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2010年09月23日

『文豪はみんな、うつ』岩波明(幻冬舎)

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「〝いやな奴〟を語る」

 「文豪はみんな、うつ」と言われたら、「そりゃ、そうでしょう」と間髪おかずに応じてしまいそうな気がする。小説家には精神的な鬱屈のイメージがよく似合う。健康優良児で明朗快活な小説家なんて想像できない。しかし、問題はそこから先だ。そんなステレオタイプそのままのお題を掲げて、この著者はいったいどんな新しい話をしようというのか?

 そのあたりが気になって手に取った本書である。結論から言うと、あまり「新しい話」はなかったのだが、にもかかわらずけっこうおもしろく読んでしまった。

 ひと言で言えば、本書は近代文学の有名人をネタにしたゴシップ本である。姦通、病気、家系の秘密、成功と失敗、貧乏、絶望、死。扱われるのも漱石、芥川、中也、藤村、太宰、川端など、いずれもフルネームで言わなくてもすぐ誰のことかわかるような作家である。みな、私生活にちょっと変わったところのあった人ばかり。「うつ」の話題は必ずしも主役ではなく、作品にそれほど深入りするわけでもない。作家の生涯が、事件や隠された内幕や怨恨などに焦点をあてながら語られる。「やっぱり作家って変な人ばっかりですねえ」と言わんばかりの展開で、節操がないようにも見えるかもしれない。

 著者は精神科のお医者さん。たしかにタイトルに掲げられた「うつ」はどの作家についても話題にはのぼるが、必ずしもメインのテーマではなく症例は統合失調症、不安神経症、強迫神経症、人格障害、パニック障害などさまざまである。というか、それまでおもしろそうに作家のスキャンダルを語っていた著者が、急に真顔になって白衣をまとい「えへん」と咳払いをして、いかにも医者らしい症状分析に話を進める瞬間が各章にあるのだ。

教師としての賢治は生徒たちから慕われ、充実した毎日を過ごすことができたが、時おり奇妙な行動が散見している。月夜の晩にレコードを聴きながら、空に向かって両手をはばたかせて踊ったり、ホホホホーと叫びながら走りまわったりする姿が当時を知る人によって語られている。こうした行動は、賢治の気分が躁状態あるいは軽躁状態であったときに出現したものと考えられる。(114~115)

「躁状態あるいは軽躁状態であったときに出現したものと考えられる」などと言われると、にわかに空気が変わる。たった今まで作家の生い立ちや名声の確立や恋愛事件、裏切りなどを雄弁に語っていた著者の態度が一変し、「鬱」と「統合失調症」はどのあたりで似たような症状を示すのかとか、睡眠薬にはそれぞれ違う働きがあるのだといった話になる。突如、話が散文的になるのだ。

 そういう点、必ずしも器用な本とはいえない。「なるほど」と思わせるようなあざやかな議論の展開があるわけではなく、むしろ「あれ?」というタイミングで精神疾患の話に移る。しかし、作家と精神疾患の関係の不思議さについて考えるきっかけとしては、むしろこういう本の方がいいのではないかと筆者は思った。

 あえて乱暴な言い方をする。私たちは作家に「狂気」を期待しているのだ。「天才と××は紙一重だからねえ」という井戸端会議(もしくは赤提灯)レベルのつぶやきからはじまって、私たちはどこかで「作家は狂っているべきだ」と思っている。しかし、「狂気」などという概念は、もはや公には消滅している。あるのは「症状」と「病名」だけなのである。にもかかわらず、私たちはかつて「狂気」という便利な言葉があらわしていた何かを作家やそして〝文学〟に求めている。

 別に文学作品がいつも幻覚や不安や妄執を描いているわけではないのだ。でも、きっとその背後には「狂気」があるんじゃなかろうか?という妙な期待のようなものがある。「狂気」を隠し持った作品こそが強い力で私たちに語りかけてくれるのではないか。表現とはそういうものであるべきのような気がしているのだ。しかし、ほんとうに不思議なのは、そういう私たちの〝期待の構造〟ではないかとも思う。おもしろおかしいスキャンダルをひとしきり語っておいて、急に木訥で〝マジ〟な精神科医に豹変する著者のその変わり身についていきそこねたとき、そんな〝期待の構造〟をふと冷静に意識してしまう。

