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2010年04月20日

『この世は二人組ではできあがらない』山崎ナオコーラ(新潮社)

この世は二人組ではできあがらない →bookwebで購入

「センテンスの魔術師」

 ゆるゆるの恋愛小説だと思ったら大まちがいである。
 この作家は言葉にとてもこだわる。プロだなあ、と思う。下手すると小説であることさえ、二の次なんじゃないかというくらいまっしぐらに言葉に立ち向かっている感じがある。緻密で、シャープ。ずらしやひねりも効いている。だから、語りがいちいちきゅっと差し込んできて、まさにイタ気持ちいい。

 もちろん警句だけで作られたような〝つぶやき小説〟ではない。人物造形もしっかりしているし、展開にも説得力がある。主人公の「紙川さん」はへらへらした女たらしかと思っていたら、意外とそれだけでもないところもあって、でも、やっぱりそうだったりもして、あっちこっちに揺れているのだが、そんな生半可な色男が、ちょっと突っ張った語り手の「シオちゃん」を魅了してしまう。その不思議さが実にうまく表現されている。不思議どころか、ああそうだよな、と思う。こういう女はこういう男に弱いんだろうな、と納得する。

 とくに絶妙なのは、紙川さんがはじめてシオちゃんに告白するあたりのシーンなのだが(恋愛小説でここがダメだったら話になりませんね)、そこはむしろ読んでのお楽しみにとっておくとして、紙川さんがふだんどんな言葉をしゃべる人かというと…

「でもさ、仕事が終わったあとに、文庫本一冊と、缶ビール一本を買って帰るのが、一日の終わりの楽しみなんだ。部屋で読書したり、CD聴いたりしていると、生きているって感じがするよ。文化ってすごいなあって」

さて。これで、相方が「うん、文化ってほんとすごいんだね」などと返したら話にならないわけだが、小説家志望のシオちゃんの方は、対照的に、こんなことを考える人なのである。

相手の好意を感じるのは決して、好きだ、言われたときではない。
それから、好きだ、という科白をひとりの異性にしか使ってはいけないという社会通念を、私はばかにしていた。どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか、不思議だった。

紙川さんとシオちゃんの言葉のレベルはぜんぜん違う。ふたりはほとんど別世界、別惑星に住んでいるのだ。だから、紙川さんがああいうことを言うとシオちゃんは、「ふうん」と言いながらもやや「???」な心境になっている。少しだけ意地悪な眼差しを送っていたりする。でも、この「意地悪」はおそらく「この人かわいい」という気持ちと限りなく近い。だから、この微妙な距離が、むしろ紙川さんとシオちゃんの恋愛の形となっていく。

紙川さんはときどき不安そうな顔をするなあ、と思ったら、どうやら私のことが本当に好きらしい、それで私のことを考えているようだ。手や腕が偶然に触れ合ってしまうようなときに、そのことが伝わってくる。自分はこの人に何かを与えてあげられるかもしれない。傲慢かもしれないが、そんな気がしてならなかった。

科白にせよ、心理描写にせよ、ふたりの気持ちが語られる言葉はことさら〝無防備〟だ。一歩まちがえたら気の抜けた紋切り型になるところ。それをぎりぎりのところでずらしている。「文化ってすごいなあって」とか、「私はばかにしていた」といった一言は、まさにボール一個分の出し入れなのだが、でも、これでストライクをとる。

 物語の芯を成すのは、シオちゃんの「自分はこの人に何かを与えてあげられるかもしれない」という言葉である。シオちゃんは〝与える女〟として成長していく。古いタイプの〝与える女〟ではない。決して女であることをやめるわけではないのだが、男っぽいところがある。それも演歌っぽく抒情的に男っぽいのではなく、もっと現実的にというか、制度的に男っぽい。市役所に行って、親から籍を抜いて自分だけの籍をつくったり、もうほとんど関係が終わりかけている紙川に金を融資したり。

