« 2010年04月 | メイン | 2010年06月 »

2010年05月18日

『抱擁』辻原登(新潮社)

抱擁 →bookwebで購入

「ゴシックとさわやか」

 こういう作品は近頃あまりない。
 とにかく綿密で隙がない。小説ではあるけれど、横から見たりひっくり返したりしながら造形美術のようにして味わってみたくなる。きっちりと準備された設計図があって、作品内にいくつもの論理の筋が通っていて、何より「ああ、この小説を書いた人はすごくちゃんとした人で頭もいいんだろうな」と思わせる。作品に良い意味での〝知性〟が溢れている。

 主人公は住み込みの小間使。彼女の「下から目線」で語られるいわゆる〝女中さん小説〟である。舞台となるのは日本でも有数の名家加賀前田家の邸宅「駒場コート」。現在は駒場の近代文学館となっている実在の屋敷だ。時代は戦争前夜の昭和初期で、五・一五事件、二・二六事件などを背景に何となく不吉な死の香りが充満している、そこに得体の知れない亡霊めいた存在が現れ、幼い「お嬢様」に近づいてくる…という展開になっている。

 こうしてみると、豪邸を舞台とした戦前の探偵小説の数々が思い浮かんでくる。道具立ても時代設定もそういう連想を意図したものだろう。また亡霊と無垢な子供のあやしい「交信」というと、ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を連想する人も多いはず。物語を中立的な立場から伝えることになっている使用人が、実は誰よりも積極的に物語を動かしているというあたりの〝逆転〟はいかにもジェイムズ的だし、最後の一行などは、おそらく読書会などで扱うにはもってこい、どう読んだらいいのか十くらいの解釈が出てきそうである。まさに『ねじの回転』のあの妙な終わり方と同じだ。すべて作家の計算のうちだろう。

 ただ、大きく違うところもある。ジェイムズの作品の方は徹底的に官能に淫しているというか、ほとんど変態的で、何だかわけのわからない執着に突き動かされている。その気持ち悪さが読み所にもなっている。「この作家はきっとかなり変な人だ。頭はいいのかもしれないけど…」という印象。対して辻原の方は、むしろそういう息詰まる感じからさらっと解放してくれる。まるで作品の中を風が吹き抜けるようで、哀切感とも虚脱感ともつかない情趣と、広々とした見渡しの自由さとをまじらせた心地へとこちらを導く。

 いわゆるゴシック趣味の小説では、弁士たる語り手の饒舌さやいかがわしさと「付き合う」というのが読者の心持ちとなる。やたらと熱気があって興奮していたり、押しつけがましかったりくどかったりする語り手。ジェイムズでもポオでも、ウォルポールでもメアリ・シェリーでも、乱歩でも高太郎でも虫太郎でも、たぶんこれは共通している。

 もちろんそれは「ありえない物語」を語るための敷居のようなもの。そこを越えてつきあえれば、ようこそ、こちらの世界へ、と中に導きこまれる。ところが、この『抱擁』の語り手はそういういかがわしさとはそれほど縁がないように思える。ですます調のへりくだった態度にはたしかに〝過剰さ〟が読めなくもないし、前田家のお屋敷を「東洋一」などと讃えつづけたり「パジャマ」のことを「ピジャマ」と言ったりするあたりは、ん?と思わせないではないが、語り口の全体にふつうの意味での〝品〟がある。多くのゴシック小説でことさらひけらかされる上流階級臭とはひと味ちがう。

 とりわけ物語が佳境にさしかかるところがいい。この主人公、言葉の使い方についてはとても抑制的なまじめな人で、やたらとよけいな比喩を使ったり、洒落た言い回しで煙に向いたりということもない。だが、「いよいよ何かが起きる!」というところでだけは急に仮面を脱いだように一歩前に進む。

 コートをひとりで歩き回るという行動は、わたし自身の心の中を散歩するという側面も含まれています。
 こうして、散歩を重ねるうち、決行の時が近いことを予感し、心が昂揚してゆくのを覚えました。不遜なことを申しますと、クーデタを起こした将校さんがたの心持ちも、このようなものではなかったでしょうか。もちろん、あのかたたちのお庭は、わたしなどと較べものにならないほど広大なものだったでしょうけれど。
 そして、決行の日、その庭はぎりぎりの狭さまで縮められたはずです。