 とりわけ印象に残った章がある。もっとも力のこもった章で、本書中、唯一フルネームで呼ぶ必要のある作家を扱っている。島田清次郎という名を聞いたことのある人は少ないだろう。1899年(明治32年)の生まれで、20歳のときに出した自伝的小説『地上』がベストセラーとなり時代の寵児となったが、その後出版界から総スカンを食って作家生命を絶たれ、30歳のときに精神病院で亡くなった。

 この人は実におもしろい。ゴシップとしてもおもしろいが、それ以上に、こんな人がいたらたしかに自伝的小説を書かせたくなるだろうなという人物である。傲慢、嘘つき、鈍感、強引、思いこみ、自己愛……。島田というのは、およそ人に嫌われる要素をすべて備えていたかと思われるのだが、島田がある意味ですごいのは誰もが多少は思い当たる節のあるこうしたプチッとした弱点を、フル装備でぜんぶ持っていた点である。まさに〝ミスターいやな奴〟。しかし、島田の人生をたどっていくうちにそんな輝かしいほどの性格破綻ぶりも、「症状」へと収斂していくことになる。精神病院に収容され、自身の排泄物を外に投げつけるというような段になると、もはや〝ミスターいやな奴〟ではすまなくなる。

 私たちはなぜ〝島田清次郎〟に小説を書かせ、ベストセラーにし、しかし、そのあげくに社会から抹殺し、のたれ死に同然の最期に至らしめてしまうのか。本書はそうした点を究明するものではないが、少なくともこの本を読んだ直後、あるいは数日後、あるいは数年後かに私たちはそのことについてあらためて考えたくなるのではないだろうか。変人スキャンダルのおもしろおかしさと、症状についての散文的な記述の間に私たちが感じるギャップはいったい何なのだろうか、と。漱石、太宰、谷崎といったお馴染みの「変人」の章は、ややおつきあいの感があるが、島田のような作家を扱うときの著者にはちょっとした迫力を感じたのである。


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2010年09月09日

『ドーン』平野啓一郎(講談社)

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「筋肉と骨と我慢」

 読んで突出して印象に残った箇所があった。全部で7つの章からなるこの作品の第3章にある場面だ。火星に向かう宇宙船の中で精神に異常をきたした乗組員ノノは、投薬された上、動けないように固定されている。主人公である医師の明日人(アストー)は、他の乗組員と交替でその糞尿の始末をしなければならない。
脱臭装置も、防臭マスクも、十分には機能しなかった。便が飛び散ってしまわないように、汚れてしまったオムツを素早く透明のゴミ袋に容れて状態を確認した。それから、臀部を拭き取ろうと、背中に回り込んだ時、明日人はそこから、なにか奇妙なものが垂れているのに気づいて、固唾を呑んだ。

ノノは暴れ出したとき、妙な妄想を口走っていた。火星の生物が宇宙船内の乗組員の前頭葉を洗脳している、というのだ。その生物との戦闘場面まで想像される。しかし、ノノは他の乗組員に制圧され、このように屈辱的な状態で管理されることになる。真実を知ったと者が他の「正常」な人間たちに狂人扱いされて閉じこめられているのか? しかもその体内から何かが出てくる、という。すわ!そら来た!とばかりに有名映画の場面なども思い浮かぶことだろう。地球の外から来た生物が人間の脳内に入り込むという陰謀モノも、どこかで観たことがあるような気がする。しかし、そうした既視感で読者を誘いつつ、場面はこのあと意外な方向に展開する。

