さも備えている。文章は不必要な深刻さや晦渋さとは無縁で、ごく透明。控えめに使われる比喩も効いている。

 そもそも「理想の授業」とはいったいどのようなものか。それは参加者の日常世界にまでおりてきて、そこに時間をかけて考えるに値するテーマが潜んでいることを「あっ」という驚きとともに教えてくれるものではないだろうか。こんなところにも「穴」があった!と指さしてくれるのである。その結果、私たちの日常はすっかり別なものと見えるようになってしまう。安易な受講者はすぐに「結論」や「答」といったお土産を欲しがるものだが、大事なのはむしろ「穴」であり「きっかけ」なのだ。しかも本書のメインテーマである「括弧」そのものが、ほかならぬ「穴」=「きっかけ」のイメージと重なってくるところがおもしろい。(ちなみに著者はこの「穴」を「どこでもドア」と呼ぶ。ドラエモン的教養を甘く見てはいけない)

 本書でまずとりあげられるのは、週刊誌の見出しや「現代思想文」で頻用されるさまざまな「括弧」である。皮肉あり、強調あり、こけおどしあり。また括弧の延長版とも言えるテレビのテロップなども話題になる。こうしたものを見ていくと、変ですねえ~、何なのでしょうねえ~、と素朴な疑問がいろいろ湧いてくる。ここから出発して、タイトルの通り「括弧の意味的な働き」を解き明かしましょうという話になっていくわけだが、その結果として、単に括弧の用法を列挙・分類して終わったらちっともおもしろくない。この本をぐっと奥深いものにしているのは、括弧を語る著者につねにとりついているひとつの問いなのである。すなわち、なぜ私たちは括弧なんていう面倒くさい変幻自在なものを、混乱もせずにごく自然に使いこなせるのか?という問題である。このことにこだわってみると、日常世界のいろんなところに実は「穴」があいていることがわかってくる。

 たとえば著者は「括弧づけ」という概念が、「遊び」という現象とつながりがありそうだ、と言う。「遊びは、ある限定された時間的・空間的枠づけの中で起こり、『本気』と対置される仮のものであるという性格を持っている。そしてそれは面白さ・おかしみを伴うのである」(77-78)。なるほど。そう言われてみると思い当たることが……なんて目を輝かせていると、著者は間髪を入れず「出会いencounter」という現象も同じだ、と続ける。

『出会い』とは、出会いの瞬間のことではなく、出会ってから別れるまで続く、相互行為の状態のことである。出会いには明らかに『私たちは出会っている』という感覚が伴い、それを形作るときと終了させるときには、挨拶という特徴的な相互行為が必要となる。
 人類学における相互行為的な括弧の例としては、「儀礼」を挙げておかねばならないだろう。その典型である通過儀礼においては(中略)分離の儀礼、移行の儀礼、統合の儀礼という形で、通常の生活とは時間的・空間的に明確に隔てられた場において、人生の新たな段階への移行が行われるのである。(78)

 一気に頭のネットワークが拡がった気分である。「括弧」「遊び」「出会い」といった、うっかりしていると見過ごしそうなのどかな言葉の向こうに、何かあやしげな世界がひかえているらしい。もちろん、遊戯や儀礼といった概念を聞いたことのある人もいるだろうが、そんな概念をどう知的におもしろがればいいのかわからなかったかもしれない。そんな概念がここへきて、急に奥ゆかしさを見せ始めるはずである。

 本書の後半では、そんないくつもの「きっかけ」の中で著者がとりわけ興味を持っている「穴」への探究が進められる。目次だけ見るとややカタイ語が並んでいて読者がたじろいでしまうかもしれないのがやや惜しいところだが、著者の関心の方向はおおまかにわけると、1)プログラミング・数学系、2)言語哲学系、3)言語学系、4)行動学系、5)文体系となっている。(1)については、ごめんなさい、筆者の能力を超えているところもあるので(とくに数式の部分)深くは突っ込めないのだが、どうやら論理というものを階層モデルでとらえると、自分で自分に言及するということの気持ち悪さがうまく解決するということらしい。

 この(1)系の話題は一度ならず登場するので油断は禁物だが、それらを乗り越えているうちに、数学音痴のみなさんでも大丈夫、という話の流れが見えてくる。まず中心となるのは言語哲学。そこでは冒頭で触れた著者木村の問題意識、すなわち、括弧の意味がころころ変わるのになぜ私たちはそれを使いこなせるのか?という問いが、いよいよ本格的に扱われることになる。このあたりは固有名詞をめぐる有名な議論やオースティンやサールの言語行為論、脱構築、ゴフマンの「相互行為」、「ソコ」と「アソコ」をめぐる指示表現の文法など、この20~30年よく話題になってきた考え方のフレームが次々に話題にのぼって、さながら「括弧を通して見る現代思想博覧会」の様相を呈しているのだが、それをこんなに明晰に、しかも、あくまで自分の興味の足場を失わずに語られる著者はほんとうにいい教師だと思う。

