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2012年05月17日

『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』川上亜紀(思潮社)

『三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし』 →bookwebで購入

「散文って窮屈じゃないですか?」

 10年前の「グリーンカルテ」を読んで以来、何となく気になってきた書き手である。「グリーンカルテ」は数年前ついに単行本となったが、必ずしも多作な人ではないから、新しい作品が出て「あ、出た」と思った。今回は詩集。その冒頭の表題作二篇「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし」(*と**)がとてもいい。この2つのためだけでも、手に取る価値のある詩集だ。

 現代詩の居場所ということを考える。詩は最古のジャンルで云々とあちこちで言われてきたし、筆者もそれは大事なことだと思うのだが、その一方で詩は「古さ」だけに依然して生き延びているわけでもない。今や詩は日陰のジャンルであることが定着した感があるが、それでも人がときに詩で語る必要を感じるのは、散文の「まともさ」に窮屈な思いをするからではないかと思う。

 散文は最低限の身支度を調えた言葉である。もちろんだらしなくすることもできるし、攻撃的にも、露出的にも、変態的にもなれる。でも、どこかにラインがある。それを越えると散文どころか「文」と見なされなくなる。このラインは、人が誰かを「ちょっとおかしい」と感じ始めるときのラインと似ている。つまり、多くの人が「正気」と考えるラインと、散文のラインは重なる。

 では詩はどうか。詩はしばしば精神の失調を題材にし、とくに20世紀に入って「医療的」と呼んでも差し支えないような作品が書かれてきた。しかし、精神科医が言うように、私たちはときに過剰に精神疾患に創造性を期待してしまう。病的な妄想はしばしば驚くほど紋切り型なのである(「わたしは天才だ」とか「自分は実は天皇である」など)。本人だけが自分の発想の特別さを確信している。もちろん、これでは詩にならない。

 ただ、「正気」の世界に住んでいる人も、ラインの向こう側を知らないわけではない。人間の大きな特徴は、境界を生きるというところにある。「文」のルールにとらわれつつも、人は「文でない世界」をも垣間見ている。ひそかに「文でない世界」から養分を受け取りつづけているのである。

 詩は、このやり取りの過程をとらえることができる。とりわけ20世紀以降の詩人は、しばしば言葉以前の――もしくは言葉未満の――人間の心の荒涼とした部分まで語ろうとしてきたから、少々の荒れ野でも乗り出していく用意がある。つまり、「文の世界」と「文でない世界」とが交わりを持ち、養分を送ったり受け取ったりしているような、やや薄暗い領域を言葉にすることができる。こんなことが起きていますよ、と見せてくれる。

 「三月兎の耳をつけてほんとの話を書くわたし」(*)でも、どうも言葉がふつうでないようである。冒頭から語り手は「ほんとのこと」を書くのだと言いつのっているが、ふつうに「ほんとのこと」を書くだけの人が、毎行のように「ほんとのこと」「ほんとのこと」と繰り返したりはしないだろう。

ちょっと待って
地震がくる前にほんとのことばかり書かなきゃいけない
ほんとのことばかり言っても誰も聞きたがらないんだ

タイトルからしてそうなのだが、読んでいてすごく神経に障る「文」である。「文でない世界」に行ってしまったわけではないが、ぴりぴりした腫れ物みたいな文で、「まともな文」なら用意されているような、読み手のためのスペースが見つからない。「ほんとのことを書かなきゃいけない」と言いながら、こちらにその「ほんとのこと」を読ませる気がないのかとさえ思う。しかし、こんなふうに「読ませる気がないのか?」のぎりぎりのところで語ってもいいのが詩である。おかげで、ふつうなら言わないようなことも言えるようになる。

きのう、わたしの母親だというひとを殴って、
椅子を床に叩きつけて、いくつか傷をつけてしまった
(茶色のクレヨンを探して床に塗る)
そのうえ、カーテンにぶら下がって怒鳴ったので、
窓の上の壁のカケラが、ぽろんと絨毯に落っこちてきた
(壁を拾ってとりあえず物置のなかへ)

 「読ませる気がないのか?」とこちらが感じるのは、実は向こうが無理をしているからだということがだんだんわかってくる。言うのがすごくたいへんなことを言おうとしているらしい。そこに無理が生ずる。ぴりぴりする。

