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2011年08月16日

『対訳 イェイツ詩集』高松雄一編(岩波書店)

対訳 イェイツ詩集 →bookwebで購入

「〝老い〟という解放」

 英語の詩を読みたい。ひとりだけ選ぶなら、どの詩人がよろしいか?
 ときにこんな質問をもらう。しかし、「ひとりだけ」というのはなかなか難しい。英詩人は個性派揃いなので、できれば軟派から硬派、閑寂から疾風怒濤、変態系からまじめ派まで合わせて読んでもらうのが一番である。でも、とてもそんなヒマはないというなら、では、誰から始めるべきでしょう。

 そんなときに筆者が勧めるのはまずはシェイクスピアの『ソネット集』である。何しろエリザベス朝の詩人だから英語の使い方は古めかしいし、初心者にはやや変態度も強すぎるかもしれないが、とにかく言葉の甘さが圧倒的なのだ。頭がくらくらするほどで、読むだけで虫歯になりそうな気がする。訳や注釈がいろいろ出ているのも助けになるし、これだけ読んでおけば、まあ、「英詩をかじりました」くらいのことは言えるだろう。

 ただ、実は人によっては初体験はこちらの方がお気に召すのではという詩人がいる。アイルランドの詩人W・B・イエイツである。イエイツは若い頃は〝うっとりなめらか系〟の詩人だった。朝だか夜だかわからない黄昏の空気が世界を覆い、うつらうつらとしているうちに、妖精が出てきたり、蜂がぶんぶん飛び出したり。ああ、哀しい、ああ、切ない、ああ、心地良い、と思わせてくれる詩を書いていた。日本でも昔から人気があるのは、この時期のイェイツ作品である。

 しかし、イェイツがもっとおもしろくなるのは、中期、そして後期である。〝うっとりなめらか系〟の詩人が、中年期になるとだんだんイライラしてくるのである。このイライラには焦燥感やら冷笑やら怒りやら自己嫌悪やらいろんな感情が混入していて、おかげでイェイツが元々得意としていた哀切感や甘さの表現にぐっとコクが増してくるのである。とりわけ大事なのは〝老い〟の自覚である。たとえば「釣師」という作品は、幻の釣師のために詩を書こうという宣言とともに終わる詩で、そういう意味では英詩人によく見られる「所信表明の詩」となっているのだが、そこには「老いぼれるまえ」にという焦りが入っている。

そうして私は叫んだ、「老いぼれるまえ、
この男のために一篇の詩を書こう、
おそらくは夜明けのように冷たくて
情熱にあふれる詩を書こう」と。

……
And cried, 'Before I am old
I shall have written him one
Poem maybe as cold
And passionate as the dawn.'(124-127)


 だから詩も、老いつつある中年男ならではの独特の感情を孕んでいる。'as cold/ And passionate as the dawn'(「夜明けのように冷たくて/情熱にあふれる」)というのは、まさにこの時期のイェイツを象徴する表現なのである。冷たいけれど熱烈で、冷笑と興奮との狭間にあって、怒っているんだか喜んでいるんだかわからない、泣いているのか笑っているのかわからない、そういう詩が書かれるようになる。

 おそらく背景にあるのは、イェイツにとっての永遠の女モード・ゴン(Maud Gonne)との関係の変化である。イェイツは写真で見るとなかなか男前だが、モード・ゴンという女性も相当な美人だった(http://www.websters-online-dictionary.org/definitions/Maud+Gonne?cx=partner-pub-0939450753529744%3Av0qd01-tdlq&cof=FORID%3A9&ie=UTF-8&q=Maud+Gonne&sa=Search#922など参照)。イェイツはこのモードにゾッコンになり、永遠の美女として何度も詩に登場させている。ところがモードの方はイェイツをまったく相手にせず、三度のプロポーズを断ったあげく革命家と結婚してしまった。ふたりがあっという間に離婚したのを見て、イェイツはさっそくモードに再求婚したのだが、またまた「ノー」の返事。ついにイェイツはモードの娘にまでプロポーズするが、これもうまくいかなかった。

