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2012年01月23日

『石の記憶』田原(思潮社)

石の記憶 →bookwebで購入

「《は》の効用」

 すごい詩人が現れたものだ。これなら現代詩アレルギーのひとにも自信を持って薦められる。おおらかで、力強くて、土の中から生えだしてきたかのような安定感がある。それでいて実に柔軟。間接がやわらかいのだ。まさに一流の運動選手のような肉体を持った言葉である。

 日本語による第一詩集『そうして岸が誕生した』から、巻頭の「夢の中の木」を引いてみよう。

その百年の大木は
私の夢の中に生えた
緑色の歯である
深夜、それは風に
容赦なく根こそぎにされた

風は狂った獅子のように
木を摑んで空を飛んでゆく
夢の中で、私は
強引に移植されようとする木の運命を
推測できない

木がないと
私の空は崩れ始める
木がないと
私の世界は空っぽになる

こういう自然に憑依されたような言葉で語ることのできる詩人を、筆者はそれほど知らない。近いのは新川和江か。変に頭を使ってはいけないということを、実に明瞭に示してくれる作品である。

 もちろん読者も気をつけないといけない。もしこのような一節を読んで「???」と思った人がいたら、よけいなことかもしれないが、頭を使いすぎずに読むための簡単なポイントがある。この詩のまずどこを読んだらいいか。「は」である。

その百年の大木は/(それは)/風は/(私は)/私の空は/私の世界は
この一連の「~は」に、ちょっとだけ注意して読んでみよう。単に力をこめるというのではない。軸として意識してみる。「気」の置き所にする。そうすると、視界が開けてくると思う。この詩は「~は」から始まるための詩なのだ。「~は」とはじめた勢いが、どうやって言葉を伝って流れ出していくか、その流出感のようなものに身をまかせたい。

「は」が示すのは主語であり、話題である。でも、田原の「は」にはそれ以上のものがある。それは非常に屈強な「は」なのだ。そしてその強さは、相手に届こうとする呼びかけめいた意思のようなものを――つまり、言葉的な距離の想像力のようなものを――持っている。

そのように長い歳月を経て
川の流れは疲れ果てた包帯だ
それは傷ついた村や山を包み縛っている
世の激しい移り変わりの船着き場は
遠くに清く澄んだ水源を眺め
あたかも老いるのを待っている船頭のように
ひとしきり咳に付き従って
黒い苫舟を漕ぎ
川を遡って帰る
(「田舎町」 『石の記憶』より)
「は」の作用は、和歌の上の句と似たようなものでもあるかもしれない。百人一首で「~は……」と長く伸ばして読むときのあの心地にあるのは、何かを呼び覚まして目の前に浮かび上がらせようとする「お願い」のような気分である。そういう意味では田原の詩の多くには、相手にむかって呼びかけ手を伸ばそうとするような姿勢が見える。
一本の大木が倒された地響きは
森の溜息だ
鳥たちは
銃声の傷を背負って
帰巣して卵を産む
ムササビは黒い幽霊のように
木から木へと跳んで
食べ物を見つけようとする
(「狂騒曲」 『石の記憶』より)
と同時に、彼の安定感を作っているのは、「は」を介した呼びかけを口語自由詩の中の一種の「型」にまで昇華させてしまう執念のようなものでもある。じっくり語る。決して「~は」から流れ出して、あとは野となれ山となれではない。何度でもあらためて「は」の地点に立ち返ろうとする気概がある。体力もある。そしてそれは、ときに怨念めいた凝視をも生む。四川大地震のことを描いた「堰止め湖」(『石の記憶』)という作品の終わり方は典型的だ。
一万年後 お前はそのときの人々に
感嘆され称賛される景色になっているかも知れない
しかし 私はこの詩を証として書き残しておきたい
西暦二〇〇八年五月のお前は
何億もの人々の涙が溜まってできたものであることを
詩とは時間や空間の威力に抗して語ろう、記録しよう、刻みつけようとする、人間的な抵抗の、もっとも原初的な形なのだ。

 田原(でんげん、ティエン・ユアン)は中国・河南省出身。大学では中国文学を専攻し将来を嘱望されていたが、天安門事件に参加したために当局に目をつけられ、方針転換して日本に留学することになった。広く海外の詩にも親しみ、ロルカ、パステルナーク、ホイットマン、ウォレス・スティーヴンズなどを愛読。詩は中国語でも日本語でも書くというバイリンガル詩人である。ざっくりと言葉を鷲づかみにするような剛胆さと、ひょいとイメージからイメージに飛び移る敏捷さとを兼ね備えているあたり、たしかにホイットマンやスティーヴンズと通ずるものを感じる。谷川俊太郎の研究者でもある。