 一瞬、蛔虫の頭のようにも見えたが、出発前の厳格なメディカル・チェックを考えるならば、それはあり得なかった。そう打ち消してから、彼は却って深甚な恐怖に襲われた。その白い先端は、ノノの体の中で十分な時間を経て成長した後に、いよいよ、外へと這い出てこようとしているように見えた。
『――何だろう。……』
 少し頭が動いた。生きている? 嫌がる様子を見せるノノの体を押さえ、噛みつかれないだろうかと警戒しながら、ゆっくりと引っ張り出した。――汚れていて、何かは分からなかったが、生物ではなかった。指で拭って目を凝らすと、12センチほどの長さのマジックテープだった。船内に小物が散らばってしまわないように、壁にはそこら中にマジックテープが貼られていたが、恐らくはその切れ端を食べてしまったのだ。
   錯乱状態のノノはとんでもないものを口に入れてしまっていたのである。マジックテープという小道具もにくいが、こんなに些末なものがこれほどのおぞましさを喚起させる点もすごい。

 この場面は『ドーン』という作品を書くにあたって著者が意識したと思われるバランスの感覚をよく表しているような気がする。すなわち、「あっち側」に行ってしまわないこと。

 作品にはいかにも先端的な「設定」がこれでもかとばかりに出てくる。その中でも重要なのは、「ディヴィジュアル」という概念である。英語のindividual(「個人」)のinをとりdividual。つまりdivide(「分ける、切る」)はまだ可能なのである。「それ以上、分けられない」という意味の「個人」が、実はより小さな「個」にさらに分解可能であるということだ。「人にはいろんな顔がありますね」と日常的に私たちは口にするが、その「いろんな顔」が作品中では「ディヴ」という言葉であらわされている。しかし、この近未来では、そのディヴを統合し元になっている人物を突きとめてしまう装置もある。だからこんどは、顔を自在に替える「可塑整形」なる技術が生まれた。

 ひとりの人間についてさまざまな「ディヴ」が併存する、という世界は、決して「あっち側」の世界ではない。近未来ならではの不思議なことのようにして書かれているものの、私たちにとっても十分想像可能である。平野は一方で「あっち側」のあり得なさを仄めかしつつも、軸足は「こっち側」において「十分想像可能」な設定を少しずつ丁寧に組み合わせていく。その辛抱強い、禁欲的な書かれ方が何より印象に残る。ノノの場面はその典型だろう。

 だから、ここで笑わせたらすっきりするだろうな、ここは泣かせたくなるところだろうな、ここはエロティシズムにふけりたいところだろうなどという箇所で、ことごとく著者は我慢する。「えいっ!」と筆を走らせたり、「これがオレなのさ~♪」と〝文体〟におぼれることもない。小説家の淫しそうな衝動をことごとく回避する。

そこまでして平野が目指しているのは、一種の「演説小説」ではないかと思う。中心となる出来事は大統領選。候補たちのいかにも選挙向けの演説が、ゴチック体で頁を埋める。しかし、それより重要なのは、この小説の登場人物たちが、会話カッコの中でも実に長々としゃべるということだ。まるでジェーン・オースティンの小説の登場人物のよう――まるで登場人物なるものが舞台の上に立っていた頃のことを忘れきれていないかのように長口上なのである。雄弁で、前向きで、何より元気。つぶやいて終わったり、沈黙してしまったりせず、いつも理由を丁寧に説明し、首尾一貫した言葉の力で相手をねじ伏せようとする。彼らはしゃべることでこそ、そのいちいちの「ディヴ」を表現している。だから、小説の中ではいつも言葉の流れが奔流をなしていて、読者としてもうっかりすると流されそうになる。

 これほど「演説」をしっかり丁寧に書く/書ける作家もいないかもしれない。それも、著者の備え持った、筋肉質の文章を書く力あってこそ。だから、作品中では「骨」の部分にあたるふたつの親子関係も、所詮引き立て役にすぎないと言える。副大統領候補の父に反旗を翻す美しい宇宙飛行士リリアン・レインは、父に向かって「パパには悪いけど、この選挙は、パパたちが勝つべきじゃない」と訴える。その一方で前景に置かれるのは、幼い息子を震災で失い、妻との関係も崩壊寸前の主人公明日人の、終わることのない苦悩と妄想である。

 演説が中心にあるくらいだから、全般に「大きな声」のあふれる小説である。それだけのスケールを備えた作品である。小説には小さな声を期待する、という読者も多いだろうが、大きな声同士のバランスと、「あっち」と「こっち」とのバランスとに気をつかう慎重で禁欲的な小説家の腕力のようなものを楽しんでみるのもいい。


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