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2011年01月16日

『てにをは辞典』小内一(三省堂)

てにをは辞典 →bookwebで購入

「辞書には裏の顔がある」

 すでに巷で話題のこの本、思った以上にクセ者だった。
『てにをは辞典』などというと、何となくわかった気になる。たしかに日本語の「てにをは」の使い方は難しいから、辞書くらいあったって悪くはない。自分は決して手に取らないかもしれないが、誰かが使うんだろう。本棚の風景にもよく合いそうだし。

 そして扉を開くと、やさしくにこやかな解説。こちらの誤解をやんわりと解きつつ、この本は「結合語」を調べるための辞書なんです、というような説明がある。たとえば「規格」という語がある。これに「~する」とつなげたいのだけど、どういう言葉が合うんだっけ?と迷った経験のある人は多いだろう。この辞書を引くと、すかさず「~を画一化する」「~に合う」「~にあてはめる」「~に外れる」「~にはまる」といった用例が出てくる。この中から選べばいい。

 なんだ、それだけか、と思う人もいるかもしれない。でも、そうでもないのだ。筆者の専門は英文学なのでそちら方面にひきつけて言うと、英語では受験以来、みなさん「熟語」というのに苦しめられたことがあると思う。catch up withだとかplay downというように、どの動詞がどの前置詞や副詞とセットで使われるかは理屈ではなくとにかく覚えるしかない。汗と涙の「試験に出る熟語」対策が始まるわけである。しかし、社会人になって実際に英文を書いてみるとわかるように、熟語だけではぜんぜん文にならない。意外と難しいのが、たとえば動詞と副詞の結びつきである。「まったくその通りだと思う」と言いたいとき、「その通りだと思う」がagreeなのはいいとして、「まったく」は? たぶん英語を聞いていて一番よく耳にするのはentirely agreeという組み合わせなのだが、そのことをピンポイントで教えてくれるのは必ずしも英和辞典ではない。英英辞典でも微妙。確実なのは活用辞典というやつである。副詞+動詞とか、名詞+動詞といった項目ごとに単語同士のいわば〝相性〟を教えてくれる。agreementが主語になった文では、動詞はbindsだったり、broke downだったり、ceases to ...だったりというように、規則とまでは言い切れないようなゆるく慣習的な部分がある。それが〝相性〟である。

 この〝相性〟という語にかすかな官能の響きを感じ取り、「あっ」と思った人は脈ありである。もう少し英語の話で引っ張ろう。たとえばThesaurus(シソーラス)と呼ばれる辞書がある。語源はギリシャ語の「宝」だが、英語関係では類義語辞典のことである。筆者は学生の頃、はじめてRoget's Thesaurusというのを手に取ってよく使い方がわからなかった。一見辞書のようなのだが、単語がアルファベット順に出てくるわけでもなく、「行動と意志」とか「生き物」といった項目ごとにとにかく単語がつめこんであるという印象。

 しかし、ひとたび使い方をおぼえるとこんな便利なものはない。英語で文章を書くときにはほとんど脳の一部のようになってくる。Thesaurusでは言葉がその親戚度に応じて、近いものはより近く、遠いものはより遠くにならべてあるのだ。よくできたThesaurusほど、そのあたりの機微がうまくいっているから、「これじゃないんだけど、これにやや近いアレ、何だっけ?」というときに、「うふふ。この言葉がご所望ですか?」とかゆいところに手が届くようなタイミングで差し出してくれる。

 この『てにをは辞典』なる辞書も、どうもそういう領域を狙っているらしい。「てにをは」についての規則をかかげたり、「こういうふうに書きなさい」と規範を示したりするのが目的なのではない。それよりも、言葉と言葉の微妙な仲良し度のようなものをのぞき見させてくれるのである。とくにこの「のぞき見」というところには注意だ。ためしに「主君」の項目を見てみよう。

しゅくん【主君】 ▲が 家来を連れて出かける。▲を 愛する。欺く。諫める。陥れる。殺す。諫言する。追放する。▲から 拝領する。▲に 殉死する。殉じる。臣下として~仕える。▲の ご乱心で家中が騒然となる。
う~ん。便利そうでもあるが、どこか変ではないだろうか。どうも腑に落ちないところがある。もちろん「主君が家来を連れて出かける」とか「主君のご乱心で家中が騒然となる」のはごもっともなのだが、しかし、それをいえば「主君が鼻をかむ」とか「主君が年賀状の宛先を間違える」とか「主君がカレーライスを食べる」とか「主君が鼻をかんだハンカチを洗うのを忘れる」だって日本語として問題なさそうではないか。