「心の中を散歩する」という科白はとっておきのものだ。まさに作品世界をひと言で表す言葉。ふっと読んでいる者の認識をずらす。この小説の庭はさまざまな出来事の起きる重要な場所だが、こういう一節に描かれるときには、「どうだこれでもか!」とばかりに濃厚な象徴性を担うわけではなく、小説世界を外にむけてひらりと開くような通過装置/チャンネルとして機能している。庭にいることで、どこか別世界にいることができる。庭とか家とか過去といった求心的かつ閉塞的なゴシック仕立てをふんだんに使いながらも、むしろ「そうではない場所」とか「自分の知らない人」といったものに想像力をはせる感覚を思い出させてくれる。この小説は、そういう場所をうまく想像させてくれる作品なのである。

 抑制された言葉を語りつづける主人公は、語り手としては自分の生理や心理についてとても抑圧的である。ただ、ある段階からそれが変わる。お嬢様の緑子がなついていたゆきのという使用人と自分との関わりについて語り手が次第に目覚めていく。鍵となるのは、タイトルの元となっているある英語の言葉(某現代イギリス作家の作品名でもある)。この言葉の担う多義性が、ラストのシーンの複雑さともからんでくる。

 そして、忘れてはいけないのは家庭教師のバーネットさん。物語の要所でタイミングよく登場して「お知恵」を授けてくれる。探偵のいないこの小説でミステリーには欠くことのできない進行役のような役目を担ってくれる。ドラマ化するならとても重要な役柄となりそうだ。小説中でもなかなか良い味を出している。もちろん、実はこの人が怪しいのでは?という見方もありかもしれない。

 こうしたゴシックミステリー風の筋立てを二・二六事件のような政治的な事件と正面から重ねるというと、それこそかなりフルボディの渋重い作品になりそうなものだが、読んでみるとそんなことはない。とてもさわやかなのだ。むしろ、そうした出来事が何と言うことのない日常のいちいちと同じ地盤の上に起きているのだという、小説的な「常識」を再認識させてくれる。

 書き手の「変さ」が露出した小説というのもいいものだが、こんなふうにしっかりと正気の書き手によって丁寧に計算された言葉の世界に酔ってみるのもいい、それも必ずしも目指すところが謎解きではないところがかえっていいなと思わせてくれるスマートな作品である。


→bookwebで購入

2010年05月02日

『真昼なのに昏い部屋』江國香織(講談社)

真昼なのに昏い部屋 →bookwebで購入

「擬態語のお行儀」

 思わず擬態語に目がとまる小説である。冒頭近くにはこんな一節がある。
 母親らしい女性の押す乳母車とすれちがい、ジョーンズさんは目を細めました。赤ん坊が好きなわけではなく、赤ん坊がきちんとケアされているのを見るのが好きなのです。乳母車には青と白の縞の幌がついていて、はちはち肥った赤ん坊の他に、小さな羊のぬいぐるみが乗っていました。

「はちはち肥った赤ん坊」なんて言い方、筆者は生まれてはじめて見た。でも、すごくいい感じである。まだある。

ほうとうは、美弥子さんはそのお菓子があまり好きではありませんでした。さつま芋とかゆで玉子とか栗とか、もくもくした食べものは胸につかえるような気がするのです。

「もくもくした食べもの」なんて、やっぱり聞いたことがない。ほかにも美弥子さんがうちの中のことを「ごたごたしてるの」と言ったり、庭から玄関にサンダルで出てくる美弥子さんが玉砂利を「ぱちぱちざくざく」いわせてきたり。

 『文章読本』の谷崎潤一郎なら、「そんな幼稚な言い方をしてはいけません」と注意しそうな言葉の使い方である。でも、そこがかえっていい。幼稚で、おとなの言葉になりきっていない、そこから言葉以前の、〝音〟が聞こえてくる。この人達はどうやら言葉以前のところに足を踏み入れているようなのだ。

 擬態語そのものはそんなにたくさん使われているわけではないが、言葉で上手に遊ぶのをゆるす気配がこの小説にはある。地の文は童話風の〝ですます調〟で、だから丁寧で、おっとりしていて、まどろっこしいほど正確に言葉を使おうとする語りの身振りが目につくのだが、丁寧でゆっくりで正確だからこそかえって道を踏み外してしまうかもしれないような、妙な境地というものがある。

 それを身をもって示すのが主人公の美弥子さん。この人はすごくお行儀が良くて、いい人で、誠実で、でもときに理性で整理されきらない感覚を、そのまま生きてしまうこともできる人なのである。食べものが「もくもくした」なんて感ずることができるのは、実は日常の言葉にどっぷり使った人ではない。日常からちょっとずれていて、言葉の使い方も素人みたいで…だから相手の言葉やジェスチャーにも始終敏感で、ときには違和感を覚えたり、発見をしたり。それで、ああ、そうか、と思う。