二〇〇二年の暑い夏に体重が減ってしまったのはつまらない人災と猫の避妊手術によるものかというとそれだけではない まだ若い従弟がとつぜん死んだ 月に手が届かなかったので梯子を倒してしまった。母はその朝すぐに羽田空港へ向かった。(中略)夜になってから父が弔電の作文をした わたしがそれを電話で読みあげた(その頃父の肺癌はまだ見逃されていた わたしが父親の肺のCT写真を見せられたのは翌年の春だった 父の兄が来て苦い顔をした)

 小説の中で語ってもいいようなことかもしれない。しかし、詩でなければならなかった。「文でない世界」がすぐそこまで迫ってきているから。詩の言葉を通さなければ、下手をすると語り手のいう「ほんとのこと」は永遠に言葉にされずに終わるかも知れない、とそんなことまで含めて語りたいのである。やっとのことで語っている。

この三年間、わたしはなにもしていないのに忙しい
そして毎日同じことを考えていた

五円玉のようなほんとの話が溜まっていくから
まんなかの穴に糸を通して結んで吊り下げていく
ああ、ほんとの話が百は溜まっている!

 私たちが読みたいのもおそらくこのことなのだ。「ほんとの話」の内容よりも、「ほんとの話」を語ろうとする語り手の、「五円玉のようなほんとの話が溜まっていく」という気分を。なかなか語ることができないのだけれど、今やっと言えているらしい。人はなぜか、誰かが無理をしてやっと言えたことを読むのがとても好きなのである。

ほんとの話をいくつかしたつもりになると
またそこからほんとの話が枝分かれしていって伸び放題のツル草になる
でもぜんぶほんとの話だ、これからはもうほんとのことばかり書くんだ

頭のなかのツル草は伸び放題
三月兎の耳をつけて毎日ほんとの話ばかりするので
詩も書けないしあなたにも会えない

それでもこれはほんとの話なんだ

 無理をしないでも言えてしまうようなことは、どっちみち、言っても言わなくてもいいようなことなのだろう。そこら辺にいくらでも転がっていることなのだ。だったら聞きたいとも思わない。「ほんとの話」の内容だって、どれくらい興味があるのかわからない。でも「ああ、ほんとの話が百は溜まっている!」という声にはつい耳を傾けてしまう。その声が変に陽気に聞こえるだけになおさらだ。何でこんなに元気なのだろう。無理をした分だけ、妙な活力が湧いたのか。そこには「文」の境界ならではの匂いがする。そういう言葉はひょっとすると、今までぜんぜん知らなかったようなことを教えてくれるのではないかと思わせるのである。


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2012年05月01日

『マザーズ』金原ひとみ(新潮社)

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「Butのいらない小説」

飲み会で学生に、「最近、おもしろい小説読んだ?」と訊いてみることがある。日本の小説。今、書かれている小説。そんな含みを持たせると、大学院生などかえって答にくいようだが、ときどき「あ、そういえば、金原ひとみはけっこう好きですよ」という答えが返ってくることがある。

 この「あ、そういえば……」は、なるほど、よくわかるなあと思う。金原ひとみは、派手に騒がれたギャル小説家としてのデビューにしても、その『蛇にピアス』での、陰部にとんがったものが刺さるような道具立てにしても、文学をまじめに「勉強」する身には、正面から「大好きです!」「いいです!」と言いにくい気配が漂っている。野蛮だし、通俗的に見える。こういう小説をおもしろがってしまう自分はほんとに文学をわかっているのだろうか?とためらいが混じる。

 しかし、この作家の強みはまさにそこにある。「勉強」の対象になどならない。洒落ているわけでもないし、高級なのでもない、これほんとに「文学」なのでしょうか?なんてごちゃごちゃ言っているうちに、小説はどんどん進行する。いや、進むというより、悪化する。病巣が広がり、膿がたまってふくらんでいく。土嚢のようなものが積み上がる。行けるところまで行って、ああ、もうダメというところで、ぱあーっとはじける。そう。このように、きちんと「悪化すること」を許すのが金原ひとみの力なのだ。

