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2010年07月20日

『言語ジャック』四元康祐(思潮社)

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「無理に詩人である必要はありません」

 詩人には二通りいる。
 まずは言葉の遅い詩人。どちらかというとその言葉が読者より〝遅れている〟と感じられる詩人だ。読む人の方が先を歩き、詩は後から追いついてくる。読者は少しペースを落としたり、聞き耳を立てたりしないと、なかなかその詩の世界には浸れない。忍耐が必要だ。こういう詩人は、詩人のくせに言葉少なでもの静かで、一行にせいぜい十字くらいしかしゃべらない。「自分にしゃべれるのは詩だけなんです……」というような追い詰められた頑なさがあって、それぞれの言葉へのこだわりも強く、どうしてもこうでなくっちゃ、と寸分のスキもないような語り口をとる。自分のやり方は決して変えず、読者が自分のペースに合わせてくれるのを待っている。

 こういう詩を読むのは、書いた人の生理や神経に没入するのに等しい。密着型である。読むことと、好きになることとがかなり近接している。というか、好きにならないと読めないのかもしれない。でも、日本の近現代詩の主流は、たぶんこういう詩人によって作られた。たとえば三好達治。

 しかし、それとは逆に、いちいち読者の一歩先を行くような詩人もいる。これがもう一方のタイプである。文字通り多弁でやかましい。どんどん先に歩き、読者だけでなく語る自分自身さえも置き去りにしてしまう。固有の文体だの生理だのということにはこだわっていないように見える。求めているのは刺激と、強度と、そして変化。読者もじっくり待つような忍耐はいらないかもしれないが、わあわあしゃべる早足の人を後から追いかけていくのはそれはそれでたいへんである。テキトーに聞き流しながらテキトーにお付き合いする必要がある。

 このような詩人はたいてい「異色」などと呼ばれる。たとえば鈴木志郎康とか。小説家だけど、町田康もそんな感じだ

 では、四元康祐はどうしたものか。経済用語を駆使した作品などで『笑うバグ』が評判になったとき、四元は間違いなく「異色」の詩人だった。たしかにその詩は、詩とは思えないほど雄弁で、滑走的で、元気で、やかましかった。日本現代詩に特有の、あの薄暗い病の香りがない!

 しかし、四元は一歩先を行くことでこちらの神経を逆なでしたりくすぐったりするタイプの詩人ともちょっと違うようだ。遅れるにせよ、先回りするにせよ、現代詩は〝変な言葉〟で語ることを共通のルールとしてきた節がある。これに対し四元は〝ふつう〟であることを恐れない。この『言語ジャック』を読めばわかるように、無理して詩人のふりなどしようとはしない。むしろ、詩との間に距離を置くのだ。その作品からはいつも、「詩って変ですよねえ」という囁きが聞こえる。「詩人って変わってますね」「詩って何なんでしょう」「不思議ですね」「でも、妙におもしろくないですか?」「かわいらしいし」「ね、いじくっちゃいません?」という態度である。

『言語ジャック』の特徴は、多くの作品が「詩の変奏」という形をとっていることだ。必ずしも既存の作品のパロディとか、本歌取りといったことではない。四元は私たちの中にある「詩」という常識そのものを変奏していくのだ。しかも、そこには何ともいえない不思議な言葉の連なりが生まれている。「そうか、こんなふうにして詩とはありうるものなのだ」と、ちょうどクレーの絵をはじめて観たときのような感慨を筆者はもった。とりわけ印象的だったのは、「俺の『な』」という作品。こんなふうにはじまる。  

俺の出番は正確に午後九時三分二十七秒であった。それより一秒早すぎても遅すぎても、極刑に処せられるのだ。俺のセリフ、というか受け持ちは「な」であった。それがどんな文のどんな単語に組み込まれるのか、母国語なのか外国語なのか、はたまた意味のない掛け声のごときものであるのか、もとより知り得る術はなかった。ともかくそれはひとつの音素としての「な」なのであった。

どうやら「全人民が声を合わせて、あるひとつらなりの声を響かせる」儀式が行われるのらしい。この語り手はなにやら「胸が騒ぐ」。いったい何なのだろう。まるでサッカー場のウエーブ。最後まで読んでもはっきり種明かしがあるわけではない。むしろ謎は深まる。

九時前、我が町を人語の洪水が襲った。耳を聾する大音響のなかで、隣家の赤ん坊の泣く声と、どこかの犬の吠え声がくっきり聴きとれて、あれも然るべく定められたセリフだったのか。午後九時三分二十五秒、俺は深々と息を吸い込み、大きく口を開き、舌先をぴったり口蓋にくっつけて、我が「な」の出番を待っていた。

こんなふつうの言葉で、こんな不思議なシーンを書けてしまうというのはまったく驚きだ。これだけたくましく書かれていれば、無理に「詩」と呼ぶことで保護する必要すらないかもしれない。でも、こういう試みを「詩」というカテゴリーに入れておくことで、言葉についての私たちの可能性のようなものが守られるのだと思う。