 でも、そうでもないのだ。やはり主君というものは「年賀状の宛先を間違える」とか「鼻をかんだハンカチを洗うのを忘れる」などということがあってはならないのである。そりゃ主君だって人間なんだから、年賀状くらい出すかもしれないし、花粉症の季節になれば鼻だってかむだろう。ひょっとしたらそのハンカチを洗い忘れることだってあるかもしれない。でも、それは滅多にないのだ。主君というものはやはり愛されたり、欺かれたり、殺されたりするものなのだ。この「滅多にない」とか「いかにもありそう」という感覚はとても微妙なものだが、それだけに大事なものでもある。そしてこの「滅多にない」か「いかにもありそう」かのニュアンスを嗅ぎつけるのが、ひいては日本語の「主君」という言葉の奥の奥(というほど大袈裟な物でもないかもしれませんが……)にあるものを知ることにもつながる。

 とにかく当面、私たちに必要なのが「主君」という語の奥の奥を究明することではなく、とりあえず「主君」という語を使うことなのだとすると、「滅多にない」方はほとんど必要ない。「主君が家来を連れて出かける」とか「主君を愛する」といった組み合わせを、先ほど言ったようにのぞき見するのが一番なのである。そうするだけで「あ~、そんな感じね」ということがわかってくる。言葉とは「あ~、そんな感じね」というワンクッションおいた距離感で使うのが一番である。杓子定規に辞書の通りに使っていては血の通った文章にはならない。

 ところで、この辞書にはそのような〝便利さ〟の陰に隠れたもうひとつの顔がある。裏の顔である。そもそも言葉の〝相性〟を扱うような書物が、むっつりと素面で安全地帯にいられるわけがない。たとえば「ちかづける」という項目を引いたとする。

ちかづける【近付ける】 ▼明かりを。足音を。値を。頭を。筏(いかだ)を。椅子を。腕時計を。馬を。顔を。肩を。カップを。カメラを。体を。距離を。口を。唇を。口吻(こうふん)を。磁石を。紙片を。互いを。手を。手首を。手のひらを。灯火を。白刃を。刃先を。鼻を。鼻先を。火を。額を。火の気を。船を。兵を。舳(へさき)を。頬を。ボートを。炎を。本を。マイクを。マッチを。身を。水を。耳を。目を。指を。指先を。ライターを。ライトを。鼻先に。耳に。無音に。ぐいと。
このリストを見ると、理性と秩序にまもられた言葉の安全地帯から一歩外に出たような気にならないだろうか。すごく危険な香りが漂っていないだろうか。前半の「カメラを。体を。距離を。口を。唇を。」というあたりもそうだし、「手を。手首を。手のひらを。灯火を。白刃を。刃先を。鼻を。鼻先を。火を。額を。」もいい。「頬を。ボートを。炎を。本を。マイクを。マッチを。身を。水を。耳を。」なんていうところは、筆者はわけのわからない興奮をおぼえてしまった(とくに「マッチを。」のあたり)。四元康祐あたりなら、いっちょ詩にしてやろうと思ったりしそうだ。西脇順三郎の匂いもする。

 この羅列があくまで五十音順であるところがまたソラ惚けていていいではないかと思う。巻末には「本書が結語例を採集した主な書籍」なんていう一覧があって、これを見るとあげられているのはほとんど小説である。そこには三島由紀夫『午後の曳航』『潮騒』、志賀直哉『清兵衛と瓢箪・網走まで』、夏目漱石『こころ』といったおなじみの古典や司馬遼太郎『殉死』(←「主君」はきっとこれだ!)吉川英治『治郎吉格子』などの読み物系とともに、急に山本昌代『緑色のお茶あるいは幸福の散歩道』みたいな渋い作品があったりする。かと思うと内田春菊の『ファーザー・ファッカー』。この混淆具合そのものにも危険な香りが漂っていて酔ってしまいそうになる。

 これで筆者が冒頭、「クセ者」と言った意味がわかるだろう。辞書のくせに『てにをは辞典』が教えてくれるのは、けっこう波乱含みのことなのだ。言葉の〝相性〟の世界に足を踏み入れると、言語学やら文法やらではうかがい知れない言葉の裏の顔が見えてくる。相性というのは不思議なもので、今の「ちかづける」でもわかるようにランダムに機械的にやるほうが、かえって素顔が露見するということもあるのだ。そこには「ああ、職場のAさんとBさんは実は仲が良かったんだあ~♪」というような発見があったりする。言葉との付き合い方をちょっと変えて、カメラを頭上に、あるいは足下に移動させてみると、ふつうのアングルからは決して見えない何かが見えてくる。

 項目の中で筆者がとりわけ気に入ったのは、「みちる」であった。まるでロマン派の詩のようにも読める。

みちる【満ちる】 ▼悪臭が。怒りが。思いが。快感が。感情が。気合いが。霧が。群衆が。月光が。気配が。声が。国土が。心の中が。才が。ざわめきが。私語が。静けさが。実感が。蒸気が。真摯な気が。ためいきが。力が。沈黙が。月が。時が。にぎわいが。任期が。年季が。腹が。瞳が。響きが……(リストはこの五倍くらいつづきますので、続きは是非実物を手に取ってみてください!)