 『マザーズ』の主人公は、保育園に通う小さな子供を持った三人の母親たち。ユカは小説家、五月はモデル、涼子は専業主婦である。三人とも表向きは順調そうだが、それぞれの問題を抱えたまま育児に追われている。ユカは薬物中毒、五月は不倫の最中、そして涼子は我が子への虐待へとのめりこむ。出産と育児にまつわる細部はたっぷりと書きこまれ、保育園の選び方から、発熱時のどたばた、お誕生会のこと、うんこの始末、ママ友との付き合い、夫のオナニー(*現行犯ではない)など、かなり明確に育児小説が意識されているのは間違いないのだが、とにかく三人の母親たちの「悪」が進行していく過程がすごい。ほとんどプロットなど関係ないと思わせるくらいで、カーブもトンネルもないまま、ひたすら坂道を上る。まるで遊園地のジェットコースターの「のぼり」みたいで、ギアが一段変わるごとに、ぐいっ、ぐいっと濃度が高まる。徐々に絞りが深まり、逃げ道がない。

 出来事は、あんがい「ふつう」だ。夫との不仲にしても、不倫にしても、虐待にしても、現代家庭問題の陳列場のようなものである。必ずしも誰にでも起こることではないが、誰もが知っている、誰もが小説の中に予想すること。正直言って、ユカにしても五月にしても涼子にしても、それほど根っから珍しい人々ではない。あくまで設定に生かされた人物像である。しかし、にもかかわらず、私たち読者までもこの段々と高まる濃度に、「これは逃げ道はないぞ」と進退窮まった気分になる。なぜか。なぜ、こんなジャーナリスティックな展開に、私たちは追い詰められるのだろう。

 そこで大きな役割を果たしているのが〈声〉なのである。『マザーズ』は特異な声の物語として書かれている。三人の母親の境遇はそれぞれ明確に異なり、章ごとに視点人物の名前が割り振られて「誰」の物語かわかるようになっているのだが、おもしろいのは、読んでいるうちに不思議な連続性にとりこまれ、下手をすると三人がひと連なりの、やわらかいゼリーのようなものでつながった〈共同人〉ではないかと思えてくるということである。

 いや、連なっているのは、三人の間だけではない。もっと強烈な「連なり」がこの作品を支配している。この作中でもっとも壮絶なのはおそらく涼子による虐待のシーンだろうが、このような箇所にも〈声〉の特徴があらわれている。

 チョコの袋を鷲づかみにすると、私は個包装を破りチョコを砕かずそのまま一弥の口に押し込んだ。手元が怒りと恐怖で震えている。がしっと大袋に手を入れると、大量にチョコを取り出し再び個包装を破く。食え食え食え食え食え食え。言いながら私は次々に袋を裂きチョコを取り出し一弥の口に詰め込んでいく。身をよじって逃げようとする一弥に馬乗りになって、嗚咽してチョコを吐き出そうとする一弥の口を手で押さえつける。押さえつけている右手の、薬指の爪が割れているのに気づいて、体中が麻痺していくのが分かった。左手でチョコを摑むと、私は包装を開けずにそのまま二つか三つ一弥の口に押し込み、吐き出そうとする一弥の口を再び右手で押さえつけた。んーんーと苦しげに顔を歪め、真っ赤にしている一弥を見て私は確かに「殺してしまう」と思った。感情に支配されて身体が思うように動かないなんて事はあり得ない。身体が勝手に動いてしまったなんて事はあり得ない。私は私の意志で、感情的でありながら冷静に、一弥を窒息しさせようとしているのだ。(338)

 思わず「うわっ」とひるむような場面かもしれないが、ためしに、この一節の句読点を全部取り去ってみると……。

 チョコの袋を鷲づかみにすると私は個包装を破りチョコを砕かずそのまま一弥の口に押し込んだ手元が怒りと恐怖で震えているがしっと大袋に手を入れると大量にチョコを取り出し再び個包装を破く食え食え食え食え食え食え言いながら私は次々に袋を裂きチョコを取り出し一弥の口に詰め込んでいく身をよじって逃げようとする一弥に馬乗りになって嗚咽してチョコを吐き出そうとする一弥の口を手で押さえつける押さえつけている右手の薬指の爪が割れているのに気づいて体中が麻痺していくのが分かった左手でチョコを摑むと私は包装を開けずにそのまま二つか三つ一弥の口に押し込み吐き出そうとする一弥の口を再び右手で押さえつけたんーんーと苦しげに顔を歪め真っ赤にしている一弥を見て私は確かに「殺してしまう」と思った感情に支配されて身体が思うように動かないなんて事はあり得ない身体が勝手に動いてしまったなんて事はあり得ない私は私の意志で感情的でありながら冷静に一弥を窒息しさせようとしているのだ。