『言語ジャック』はとにかく言葉の使い方をめぐる可能性にあふれた詩集だ。政治家の不用意な発言(元法務大臣の「ベルトコンベヤーで運ばれていくように、死刑の執行ができないものか」)を見事に変奏した「ニッポンの真意」は、安直なパロディなどではなく、とぎすまされた威力を発揮している。

…よろしい、「ベルトコンベヤー」が不適切なら、いくらでも言い換えよう――

星座が夜空を巡るように死刑を執行できないものか
十七年蝉が土中で蛹から孵るように死刑を執行できないものか
降りしきる驟雨がオミナエシを揺らすがごとく死刑を執行できないものか
雪の朝の初潮のように死刑を執行できないものか
回転するルーレットの上に浮かび上がる数字の幻影のように死刑を執行できないものか
元法務大臣への皮肉など読んでも仕方がない。むしろそれをきっかけに噴出した、言葉をめぐるこの場違いな祝祭感覚が圧倒的なのだ。よくわからないがとにかく言葉が押し寄せてくる、言葉に酔ってしまう、そんな酔いの可能性がこれでもかと提示されるのである。

 「名詞で読む世界の名詩」などは今後、ときどき引用される作品となるかもしれない。もちろんこういうのは、最初にやった人が偉い。

秋 夜 彼方 小石 河原 陽 珪石 個体 粉末 音 蝶 影 河床 水
(中原中也「ひとつのメルヘン」)

蠅 時 部屋 静けさ 空 嵐 目 涙 息 攻撃 王 形見 遺言 部分 署名 羽音 光 窓
(エミリー・ディキンソン「蠅がうなるのが聞こえた――わたしが死ぬ時」亀井俊介訳)

あれ 何 永遠 太陽 海 見張り番 魂 夜 昼 世間 評判 方向 己れ 自由 サテン 燠 お前 義務 間 望み 徳 復活 祈り 忍耐 学問 責め苦 必定
(アルチュール・ランボー「永遠」宇佐見斉訳)
ちなみにこの詩にはリルケや三好達治、金子光晴、ジョン・ダン、寺山修司、ガートルード・スタイン、北原白秋などの作品からスカギット族の歌謡に至るまで実に幅広い作品が登場する。お見事。

 こんなふうに詩と関われるのだ、いや、関わってもいいのだ、と身をもって示してくれただけでも大手柄だ。すごい、と褒めたくなる。詩集には全体に、詩人がマジシャンのようなシルクハットをかぶって、手品をやってみせたり謎々を出したりするような雰囲気が漂ってもいるが、ほんとうは答えだの種明かしだの放棄して、だまされたままでいるのが一番幸せな読み方だろうなとも思う。


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2010年07月02日

『『チャタレー夫人の恋人』と身体知 ― 精読から生の動きの学びへ』武藤浩史(筑摩書房)

『チャタレー夫人の恋人』と身体知 ― 精読から生の動きの学びへ →bookwebで購入

「萎えの詩学」

 大学院の演習でシェイクスピアの『ソネット集』を読んでいるのだが、中には扱いづらいものがある。たとえば135番。たった14行の中で「ペニス」を表す語が13回も出てくる。こういうの、どうやって語ったらいいんでしょう? しかし、授業で135番を担当した院生は一度も「ペニス」という語を口にせずに、実にさわやかに作品を分析してみせた。そのあとに続いたディスカッションでも、誰も「ペニス」とは言わなかった(と思う)。

 これぞ精読。テクストにあらわれた表情や、テクストからあふれ出す情念をいったん〝宙吊り〟にし、右から左から、上から下からのぞきこむのである。じっと見る。なんでそんなことをする必要があるかというと、元々読むという行為には呪術的な面があるからだ。私たちがふだん、思わず文章を暗唱したり声に出して読んでしまったりすることからもわかるように、文章には読み手の身体に乗り移ってくる作用がある。憑依する。これはなかなか気持ちがいい。まさに快感。興奮する。クセになる。

 でも、そういう気持ちよさって危険だよね、と警告を送るようになったのが近代批評なのでもある。文章がこちらに乗り移ってくるのを「ちょっと待って!」と食い止めながら、読む。精読とは、憑依してこようとする文章の魔力を退けつつ、なお、その文章を受容するという非常に手の込んだ技なのだ。ただ、もっとややこしいのは、二一世紀の私たちにとって問題となりつつあるのが、文章が憑依してくることより、むしろ逆で、憑依してこなくなったということ。文章という制度はもはや機能しなくなりつつあるのかもしれない……。

 そのあたりのことを考えるのに、武藤浩史の『『チャタレー夫人の恋人』と身体知』はとても参考になる。本書の前半はとりあえず正攻法で、作品の言葉や展開を分析しながら、背後にある歴史状況やイデオロギー的なニュアンスを明らかにするというスタンスになっている。たとえば、この作品では階級問題が身体感覚を通して描写されているといった説明は、そもそも時間をかけて小説を読んだことのない人にとっても助けとなりそうだ。

