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2012年02月17日

『深沢七郎外伝』新海均(潮出版社)

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「天才作家の苦い味」

 何しろ、あの深沢七郎である。伝記的事実の記述だけで十分スキャンダラス。実際、本書からは深沢の破天荒な生き方が生々しく浮かび上がってくる――そういう意味ではすぐに作品を手に取りたくなるような格好の「深沢七郎入門」となっているのだが、それだけではすまない。読み進めて引きこまれるのは、意外な箇所なのである。

 まず冒頭から目につくのは、この本に「深沢七郎について正しいことをぜんぶ言うぞ!」という構えがおよそないことだ。「オレの話を聞け!」というようなオレオレ性もない。「外伝」と銘打ったのもそのためだろう、著者は「月刊宝石」の編集者として晩年の深沢から原稿をもらった人だが、自身の「深沢体験」の他に、新聞や雑誌で報道されたこと、関係者のコメント、噂、記憶などを切り貼りのようにしてつなぎあわせ、コラージュ風に深沢七郎という人物を浮かび上がらせるという手法になっている。中心は過去形の思い出語りであり、言ってみれば、壮大な「後日談」。本全体に「あとがき」のような風情がある。そのゆるさがいい。ジャカ♪ジャカ♪ジャカ♪と音楽が聞こえてくる中で、話を聞いているような気分で、まさに居酒屋風の語り。少なくとも本書の四分の三くらいは、そんなふうにして過ぎていく。

 深沢は山梨・石和の出身。その原点は音楽にあった。中学でギターを覚えると、クラシックからロックまでカバーし、25歳ではじめて個人リサイタルを開く。ギター奏者としての自分に深いこだわりがあり、リサイタルもその後38歳まで18回にわたって開かれつづけた。35歳のときに最愛の母が死去。深沢は四男だったが、癌を患った母親に付き添って介護を続けていたのであった。

 この母の死を契機に深沢は故郷を離れ、バンドに加わったり行商をしたりしながら各地をまわり始める。そんなある日、彼のリサイタルを観て興味を持った男がいた。日劇小劇場の丸尾長顕である。丸尾はギタリストとして深沢をスカウトする。この丸尾との出会いが深沢の運命を変えることになった。日劇小劇場は日劇ミュージックホールの前身でストリップ専門だったが、丸尾はここでストリップの演出を手がける一方、「歌劇」の編集長もしていた。丸尾の指導の下で深沢は、「楢山節考」を書き始めたのである。

 その後の深沢の人生はよく知られた通りだ。丸尾の丁寧な指導の下に完成した「楢山節考」は第一回中央公論新人賞に応募され、伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫という審査員の全員一致により当選が決まった。三島由紀夫をして「こわい小説を読まされた」と言わしめ、うるさ方でならした正宗白鳥が「人生永遠の書として必読すべきもの」と激賞した。

 しかし、鮮烈なデビューを果たした作家深沢七郎は、まもなく禍々しい事件に巻き込まれることになる。あの「風流夢譚事件」である。『中央公論』1960年12月号に載った深沢の「風流夢譚」が天皇を愚弄していると怒った右翼少年が、中央公論社長宅を襲いお手伝いさんを殺害、夫人にも重傷を負わせる。はじめは脅迫など相手にしていなかった深沢も、すっかり右翼の攻撃におびえるようになり、全国各地を転々としながら「逃亡生活」を強いられることになった。中央公論社はお詫びの社告を載せ、嶋中社長も「あんなくだらない小説を自分は載せる気持ちはなかった。編集長のミスだ」とのコメントを出す。編集長も解任。

 こうして見ると、たしかにこの事件には政治性や社会性が目につく。「言論の自由」から「天皇制」に至るまで研究者が飛びつきそうな話題ばかりだ。しかし、肝心の作品はどうだろう。「風流夢譚」の掲載された『中央公論』のバックナンバーの頁を、筆者はかつてある市立図書館の薄暗い書庫でどきどきしながらめくったのだが、う~ん、正直言って拍子抜けであった。「楢山節考」はたしかにすごい。しかし、「風流夢譚」はどうだろう。果たしてこのために人が殺されるほどの作品なのか。

 そういう事情も間違いなく関係したのだろう、受難の作家に対する世間の反応は今ひとつちぐはぐなものだったようだ。弁護する批評家作家ももちろんいたが、今ひとつ歯切れが悪い。実際、中央公論社の対応に代表されるように、その後、各社とも右翼に対してはかなり神経質な対応をとらざるをえなくなる。その傾向は今に至るまで続く、と新海は指摘する。

