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2010年12月21日

『どんぐり姉妹』よしもとばなな(新潮社)

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「一部だけ西部劇かも」

 よしもとばななの小説は、真綿にくるまれたような言葉で書かれている。徹底的にほぐされて骨も抜いてあり、ごつごつしたところがない。セッカチなおじさん的思考の人からすると、のろまでじれったい、いらいらするような文章と感じられるかもしれない。だが、こういう小説がけっこう手強いのである。

『どんぐり姉妹』の主人公ぐり子は引きこもり気味で、かつてはものが食べられなくなったり、幻視・幻聴があったり。下手をするとイカツイ病名がつけられてしまいそうな人である。だが、小説の中ではそういう症状が「そうとう静かな状態」とだけ呼ばれ、音量をしぼったような、まさに〝静かな〟言葉で語られる。

 何日も外に出ていないと、頭の中の世界のほうが実際の世界よりも少しずつ大きくなってくる。気づくと思い込みの度合いがそうとうまずいことになっていて驚いてしまう。
 そうしたらちょっとだけ外に出て調整する、その繰り返し。
 今は身を低く、力をためて。そう思っていないと、やられてしまう。だれに攻撃されるでもない、自分の中の自分がずれてくるのだ。自分の中の自分がずれてくると、実際に会う人たちにその違和感が伝わる。そして人々の対応もおかしくなってくる。(6)
「まずいこと」「驚いてしまう」「やられてしまう」「ずれてしまう」「違和感」「おかしくなってくる」――何となくネガティヴな言葉がつづく。どの言葉も実はすごく恐ろしいものを隠しもっていそうだ。でも、このように間引いた遠い言い回しを使うことで、語り手がそれに一生懸命言葉の力でまじないでもかけて、抑えよう鎮めようとしているように感じられる。

 真綿の中にはきっと針なり毒なりがひそんでいるのだ。それとどのように付き合っていくか。キーワードとなるのは、今の引用部にもあった「ずれ」という言葉だろう。「毒」を「毒」とは呼ばず、「ずれ」ととるのがこの作品のルールである。しかし、「毒」を「毒」と呼ばないことで主人公の「私」は、自らの名人芸的な〝ずらし〟に足をとられる危険もある。真綿にくるまれた言葉を読みながらも、その中に何かの隠れていることを直感する私たちははらはらする。

 ストーリーとしては〝引きこもり小説〟にして〝姉妹小説〟、〝介護小説〟、そして〝恋愛小説〟である。両親を事故で亡くしたどん子とぐり子の姉妹は、親戚の家を転々としたあげく、人嫌いで気むずかしい祖父の家に住まわせてもらうことになり、長い介護生活の末、その最期を看取った。この介護がふたりの結束を強め、またふたりの「今」にも大きな影響を及ぼしている。ふたりは共同で「どんぐり姉妹」というサイトを立ち上げ、「だれかにメールしたいけれど、知っている人にはしたくいないというときにちょうどいい存在」として、見知らぬ人からのメールに日々返事を出し続けている。

 多くの姉妹小説と同じように、姉のどん子と妹のぐり子は性格が対照的だ。姉は活発で外向的。というか、ほとんど恋愛中毒である。

「ペースダウンすると思うけれど、地道に続けていく。子どもなんか生まないし。そしたら五十五までは続けられると信じている」(58)
これ、恋愛のことなのである。まるで仕事の話みたいだ。引き取られた医者の親戚の家から、妹を残し姉だけがひとり脱走するときのセリフもふるっている。
「必ず助けにくるからな。医者の嫁にはいかせはしない。ここの養女にもさせない。そのへんはお父さんの友達の弁護士さんに言ってあるから、安心して待ってな」(27)
まるで時代劇か西部劇で格好いい風来坊が口にしそうなセリフである。そして西部劇の風来坊だけあって、この姉はどの男とも長持ちしない。すぐ飽きてしまう。好きなのは恋愛のはじめのところだけ。まさに恋愛依存症の典型である。ところがその姉が、ある男との関係を境に変わっていく。「ああ、疲れた。セックスもしてないのに、なんだかへとへとになっちゃった。好きすぎて。」(120)なんていいながら、肌をつやつやさせている。「あ、また家の空気が動きはじめた」(121)と妹は感じるのである。姉が変わると妹も変わる。このあたりが物語のターニングポイントとなる。