 実は最近、勤務先で講義をしていただいた(東大朝日講座――知の冒険)。「詩は他者への愛によって書かれる」「詩には謎がなければならない」「良い詩は良い読者を見つける」――いずれも発言の場から切り離して引用すると鮮度が落ちてしまうのが残念なのだが、こうした言葉がこれほど自然に口にされ、しかもそれがこちらに届くというのは希有な体験だった。まさに温度のある詩人である。田原さんは雪の舞う空にパーカー一枚という出で立ちで驚くほどの熱気をあたりに充満させ、講義中何度も嗚咽しながら、激しい感情とそれをコントロールしようとする強い意志とのバランスの中で、未発表の自作を含めて何編かの作品を朗読してくださった。

 「浮浪者」「津波」といった作品が近々活字になる。乞ご期待である。


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2012年01月04日

『パミラ、あるいは淑徳の報い』サミュエル・リチャードソン著、原田範行訳(研究社)

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「パミラはいったい何をしたのか?」

 ついに『パミラ』の翻訳が出た。1740年版の初版テクストを元にしたものは本邦初訳。記念すべき出来事である。パミラはおそらく英文学史上もっとも有名な人物のひとりだが、考えてみるとその実像は意外に知られていない。パミラとは何者なのか?この女、いったい何をしたのか?

 とりあえず誰もが知っていることから確認しよう。ときは18世紀前半のロンドン。英国ではすでに印刷術がかなり普及し、書物はもはや一部の上流層の独占物ではなくなりつつあった。むろんもっとも需要の多かった出版物はキリスト教関係のものだが、これとならんで大いに人気を博したのが〝お作法系〟の入門書である。あいさつ、しゃべり方、歩き方、うれしがり方……。18世紀とは何でもかんでも「やり方」が指南される時代だったのである(当時のお作法問題については、こちらも御参照ください)。とりわけこの時代に注目を浴びつつあったのは、書き言葉をめぐる作法だった。サミュエル・ジョンソンによるはじめての英語辞典は18世紀半ば。英語の句読法が整備されたのも同じ時期である。

 さて、ここにサミュエル・リチャードソンという印刷業者がいた。「業者」とはいえ文章力には定評がある。すでに何冊か一般向けの本も出している。このリチャードソンに対してある出版者が、手紙の書き方の模範文例集を出しませんか?と持ちかけた。どうやらこれが50歳になるリチャードソンの心の何かにヒットしたらしい。彼は大いに乗り気になり「よし、じゃあ、せっかくだから人はどのように振る舞うべきか、指南書のようなものにしよう」とのアイデアまで出し、さっそく全体を書き上げた。所要期間わずか2ヶ月。当初の手紙の模範文例集という企画はどこかにすっ飛び、翻訳版で総頁800近くの長大なドラマがそこには展開されていた。これが『パミラ』である。

『パミラ』は発売後たちまちベストセラーとなる。二巻揃いで今の日本円にして1万円から1万5千円という本があっという間に版を重ねて、一年もたたないうちに1万5千部も売れた。単純計算で一億円を優に越える売り上げである。いったい何が起きたのだろう?パミラはいったい何をしたのか?

 タイトルにあまりにも明瞭に示されているように、『パミラ』は「淑徳を守ったおかげで報われた女」の話である。主人公パミラは上流階級のB―氏のお屋敷で働く召使い。まだ若い彼女にとってはすべてが新しい経験ばかりで、生活の詳細を両親への手紙の中でいちいち細かく書き綴っている。ところが、やがてあやしい気配が漂ってくる。主人であるB―氏の魔の手が伸びてくるのだ(本の装丁はこれを意識しているらしい。「手」が見える)。まあ、たいへん、とパミラは動転する。いったいどうすればいいの?しかし、彼女は折れない。B―氏による、それはそれはしつこくいやらしい攻勢をはねかえすのである。攻勢はエスカレートし、彼女は軟禁状態にさえ置かれるが、それでも負けない。そして、紆余曲折の末、彼女はついに勝利をおさめるのである。「勝利」とは……結婚であった。彼女は見事、B―氏に正妻として迎えられるのである。

 それにしても、まあ、何というストーリーだろう。こんなものをいったい誰が読みたいと思うのか?英文学史の授業で、「『パミラ』は最初の近代小説であ~る。最初の小説は書簡体だったのであ~る」などいう触れ込みとともにこのような粗筋を聞かされた学生たちはきっと「ふ~ん。小説って昔はおそろしく退屈なものだったんだね」と目配せし合っただろう。「昔の人に生まれなくてよかったね♪」などと囁きながら。

 たしかに『パミラ』は私たちが知っている小説とはおよそ似ていない。私たちがほっとするような小説的な心地良さはほとんど期待できない。しかし、回路を切り替えてみたらどうだろう。「最初の近代小説」などというよけいな先入観を捨て、小説ではなく、ともかく『パミラ』を読む。そうすると、この作品、たしかに小説らしくはないが、妙なところで「小説」という形式と血が繋がっているのがわかってくる。そして、そこには「ひょっとすると小説がそうであったかもしれない別の顔」が覗いてもいる。私たちの知っている「小説」の背後にもあるかもしれない何か。根源的な言葉のエネルギーのようなものが、そこには宿っているのである。