 しかし、モードに言わせれば、「あたしが拒絶しているおかげであなたは詩を書けるんじゃないの」ということなのである。たしかにそうかもしれない。モードにふられつづけたイェイツは50歳過ぎまで独身で通すが、この「ふられ男のパワー」のようなものがイェイツの詩の原点にはある。革命運動に入れあげたモードは美人は美人だが「あたし、ぐちゃぐちゃ物事を考えるの好きじゃないのよ」などと言う人でもあり、イェイツとは性格が正反対。拒絶することでこそ、イェイツの詩作に貢献したのだとも言える。

 そんなモードとの長いかかわりをへて中年期のイェイツは「イライラ」を発見するわけだが、それは恋愛感情の摩耗ともかかわっていた。イェイツは「モードにふられても前ほどがっかりしない自分」に愕然とするのである。'The Wild Swans at Coole'(「クールの野生の白鳥」)などは、かつてモードにふられて湖の畔でしんみり白鳥を数えたけれど途中でみんな飛んでいってしまった、その同じ場所で、19年をへてまたまた白鳥を数えるという詩なのだが、近眼のはずのイェイツが今回は59羽ぜんぶ数えきってしまったなどというほとんど嘘っぽい設定にもかかわらず、その執念深さのメランコリーが実に味わい深い。対象の喪失よりも、喪失を喪失と感じなくなっていく自分にイェイツは敏感になっていくのである。

 恋愛から自由になった人はしぶとい。不思議なことに、イェイツは年をとればとるほど生命力を増したのである。表向きはしきりに精力の減退を嘆いているが、言葉そのものは若さから解放されてむしろ生き生きとしている。後期イェイツの代表作に「小学生たちのなかで」('Among School Children')という拍子抜けするようなタイトルの作品があって、内容としては、まあ、「詩人はみずからの人生や肉体を犠牲にして、美を生み出すべきなのか否か」というイェイツならではのテーマを中心に据えているのだが、いちいちの連でぎゅっとつまった思弁が繰り広げられていることもあり、なかなかさらっとさわやかに読めるものではない。ところが先に進むにつれ、そのぎゅっとつまった怨念のようなものが段々と煮詰まり、最後は怒りとも悲しみとも喜びともつかない高揚感とともに、ほとんど爆発せんばかりの力が発散されるのである。

魂を喜ばせるために肉体が傷つくのではなく、
おのれに対する絶望から美が生まれるのではなく、
真夜中の灯油からかすみ目の智慧(ちえ)が生れるのでもない、
そんな場所で、労働は花ひらき踊るのだ。
おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお、輝く眼ざしよ、
どうして踊り手と踊りを分つことができようか。

Labour is blossoming or dancing where
The body is not bruised to pleasure soul,
Nor beauty born out of its own despair,
Nor blear-eyed wisdom out of midnight oil.
O chestnut-tree, great rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance? (240-241)


'O'とともに呼びかけの入る最後の四行など、英詩ならではの〝泣き〟というか、小節を感じさせるが、そこで語られるのは単なる哀切感や甘い酔いではない。「踊り手と踊りを分つことができようか」の一節は、詩人は単なる職人であっていいのか?自分の人生を生きなくていいのか?との強烈な問いを悔恨と絶望と昂揚とともに突きつけてきてたいへん力強い。まさにcold and passionateとでも呼びたくなる、節くれ立った興奮なのである。

 そんな節くれ立った生命力が最後の輝きを見せるのは、この詩選集でももっとも後の方に収録されている、詩人最晩年の作品「サーカスの動物たちは逃げた」('The Circus Animals' Desertion')だろう。もう自分には詩は書けない、自分のまわりにはかつて詩の中に登場させたものたちががらくたとなって散らばっている、という詩である。そのかつての登場人物たちに取り囲まれた詩人がいよいよ地面に横たわるという最終連はとりわけ感動的だ。

