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2011年02月21日

『大学生の論文執筆法』石原千秋(筑摩書房)

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「論文執筆のホンネとタテマエ」

 論文の書き方を教えるのは難しい。「大人」の批評家や研究者だって、自分がどうやって論文や批評を書いているのかわからないことがあるだろう。というか、そもそも「よくわからないけど書けてしまった」という部分のない文章というのは、あまりおもしろくないのである。

 それから、これは少なくとも筆者の場合にはときにあるのだが、論じているうちに「いったい何のためにこんなことを書いているのだろう?」という気分になってくることがある。調子の悪いときである。文章が議論のための議論になっていて、抽象概念がやたらと多く、数学の演算のようにとりあえず概念のツジツマは合っているのだけれど、何というのか、話に迫真性がない。書いていても自分でおもしろがっていないのがありあり。そういうときは、ボツにするしかない。

『論文執筆法』と題された本でも、そこまでは面倒見きれないだろう。ただ、本書には論文を書くことの根本的な難しさのようなものに肉薄したと思わせる箇所がいくつかある。学生に対する雑談まじりの軽快な授業というニュアンスをこえて、こちらもちょっと考えてみたくなる。これは石原千秋という人の、おそらく意図的なのだろう、ややガードの緩い文章の書き方とも関係していると思う。筆者はその辺に興味を持った。

『大学生の論文執筆法』は構成としては大きく二部にわかれている。第一部は「秘伝 人生論的論文執筆法」と題され、「大学で勉強するとはどういうことか」というトーンで、「レポートにはタイトルをつけなさい」「右上をとじなさい」といった初歩的なことを含めて具体的な指示がある。第二部の題は「線を引くこと」。佐伯啓思、上野千鶴子、前田愛といった論者の文章を引き合いに出し、ときにいかにも石原的な〝突っつき〟をいれながら、評論文の議論の組み立ての妙を説明している。「線を引く」というのは、ここでは二項対立の操作というような意味と考えればいい。

 こうしてみると、後半の方がはるかに知的で、本格的で、実践的と思えるかもしれない。しかし、本書の読み所はむしろ前半、とくに出だしから四分の一あたりに集中していると筆者は思う。たとえば「レポートの作法」というセクションの冒頭部には次のような一節がある。

僕は意地悪だから、大学一年生に何も言わずにとにかく五枚のレポートを書かせてみる。たいていものすごいことが起きる。要するに、自分のレポートが読まれるという単純な事実にまったく気づいていないらしいのだ。つまり、教師も自分と同じ人間だということに気づいていないらしいのだ。学生にとって教師は透明人間なのか?たぶんそうなのだろう。そこで、教師は「人間宣言」を行わなければならなくなる。そう、教師もまた好みを持った「一読者」であることを学生に理解させるのだ。(25)

 この「人間宣言」の部分はよく考えてみるとなかなか奥が深い。教師が「一読者」であることの確認には、たしかに「レポートはちゃんと読める形で出してね」というメッセージがこめられているが、同時に、そもそも論ずるとはどういうことか?というなかなか微妙な問いにもつながってくる。論ずるとは、いったい誰に向けて、どういう〝つもり〟で行われるものだろう。

 論文にしてもレポートにしても、この〝つもり〟の問題に答えるのがとても難しいのだ。いみじくもこのセクションには「レポートの作法」というタイトルがつけられているが、「作法」というからにはそこには〝ホンネ〟と〝タテマエ〟がからんでくる。もちろん〝タテマエ〟がウソに過ぎないとか、虚構だとかそういう単純な話ではない。一般の「作法」と同じように、レポートにしても論文にしても、ある一定の〝タテマエ〟を演出として組みこむことではじめて命が吹きこまれる。しかし、〝タテマエ〟はやはり〝タテマエ〟にすぎない。どこかの時点で「これは所詮タテマエですから」と捨てられないまでも諦められねばならないものである。

 具体的に言うと、たとえば「夏目漱石の『道草』をねちねち読む」という授業があったとしよう。学期末レポートとして先生の出した課題は「とにかく『道草』について何でもいいから論ぜよ」だとする。そこである学生が「『道草』と胃病」というテーマをとりあげようと考える。『道草』の中で胃と関係しそうな部分を読みこみ、食べ物のイメージとか、主人公の胃の調子とかについて何か言おうとする。いろいろ考えているうちに、「そういえば道草というのは〝食う〟ものだな」というような、あまり役に立ちそうにない思いつきにも至るかもしれない。