 しかし、深沢はこの事件を契機に生涯の友と知り合った。「ヒグマ」こと森兼宏と「ヤギ」こと深谷満男である。放浪をへて埼玉菖蒲町に落ち着いた深沢は、このふたりに助けられながら「ラブミー牧場」をつくった。ラブミー牧場以降の深沢は、あいかわらずの破天荒な生活ぶりとはいえ、デビュー期のような派手さは少しずつなくなっていく。本書の中でもこの時期の深沢を描いた部分はほほえましい牧歌性をたたえ、著者の作家に対する敬意と愛情のあふれた、一種の〝賛歌〟となっている。

 それが、である。第8章から話が急に変な方向に動き出す。「突然、Aと名乗る男からの電話」などという、思わず「なになに?」と身を乗り出さずにはおられない剣呑なセクション見出しがあって、「A」なる人物が登場。すべて深沢がすでに亡くなってからの話なのだが、このあたりから作家の死後に残された人物たちの、さまざまな意味での跡目争い・遺産争奪戦が繰り広げられることになる。これこそほんとうの「後日談」なのだが、そこではどうもあまり格好良くないというか、いや~な匂いの漂う出来事がいろいろと起きた。著者もそこに巻き込まれることになる。

 新海氏は白黒はっきりさせて論じたり、声高に何かを主張するタイプではない。そのかわりに、いかにも編集者らしい忍耐強さと、「目」を持っている。その「目」が、輝かしい天才的な部分を持ちながらも、きわめていい加減でいかがわしいところもあった深沢七郎という男の残した、決してさわやかではない後味をあますところなく語りの中でとらえているのである。だから、本書の最後の四分の一はきわめて〝苦い〟。

 おそらく著者はそのような部分を書きたくない気持ちもあったのだろう。「Aと名乗る男」などという登場のさせ方からして嫌悪感丸出しなのに、その「A」の記述はどこか小出しというか中途半端。嫌々ながら書いているのである。しかし、実は大部分を占める「深沢七郎賛歌」の部分よりも、この最後の四分の一の苦い部分こそが、本書のもっとも文学的なところであると筆者は思った。

 何人かの人物が出てくる。小さい頃、近所の深沢にギターを習ったという元自衛官は、誰も来ないような田舎で、自宅の一部を改造して深沢七郎の記念館をつくった。妻と離婚した後は、スーパーで残業をこなしながら家のローンを払いつづける。それでも記念館は守った。「ヤギ」は、「ヒグマ」が恋人をつくってラブミー牧場を去った後も、ひとりで老いた深沢の面倒を見続け、太ももから内股からときに陰部に至るまで、深沢にマッサージを施してやったりした。「ヤギ」は深沢の養子として著作権を相続するが、深沢の死後、四〇代にして精神状態が不安定となり、極度の不安と人間不信から印税の受け取りすら拒むようになる。そのせいもあって以降、深沢の著作物の刊行は困難を極めることになった。

 そして問題の「A」である。「ヤギがおかしい」という噂の流れる中、「A」はラブミー牧場に残された深沢の遺品を安い値段でごっそり買い取る。井伏鱒二から届いた、深沢への弔文まで含めてありとあらゆるものを持ち去った。そして山梨の笛吹市の役場と交渉し、この遺品を元に文学館を建設してその館長におさまろうとする。格安の公営住宅付きである。しかし、きまぐれな「A」には粘着質なところもある一方で、理解しがたい奇行も多く、最後はまとまりかけた交渉をご破算にしてしまう。そのあたり、事実関係の不明瞭さともあいまって、忸怩たる思いの著者が必死に「A」に対する感情をこらえながら書いているさまが伝わってきて、たいへん引き込まれる。

 舎弟のような若い男二人を従えて埼玉の田舎で牧場をやった深沢。当然そこからは「同性愛説」めいたものが飛び出してもおかしくはない。女性やセックスについての発言も旺盛だった深沢だが、「深沢は欲望の大きい人だった。欲望が大きすぎてぼくには応えられなかった」(162)という「ヤギ」の発言は意味深長に響く。しかし、新海氏がするのはせいぜい第7章に「欲望の大きい人だった」というタイトルをつけるだけで、よけいな推論や断定には走らない。深沢が少年と一緒に風呂屋に行きたがり、「まえをだせ」といって陰部をいじったというような話はあってもそれ以上は踏みこまない。そこがいいのだ。白黒つければいいわけではない。人間のセクシュアリティというのはたいへん微妙なものだ。その微妙さがあるからこそ、「楢山節考」のような作品が生まれえたのである。そのあたりをとらえるバランス感覚はやはり編集者ならではだな、と雑多な音楽の鳴り響くかのような語りを読みながら思ったのである。


