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2012年06月19日

『失われた時を求めて1 スワン家のほうへI』プルースト作・吉川一義訳(岩波書店)

失われた時を求めて1 スワン家のほうへI →bookwebで購入

「プルーストの投球術」

 プルーストは誤解されやすい作家だ。『失われた時を求めて』と聞くと、まず思い浮かべるのは難解な文章でつづられる曖昧模糊とした世界と、あふれるナルシシズムとスノビズムとノスタルジア、それと目もくらむほどの「長さ」!ではないだろうか。

 これでは読む気がしないのも仕方がない。しかし、いずれも虚像だ。とりわけ気をつけたいのは、プルーストが実は「短い」ということである。多くの将来ある若者はきっと(何しろ将来あるくらいだから)「俺はプルーストなんて読むヒマはないぜ」と思っている。たとえば岩波文庫・吉川一義訳は各巻400頁あまりで、ぜんぶで14巻もある。構想から第一巻の刊行までに約10年、全巻完結までにはさらに10年かかるという。若者ならずとも眩暈がしそうになる。

 しかも、勇気をふるって第一巻『スワン家のほうへI』を手にとってみると、いきなり地名やら登場人物やらの説明がたっぷりあり(これだけで怖じ気づきそうになる)、ようやく冒頭部にたどり着いてもまさに評判通りで、その回りくどさときたら。眠れるとか眠れないとかいう話をするのに、「安らぎの暗闇」とか「われわれのまわりに存在する事物の不動の状態」とか、さらには「身体にやどる記憶が、肋骨や、膝や、肩にやどる記憶が、かつて寝たことのある部屋をつぎつぎに提示してくれるのだが、そのあいだも身体のまわりで、さまざまな目に見えない壁が、想いうかべた部屋の形に合わせて位置を変えつつ……(以下略)」なんていう表現が続く。難しげな顔の語り手がくだくだとしゃべりつづけているという印象だ。何たる面倒くささ。何たる退屈。

 しかし、本を閉じるのはまだ早い。思い切って36頁あたりまで早送りしてみよう。すると、さっきまでの霧がすっと晴れてくる。もちろん、いきなり血湧き肉踊る活劇が始まるわけではないが、このあたりから『失われた時を求めて』を読むための作法が見えてくる。この語り手がなぜこんなにしつこいのか、その意味がわかってくるのだ。

 プルーストの得意技は一種の「むっつりギャグ」である。この人はとにかくじっと待っている。くだくだしく見えるのは、実はこの「待ちの間」にほかならない。長い長いセットポジションだと思えばいい。そして待ちながら、意地悪く観察しているのである。いつぴゅっと牽制球を投げてやろうか、あるいは牽制と見せかけて、バッターに投球してやろうかとうかがっている。牽制なのか投球なのか、脱線なのか本筋なのか、その境い目にむずむずするような緊張感がある。

 そして40頁、50頁と進むと、いよいよ本領発揮である。鋭い牽制球がはじめは小出しに、やがてたっぷりスペースをとって投じられる。父や母といった直近の親族だけでなく、祖母や叔母といったワンクッション置いた人にも語り手の観察眼は働くようで、かなりくすぐったいポイントを突いてくる。庭を歩きながらさりげなくバラの位置を整えたりする祖母の姿について、「理髪店であまりにも平らにされた息子の髪に片手を入れて膨らませようとする母親とそっくりである」(46)なんていうコメント。こういう一節は読み飛ばしたくない。

 作品の柱になるのは幼年時代の回想である。登場するのは親族やスワン氏をはじめとする友人、コンブレーの町、鐘塔、庭、散歩の方角……。しかし、想起は秩序だって行われるわけではない。実に気まぐれで、突飛。しかも、あちこちに意表をつく小さな比喩がしかけられている。象徴主義的な隠喩にありがちな、なし崩し的にぜんぶを同系色にくるむ「うっとり系」ではない。有名なマドレーヌの箇所にしてもそうだが、言葉はいちいち論理的で緻密。ときには数頁にもわたるそんな比喩のひとめぐりに最後まできっちり付き合ってみると、もやもやした頭の奥にぽこっと穴があいて光が差しこみ、爽快な「知」の瞬間がもたらされる。『失われた時を求めて』はこの小さな瞬間の集積なのである。決してフル装備で一気に登らなければならないような、難攻不落の高山などではない。ひとつひとつの瞬間と出会うようにして、エッセイ集をめくるようにして、ゆっくり時間をかけて読めばいい。本質的には「短い」作品なのだ。

 たとえば「匂い」についての印象的な一節がある(121-122)。叔母の寝室の描写が、いつの間にか「匂い」の話題へと発展する。語り手は問う。私たちがうっとりするのはどんな匂いだろう、と。それは「美徳や、英知や、習慣など、密やかで目には見えないけれど、過剰な精神生活から発散し、空中にただよう無数の匂い」でないか、という。ふつうならそこで、ふうん、とわかったようなわからないような気分になればいい。しかし、この語り手はやめない。執拗に「匂い」にこだわる。そして、比喩が次々に繰り出され、出発点にあった「匂い」のイメージがふくらみとともに描きだされる。

出不精な人に特有のこもった匂い
透明で美味なゼリーとなり、果樹園から食料戸棚へと移った趣
肌をさす白い霜の寒さがほかほかのパンの温かさで和らげられた匂い
村の大時計のように、暇をもてあましているものの、きちんと時間を守る匂い
のらくらした、それでいて堅気の匂い
呑気でありながら、用意周到な匂い
リネン類の匂い
早起きで信心ぶかく、平穏で味気ないのを幸せと感じる匂い