 学部レベルのレポートとしてはなかなか野心的である。かなりの難題だ。ついに学生は『道草』だけで「夏目漱石と胃病」を論じるのは無理だ!とあきらめそうになる。しかし――そしてここからがおもしろいところなのだが――この学生はどうしても「胃病」のことが頭から離れなくなってしまう。どうしても胃について何か言いたくなってしまった。テクストには証拠がないし、自分が何を言いたいかだってよくわからないのに、でもそのよくわからない「何か」を言いたいのである。とにかく漱石の胃じゃなきゃならないのだ!(と彼は心の中で叫ぶ)

 もちろん〝タテマエ〟から言えば、これは×である。「よくわかりませんが、自分は何だか漱石の胃に興味を持ってしまったので、何を言うことになるかは皆目わかりませんが、あとは野となれ山となれ、とりあえず出たとこ勝負の運まかせで書きます」と始めたら、人間石原千秋は顔を真っ赤にして怒ることだろう。筆者だって、血圧は低いから顔は真っ赤にはならないかもしれないが、思わず吹き出してしまうかもしれない。

 しかし、論文というのは実際にはそのようにして着想されたりするものなのだ。「よくわからないけど、ここを掘ると何かが出てくるような気がする」と犬のように地面を掘ってみる。とにかく掘るのである。そうするとほんとに何かが出てくることがあるのだ。不思議なものである。まるで自分で埋めておいたのじゃないかというような、ちょうど好都合のものが、地面/字面の中からニョキッと出てくる。それで後からもっともらしく「漱石という人の作品を考えるにあたっては、執筆リズムと体調とを関係づけることが重要である。とりわけ食べることは漱石にとって非常に……」とか何とか、〝タテマエ〟を組み立てていくわけである。

 逆に言えば、〝タテマエ〟や作法のことしか頭にない論文というのはロクなものではない。もちろん〝タテマエ〟も作法もない論文というのは、それ以上にロクなものではない。石原の言うように、教師というひとりの〝人間〟を相手にすることから出発するのは必須だ。しかし、そのうえで、そのひとりの教師のご機嫌をとったりおもしろがらせたりすることを遙かに超えて、書き手の妙なエネルギーをドバッと出してしまうレポートなり論文なりが、いいものなのである。

 こんなことを考えさせてくれる土壌がこの本にはある。そこで大事なのはおそらく石原自身のメッセージが、歯切れ良く潔く堂々と手の内をあかしているだけに、場合によっては反論可能なものともなっているということである。たとえば、論というものはとにかく具体的な提案がなければならないと石原は強調する。俎上にあげられるのは、佐和隆光によるつぎのような一節である。

日本型システムが復権することは、まずありえない。アメリカ型システムが最適であり続ける保証もまたない。二十一世紀の最初の十年に起こる『変化』を先取りし、それへの迅速な「適応」を積み重ねることにより、革新的なシステムを構築することが、次の政権に託された課題なのである。

これに対し石原は言う。

「絶対になかったとは言い切れまい」とかなんとか。当たり前じゃん、そんなこと。ここにあるのは「事実」ではなく、単なるレトリックである。そんなレトリックが論文の根拠になるはずがないではないか。(64)

さらに。

肝心なのは、その「革新的なシステム」の具体的な中身である。しかし、この文章はその肝心な点に関して一言の言及もなされていない。何のためにこの文章は書かれたのだろうか。ただ、「こちらはこういう利点があるがこういう欠点もあって」という具合に、現状をまとめただけではないだろうか。これが「秀才さんの作文」の典型だ。(65)

佐和に対する石原の批判は必ずしも息の根をとめるような容赦のないものではない。反論が可能なのだ。そもそも「レトリック」というのはそんなに悪いものか。「AはBである」という明晰な論理のかわりに、「レトリック」を使って「AはBでもCでもあるが、BでもCでもない」というような回り道をすることだってある。そうすることでやっと伝わることがあるのだ。文学作品というのはまさにそういうことの行われる場だろう。ただ、そうした「正しい議論」に拠っていてはなかなか言えないこともある。ここで石原がやろうとしているのは、論説文特有の紋切り型の、その臭みに矛先を向けることなのだ。論文の〝タテマエ〟の部分を曝いてしまいたいのである。

