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2011年11月18日

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎(朝日出版社)

暇と退屈の倫理学 →bookwebで購入

「退屈について教えてあげよう」

 「退屈」はきわめて深遠なテーマである。パスカル、ニーチェ、ショーペンハウエル、キルケゴール、ハイデガー……近代ヨーロッパのおなじみの思想家たちはいずれも「退屈」に深い関心をよせ、あれこれと考察を展開してきた。

 なぜ、こんな地味なテーマに?と思うかもしれないが、「退屈」を遡ると「アンニュイ」や「メランコリー」、「不安」といった同系列の概念を経由して、近代個人主義の根幹にある「私の気分」というたいへんややこしい問題に行きつく。「近代とは何だったのか?」という、これまでさまざまな学問領域で繰り返し立てられてきた問いにきちんと答えるためには、「退屈」の問題を避けて通ることはできないのである。

 日本でも山崎正和『不機嫌の時代』など、「退屈」の周辺を扱う優れた考察がなかったわけではないが、正面切ってこの問題を扱うものはそれほど多くなかった。「白けの時代」はあっても(1970年代は「白け世代の時代」と呼ばれたのです)、退屈の研究者がこぞって退屈をめぐって口角泡を飛ばし侃々諤々するというような、「退屈の花盛り」とでも称すべき時代はいままで訪れたことはなかったし、これからも到来することはないだろう。

 その理由ははっきりしている。「退屈」という語をタイトルに冠した途端、博士論文であろうと、単行本であろうと、シンポジウムであろうと、非常に魅力のないいかにもくすんだ、文字通り退屈な所業に見えてしまうのである。これほど輝きのないテーマはない。たとえば以下のようなタイトルが書店にならんでいる様を想像して欲しい。

『文化と退屈』
『お一人様の退屈』
『退屈の水脈』
『退屈が滅びるとき』
『羊をめぐる退屈』
『燃えよ退屈』

 どの本もいかにもつまらなそうで、とても手に取る気がしないのは明らかである。

 しかし、このような思考実験が示すのはなかなか興味深い事実でもある。退屈とは、潜在的にはたいへん魅力的なテーマなのに、なかなかそこに人の注意を向けるのが難しい事象なのである。とりわけ日本語の「退屈」や英語のboredomという言葉は、フランス語のアンニュイ(ennui)が何となくカッコイイのに比較して、とるに足らない心理として疎まれ、蔑まれ、また無視されてきた。だが、このような扱いづらさそのものが、ひょっとすると「退屈」の本質なのかもしれない。つまり、ちょうどウンチやおしっこについてと同じように「大人というものは、退屈についてやたらと語っちゃあいけませんよ」とでもいうタブーが形成されてきたのではないかという気がするのである。

 そんな状況にあって、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』はたいへん果敢な試みである。タイトルにも堂々と「退屈」という言葉を冠し(さすがに『退屈の倫理学』は避けたようだが)、内容的にもこれ以上ないほど正面から退屈というテーマに切りこんでいる。そして、何より重要なのは、これが明らかに啓蒙書として書かれているということである。そこがまさにこの本の新しさではないかと思う。

 すでに近代の哲学者たちは頻繁に退屈について論じてきたが、それらの多くは思弁や分析の形をとってきた。つまり、独り言すれすれの、それこそ〝つぶやき〟のようなスタイルで静かに語られるのが退屈だったのである。本書の中心部はハイデガーの退屈論の紹介に費やされているのだが、國分の解説を通して浮かび上がるハイデガーは、大きな声で聴衆に呼びかける演説者であるよりも、辛抱強く、孤独に、自分の心理の襞をめくりつづけようとする思索者なのである。

 これはある意味では仕方のないことだ。退屈という心理は、愛や喜びや怒りとはちがって、対象に向かうわかりやすいベクトルが見えるものではない。むしろそれは心に生ずる凹みやくぼみなのであり、欠乏や不在や不可視としてしか語られえない。だから、ハイデガーの得意とするいわば「一時停止」の心理学を用いて、シーンと静まりかえった書斎で、まるで顕微鏡によって心の動きを検分するような精緻さとともに語られるのに適してはいても、威勢のいい大きな声でわかりやすく話題にするのは難しい。

 しかし、著者の國分はそのようなブルジョア的な思弁性で「退屈」を語ることを拒絶したのである。退屈論者にしばしばつきまとうエリート意識と縁を切り、「俺」を主語にしたべらんめえ調のダイナミックな文体で退屈に切りこむ。