 この派手で騒々しい姉をちょっと物語の脇に押しやりつつ、むしろ「スーパーとDVDレンタルの店と書店とスタバしか行ってない」(14)という妹を中心にすえたあたりが、この小説の妙味だと言える。砲撃みたいにバンバン飛来してくる姉の言葉とちがい、ぐり子の言葉は角がとってあってやさしい。それが彼女の世界との付き合い方なのだ。

 これまでにちょっとくらいショックを受けた経験があっても、私の魂の芯が圧迫されたわけではない。
 そしてちょっとくらい考え方がおかしくなっていても、こだわってなければ、やがて傷はふさがり、幸せはどこからでもにゅるにゅる出てくる。(59)
 

幸せが「にゅるにゅる」というのはいい。こんな繊細な賢さをもっている人が、姉のどん子みたいにあらっぽい恋愛にふけることができるわけがない。彼女は恋愛に邁進するよりも、ちょっと距離を置いて〝恋愛ということ〟を見つめてしまうのである。スーパーで母と幼い息子のしめじとマイタケをめぐる論争を耳にしても、ぐり子は次のようなことを思ってしまう。

 みんな親が恋しい、だから恋愛にもあの懐かしい気持ちを持ち込んでしまう。おじいさんやおばあさんになってもロマンスを求めているのは、歳と共に親が恋しい気持ちが増してくるからなんだ。
 だからほんとうに大人のクールな恋なんて、人類にはきっとずうっとできないんだ。
 聞いていたら急に淋しくなり、父と母が恋しくなった。(13-14)

 こんな調子でいつの間にか父と母の話になってしまうくらいだから、ぐり子の人生には派手な立ち回りがあるわけがない。唯一のほんとうの恋愛は、過去完了形でしか語られない。その相手はすでに亡くなっているのだ。しかし、この死がむしろ曲者でもある。それはぐり子の人生を蝕む「ウィルス」と化しつつあった。

 物語のクライマックスでは、ぐり子がこのウィルスと立ち向かうことになる。もう、〝ずれ〟ではすまない。舞台となるのは夢。そんな大事なことが夢なんて、ずるいじゃないか、という人もいるかもしれないが、そうでもないのだ。ぐり子にはぐり子の論理がある。

 夢の中の私がしっかりふるまってくれたから、私も救われたのだ。
 現実の私が、なにもはずさなかったから、夢の中の私は手探りでもちゃんとしていたのだ。夢の中でもうそはつけないから、全部が出てしまう。だから、ちゃんとこもるべきときに家にこもっていて、動くべきときに動いてよかったのだ。そう思った。(142)

この「そう思った」を読み飛ばしてはいけない。この小説では語り手の「私」が実にいろいろ考え、思う。そのことがいちいち明記してある。こんなに書いてあるのはいったいどういうことか。単に思っただけではないのである。思おうとしているのである。

言えてよかった、と私は思った。これが言えたことで、彼の死を実際に知ったときにかかった、小さな悪い魔法がとけた気がした。(140)
結末部にはこのような前向きな言葉があふれているが、やっぱりこういうところでもぐり子はいちいち「思った」とか「気がした」と言うのである。思おうとしている。そういう意味では真綿の延長なのである。何しろ夢が舞台として必要になるくらいだから、世界と「私」とは相変わらず、ずれている。だから私たちも、ぐり子が思おうとしているその背後にあって、隠し持たれているものを感じ取ってドキドキしてしまう。しかし、これは世界が自然とうまくいってハッピーエンドになるよりは、ずっとハッピーな結末なのかもしれない。『どんぐり姉妹』は治そうとする小説なのだ。治ってしまったことよりも、治ろうとする意思を書いている。ひょっとしたら実効があるかも、とさえ思わせる。