 さらに石原は、高校生の段階で妙に文体らしきものを身につけてしまった学生が大学に入るとかえって伸びない、という話を続ける。ふむふむと筆者も思った。たしかにそういうことはある。評論家でも高校生でも同じである。論文の〝タテマエ〟を習得してそこに安住するようになると、文章のほんとうの痛みのようなものが捕まえられなくなる。なるほど、こんなふうに〝タテマエ〟のインチキさを白日の下にさらすのが昔から石原はうまい。

 本書の後半も決してつまらないわけではない。石原のこだわるテクスト分析がきちんと行われているし、大学生にとっては文章との接し方を学ぶ良い機会ともなるだろう。ただ、本としてみると、前半の勢いに較べこちらは手際が良すぎて何となく作業のように見えてしまうところがあった。また、読者の中には「あの恋愛ネタはいかがなものか」といった意見もあるかもしれないが、そうしたギャグをあえて繰り出すことで教室の学生を油断させるのは戦術のうち。そういう意味では教室も、ホンネとタテマエの錯綜する、なかなか複雑な空間なのである。


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2011年02月01日

『トモスイ』高樹のぶ子(新潮社)

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「高校生の危険な読書」

 筆者は某高校国語教科書の編集委員をしている。この委員会をまとめる隊長役の編集者の女性はまったくもって体育会系のひとで、朝五時半に起きてぴょんぴょん跳ね、テニスのスマッシュ練習をし、それから会社に来るらしい。真冬でもマッ冷たいペットボトルのお茶をがぶ飲みし、「おい、あんたたち編集委員、どんどんピースを探してこい、ピースを!」と熱く檄を飛ばしている。「ピース(piece)」とは教科書に載せるための作品のことだ。しかし、筆者などがいくら作品を持っていっても、十本中十本はボツになる。これまでボツになったものはきっと数百…。

 それですっかり困り果てていたときに手に取ったのが、書店にならんでいた「新潮」であった。本書の表題作「トモスイ」が載っていた。お。なかなかいいではないか。高校生に読ませたくなるような、何とも言えないおおらかな風情がある。いきなり「ユヒラさん」などという国籍不明、性別不明、性格不明の人物が出てきて、底にガラスの張ってある舟で語り手の女性と夜釣りに出かける。いわゆるリアリズムのようで、ちょっと違う。メルヘンとかファンタジーともいいきれない。やけに生々しい描写があったりする。

 わたしがユヒラさんを気に入っている理由の一つは、ユヒラさんがあまり匂わないことだ。一度何かの折にキスしたことがあって、今もそれは大した出来事ではないと思えるのは、唇も口も顔も体も、男の匂いがしなかったからだ。強いて言えば、ブロッコリーを茹でたときのような、濃い目のお湯の匂いがした。(12)
そうだよね、あのブロッコリーを茹でたときの、つまりブロッコリーそのものの匂いじゃなくて、あのお湯の方の匂いだよね、と筆者は頁を繰る手をとめ、じわっとこの一節を見つめながら鉛筆でぐりぐり記しをつけてしまったりする。こういうところこそ、高校生に読ませたい。世界とこんな形で面と向かう方法があるのだよ、と教えてやりたい。ブロッコリーを茹でたときのお湯の匂いにこだわって一向に構わないのだよ、男には男の、女には女の「匂い」があるのだよ、どっちでもない「匂い」もね、しかもブロッコリーの「匂い」も男の「匂い」もくんくんかげばいいというものじゃありません……などと。

 しかし、ここで筆者はあの体育会系編集者の顔を思い浮かべる。彼女の手には真冬なのにマッ冷たいペットボトル。彼女はきっと言うだろう。「センセイ、いけません。これは学校の教科書なのです。だいたいわけもなくキスしちゃったりして、教室のセンセイがどう教えていいか困るじゃありませんか!」

 そういう言われてみるとそうだ。この短編にはいちいち微妙な表現が出てくる。ユヒラさんの様子は「髪もふんわり丸く刈っていて、身体は小さいくせに手足の末端ばかりごつごつと大きく、けれど胸のあたりや下腹部は女のように肉付きが良い」とのこと。風景も「長々とした岬が灰色のシルエットを濃くしながら近付いてきた。女が足を放り出している形状だ。先端はつま先が盛り上がっていて、腰のあたりは霧に絡まれていて見えない」といった具合。