 句読点などなくても、けっこう読めてしまうのだ。というか、元々の文章にこのような潜在的な方向性があったのではないかとさえ思う。金原の文章には、句読点を越えてつながってしまうような連続感が秘められている。前に戻ったり、急なターンがあったりしない。Butがない文章なのである。とにかく起こるべきことが起きていく。圧倒的な必然性がある。作品の中では、過去の想起や反省といったものもないではないが、それよりも「いま」の感覚が強烈なのだ。句読点だけではない。会話も描写も心理も、主観も客観もそうだ。「私は私の意志で、感情的でありながら冷静に、一弥を窒息しさせようとしているのだ」という箇所など、本来ならヒヤッとどきっとしそうな内容で、逆説的に聞こえたり、アイロニーが響いたりしそうなのだが、どうだろう。読者は先へ先へという文章の勢いに乗せられ、意識が止まったり、視点が離れたりする間もなく、ごくふつうに「まさにそうだ」と感じる。遠近法などどうでもよくなった同一次元の上で、感情や理性や含めて、ひとつの流れる〈声〉が生まれるのである。その〈声〉が、涼子やユカや五月といった人物の境目も越えていく。

 この三人のうち、ユカは小説家という設定なので、私たちは何となく作家自身の「ナマの声」を聞き取りたくなるかもしれない。その〈声〉にはときに飛躍がある。

 自分の中には理解出来ない自分がいて、自分の中にはコントロール出来ない自分がいる、そう思うと気が楽になった。人の中には魔界がある。私はそう思う事にした。今の私にとって、小説を書く事と摂食障害、そしてツリーが魔界だ。小説を書く意味を考え始めたら、私は魔界を隠蔽するため小説を書く自分を殺してしまうだろう。摂食障害の理由を考え始めたら、私は魔界を隠蔽するため摂食障害を克服してしまうだろう。ツリーも同じだ。つまり私は小説を書き食べ物を吐いたり断食したりツリーを飲んだりという事で、自分の中の魔界を存続させている。きっと私は、ツリーの常用を本気で止めようとは思っていないのだ。(174)

 まさに現在進行形の語りである。タイムラインの上を次々に流れてしまう自身の発言を、何度も自分で引用しながら言葉の足場を築き、少しずつどこかに進もうとしている。話の論理がやけに直感的で飛躍が多いのも、それだけ、より深いところから出てきたように感じさせる。そのユカが――ユカだけが――先の「食え食え食え食え食え食え」のような句読点なしのセリフを口走るわけである。夫の央太に対して激したユカの言葉は、次のように書かれる。

「てめえふざけんなよ妻と子供家に残して優雅に一人暮らししてオナニーばっかしてんじぇねえよふざけんな惨めで汚ねえ育児とか家事とかばっかり人に押しつけてエロ本とかAVとかばっか見てんじゃねえよたまにはガキのウンコ拭き取ってみろ生ゴミの処理してみろガキ風呂に入れてみろトイレトレーニングしてみろこのクソ野郎ふざけんなっ」(原文ママ 286)

 句読点を省いた文章というと、英文科の人ならジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』最終章の「モリーの独白」を連想するかもしれない。モリーの「心の声」が、ピリオドもコンマもないまま延々とつづくあの有名な箇所である。ただ、金原の言葉はどこか違うようにも思う。それは決して「心」に封じ込められたものではないのだ。それがさらに進んで物語の外に出ることを目指すのか、それとも逆に、句読点などなかった時代のかつての日本の「文学」を、物語を、再生することにつながるかは、この作家の「魔界」の行方にかかっているように思う。

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