 『パミラ』では、とにかくみんなよくしゃべる。もちろん筆頭は主人公のパミラである。一回話しはじめたが最後、なかなかマイクを放さない。B―氏とのことで、パミラは頼りにしている召使い監督のジャーヴィスさんにしきりに相談をもちかける。

そこで私はまた訊きました。「あのあずまやでの一件のことをあの方は悔いているとおっしゃいましたね。でも、それがどのくらい長続きしたというのでしょう。私がひとりでいるところを見つけるまでだけのこと、そして今度は前よりもひどくなった、それでまた後悔する。かりに私のことをお好きなのだとしても、そしてそれがあなたのおっしゃるように無理もないことだとしても、また機会があれば、三たび私を苦しめるということになりはしませんか。本で読んだことがあるこのですが、男の人って、はねつけられると恥ずかしがるくせに、うまく行けば恥ずかしく思わないって言うではありませんが。それにね、ジャーヴィスさん、もしかりにあの方が力づくでどうのということをお考えではなかったとしても、だからどうだというのでしょう。私に気を引かれずにはおられないとか、あなたはおっしゃいましたが、そう、確かに愛するなんてありえませんものね!――でも気を引かれるだけということは、結局あの方は、私の同意の上で私の身を滅ぼそうとなさっているということにはなりませんか」そして私は強く言いました。「私は絶対に、いかなることがあっても彼の誘惑に負けてはいけない、と考えているのです」(62-63)
万事この調子なのである。もちろんアクションもある。B―氏がパミラの部屋に潜んでいて、パミラが着替えてベッドに入ったところを襲うなどという場面だってある。まさに危機一髪。中盤から後半にかけてはアンドレ・ザ・ジャイアントみたいな大男も登場。軟禁されたパミラが脱出をこころみて、「パミラ走る!」「大男走る!」などということにもなる。ほとんどどたばたコメディの世界だ。しかし、そうした場面も含めて、ほんとうのところでこの作品を支配するのは、危機と苦難に直面しつづけるパミラの、つねにぴりぴりと緊張しつづける神経そのものである。うわずった神経の声が、読者をひっぱる。

 とにかくよくしゃべる。休みなくしゃべる。書簡体小説には地の文なるものがないから、語り手が出ずっぱりなのは仕方がないとはいえ、このように神経の突っ張ったインフレ気味の語りがつづくと、さすがにこちらもくたびれてくる。山あり谷ありどころか、山の連続である。しかし、このようにこちらをくたびれさせるところにこそ、この作品の一番の真実があるのかもしれない。リチャードソンはたったの二ヶ月でこれを書き上げたというが、それはパミラの体現する種類のエネルギーを彼自身がうちに宿していたということではないのだろうか。

 『パミラ』はよく売れたが、それだけに批判にもさらされた。徳を胸に誘惑をはねつけるパミラの人物像はすでに当時から「偽善的」などと嘲笑されたりした。しかし、実際に読んでみるとわかるが、この800頁にはとにかくパミラ臭があふれていて、とてもではないが徳だの純血だの結婚だのといった骨張った議論に回収されるものではない。しゃべりまくる女たちの語りの力は圧倒的なもので、しかもそれは女が語る女の語りではなく、男が女に語らせる女の語り。つまり、50歳のおじさんの視点から「女の語り」へと没入するリチャードソン臭が混入しているのである。だからこそ、独特の過剰さがつきまとう。

 そんな女の語りを日本語に訳出するのはなかなかたいへんなことだったと思うが、訳者の原田範行氏はどうやら「男が女に語らせる女の語りを男が訳す」というねじれを意識しながら、徹底的に過剰さを表沙汰にする方策をえらんだようである。

十時頃、彼はジュークスさんをよこして、彼のところへ来るようにと言いました。どこへ?と私が尋ねると、案内してあげるよ、と彼女。階段を三、四段下りると、彼の寝室へと向かっているのが分かりました。扉が開いているのだもの。あそこへは行けません!と私が言うと、バカなことを言うんじゃない、さあ、来るんだ、危ない目には遭わせないよ!と彼女。死んでも行きません、と私が言うと、あの人の声がした。こちらへ来るように、来なければもっとひどい目に遭うぞ。もう僕はあの娘に自分で話をするのが耐えられないのだ!――私、絶対にまいりません、うかがうことはできません、そう言って私は上へ上がってクローゼットに籠ってしまいました。力づくで引きずり出されるかもしれない。(298)
 たいへんテンポのいい訳である。こうして本来重苦しくなってもおかしくないこの元祖セクハラ小説は、つねにしゃべりつづけるパミラやその他の女たちのおかげで、「じとっと徳を守る女」のイメージからはおよそかけ離れた、もっと不定形な語りの力を示し続けるのである。私たちの知っている小説特有のメリハリや陰影やその他の技巧は欠いていても、この走り続けようとする語りの力には見覚えがある。こんな形でご先祖さまと出会うなんて、実に楽しいではないか。


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