 まあ、高校生ごときにはこういう部分の味はわからないだろうな、青いな君たち、と思ったりする。でも、だからこそ、どうしてここが「女が足を放り出している形状」であって、決して「男が足を放り出している形状」ではないのか、考えさせたい誘惑にも駆られる。

 そこで再び件の編集者登場。「あたしだって、こういう小説大好きなんです。こういうのこそ、載せたいのです。多和田葉子のわけのわからない短編とか、下手すると西村賢太だって大好きで、同居人と一緒にロマンスカーの中で『くぅううう』とか唸りながら読んじゃうんです。もっと変な小説をどんどん入れたい!でも、いろいろあって無理なんです。くやしいっ!」とペットボトルを地面にたたきつけるのである。

 筆者も悔しい。教科書や入試問題に頻出する勿体ぶったつまらない評論より、はるかに時間をかけて読む甲斐のありそうな、特別な瞬間がこの作品にはある。

「さてと」
とユヒラさんが深い息をつく。あとは待つだけですな。
 さてと、のあとに、そろそろ死にますか、なんて言われたらどうしようと思っていたので、とりあえずほっとした。ユヒラさんはときどき、その場の空気をひっくり返してとんでもないことを言う。幼いときに貧乏をしたからこういう素直でない性格になってしまったと言うが、それは自分の育ちへの難癖いいがかりで、あるがままのものが見えていないフリをするのが好きなだけで、それほど悪い性格とは言えない。家族の写真だって、ウソだと思わせようとしているだけで、やっぱり本物の妻であり子供であるのかも知れないし。(16)
「あるがままのものが見えていないフリをするのが好きなだけで、それほど悪い性格とは言えない」なんていう言い方で話をつなげるのが小説の語り手の技量というものだ。もちろん高樹のぶ子の才能でもある。「死」「貧乏」「育ち」「性格」「家族」といずれも〝教科書的〟な話題だが、これを下手な評論的語り手が語ったら、おそろしくつまらないことになる。続く部分もいい。
いつかずっと長く生きて、まだユヒラさんと付き合っていたなら、是非言ってあげたいと思っているひと言がある。男でいるのもイヤだ、女になるのもイヤだなんて、この世のすべてのものに変身するより難しいんだよって。それでも誰かと溶け合うのが理想ならば、自分が無くなってしまうほど、遠くまで行かなくてはならないんだよって。体力も気力もお金もないユヒラさんにそんなこと出来る?(16)
まさに小説的思考である。小説という言葉だからこそ発生してしまう、奇跡的な瞬間なのだ。しかし、教科書というのは、たとえば「男でいるのもイヤだ、女になるのもイヤだなんて、この世のすべてのものに変身するより難しいんだよって」というあたりに線を引いて、「ここでは語り手は何を言おうとしているのでしょうか?」なんてトンチンカンな問いを立て、高校生を永遠に小説的思考の世界から遠ざけてしまう。何と因果な。立てられねばならないのは、「ここでは言葉にいったい何が起きているのですか?」という問いなのに……。教室のセンセイこそ気の毒だ。「トモスイ」が教科書に載らないのも、そういう意味ではこの作品にとって幸福なことなのだろう。

「で、トモスイって、何なんですか?」と隊長編集者は訊いてくるかもしれない。筆者は答えるだろう。「これはすごいですよ。最後に出てくる変な魚類なんですけど、触るとくすぐったがったりするんです。それをふたりして食べる、いや、吸う。こんな濃厚な場面、見たことないです。でも、高校生にはよくわからないと思います。ちょっと不純異性行為に走ったくらいの辻堂あたりのつっぱりあんちゃんには、この味わいはわからない。だから、そういう意味では教科書に載せても安全です。でも、この部分がまったくチンプンカンプンだったら、この小説を読んでも意味がないとも言えますけどねっ!」。筆者には想像される、今頃きっと隊長編集者はロマンスカーに乗って、トモスイが出てくるクライマックスの部分を、しゃぶるようにして読み耽っているだろう。そして「くやしいぃ!」とつぶやいているのだ。

『トモスイ』には十の短編がおさめられている。みんな文体もモードも違う。作家がアジア各地を旅して、そこで浴びてきたものをそれぞれ小説化したとのこと。たしかにどの作品も、作家自身のもっとも居心地のいい文体からあえて少しだけ逸れることで、言葉というものと異邦人のようにして付き合おうとしているのかなという読後感があった。


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