完璧だからこそ横柄なこれらの幻像は
純粋な精神のなかで育った。だが、もともとそれは
何であったか? 屑物(くずもの)の山、街路の塵芥(ちりあくた)、
古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、
古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて
喚(わめ)き立てるあの売女。私の梯子(はしご)が消えた今は
あらゆる梯子が始まる場所に、心という
穢(けが)らわしい屑屋の店先に寝そべるほかはない。

Those masterful images because complete
Grew in pure mind, but out of what began?
A mound of refuse or the sweepings of a street,
Old kettles, old bottles, and a broken can,
Old iron, old bones, old rags, that raving slut
Who keeps the till. Now that my ladder's gone,
I must lie down where all the ladders start,
In the foul rag-and-bone shop of the heart.(312-313)


 この最後の連のぐしゃぐしゃぶりはどうだろう。とくに'Old kettles, old bottles, and a broken can,/Old iron, old bones, old rags, that raving slut/ Who keeps the till.'(古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて/喚(わめ)き立てるあの売女。)というところなど、かたかたと乾いた音が聞こえてくるかのようだ。無機質で死を予感させる音なのだが、やけに元気でもある。お祭りのようでさえある。干涸らび、枯渇し、もう何もないかもしれないというのに、それをお祝いしている。絶望しながらも喜んでいる。まさにイェイツの老人的生命力の極みではないかと思う。

『イェイツ詩集』中林孝雄・中林良雄訳(松柏社 1990)、『W・B・イェイツ詩集』鈴木弘訳(北星堂 1992)、『イエイツ詩選』尾島庄太郎訳(北星堂 1997)、『イエイツ詩集』加島祥造編訳(思潮社 1997)など、近年も新訳の出続けているイェイツは、当分「気になる英詩人リスト」の上位を占め続けることになりそうだ。


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2011年08月02日

『樹液そして果実』丸谷才一(集英社)

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「殺し文句でする批評」

 このところ批評集成の刊行が相次いでいる丸谷才一。7月に出た最新刊がこの『樹液そして果実』である。

 作家や作品の名前が止めどなく出てくる丸谷才一の批評文はメニューの豊富なレストランみたいで、どんどん注文してどんどん食べるという、宴のような祝祭性が楽しいのだが、そんな贅沢をほんとうに生かしているのは、「こんなふうにして食べるとうまいんだぜ」と差し挟まれる一言でもある。

 たとえば食卓に運ばれてきたのが吉行淳之介『暗室』だとする。今時、吉行淳之介なんて、若い人は手に取らないのだろうな、せいぜい『男流文学論』であの3人衆にけちょんけちょんにやっつけられているのを読んだくらいだろうな、なんて思ったりするわけだが、丸谷才一は意外なところに切り口を見つけてくる。曰く、『暗室』を読むと、実在の人物が思い浮かぶ。ただその人物の出し方が実に中途半端で、実名を伏せたり明かしたりして「不統一」である。この「不統一」は「作者の面倒くさがりのあらはれだらう」という話になってくる。