俺はこの本を書きながら、これまで出会ってきた、いや、すれ違ってきた多くの人たちのことを思い起こしていた。俺が彼らのことをこんなにも鮮明に記憶しているのは、間違いなく、自分は彼らにどこか似ていると思ったからだ。(12)
 この一節に明確にあらわれているのは、國分が「私の退屈」を語ることに終始しまいとしていることだ。俎上に載せられるのは、「みんなの退屈」なのである。「みんな~したらどうだ?」というメッセージとともに、〝実践〟が目指されている。

 國分の議論のひとつの出発点となるのは、第二章で紹介される「定住革命」である。人間は元々定住志向ではない、絶えざる「遊動」にこそ向いている、という西田正規の説によりながら、定住せざるを得なくなることで人類は退屈を抱え込んだのだと國分は言う。そこには無理がある、と。この無理を打開するために、今のゆがんだ消費文化が形成されたのだということで、話は経済の話に進んでいく。

 啓蒙を意識しているだけあって、議論は明晰である。「俺」を主語にした突っ張った冒頭部を引き継ぐようにして、本論でも明快な断言が力強く牽引し、有名哲学者、有名経済学者に対してもべらんめえ調の批判が投げかけられる。読者の中には、そうしたパフォーマンスめいた演出に反感を覚える人もいるかもしれないが――そして、たしかにやや性急と見える断言がないでもないかもしれないが――「退屈語り」というきわめてブルジョア的な圏域を、やや強引なまでの手法で開かれたものにし、この地味でくすんだテーマを、街行く大学生が気軽に話題にしうるようなものとして引き立てようとするその心意気には喝采を送りたい。哲学入門として読めるところもいい。

 本書の芯をなすハイデガーの退屈論についての考察の中に、環世界という概念が出てくる。動物にはそれぞれ固有の知覚の方法があって、その動物固有の空間や時間をつくっているという考え方である。動物は自分をとりまくこの環世界に完全にとらわれている。しかし、人間はちがう。なぜなら、人間はひとつの環世界から別の環世界に移ることができるから。これは別の言い方をすると、人間がどの環世界にも属さずにいられるということである。この無所属の実感が、退屈のひとつの起源をなす。と同時に無所属となることが可能だからこそ、人間は考えることができる。哲学することができる。退屈とは、哲学するという行為のきわめて本質的な部分に食いこんだ何かなのだ。

 本書は啓蒙書として、またメッセージの書として書かれているだけに、かなり明確な結論を用意している。浪費せよ、消費するな、というのだ。それだけ聞くと「???」なテーゼかもしれないが、通して読むとストレートすぎるほどストレートな議論であることが見えてくる。ただ、本書は結論を求めて読むたぐいの本ではない。おそらく結論を期待して読む人はむしろ期待はずれに終わると思う。大事なのは、こんなに大きな声で「退屈」が語られたということなのである。実践の書という体裁をとっているとはいえ、3月以来、「それどころじゃない」という雰囲気が支配してきた世の中に、およそ浮世離れした(と見えるが実はそうでもない)この退屈というテーマをぶつけてきたところを買いたいと思うのである。


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2011年11月09日

『数学的思考の技術 ― 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(KKベストセラーズ)

数学的思考の技術 ― 不確実な世界を見通すヒント →bookwebで購入

「村上春樹と数学入門」

 書店の新書コーナーには昔から「あんたでも数学がわかるかも?」的ジャンルがある。はて。それほどみんなが数学をわかる必要があるのだろうか。この間、「日本人の9割は英語がいらん!」というような本が出ていたが、そういうことを言うなら、9割9分の日本人には(たとえ算数は必要であっても)数学は不要なのではないか。にもかかわらずこのようなジャンルが存在するのは、おそらく「数学できないコンプレクス」を刺激されると、つい手が伸びてしまう人がいるからにちがいない。

 実は筆者もそのひとりである。「あんたでも数学がわかるかもよ?」と言われると、つい手が伸びるのだ。でも、たいがいは手は伸びても数頁めくっただけで、「やっぱり無理かも」とあえなく本を閉じる。ところが本書はその話の進め方の魅力に引き込まれて、珍しく通読してしまった。しかも、終わり近くになって、びっくりするような展開があって、いつになく有意義な「数学体験」となった。