「村の大時計のように、暇をもてあましているものの、きちんと時間を守る匂い」なんて、語り手が遊んでいる感じがありありだが、右往左往しながらもどこかを目指している感じがある。そして「早起きで信心ぶかく、平穏で味気ないのを幸せと感じる匂い」あたりまでくると、あ、そうか、と思う。脱線のようでいて、比喩の列挙の中から、本筋が立ち上がってくる。

 つまり問題となるのは、日常性といかに付き合うか、ということなのだ。日常の奥に潜むものを引っ張り出し、精妙な言葉の力で突っついたり裏返したりしながら、その味わいを引き出す。そこには、もはや「つまらない日常」などと軽んじることのできないような、まぶしいとも真っ暗ともつかない思いがけない奥深さがあらわれている。

 プルーストを読みながら心躍るのは、こうした小さい話との遭遇なのである。もちろん全体の流れを無視するべきではないだろうが、語り手の目がいたずらっぽく照準をあてて「さあ、次はこんな見立てでいきますよ」と仕掛けてくる、その牽制とも脱線ともつかない「突っつき」がこちらも病みつきになる。決してすべてを暴いたりしない、独特な隔靴掻痒の伴う「突っつき」なのだが、背後にあるのは主人公ならではの思考法―「隠れ家の思考」―である。

 といっても私の思考こそ、もうひとつの隠れ家と言えるのではないか。私は、その隠れ家の奥にもぐりこんで外のできごとを眺めている気がする。自分の外にある対象を見つめるとき、それを見ているという意識が私と対象のあいだに残り、それが対象に薄い精神の縁飾りをかぶせるため、けっして対象の素材にじかに触れることができない。その素材は、いわば触れる前に蒸発してしまうのだ。(194)

なるほど、「隠れ家」とは言い得て妙である。これが『失われた時を求めて』の主人公の世界とのかかわり方なのだ。隠れたところからこっそり見つめる、密やかな視線を持った主人公なのである。

 それにしても、これほど自分の内面に執拗にこだわり続ける作品は珍しい。にもかかわらず、こちらをナルシシズムでうんざりさせたりしない。おそらくそれは「私」を語れば語るほど、言葉が研ぎ澄まされてドライになっていくからだろう。自己語りは決して甘い耽溺調に陥るのではなく、切なさや甘さを仄めかしつつも、あくまでしなやかにまた軽快に、「まさかそうくるとは!」と言いたくなるような爽快なジャンプを生む。

 圧巻は、382頁あたりから描かれる「見えないもの」をめぐる経験だ。

…突然、とある屋根や、小石にあたる陽の光や、土の道の匂いなどが私の足をとめ、格別の喜びをもたらしてくれた。それらが私の足を止めたのは、目に見える背後に隠しているように感じられるものを把握するよう誘われていながら、いくら努力してもそれを発見できない気がしたからである(382)。

ここも隔靴掻痒。でも、変に神秘化しようというのではない。むしろ、ここがまさにプルーストの魅力なのだろうが、そうした感覚をごく散文的な、科学の言葉にさえ通じるようなシラッと冷静な言葉でねちねちと開いていくのである。

私はじっとそこにとどまり、目を凝らし、匂いをかぎ、わが思考とともにそのイメージや匂いの背後にまで到達しようと試みた。祖父に追いついて散歩をつづけるほかないときは、目を閉じてそれをふたたび見出そうとした。私が、屋根の線や石のニュアンスなどをなんとか正確に想い出そうとしたのは、なぜかわからないが、いまにもそれらの蓋が開いて詰っている中味を引き渡してくれるように思えたからである。(382)

 こんな思考の迷路にやがて「鐘塔」があらわれる。夕陽を浴びた鐘塔は「馬車の動きやジグザグに曲がる道のせいで」位置を変えるかのようだ。そうして彼は考える。

 これら鐘塔の、尖塔の形や輪郭の移動や表面の陽の当たり具体などを確かめ、注視しても、私が感じた印象を突きとめることはできない気がした。この動きの背後に、この明るく光るものの背後に、鐘塔に含まれていながら隠されているものがある気がしたのである。(384)

「鐘塔に含まれていながら隠されているものがある」という言い方の何とぎこちないことか。そしてそのぎこちなさが何と利いていることか。遠くにあると思ったのに、ふと見ると近くにあったりするこの神出鬼没の鐘塔の、その奇妙な存在感をあらわすには、このような迂遠な表現が必要なのである。

 登場人物たちの何とも言えないおもしろみも、この鐘塔と同じような奇妙さから生じている。とくに要注目はレオニ叔母。この叔母がいつも小さい声で話すのは、「頭のなかに何か壊れた浮遊したものがあって、大きな声で話すとその位置がずれてしまうと信じている」(123-24)からだという。この人は「決して眠らない」(!)ことを自慢にしていて、まちがえて「目を覚ました」などと言ってしまったときにも、いちいち言い直すほど。この叔母を観察する語り手の目は、全巻にわたってたいへん冴えている。

 訳文は日本語としてもリズムがあって見事である。プルーストの長文を切らないように、しかも順番通りに訳すように心がけたという訳者はたいへんな苦労をしたのだと思うが、ひとつひとつの句や節や文の意味が丁寧に読者に差し出されていて、まさにじっくり読むに値する文章になっているし、いたずらっぽく意表をつくプルーストのとぼけた持ち味もよく伝わってくる。図版も豊富だから、読書に疲れたらながめるのもいい。現在第4巻までが既刊。この先も楽しみだ。


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