ロマ・ナ・クレじみた技法は、私小説ないしその亜流といふよりもむしろ、作者の面倒くさがりのあらはれだらうと思ふ。彼は多年の精励ののち、かういふなげやりな方法を工夫したのだ。部分的には平気で手を抜いて、白描のままでかまはないところは別に絵具など塗らず、小道具その他は気楽にあり物で間に合せ、しかし本当に大事なところでは存分に力を盡すといふ不思議な小説作法。(382)
 そんな「不思議な小説作法」をキザだと言う人もいるかもしれない。吉行淳之介に拒絶反応を示すのはそういう人かもしれない。しかし、丸谷は機先を制するように言う。
しかし『暗室』の最大の美点は、なげやりと評してもいい書き方で人生について語りながら、そして「ついでに生きている」生き方に多大の興味を示しながら、しかし人生を単純に否定しようとしてゐないことである。古風な虚無感とはずいぶん距離のある、屈曲に富んだ、含みの多い態度で、中田は人生に対応しようとしてゐる。(382)
「古風な虚無感」などとあると、「君、そうじゃないよ」と言われている気になる。丸谷は作家のナルシシスムには厳しい目を光らせる。違う、というのである。もっと「成熟した、ゆつたりとしたものの見方をわたしは吉行さんの描く小説家に感じる」と。そしてそこで、他の評者には決してまねのできないやり方で最後の殺し文句がつづくのである。この一節でむしろ吉行が救われているところがおもしろい。
独創的とは言つたけれど、心に浮ぶ先行作品が一つある。『伊勢物語』である。断章が無造作にはふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもあるあの趣は、『暗室』にどこか似てゐる。そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだらう。もつとも、影響などと言ふつもりはない。第一、『伊勢物語』など読んだことがなからう。ここで一言、そつとつぶやくことにするが、まともな本をあんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である。(385)
 いやいや、という締めの言葉だ。丸谷才一の批評の〝芸〟はこの最後の一節に集約されていると思える。書き出してみると、

①現代と古典とを結ぶ自在な文学史観。
本書の「王朝和歌とモダニズム」では、助詞の「ノ」の使い方を鍵にして『新古今』とマラルメ、ジョイス、ウルフなどが結びつけられる。

②作家の執筆過程や背景に踏みこむときの、ヒョイというような軽み。
「第一、『伊勢物語』など読んだことがなからう」という憶測は、がちがちの伝記主義とはほど遠く、むしろ作品へのアプローチを柔軟にするための迂回路となっている。本書の「批評家としての谷崎松子」という文章は谷崎夫人とのやり取りからはじまっていてびっくりするのだが、それが「谷崎の文体変化は何が原因か?」というなかなか実証の難しいトピックを上手にほぐすための入り口となっている。丸谷は谷崎作品からの引用を見事につなぎながら、松子夫人のラブレターが谷崎に与えた影響の痕跡を読みとってみせるのである。本書では他にも、折口信夫を扱った文章などで興味深い探偵ぶりが発揮されている。

③がくっと脱線。「ここで一言、そつとつぶやくことにするが」と、わきに飛び退くようにして語りに〝ひねり〟を加えるのである。まさに〝芸〟と呼ぶにふさわしい忍者のような身のこなしが丸谷の批評に厚みを加えている。

②については丸谷がもはや文学史上の作家となってしまった人物たちと実際に知り合っていたということもあり(だから「吉行さん」なのだ)、そのへんは羨んだり真似しようとしたりしても仕方ないのだが、顔見知りではなさそうなのにまるで顔見知りのように語られるジョイスのような作家もいるということを考え合わせると、きっとそれが丸谷流なのである。

 本書はテーマごとに「I.ジョイス」「Ⅱ. 古典」「Ⅲ. 近代」「Ⅳ. 藝術」と分けてある。このアンバランスぶりもなかなかおもしろいが、おそらくそれは本書の談論風の文体ともあいまって(実際の講演を元にしたものもいくつかある)、間口の広さと縦横に話題の展開する自在さとを反映している。もちろんどこから読んでもいい本だが、筆者のお薦めは第三部。どの文章も「この料理はこんなふうにして食べるとおいしいよ」という示唆に富んでいて、食欲が増してくる。「文芸評論家」の中には、論ずることにしか興味がなくて、強面で「えい、えい、えい、」と断定していくばかり、肝心の作品はどうでもいいという人もいるが、丸谷のように作品をおもしろがる方法を知っている評者の文章は、ひいては書き手を育てるだろう。それにしても「あんなにすこししか読まなくてしかもあんなに知的な人がゐるといふのは、わたしには信じがたい話である」なんていつか言えたらいいなと思ったりするが、でも、下手に口にしたら首を絞められそうな言葉でもある。用心、用心……。


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