 タイトルの通り、この本は「数学」そのものよりも「数学的思考」に重点が置かれている。思わず学校の数学を頭に浮べた人は、心配無用である。冒頭で話題になるのは、「相手の手のうちをきちんと読むこと」の意味。筆者のような凡人はここで、「ああ、そういえばあのひとは必ず計算したうえで行動するよなあ~。なんか、やな感じなんだよね~」といった感慨にふけるわけだが、そこで著者は機先を制してこちらの懐に飛び込んでくる。

……「相手の手のうちを読む」練習を積めば、世の中の見え方が変わってきて、世界の成り立ちはがぜん面白くなる。さらには、人の厳しさや優しさを的確に捉えることができるようになり、他人とうまく協調する道を見つけることができるだろう。「戦略」というと「ずる賢い」というイメージがあるかもしれないが、本質はそうではない。ものごとを「戦略的」に理解することは、人の真意を正確に把握したうえで、自分の本当の気持ちを的確に伝えることにつながるのである。(16)
そう言われればそうかもしれない。でも、それが「数学的思考」と結びつくというのはちょっと予想外。というわけで、この辺りから本書の何とも言えない行き先不明感が強まってくるのだが、それはむしろ魅力的な「暗闇」となってやがては本書の最終章の展開へとつながるのである。

 本書の前半でとりあげられるのは、それほど突飛な話題ではない。給料の決まり方、借金のふくらみ方、共同購入のメカニズム、年金のレトリックなど、お金にかかわることでもあり、それらが数学に縁があるのは驚くべきことではない。著者は身近な話題を素材にしつつ、私たちの直感的な現実認識に潜む誤りを、ごく簡単な数式をベースにした喩え話で説明する。その手際はきわめてあざやかで、思わず「ああ、そうか」と納得する。

 しかし、より興味深いのは、そうした説明の過程で著者が持ち出す概念である。それらははじめは、当たり前のような事柄をわざわざ難しげに言っているだけと聞こえるかもしれないが(しばしば「科学」の陥る陥穽!)、AさんとBさんとCさんくらいしか登場しないようなシンプルな喩え話を通して、そうした概念を立てることの意味が少しずつ見えてくる。

 いくつかあげてみよう。
「私的情報」――誰もが幸せになるはずの共同購入がなかなか成功しないのは、人が自分の欲求を正直に申告しないという法則があるから。だから、ホンネ、すなわち「私的情報」を得るにはコストがかかるという発想が必要になってくる。
「時間不整合性」――実行する前になると、心に決めていたことができなくなる人がいる。これは時間の経過に対してその人が付与する意味が変わるから。「5年後にもらえる15万円」の価値が、時間の経過に伴って変化するのである。こういう人は借金がふくらむ!
「主観確率」――人は客観的なデータに基づいた「客観確率」を、自分の心の中で勝手なニュアンスを加えた「主観確率」にすり替える。たとえば「五年後の生存率は70パーセントです」というデータを提示された患者が、それを「死刑宣告」と受け取ってしまうことがある……などなど。

 そうした中でも筆者がとりわけ興味を持ったのは「摩擦」とか「サーチ理論」といった用語である。前者は財産を現金化するのにかかる手間や時間のことを指す概念であり、後者は経済活動を行うにあたって人や企業が必要な情報を得るためのコストを計算にいれた理論のことである。こうした着眼は経済活動のいわばノイズにあたる領域を対象にしているのだが、実際には人間の心理はノイズにこそ左右されやすい。経済活動がどこかで正体不明の心理に根ざしている以上、こうしたノイズを語ることができなければ適切な理論を打ち立てることはできないということである。

 こうした流れから何となく想像できるように、本書は次第に「お金」の話から離れていく。環境と経済の相性の悪さ、ベーシック・インカムの是非、理想の都市づくりといった方向に話が展開する中で比重は「お金」よりも「心理」に置かれるようになる。そして貨幣と言語の密接な関係についての考察を足がかりに、筆者にも馴染みのある領域に焦点が移る。「物語」である。

 人は心に描いた「物語」を元に行動する――これは今さら経済学者に言われなくても、わかることだ。しかし、本書がおもしろいのは、ここでいきなり村上春樹に話が飛ぶことである。そういえば本の帯に「本書はこんな人に向いています」というリストがあって、「物事に対する戦略の立て方がわらかない」とか「給料にも年金にも期待が持てず不安だ」といった項目とならんで、ひょっこり「村上春樹の小説が売れているらしいけど、本当はよくわからない」とあったのをうっすら思い出す。三部構成をとる本書の第3部は「『物語』について、数学的思考をしよう」と題されているのだが、その中心となるのは何と村上春樹論なのである。