 外国人なのである。主人公の美弥子さんの本質は、外国人。だからこそ、このひとはこんなにお行儀よくしようとしていた。型に合わせようとしていた。彼女にとって、日本語は外国語なのだ。実際、この小説のもうひとりの主人公は紛れもない外国人なのである。ジョーンズさんは、知的で日本語のうまいアメリカ人。大学で講義をしていないときは短パンにビーチサンダルみたいな恰好で出歩く。谷崎の『陰影礼賛』に影響を受け、日当たりの悪い古いアパートに住み、その暗がりで「電気をつけてしまうと、途端に味けなくなるんです」などとつぶやいている。その部屋には「暗がりにしか生息できない、目に見えないものたちがいて、あかるくすると、そいつらが逃げ出してしまう」そうだ。なんかいかにもインテリっぽい。バーボンの銘柄をわざわざ日本語で「野生の七面鳥」などと呼び、寿司屋に足繁く通う。まあ、日本によくいるタイプのアメリカ人かもしれない。

 でも、「いるよなあ、こういうアメリカ人」では終わらせないところが江國香織の技。そのあたりを堪能したい。このジョーンズさん、「フィールドワーク」と称して会社社長の奥さんである美弥子さんを散歩に連れ出す。散歩がお茶になる。そして、お茶がこんどは銭湯! 「週刊現代」連載とのことなので、こうした展開に〝おやじ〟の夢想の反映を見る人もいるかもしれないが、そんなことよりも大事なのは、この小説のほんとうの〝外国人〟である美弥子さんの、その外国人らしさを、〝ニセ外国人〟のジョーンズさんがだんだん開拓していく手つきである。何というか、うそっぽいほど丁寧でまわりくどくもあるけれど、おかげで振る舞いも言葉もぱりっとまぶしく輝いて見える。

 もとをただせば、どれもこれも語り手が仕組んだことである。すごくおせっかいというか、いじりたがり屋の語り手なのである。人物たちの頭越しに話を進めることもしばしばで、人物が言わなかったことや、しなかったことまで勝手にネタにしてしまう。でも、このおせっかいな語り手の、やさしい介入に甘やかされている人物たちの、その自立しきらない、ぬくぬくと保護されたような描かれ方が実に楽しい。ストーリーが佳境に入ったところ、美弥子さんがはじめてジョーンズさんの家に泊まった朝に、こんなひとコマがある。

パジャマ姿のジョーンズさんを、美弥子さんは男っぽいと思いました。あまりじろじろ見るわけにはいきませんから、視線は頭部に据えて話しましたけれど、この人パジャマが似合うわ、というのが、偽らざる感想でした。そして、急いで浩さんのパジャマ姿を思いだそうと努めました。そうすべきだと思ったのです。ちゃんと思い出せましたので、美弥子さんはほっとします。大丈夫、私はひろちゃんのパジャマ姿も、とても好きだわ。

美弥子さんは、これから道ならぬ恋に走るところなのである。でも、ジョーンズさんに見とれつつも、旦那の「ひろちゃん」に未練があるのか、あるいは、未練があると信じようとしているのか。微妙な位置だ。そこを、よくまあ、上手にいじくったものである。よりによって「パジャマ姿」とは…。もちろん、美弥子さんにも、こんなふうにちょっかいを出されてしまう天然なところがあるのは間違いないが、大元にあるのは「丁寧さ」と「正確さ」とを通して表現される、違和感と心地良さとのくすぐったいような混じり合いである。人物たちが世界の中で、居心地がいいのか悪いのかわからないまま、もぞもぞしている。語り手がそこを突っつくのである。

 著者の腕前を持ってすれば、これくらいさらっと書けてしまうのだろうなと思わせるストーリーである。母国で居心地の悪い思いをしてきたアメリカ人が日本にかぶれ、住み着き、日本の人妻と恋をする。面倒くさいどろどろのエゴイスチックな恋ではない。芯はけっこう熱いけれども外側はきりっとした大人の恋愛。作品も一生懸命になりすぎないやわらかい筆致で、やさしく、おっとりとふたりの〝発展〟を語る。暴力的な展開もトリックもないし、特定のテーマへの執着もない。ほぼ予想通りに健やかに上り詰める。そして終わる。でも、とにかく、眩暈がするほどしなやかな語り口なのである。もちろん、ほんとうは細心の注意の払われた文章で、主人公の二人が日本語から遠く離れているように見せかけつつも、極上の日本語の世界を作りあげている、そんな語り手の言葉の操りぶりは見事というしかない。こんなことができるんだ、日本語で、という嬉しい気持ちで一杯になる。最近の日本語の小説は幼稚で、などと見当外れのことを言っていた作家がいたが、こんなふうに〝幼さ〟を利用できるところがいい。まさに堂々と誇れる日本語の世界ではないだろうか。
  


→bookwebで購入