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2010年10月25日

『女ぎらい ― ニッポンのミソジニー』上野千鶴子(紀伊國屋書店)

女ぎらい ― ニッポンのミソジニー →bookwebで購入

「実際の女の快楽はこんなに便利なものではない。」

 上野千鶴子は、上野千鶴子を演ずるのがほんとうにうまい。この人は実にいろいろな種類の言説を使いこなすが、どれもが驚くほどちゃんと「上野千鶴子」になっている。センテンスの頭と尻尾とがくっついて、共食いをする蛇みたいに延々とつながっていくような論理的な文章も得意だが、そうかと思うと、句点ごとに「ぷしゅっ」と音がするような、不機嫌なのか上機嫌なのかわからないくらい元気のいい文章で語ることだってある。

 絶妙なタイトルのつけられた本書は、「むかつき語り」ではじまる。吉行淳之介の私小説風〝官能小説〟を俎上にのせ、「言っておくが、実際の女の快楽はこんなに便利な(つまり男に好つごうな)ものではない」(p.14)と断じ、いかに吉行の作品が「むかむかする読書体験」(p.17)しかもたらさないかを勢いよく語る。筆者の学生時代には吉行はすでに遠い過去の作家になっていて、今、書棚からひっぱりだしてきた黄ばんだ文庫には「60円」などと古本屋の値段が書いてあるが、上野はそんな吉行を死者の中から蘇らせんばかりの臨場感で語ってみせる。

 何しろ怒りっぽい語り口なので、こちらとしては「め、滅相もないです…ぼ、ぼくはそんなこと、ぜんぜん思ってません…」と勝手に言い訳しながら読んでしまうのだが、たしかにそうだよな、それでうまく説明できるよな、という箇所があちこちにある。たとえば以下のような具合。

女の嫉妬は、男を奪ったべつの女に向かうが、男の嫉妬は自分を裏切った女に向かう。(p.108)
家父長制とは、自分の股から生まれた息子を、自分自身を侮蔑すべく育てあげるシステムのことである。(p.128 上野自身からの引用)
ある意味では女であることを嫌悪する感情は、あらゆる近代産業社会に生きる女に普遍的な感情だとも言える。(p.135 江藤淳からの引用)

 しかし、本書は「むかつき」の仮面をかぶってはいても、実によくできた現代用語の入門書でもある。おそらくその中でも柱になっているのは、タイトルの「女ぎらい=ミソジニー」を補完する「ホモソーシャル」という語だろう。「ホモソーシャル」とはイヴ・セジウィックによる概念で、男性同士の性的な関係を示す「ホモセクシュアル」と区別して男性同士の「性的でない絆」を指すために用いられる。たしかにこれは便利な言葉で、筆者の周囲でも少なくとも週に一度くらいは耳にするし(「あの人たちはホモソーシャルだから、飲み会の最後は男だけにならないと気が済まないのよ」というふうに)、筆者自身も1ヶ月に一回くらいは口にしていると思う。「ホモセクシュアル」という語を最近ほとんど耳にしなくなったのとは対照的だ。

 上野が暴くのは、この「ホモソーシャル」という語に含意された「男の連帯」の隠れた呪縛力である。とくに「モテ」という、最近なぜか復権しつつある社会学用語(?)の背後で、いかに「男の連帯」が機能しているかを分析してみせるあたりは、その勢いのいい語り口ともあいまって見事である。「モテ」とは男と女の関係性を示す概念ではなく、男同士の関係性に発したものであるという指摘は、ちょうど女のオシャレが、実際には男よりも女に向けたものであるというよく知られた「常識」と合わせて考えるとなかなか示唆に富んでいる。男は女そのものには興味がない。興味があるのは、女を〝所有〟している自分を見る男の視線だ、というのである。

 その後も「性の二重基準」とか「女の分断支配」、「非モテ」などの見出しを掲げながら上野は、現代の若者にとっての身近な問題を徹底的に明晰にときほぐしていく。徹底的な〝社会学化〟の身振りと呼んでもいいだろう。後半に行くに従って上野の「むかむか」はおさまっていくようで、暴力、天皇、母娘問題、女子校文化、東電OL事件と話題が移るにつれ語り口は少し穏やかになるようでもあるが(やはり吉行が元凶なのか?)、語りの勢いそのものは決して衰えない。