 小島の村上春樹論のポイントになるのは、「村上の奥底に『ある種の数学的思考』が存在する」という指摘である。村上春樹論はすでに数多く書かれており、「村上春樹における数のシンボリズム」的な話題はいかにもありそうなものだが、本書の「数学的思考」というのはそのようなことではない。鍵となるのはトポロジーという概念である。この用語も文学研究で最近頻繁に用いられるが、そのほとんどは数学的な意味でのトポロジーとは無縁である。

 筆者がトポロジーという概念を元に導き出すのは、村上春樹の『1Q84』には、数学者が発見した摩訶不思議な空間、すなわち「地続きだが普通の道をたどることでは行き着けない場所がある空間」が描かれているということである。数学のトポロジー概念についての本書の説明は正直言うとやや急ぎ足すぎて素人にはわかりにくいのだが(213~216あたり)、それでも村上春樹についての議論は説得力があった。村上は「隔たり」と「連なり」をもとに新奇な空間を創り出そうとしたというのが著者の解釈なのである。

 その他、村上の「数学的思考」の証拠としてあげられるのは以下のようなものである。①幾何学に基づいた物事の把握(多くの数学者は、たとえ関数を話題にするときにもほぼ間違いなく図形的に思考しているそうだ!)、②論理文風の厳密さの表現、とくに論理展開における「しかるに」の活用(著者の言い方を借りるなら、論理とは命題から出発しつつも、その展開の可能性に重点をおいた一種の「ソフトウエア」なのである)、そして③暗闇への感受性(幾何学はほんとうは目に見えない世界こそを扱うらしい!)といったものである。

 どれもたいへん説得力があるポイントなのだが、実は、本書の終盤で思いがけず村上春樹の名前が出た瞬間に、筆者は「あ、そうだ!」と思ったのである。つまり、説明される前に「イエス」と言ってしまった。それはこの本が実に村上春樹的に書かれていたからなのである。本格的な村上春樹論がはじまる前に、すでに私たちはこの一見数学入門の体裁をとった本に隠匿されていた、村上春樹的なものに向けて導かれていたということだ。何ということだろう。本書自体が村上春樹を演技していたのである。

 そういえば、この本は論理的である一方で、その論理臭を非常に意識的に演出してもいる。小島寛之という著者は、村上春樹の「しかるに」の作用について説明するが、彼自身が「しかるに」の効力を存分に活用してもいるのである。きわめて日常的な話題の中に「仮に~としよう」「すると~となる」「しかし、~なのだ」「このように~というわけである」と論理の道筋を示す標識がリズミカルに挿入されているために、たいへん読み心地がいい。また、2~5の数字をやや魔術的に使った喩え話もいかにも村上的だし、そこに出てくるAさんやBさんやCさんの独特の体臭のなさは、何だか村上春樹の作品に出てくる登場人物に似ている。極めつけは、村上春樹論のただ中に出てくる「女の子」のエピソードである(220)。その一節はこんなふうにはじまる。

ぼくが村上春樹の小説と巡りあったのは、忘れもしない1982年。『羊をめぐる冒険』が発表された年だった。大学の同級生のアパートで、部屋の主であるその同級生の帰りを待っていた。どうして主がいないのか、そして、どうして面識のないその女の子がいっしょにいたのか、もうすっかり忘れてしまったけれど……(以下略)(220)
 すでにこの出だしからしていかにも村上的なのはおわかりかと思う。どういうわけか部屋にいるこの見知らぬ「女の子」と著者はキスこそしないのだが、「村上春樹の新作は読んだ?」「読んでない」「あたし、読み終わって一晩中泣いてしまったのよ」などという会話をかわす。そしてこの「女の子」の発言が妙に気になってしまい、これをきっかけに村上春樹の作品を読み進めることになったという。この展開、まるで村上春樹小説のパロディではないだろうか。

 というわけで、本書にはウロボロスというのか、ミイラ取りがミイラになるというのか、著者自身が村上的なナラティヴに吸収されていくような側面があって、そこもまた読みどころとなっている。通常の数学入門とはちがい、村上的な迷宮とともに最終的には数学の「闇」こそが提示されるのである。一見安心感につつまれているようでいて、さまざまなレベルで発見や驚きを与えてくれる物語的な快楽に満ちた一冊であった。



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