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2012年02月02日

『きなりの雲』石田千(講談社)

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 作家の中には見るからにおっかない顔つきの人がいる。下手に質問すると、イラッとした目つきで睨まれ「さっき言ったでしょ?」と露骨な不機嫌をつきつけられる。こういう人の作品もたしかにのぞいてみたくはなるが、ちゃんと読むにはそれなりの覚悟もいる。

 石田千の作品は対照的だ。エッセイ集も含めればこの十年に相当な数が刊行されているが、『あめりかむら』『月と菓子パン』『店じまい』『屋上がえり』『きんぴらふねふね』『踏切趣味』『踏切みやげ』『部屋にて』などのタイトルだけからもわかるように、イラッとしてこちらを睨むなどということはない。むしろすぐそこに、手の届くところに置いてあってほしい風情の本ばかりだ。

『きなりの雲』は著者の小説作品としては二冊目になる。280枚という長編はおそらくはじめて。連作のような構成だが、ぜんたいをつらぬく明瞭な流れがある。描かれているのは「回復」である。物語の冒頭、主人公望月さみ子は「失恋者」として登場する。恋人にふられ、その原因は自分にあったと後悔の念にさいなまれ、仕事も続けられなくなった。物もろくに食べられず、夜も眠れぬこと半年。ついに身体に変な斑点があらわれたところで医者を受診する。しかし、さみ子はここで言わば底を打った。

 本領はここからである。少しずつ、まるで植物が生長するような速度と静けさで、干涸らびていたものに水気が通いはじめる。凝り固まっていたものがほどける。物語上は途中、「武器密輸団」の登場に続いて「モトカレ」の再来があったりして大いに波乱はあるのだが、さみ子の生命があらためて温度を持ってくる様子は、今どき珍しいほど繊細な文体意識――書き手の呼吸が乗り移ったかのような文章――を通して語られる。それは一見こちらのガードを解くようなやわらかさに満たされてもいるが、それだけではない。冒頭部はこんな具合である。

水にひたしてひと月すると、しろい根がのびた。それからしだいにしわが寄って、かたく縮んでしまった。
 さらに二週間たった。アボカドの種は、桃太郎が生まれるように、ふたつに割れた。透けるほどやわらかな葉が二枚あらわれたのは、年をまたぎ、正月のにぎわいもおさまるころだった。
 寒い季節のうえに、スーパーマーケットの冷蔵の棚にあった実だったから、育つのはここまでかもしれない。そう思いながらも、水をとりかえた。すこしでも光のあたるところをさがし、置き場をかえていた。(7)
 石田千の著作に親しんでいる人ならわかると思うが、そのトレードマークは主語の省略である。しかし、一口に主語の省略といっても、効能はさまざま。『きなりの雲』でも、状況によって意味はぜんぜんちがう。この冒頭部では、「アボガドの種」や「さみ子」といった主語を所々で落とすことで、ひとつの文の中でも焦点がゆらゆらと行き交い、おかげで主人公やアボガドの葉や季節のめぐりといった話題が、まるで互い違いに生えだしてくるような交錯の感覚が生ずる。人間の営みが、その意志や感情も含めて、植物的な生育と重なる。

 それはたしかにやさしさに満ちた語りだ。石田千がもっとも愛する対象は本書にも多数登場するお年寄りや子供であり、その筆致に慈愛を読み取る人も多いだろう。しかし、その一方で、石田の文章には揺るぎない厳しさがある。おそらくこれは主語を書かないという衝動の根本にもある厳しさである。究極的には、語ることそのものが抑制されているのである。とりわけ「私が語る」ことが抑えられている。「私が思う」「私が考える」ことに対する躊躇、抵抗がある。

 書くことはセラピーだと考える立場がある。書くことによって、無意識や幼児性や病が解放される。書かれたものは汚物のような臭気を放つかもしれないが、それは書き手を救い、しかもおもしろいことに、読み手だって救済されることがある。私たちはこういう文学作法に長く慣れてきた。ただ、セラピーとして書かれるものに、紛れもない汚物として終わるものがあるのも間違いない。