 そんな中で筆者もいくども「あっ」と思うような知的興奮を体験した。そのスリルをほんとうに味わってもらうには実際にこの「授業」に参加するしかないのだが、いくつかの重要な示唆を筆者なりの言葉であらわすと、「括弧は意味であるより行為である」(124あたり)、「あらゆる語には潜在的に括弧がついている」(132あたり)、「括弧の使用には〈誘い込み〉が伴う」(162あたり)といったものになるだろうか。とりわけ心打たれたのは次の一節である。

しかし語るべき対象が、いまだかつて言葉で語られたことがなく、したがってそれを語る言葉がない状態のとき、われわれに何ができるのだろうか。それを他者に表出するためには、とりあえず既存の言葉を借りてきて、それを以って表現するしかない。それがまさに括弧による投写なのである。真剣な哲学的考察には、常にそのような、手持ちの道具を使ってなんとかして虚無へと乗り出していこうとする切迫感が感じられる。(164)

この議論はさらに「本来、括弧による投写の先は、遠いがしかし明確なアソコであるべきなのだ。無責任な括弧使用は、アソコではなく、いわば不定称としてのドコカへの投写と言うべきだろう」(169)という警告をへて、著者独自の「括弧の道具性」をめぐる考察へとつながる。

つまり道具とは、あるものを、もともとの「そうであるありよう」から切り離し、そうでない形で使うものなのである。そして「そうでない形」は、そうであることの外部に向かって無限に広がっている。そのような、非限定性と呼ぶべき性質への契機となるのが、ほかならぬ括弧なのである。(228)

 こうしてみると本書の議論の中心に、広い意味で哲学的なものがあるのがよくわかる。冒頭で示された括弧の意味論についてもひとまずの答は提示されているが(180-190あたり)、そうした小さな「まとめ」よりも、不思議の国のアリスよろしく「穴」に転がり落ちるようにして著者がチラ見させてくれる深淵が受講者にはありがたい。

 著者は、とにかく見境なくいろんなことを考える人だ。本書で完全には語り尽くされていないけれど、きっと本の何冊分かの価値はあると思われる問題に「隣接対」のことがある。実は筆者自身、カテキズムなどの「問答形式」には何かあやしげなおもしろさがあるなと長年引っかかってきたので、こんなに明晰にこの問題を言葉にしてもらって、いよいよ興奮気味になった。ここでも出発的にあるのは例の問いである。

話し手・書き手はなぜ投写構造を明示的に説明せず、そういった推論の材料を提示するだけなのだろうか。そしてなぜ聞き手・読み手は、その材料を用いて推論をおこなう気になるのだろうか。(194)

なぜ書き手が括弧の意味を示さないのに、読者はそれを読み取ろうとするのか。木村はここで「謎かけ」もしくは「欠落」という概念を取り入れる。そして、人にはどうやらこの「欠落」を埋めようとする習性があること、さらには、そうした人の習性が人間の認知や相互行為に広く見られることを指摘する。このような習性を把握するのに便利なのが、会話分析の際に用いられる「隣接対」という概念なのである。隣接対とは簡単に言えば、「おはよう」という発話に対し「おはよう」と言うとか、「今日は何時に起きた」という発話に対し、「6時半」といった発話がなされるといった会話の構造のことである。こうした会話では「完結」が強く意識されるが、だからこそ、話し手の「意図」や「誘惑」、さらには「共犯」といった問題も生じてくる。ここまでくると、すでに文学の領域ではないか!

 しかし、著者はそこで立ち止まることなく、さらにジャンプするのである。問われたら、つい答をさがしてしまうという人間の習性の背後には、「知識の共有に愉悦を感じ、一方で共有していない状態に恥や屈辱を覚えるという性向」があり、それがネアンデルタール人からホモ・サピエンス段階への移行において決定的な役割を持っていたのではないか、といった仮説も出てくる。この先はいったいどういう話に…?という期待をもたせる。

 おそらく筆者はニューアカ的な「古さ」の付きまとう記号論とか文化記号論といった用語は意図的に避けたのだろう。そのおかげで本書にはゼロから思考を構築しようとするオープンな構えができた。しかし、語られるのは、ひとりよがりの思いつきではない。著者の議論の背後にはきちんとした研究の蓄積が見られるのである。とにかく、立ち止まらずにしつこく考えつづける姿勢が印象的な本である。


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