私は金を送り続けていた。そのことが彼の「距離を置きたい」と言いたくなる気持ちに繋がっていたのだろう。要はプライドの問題である。だが私は、「彼のプライドを傷つけている」ということに却って喜びを覚えてしまった。嗜虐というのか、変な快感がある。もっと金を送りつけてやりたかった。

なかなかいやな女だ。しかし、紙川さんの方は金をもらう前に「オレは返すけど、普通、同年代の男に金を貸すなんて、あげるようなもんなんだよ」なんて忠告したりするわけで、どっちが一枚上手かわかったものではない。おもしろい恋愛である。

 出だしが「社会とは一体なんであろうか」などという、社会学の教科書みたいな一文ではじまるこの作品には、小説への挑戦状めいた趣がある。人物の造形にしてもそうである。「この小説の主人公である紙川さんは二月生まれであり…」とはじまり、「どうしてもてるのか不思議だったが、そのふざけ具合や極端さ、自信のある感じが、若い子には受けるのかもしれなかった」などと言われると、こちらはほとんどこの紙川さんに興味を失いかけるのだが、ここからじわじわとしぶとく人物を作っていってしまうのだからすごい。

 帯にある「社会派小説」というキャッチコピーはおそらく作者がつけたものではないだろうが、この作品で山崎ナオコーラが、自身の言葉のセンスをたよりにかなりきわどいことをしているのはたしかだ。ふつうは小説では避けられるような「社会」の言葉をあえてとりこみ、物語の大事な部分で生かしている。何より、「社会」という言葉そのものがやけにたくさん出てくるのだ。

そして私は辞書をひくのをやめた。
 言葉は、社会の中をただ流れている。言葉には美とユーモアがあるだけで、意味というものは存在しない。社会の中で生き、耳をすましていれば、語彙は増える。言葉はただの道具で、面白いだけだ。
 また三月三十一日に小説を書き上げ、出版社に送った。

いろんな言葉のレベルを錯綜させようとしているらしい。まるで世界そのもののように。「文学」で「社会」を描くなんていう大業なものではない、ごちゃごちゃっと「文学」と「社会」とが混じり合うのだ。伝記的事実に符合しそうな細部も多く、「ほんとにそうなんだ」という感想を誘うが、そんな中にあって、「センテンスの魔術師」とでも呼ぶべきこの著者がもっとも才能を発揮する鋭利な言葉は、あくまで抑制的に、禁欲的に使われている。

世界の深淵を眺めていたい、遠くの風に耳を澄ませたい、薄氷を踏むように喋りたい。

たくさん喋ったあとのケータイは熱い。赤ちゃんのような熱を帯びる。

ほとんどそのまま現代風短歌としても通用するくらいの突っ張った言葉だ。でも、山崎のこの小説はあくまで〝歌〟の一歩手前で踏みとどまっている。その方がいいな、と筆者も思った。


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2010年04月05日

『日本人の英語』マーク・ピーターセン(岩波書店)

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「そう簡単に英語はできるようにはなりません」

 すごい。20年で実に62刷である。いったい何人の人がこの本を手に取ってきたことか。読んだことはなくとも、タイトルくらいは知っているという人も多いだろう。たしかによく書けている本だ。「日本人が間違えやすい英語」の特徴を指摘する類書は数多く出ているが、独自の視点がたくさんあるし解説にもひねりがある。

 しかし、同時に大きな疑問も浮かぶ。こんなによくできた解説が書かれロングセラーにもなっているのに、なぜ日本人の英語は一向に上達しないのか。

 筆者はこの手の本を開くときは、まず冠詞のセクションをチェックする。冠詞は「日本人が間違えやすい…」の代表格である。英文学研究者の中でも、筆者から見て「こんなに頭がいい人がいるものだろうか」と思わせるような人が、冠詞となると、とたんに尻込みしたりする。冠詞は頭の善し悪しとは関係ないらしい。決して決まりが複雑なわけではないのだが、どうもうまくいかない。筆者も間違える。うっかり言い間違えることもあるし、どっちだか悩んで、「これでどうだ!」と賭に出たら、見事に失敗ということもある。