 本書で上野の語りが目指すものははっきりしている。とにかく曝く。見えるようにする。語れるようにする。従来の文学作品などでは「曰く言い難いもの」として、逆説やシンボリズムなどの中にうっとりと曖昧にやりすごされてきた心理の動きや男女のかかわりあいを、上野は容赦なく説明してしまう。言葉にしてしまう。その素材に使われるのは、この数年に刊行されたインタビューやハウツー本や論考で、情報源はどれも新鮮である。

 しかし、勢いのいい本だけに、当然、戸惑いもあるだろう。本書の中でも象徴的なのは第五章の次の指摘である。すなわち、

身体は最初の他者だ(p.77)

話題はマスターベーションである。上野はこの指摘を足がかりに、近代個人主義特有の前提、つまり「自己身体とは、自己の最初で最後の領土、どのようにも統治し、遺棄し、処分することもできる私有財産だ」(p.78)という考えに疑義を呈する。マスターベーションを自己身体との合意のいらない性行為だと見なしている限り見えてこないものがある……といった話である。

 なるほどたしかに上野の議論は筋が通っている。新鮮でもある。しかし、このような話の流れに表れているのは、上野がプライベートとパブリックとの垣根を越えるような議論展開の〝驚き〟を意図的に狙っているということでもある。それがおもしろいし、魅力でもあるのだが、このようにほがらかに社会学的、あるいは人文学的にマスターベーションを話題にできる世の中になっても、依然として多くの人が自分のマスターベーションを話題にすることを恥ずかしいと思うのはなぜか、それを人に見られたくないのはなぜか、ということについては答えがあたえられていないようにも思う。つまり、語られないことと語られうることがそもそも峻別されてきたのはどうしてなのか、どうして人は、パブリックに話題にできることについてプライベートには恥ずかしいと思うのか、といったことは依然として気になるのである。

 これと関連してさらに気になるのは、たとえ匿名のインタビューなどが使われているとしても、本書が拠っている現代〝性事情〟の情報源はすでに公になっているもの、あるいはある程度公になることを前提としたものだということである。つまり、ほんとうに語られ得ぬことを語り得るものとして曝いているというよりは、あらかじめ語り得るものとなっているものを語っているだけなのではないかという疑問も生ずる。

 世の中の〝性〟は果たしてどれだけ公に語られているのだろう。筆者は周囲にいる「モテ男」と思われる男性3人(いずれも50代)をウォッチしているが、どの人も決して公には自分の女性関係を語ることがない。ましてや「モノにしたぜ」などということは決して言わない。そのうちのおひとりがこのあいだ、珍しく不用意に「君、家庭にセックスを持ち込んじゃいかんよ」などと謎めいたつぶやきを吐いているのを盗み聞いたことはあるが、そこから先は秘中の秘である。もちろんその先には何もないのかもしれないが、ひょっとすると驚くべき神秘が、とも思わせる。

 それにつけても思い出されるのは、本書でも言及されている『男流文学論』(富岡多恵子と小倉千加子との鼎談を集めたもの)の一節である。吉行淳之介の描くセックスにまるでリアリティがないとみんなで寄ってたかったコテンパンにやっつけている箇所なのだが、そこにほんの一瞬、上野が「パブリック上野」になりきってパフォーマンスしてしまう前の何かがほの見える気がして実に懐かしいのであった。

富岡 寝間着の紐でしばってセックスするっていうのがあったでしょう。そうしたら、そのたびに歓びの言葉が京子の口から出たっていう。
上野 私はあながち嘘とは思わないけど。
富岡 そう?
小倉 私は今日、吉行より上野さんのセクシュアリティの方がおぞましい(笑)。
上野 別に私がマゾヒストだって言ってないって。
(ちくま学芸文庫、p.34)

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