 石田千が『きなりの雲』で描く「回復」はそのようなものではない。文学作品の中ではもはやあまり振り返られなくなった、「折り目正しさ」とか「あきらめ」とか「関係」といったものが、まったくふつうに大事にされている。汚物を吐き出すこともないし、何より「私は語る」「私は思う」といった私の主語性に酔わない。素面でいようとする。

 だから、石田千はリズムとの付き合いにとても慎重だ。文章というものは、書く人も読む人も酔わせるような麻薬のような作用を持つことがある。リズムに乗れば、語っている言葉そのものの慣性で語り続けることができる。雪崩のように、勢いが勢いを呼ぶ。石田千のエッセイにも、主語を省くことで日記風の軽快なリズムを生んでいるものはあるし、「あめりかむら」のちょっと熱気のある語り手もなかなかフットワークが軽い。しかし、10年前のデビュー作「大踏切書店」の味わいによくあらわれているように、石田千の語りはリズムに溺れるものではない。雪崩を打つどころか、いつぴたりと停止するかわからない。だから、独特の寂寥感を呼びこむことができる。「大踏切書店」のもっとも悲しい場面、呑み仲間のハルさんの死は次のように語られる。

三日前に来たのが、最後だった。湯どうふとコップ酒の用意をしたら、その日だけ、熱燗がいいといった。風邪ひいたから、熱燗飲んで寝るからという。湯どうふに葱をどっさり入れて出したら、あったまると喜んだ。帰りがけに、黒焼きにした葱を手ぬぐいでくるんで、首に巻いてあげた。ハルさんは夜寝られないといけないから本が欲しいといった。小さい字がいっぱい書いてあるのがいいといった。(中略)
 心配だったけど、送るというと怒るから、そのまま帰した。次の日の朝、起きてこないから、家の人が見に行ったら蒲団のなかで死んでいた。枕もとに、手ぬぐいにくるまった葱と本があった。本のうえにハルさんの小さな眼鏡が置いてあったという。話しながらふみさんの目はまっかになった。そしてすぐに、大往生だわ、立派よ、見習わなきゃとうなずいて、鼻をかんだ。(「大踏切書店」〈『あめりかむら』所収〉、165-166 )
 勢いをつくりながらも陶酔感から距離を置くのはなかなか難しい。語っている言葉の勢いに乗るのは容易なこと。でも、そのリズムを抑制するとなると、いちいち言葉を発し、またゼロから動き出さなければならない。そのためにはやわらかい呼吸が必要になる。『きなりの雲』でモチーフになっているのもまさにこの呼吸である。

 心身共に病から回復したさみ子は以前からつづけていた編み物の仕事を再開する。その過程で出会いがあり、別れがあり、恋人のじろーくんがひょろっと戻って来たりもするのだが、さみ子にとってもっとも大きなチャレンジとなるのは新潟の友人から届いた「きなり」の糸をいかに編み上げるか、ということだった。

糸にまかせてみて。玲子さんにいわれたとき、はたと気づいた。いままでの経験知識で、この糸のよさを消すところだった。
 糸にまかせてそのままで、じゅうぶん。頭にくりかえし、いいきかせながら、黙って手を動かす。流れる音楽も、きこえなくなっていく。
 十センチの正方形になったとき、試した編み地が、ふっくらと深い呼吸をした。
 光沢もしなやかさも、じゅうぶん伝わる。羊たちにほほえまれ、なんとかめどが見えた。これで、大丈夫。肩の力を抜いた。(114)
 そう。糸にまかせるのである。そうすると「ふっくらと深い呼吸」ができる。主語を落として、声をこもらせて、そうまでして「私が語る」のを抑圧するなら、もう語るのをやめてしまえばいいのになどとせっかちな人は言うかもしれないが、そういうことではない。言葉というものは、別に私が語らなくたっていい。言葉が語ればいいのだ。ちょうど糸が勝手に編まれてしまうように。

 ほんとにいいものは、「私は語る」の境地を越えたときにあらわれるのかもしれない。私ではなく、文章が、言葉が、まるで世界と互い違いに生えだしてくるように生成してくる。主語だけでなく、会話括弧や句読点といった区切りをもさりげなく落としていきながら、石田千の文章はたいへんしなやかな解放を目指しているのである。
(「群像」4月号(3月7日発売)で、著者の石田千さんにインタビューしているので合わせてご覧ください)


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