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2011年01月03日

『人もいない春』西村賢太(角川書店)

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「ふにゃふにゃ期の効用」

 西村賢太の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」(『新潮』2010年11月号)は川端康成賞の候補に選ばれた際の顛末を、原稿の横流しやら約束のすっぽかしやらといった編集者との付き合いを中心に描いてほとんど漫画ちっくなばかりの嘘みたいな、しかし、ほんとの話(←たぶん)である。かつて西村の十八番だった、つかの間の小さな幸福が瓦解し同棲相手の女に罵詈雑言や暴力を浴びせかけたあげく自滅して終わるという、それはそれで洗練の域に達していた展開のパターンとは違い、古本屋でたまたま見つけた堀木克三という今では誰も聞いたこともない昭和初期の文芸評論家の自費出版論集を、しみじみ軽蔑しながら読み進めて佳境に入るというあたりに、「おっ」というような新境地が感じられる作品なのである。

 こういうものを読むと、西村賢太もいよいよ変わっていくのか?なんて思う。『人もいない春』はこの二年ほどの間に『野生時代』に掲載された作品を集めたもので、途中でこれまたひと悶着あったらしく妙に間の空いた期間を挟んではいるものの、これらの短編をつづけて読めば近年の動向が見えてくるかもと考えたりする。期待通りであった。

 とにかく西村作品は言葉の臨場感のようなものが強烈で、はじめから最後まで文字通りの〝賢太漬け〟、一字一句漏らさずその文言を浴びるようにして読むことになる。しかも、物語の展開上も明と暗の移行がたいへん明瞭で、「が、あとから思えばそんなアルバムの閲覧なぞ、彼女の意外な魅力にふれたその時点でやめておけば幸せだったのである」というようなことさらな誘導とともに、まるでジェットコースターの頂点にのぼりつつあるときの心持ちで「あ、あ、あ、もうすぐ……」という、懐かしい滅亡感に身を任せるのが読む者の習いともなる。

 しかし、展開とかプロットを西村の小説に読むことにどれほどの意味があるのかは疑問である。ためしに『人もいない春』の六つの作品を筆者が勝手に採点した結果は以下のような具合。

◎「人もいない春」
O「二十三夜」
×「悪夢 ― 或いは「閉鎖されたレストランの話」
◎「乞食の糧途」
◎「赤い脳漿」
O「昼寝る」

 ○やら×やらいろいろつけてみたが、実はこれらの短編に共通するのは、一方では甘美なほどにわかりやすい〝崩壊〟と〝滅亡〟の刻印であるけれど、他方で、いずれも最後はふにゃふにゃと腰砕けのようにして逃げるように終わる、つまり、いかにもだらしのない結末になっている点でもある。

〝ふにゃふにゃ〟な結末とは、いかにも私小説的とも自然主義的とも見えるかもしれない。意味なんかありゃしない!と開き直っている。しかし、これは主人公がきわめて〝性的な人間〟として描かかれていることとも連動しているのである。この人の場合、「女性と女体を欲す激しい慾望の波には或る不定の周期がある」のだそうだが、そんなのは誰だってそうなのかもしれない。しかし、西村は――というかこれらの作品の主人公ということになっている北町貫多の場合は――それが人並みはずれていて、ほとんど神話的なのである。

この周期が明けた直後の彼は、それまでの狂おしい肉慾の衝動は気のせいであったかと思う程、何やら急に憑き物が落ちたようになるのが常だった。そしてその期間は、短いときで数週間、長ければあれで半年ぐらい続くこともあるのだが、そんなときの貫多は自分が永年思い描く理想の、きわめて普通の女性とひどくプラトニックな恋愛をしたくなる。(37-38)
『人もいない春』の各作品で鍵となるのは、この「きわめて普通の女性とひどくプラトニックな恋愛をしたくなる」気分なのである。「プラトニックな恋愛」というとまるで清純派のようで聞こえはいいのだが、これはこの獣のような主人公のいわば〝ふにゃふにゃ〟期。そういう〝ふにゃふにゃ〟期について、ひょっとするとこの作家は以前よりも我慢強く書くようになったのかもしれないという印象を筆者は持った。

 西村賢太の小説を読むとき、私たちは物語を読むわけではないのだ。ちょっと慣れてくると、そんなものを期待してはいけないことはわかってくる。では、物語のかわりに〝ありのままの世界〟とか〝個人を越えた普遍的な真理〟があるのかというと――ないわけでもないが――私たちの実感としてはたぶん「そんなものはどうでもいい!」のである。