 言葉は暴くだけのものではない。「そして」や「でも」にまで神経の行き届いた文章なんて人によってはまどろっこしいかもしれないが、上質の真綿には、ずぶっと読んでみなければわからないような効力があるのだ。


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2010年12月15日

『共視論 ― 母子像の心理学』北山修編(講談社)

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「重なる視線が意味するもの」

 いきなり「共視論」などと言われても何のことか想像がつかない。まるで〝一見さんお断り〟みたいなタイトルである。しかし、このテーマ、かなりの注目株ではないかと筆者は思っている。その可能性と広がりはなかなかのものだ。この論集では執筆者の中心は精神医学や心理学の専門家だが、今後もっと広い領域に影響を及ぼしてもおかしくないと思う。

 そもそも「共視」とは何か。発達心理学にはjoint visual attention(直訳すると「共同注視」とか「共同注意」)という概念がある。ふたりがともにひとつの対象に目をやる行為のことである。このような行為をわざわざ概念化するのは、このジョイント・アテンションの発生が幼児の発達の中ではとても意義深いことと考えられているからである。誰かとともにひとつの対象をながめるようになることは、幼児の心において〝画期〟を成す。それは幼児が他者の意図や心的状態を読み取り始めた証拠だからである。

 この論集の編者・北山修は、このジョイント・アテンションという先行概念をもとに「共視」という語を造った。わざわざ新しい言葉をあてたのは、より広い文化学のコンテクストに打って出るためである。きっかけとなったのは浮世絵だった。北山は膨大な浮世絵のコレクションを調査してきたが、その中から母子像だけを取り出して分類すると、ある構図が繰り返し現れることに気づく。母と子がともにひとつの対象を眺めるという図が非常に多いのである。たとえば母とその胸に抱かれた幼児とが、かざした傘に向けて視線をやる歌麿の「風流七小町 雨乞」のように。そこで北山は考えた。こうして子供が母の視線を追いながら母と対象を共有し、その中から言語を習得したり、思考のパタンを学んだりする、そのプロセスが浮世絵には雄弁に表現されているのではないか、と。(第1章 北山修「共視母子像からの問いかけ」)

 しかし、このような着眼はきっかけにすぎない。「母子関係が媒介物を橋渡しにして開かれていく」という認識を出発点においてみると、「共に眺める」という行為が情緒的・身体的な交流でも非常に重要な意味を持っていることに考えが及ぶ。たとえば「面白い」という感覚。一説には、この語は火を囲みながらひとつの話題に引きこまれている人々の顔が、白く映えることに由来するのだという。interestingという感覚の基底には「共に眺める」という身振りがあるということである。(20)

 出発点が浮世絵ということにも表れているように、本書は、文化現象や症例を具体的な図版やイメージと結びつけて語る点に特徴がある。とりあげられる材料としては浮世絵、とくに母子像が多いのだが、ほかにも印象的だったものとして、やまだようこによる小津安二郎の『東京物語』の分析があった(第三章「共に見ること語ること ― 並ぶ関係と三項関係」)。映画では、尾道から東京に出てきた老夫婦が、子供たちに歓待されるどころかむしろ厄介者扱いされ、体よく熱海の旅館に追い払われるという筋書きになっている。老夫婦はその宿屋でも騒音のために寝つけず、浴衣のまま海外に出て行って海を前にならんで腰をおろす。有名な場面である。

とみ 京子ァどうしとるでしょうなァ……?
周吉 ウーム……。そろそろ帰ろうか。
とみ お父さん、もう帰りたいんじゃないですか?
周吉 いやァ、お前じゃよ。お前が帰りたいんじゃろ。
周吉 東京も見たし、熱海も見たし――。
周吉 もう帰るか。
とみ そうですなァ。帰りますか。(85)