 しかし、丁寧に読むという程度のことなら『チャタレー夫人の恋人』のような有名な作品についてはすでに数多く行われてきた。武藤の議論に独自の色があるとしたら、この作品を語るのに彼がしつこく「精読」という言葉をキーワードにしているということである。そのことによって武藤は、言葉による「憑依」との付き合い方について再考するきっかけを与えてくれる。

 本書でまず柱となるのは、『チャタレー夫人の恋人』を「性愛小説」という枠組みから解放しようとする試みである。このような姿勢は、単にこの小説を「エロ本」として読もうとするような通俗的な読みを退けるだけでなく、この本にふつうに知的に感動しようとする読者にも警鐘を鳴らす。つまり、「男女の触れ合いの温かさが機械文明の冷たさと鋭く対照的に描かれている」とか、「性的に解放され本来の人間関係を見つけた男女が社会問題の解決の鍵を握る」といった読み方はイマイチですよ、というのが武藤の最初のステップなのである。

 これが〝憑依の禁止〟の段階である。『チャタレー夫人の恋人』の言葉に乗り移られた読者は、性的に興奮するにせよ、人生指南や社会問題理解の書として感動するにせよ、その言葉に乗り移られることで作品を読んでいる。あるいは乗り移られたつもりになっている=乗り移られることで読んだことにしようとしている。武藤の精読は、その〝乗り移り〟から読者を解放し、私たちを文章の裏側へと導こうとする。

 その裏側には、性愛を性器中心にとらえたり、異性愛を前提としたりする考えをひっくりかえすような見方がある。武藤の狙いは、こうして『チャタレー夫人の恋人』にまっすぐに興奮していこうとする読者を、いったん萎えさせてしまうことなのだ。性的にも文化的にも。

 しかし、それが終着点なのではない。武藤の議論の核心はまさに「萌え」ならぬ「萎え」にある。

…『チャタレー夫人の恋人』の場合も、その始まりと終わりに注目すれば、男根は「うなだれて」始まり「うなだれて」終わっている。物語冒頭では言うまでもなくクリフォード・チャタレーの戦傷による下半身不随への言及がそれに当るが、見過ごされがちなのは、猟番メラーズが書く手紙という形を取っている小説最後の一文である――「チンスケしゃんは、ちょっとうなだれて、でも希望に満ちた心で、マン姫しゃんにおやすみと言っています」。

 武藤はこうしてロレンス自身の不能問題や〝健康な〟性器中心主義に対する違和感といった伝記的事実を織り交ぜながら、『チャタレー夫人の恋人』がまさに「萎え」の小説であることを明かしていく。その過程では性器からはずれた性愛の可能性――たとえば「尻」への執着――なども視覚的な証拠を交えて実証されていく。

 しかし、何よりおもしろいのは、このように「萎え」を語る武藤自身の語りが、「萎え」どころかある種の熱狂をすら体現していることである。上記引用部のあとはこんな具合だ。

つまり、『チャタレー夫人の恋人』はクリフォードのうなだれた男根への言及で始まり、猟番が自らの男根がうなだれていることを記すことで終わる小説なのである。もちろん、この作品は十数回の性交描写を含み、勃起して機能する男根が描かれるが、巻頭と巻末で言及される機能しない男根の意義と重要性もまた忘れてはいけない。絵画と小説とこの時期の作品を総合的に見て判断すると、あるレベルで勃起男根にこだわると同時に、別のレベルで勃起しない男根にこだわっていることが分かる。

我が院生と違い、「男根」とか「勃起」といった言葉をこれでもかと頻用しながら、武藤は「萎え」の性愛を不思議な盛り上がりとともに描出していくのである。武藤自身の文体に元々ある反復を厭わない〝元気さ〟が、このような形で「萎え」と組み合わせられていくあたり、青白い訓詁学を連想させがちな「精読」という作業に新しい可能性を開くようで頼もしい。

 武藤自身がこの小説の訳者だということもあり(ちくま文庫刊)、ふんだんな作品からの引用と地の文との息のあった競演も楽しめる。とりわけ、翻訳の際に武藤が気を遣った方言の訳出が、本書の議論の中で「純粋な階級」と結びつけて語られるあたりは読みごたえがある。武藤の言う「標準語では表現不可能なものを表現できる優れた身体的言語としての方言の力」がいったいどんなものなのか、最後に実例を引用して終わろう。(九州弁がなかなかいい。)

《ばって、おまえはよかまんこじゃのう。この世に残った最高のまんこばい。……》 《まんこってなに?》と女が訊いた。 《知らんとね? まんこはまんこじゃ! 下のほうにいるおまえじゃ。おれがおまえん中にいる時におれが感じるもんじゃ。おまえが感じるもんじゃ》

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