 そのあたり、著者のピーターセンの説明は実に明快である。いけないのは、日本で流通している文法書の考え方だという。たとえば文法書では、典型的な冠詞の解説は次のようになっている。

不定冠詞は具体的な一個体をなすものを表す名詞につける。したがって、単数普通名詞は特別な場合を除き不定冠詞をとる。

これのどこがいけないのか。ピーターセンは次のように言う。
 

この類の説明では、すでにあった、ちゃんとした意味をもった名詞に、a(an)は、まるでアクセサリーのように「正しく」つけられるものであるかのように思われる。

しかし、本当は逆である。すでにあった、ちゃんとした意味をもっていたのは、"a second glass of the old Madeira"のglassではなく、そのaである。そして、glassという名詞の意味は不定冠詞のaに「つけられた」ことによって決まってくる。

鋭い指摘だ。たしかに英語でも日本語でも、文章というものは前から読んでいくものである。よほどの悪文でない限り、前から読んでいくことで意味がとれるのはあたりまえ。ましてやaやtheといった、頻繁につかわれる、そして意味の上でも重要な機能を果たす語であれば、聞かれたり読まれたりするそばから意味の一部として消化されるのでなければ効率が悪いことこの上ない。

 話し手の素振りを見てもそれはわかる。発話の現場で、"I
ate a...a...a hot dog!"いったふうに言葉を探すという場面にはよく出くわす。冠詞がこのように〝呼吸の置き所〟となりうるのは、そこで心が動くからである。冠詞は決して機械的に決定されるものではない。名詞を口にする前に、人が主体的に選び取るものなのだ。人は次に来るべき名詞について、まず、その形がはっきりして単位として数えられるものなのか、それとものっぺりした材質的なものかといったことから、徐々に頭に思い浮かべるのである。

 theについてもしかり。「決まっているものにはthe」というのが文法書のおきまりの説明だが、これがくせ者である。theというのはあくまで語り手が自己責任で選ぶものである。あたりをきょろきょろ見回し、周りの目を気にしながら「じゃ、僕もtheということで、よろしく」というように弱気に決めるからおかしなことになる。大事なのは、theの場合、自分でちゃんと説明できるということなのである。つまり、主導権はこちらにある。堂々と言えばいいのだ。「君も僕もわかっている例のあれね」というニュアンスをこめ、それを土台にして話の流れをつくる。

 どうやら問題の根は、冠詞の存在性を日本人がどう受け取めているかというところにあるらしい。「手強い冠詞さん」というイメージがある。よくわからないルールがあって、口にしたとたん、「ブ~~♪ 外れ!」と赤ランプがつくように思っている人が多い。

 これはなかなか厄介なことだ。ピーターセンは、日本人に「余分なtheが多い」という。たしかに、と思う。theをつけてあるのに、文脈の上で、そのtheの示すものがわからないという誤った使い方は多い。theを使うからには、語り手が「君も僕もわかっている例のあれね」と宣言しているわけだから、「その例のって、何?」という問いに対する答えが与えられていなければならないのに、そうなっていない。読んでいる方は「???」となる。

 なぜ、「余分なtheが多い」のか。ピーターセンは、「それだけ英語らしく聞こえるからではないだろうか」という。英語っぽくみせるために、よくわからないがとりあえずtheをつけておく、と。どうだろう。そこはどうですかねえ、と筆者は思った。

 実は日本語にもthe的なものはある。典型的なのは、「なのである」とか「のだ」といった語尾である。「なのである」と言われたら、当然、聞いている方(あるいは読んでいる方)は、きっとその発言の正当性について語り手が何らかの保証をしてくれるはずと理解する。ところが実際にはそうでもないことが多い。いくら読み返しても、なぜ「なのである」のか、いっこうにわからないということがある。