ふたりが並んで堤防にすわって海をながめている。まさに「共視」の場面だ。だから、その〝視線〟にもいろいろな意味が読み込めるのだが、やまだはここでの〝言葉〟にも注目する。この会話、まるで二人が輪唱しているようではないか、と言うのである。「かさね」の語りになっているのだ。

「そろそろ帰ろうか」「もう帰りたいんじゃないですか?」「お前が帰りたいんじゃろ」「もう帰るか」「帰りますか」というように、「カエル」「カエル」「カエル」「カエル」「カエル」 が、微妙にズレを含んでくりかえされる「カエル・コール」が交わされているのである。どちらがこのことばを発してもいいほど、自己と他者のことばが、共鳴的にうたうようにリフレインされ、ひびきあっている。(86)

このような考察は、一般のテクスト分析を行う者にも大きな示唆を与えてくれると思う。

私はこのような「かさねの語り」を、主体と客体が対面的に対峙してやりとりする「対話的語り」と区別して、「共存的語り」と名づけた。対話的語りは、バフチンが理論化したように、自己の声と他者の声は対峙して闘い、「とるか、とられるか」という闘争のアリーナでおこなわれる。共存的語りでは、二人の主体が並ぶ関係に立ち、自己と他者の声は相互主体的で共鳴的に重ねられ、ズレのあるくりかえしをおこなうことで会話が推移していく。(86)

やまだのいう「共存的」な語りのことさらな出現は、たとえば『東京物語』のような作品の何とも言えない〝変な感じ〟のおもしろさを説明してくれるだろう。とともに、このような共存的な語りがもっと目立たない形で広く一般の語りの中でもこっそり機能しているのではないかと仮定してみたくもなる。筆者の友人は電車の中でのあるマダムグループの「そうそう合戦」に注目し、「あの人たちは、一方で〝そうそう〟と相手の話に勢いよく相づちを打っているようでいながら、実は一切相手の話を聞かずに自分の話だけしているようなのだ!」と感動していたが、こんなところにも「共存的語り」の一変形が見られるかもしれない。

 この本の構成は実にヴァラエティに富んでいる。すでにとりあげたもの以外にも、以下のような切り口がある――江戸の劇場文化(田中優子)、発達心理学(遠藤利彦)、知覚心理学(三浦佳世)、社会心理学(山口裕幸)、精神病理(黒木俊秀)、育児文化(中村俊哉)。こうして異なるアプローチをならべることで、「共視」という話題に無理に枠をはめるより柔軟な広がりを持たせることを狙ったのだろう。それが成功していると思う。

 ここまででとりあげきれなかった章にも、「共視」にかかわりそうな、しかし、同時に別の関連領域にも踏みこんでいるような興味深い指摘がたくさんあった。たとえば脳にある種の欠損を負った患者の話(第七章 遠藤利彦「まなざしの精神病理」)。この患者はなぜか他者の感情のうち、〝恐怖〟だけが読み取れなくなった。その原因をさぐっていくと、どうやら相手の〝まなざし〟のとらえ方が関係していたという。この患者は、他者の視線に注意を向けることが出来なくなっていたのである。これは「まなざしにかかわる精神病理学的な現象が、ほとんどの場合、他者との関係性における不安や恐怖を反映している」(185)という指摘と合わせて考えてみると、なかなか意味深い事例である。浮世絵母子像の「共視」なら、焦点のあたるのは慈愛とか保護といったテーマだが、視線は恐ろしいものともなりうる。「正視恐怖」という症例があることからもわかるように、こちらを脅かすものとしても視線は機能するのだ。そのような機能が「共視」と表裏になる形で働いているのだとすると、いろいろ考えてみたくなることが出てきそうだ。…と、こんなふうに〝ゲームの場所〟を広げる窓口として、「共視」のこれからには大いに期待できそうな気がする。


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