 ではそこにはいったい何があるのかというと、とにかく「周期」なのである。「その期間は、短いときで数週間、長ければあれで半年ぐらい続くこともある」と語り手が臆面もなく明かす、その繰り返し。しかし、これまで西村はその周期のうちの、〝山〟の部分を書くのに忙しかった。それが、かくも弱く、やさしく、だらしなく小説を終えられるようになったということは、彼が小説を通じていちいち〝自分宣言〟のようなものをしなくても済むようになったということではないかと思うのである。「オレはこのようにオレである」と物語に仕立て上げて屹立しなくても済むようになったのではないか。

 それだけ作家が、自身の〝周期〟について自覚的となった証拠なのだろう。物語というものが、たまたま始まったりたまたま終わったりするものにすぎない、そんな自分の「周期」の声に、作家がより敏感に耳を傾けるようになった。

 そして、こうして〝物語であること〟の拘束から自由になってみればこそ、本筋とは無関係とも思える描写にほとんど悪のりのようにしてのめりこむことが、以前にも増してできるようになる。先ほど◎をつけた三つはいずれも、「まさか……たったこれだけのネタでここまで行くか」というほど、一見、無意味とも思える細部に熱気をこもらせた作品ばかりである。「人もいない春」では、小学生時代に日本ハムファンだったという主人公がときをへて久しぶりにその試合を観戦して、がらがらの球場で牧歌的に飲み物を売り歩く少年と少女に嫉妬し妄想にかられる描写がある。

貫多はそんな二人の姿を試合から目を離してかたみに眺め、しみじみ羨ましくならなかった。きっと彼女らは昼は普通に学校へゆき、週に一回程度、夕方以降の数時間をそこで小遣い稼ぎしているのであろう。で、このバイト先でごく自然なかたちで知り合うようになった二人はすっかり意気投合した上で、すでにいろいろとうれしいことにもなっているのであろう。すでにいろいろと、気持ちのよいことも行っているのであろう。彼女らは、時や場所に関係なく、さまざまなシチュエーションの中で闊達に、自らの若さを、青春を、十全に謳歌しているのに違いない。貫多はそれが心底から羨ましく、男の方は半殺しの目に遭わせた上でスタンドの外に投げ落とし、女の方は尻の穴まで犯してやりたい程に(したことはないのだが)妬ましくもあったが、しかしこれは妬んでも羨んでも、結句は自分の生活や歪んだ根性が一層惨めったらしく思われるだけの話だった。(23)
ここは貫多がやや鬱屈した気持ちで日ハムの試合を観戦しているというだけの場面なのだが、およそたいしたことの起きていない状況で、これだけ何かを起こしてしまうのはすごいことだ。これなら、同居の女性に罵詈雑言を浴びせたり、平手打ちをくらわせたりする必要もない。

「乞食の糧途」でもバイト先の運送会社の同僚の運転が下手だとか、「赤い脳漿」でも同居する秋恵の小学生時代の写真が醜かったといった、実に些末なネタで作品に信じられないほどの盛り上がりが生まれるが、そうした部分を読むにつけつくづく思うのは、今まであれだけ「オレはオレだ」と叫び続けざるをえなかった主人公の態度に、何かが加わったのかもしれないということだ。自分のことを言うのに手一杯、自分とのかかわりでしか世界を書くつもりがなかったのが、目の前にいる自分ではない人間にけっこう興味を持ちはじめているようにも見える。だからこそ些細に見えるような材料なのに、いったいどこまでいくのだろうかという描写が生まれる。〝ふにゃふにゃ期〟の効用だ。

 もちろん、いずれの作品でも私たちを引きこむその牽引力の背後にあるのは語り手の例の「周期」の威力である。結局は、自分の生理の勢いで語る人で北町貫多はあるらしい。しかし、ならば、なおさらすごい。西村賢太には物語など必要ないということである。とにかく彼に命があり、あの「周期」が訪れつづける限り、言葉が急にインフレしつつ昂揚し、あることないことひっくるめて〝山〟をつくって(その思いがけない加速感は、好調時の蓮實重彦を想い出させるのだが)さらなる至高の瞬間を創出するということなのだ。

 小説というのは一生懸命構築した言葉の楼閣を、「よし」という時点に達した瞬間に背負い投げのようにひっくり返し、振り出しに戻すことで成立するものだと思う。つくづく不思議な言葉のジャンルである。そういう意味では西村の主人公はまさに典型的に小説的である。しかし、そんなパタンだけでは何かが足りない。西村の強みは「周期」の山と谷との間を、目の回るような速度で行き来する生命力のようなものである。そういう苛烈な「周期」を実際に生きるのはさぞかしたいへんだろうとも思うが、「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」や『人もいない春』でのように〝谷〟の部分までもが小説の中に生きてくるとなるなら、「変わったな」どころではすまない何かが今後に期待できるのではないかと思う次第である。


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