 これは筆者の感触なのだが、日本語では「なのである」で断定や了解を含意するにあたって、まるで先物取引のように、「まだ説明してないけど、あとで説明するから許してね」(「まだ払ってないけど、ぜったい払うって約束するから」)というような形で、前借りの形をとることが許されているのではないだろうか。

 ところが、この前借りはしばしば踏み倒される。つまり、「払うから、払うから」と約束しつづけて、結局払わないというようなインチキな論というのも結構ある。しかし、それでも結構何とかなってきたのが、日本語の文化なのである。言うまでもなく、このようなtheの前借りが行きすぎれば、論証とか説明といったプロセスが機能しなくなる。だがその一方で、あまりにtheについて杓子定規にルールをあてはめ、「え?それはどこで説明があるわけ?」というと、信用収縮のようなものが起きて、やたらと血の巡りの悪い文章が横行してしまう。その典型はお役所文書だ。アリバイづくりにばかり熱心で、スキはないのだが、何を言っているのかぜんぜん頭に入ってこない。

 「日本人の英語」で見られるtheの過剰な使い方は、実は日本語文化の自己主張なのではないかとも思う。必ずしもtheについての文法書の説明が悪いのではない。いや、本書『日本人の英語』に限らず、上手な説明はたくさんなされてきた。にもかかわらず、うまくいかないとするなら、まさにそこが注目のしどころなのだ。

 冒頭で筆者が立てた問いに対する答えは、このあたりにありそうだ。「日本人英語の間違い」本のセールスポイントは、「馬鹿だなあ、ネイティヴスピーカーはそんなふうに言わないよ」というメッセージにある。英語コンプレックスの日本人は、しかられるのが大好きなのだ。日本には特有の寺子屋的「しかられの文化」のようなものがあって、それが日本人の勉強欲をかき立ててきたわけだが、「ネイティブスピーカーのおしかりを受ける」というこのパタンは、本人が突然〝ネイティヴスピーカー〟に生まれ変わることが構造的に不可能である以上、永遠に再生可能でもある。

 おそらくこの本を手に取った人の中には、著者の露骨な「馬鹿だなあ、ネイティヴスピーカーはそんなふうに言わないよ」的スタンスにイラッとする人もいるだろう。日本人英語の幼稚さや滑稽さをあげつらう表現があちこちにあり、今ではおなじみになった、Tシャツの変な英語なども恰好のネタになっている。イギリス人が書いたならともかく、いくら80年代とはいえ、あれだけいろんな英語が流通するアメリカからやってきた人が、ここまで「正しい英語」を振りかざすのは、ある意味驚きでもある。解説が秀逸であればあるほど、この語り口は鼻につくかもしれない。

 しかし、これはゲームなのである。むしろ我々読者の方が、「日本人の間違い」というタイトルに惹かれた時点で、しかられることを求めている。その先にあるのは、英語について「なるほど」と合点しながら知的好奇心を満たしたいという欲望である。ちょっとした〝保守反動〟を演じるピーターセンが意識するのも、そういう視線だ。いわば「趣味の英語」の世界。この著者は、「ほら、こういうふうに考えるとわかるでしょ」と理屈を立てるのがうまい。それが〝真実〟かどうかよりも、ともかく「なるほど」と思わせる。そして「どうしてそんなことがわからなかったんだ、かわいそうなオレよ!ちゃんと理屈があるのだ!」と、ほとんどすがすがしいような敗北感が心地良く私たちの胸を打つ。

 このような〝しかられ〟の構造がある以上、いくら『日本人の英語』が62刷出ても、日本人の中からなかなか冠詞王のような人がでないのは致し方ないことだろう。理屈に快楽をおぼえた時点で、どこか本末転倒になっている。でも、きっと、それで十分なのだ。誰も本気で〝ネイティブ・スピーカー〟になろうなんて思っていない。そう簡単に英語はできるようにはなりませんよ、というポイントこそがこのゲームのもっとも大事なルールなのだ。筆者もその点では、ちょっとした〝経験者〟なのである。



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