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2010年02月25日

『老人賭博』松尾スズキ(文藝春秋)

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「世にも珍しい変身譚」

 なかなか強烈な出だしの小説だ。
顔面の内側が崩壊する。そんな奇病を患って少々のことでは動じない自分もさすがに慌てふためいた。

 主人公の金子は、皮膚の内側に浮腫ができてどんどん腫れるという「呪いにかかったような病気」にかかる。原因は不明。顔が醜くゆがみ、マッサージの仕事にも支障がある。ところが、慌てて手術をして皮膚の下の浮腫を取り除き、ゆがんでしまった顔を美容整形で整えてもらったら、こんどはやけに鼻筋も通り、目元もくっきり。元とは似ても似つかない。こうして、「わけもなく陰気な顔」から「わけもなくつぶらな瞳の青年」になってしまった主人公の、いわば変身譚として物語はスタートする。

 ものすごく引きこまれる出だしなのだが、同時にこの先どうするんだろうという警戒感も湧く。ビデオ屋でコメディ映画を借りてくるのが人生唯一の楽しみだという金子が、いきなり喧嘩が強くなって次々にちんぴらをやっつける、などという話になると、ん?SFなの?などとも思う。脚本家と妙な師弟関係を結んでマッサージ師をやめ、映画撮影のため九州へと出発するあたりは、〝珍道中もの〟の風情だ。

 とにかく前半は出だしの主人公の慌てぶりそのままに、ばかばかしさ寸前のエピソードが次々に連なる。実に軽い。しかし、嫌な感じの軽さではない。こちらの予想に反し、バトルだの、復讐だの、秘密だの、陰謀だのといったありがちな展開やサスペンスには収まらず貧乏で、痩せぎすで、病気持ちの人間がたくさん出てくるような、どちらかというとくすんだ日陰の世界が見えてくる。〝人情系〟といってもいい。

 いや、実はバトルや復讐や秘密や陰謀も、あちこちで物語に織り込まれてはいる。クライマックスの焦点は何しろ賭博だから、丁か半か?というわかりやすい緊張感がある。ただ、語り口がたいへん伸び伸びしているというのか、「見事な小説」になろうとする重い自意識のようなものがなく、おかげで、舞台となる九州の田舎町のしぼんだ雰囲気をうまく生かした、がさつで、いい加減で、安っぽくて、運が悪そうな空気のたっぷりと漂う小説世界に仕上がっている。

 それでいて、やけに明るいのだ。とにかくいちいち小ネタが冴えている。「童貞をこじらせている」という金子は酒も飲めない女も知らないけれど、筋肉もりもりでめっぽう喧嘩に強いという相当強引な設定なのにちゃんと物語を進めてくれるし、「いしかわ海」なる名前のグラビアアイドルはその「ふつうさ」がいい。頻出する喧嘩シーンのちんぴらの台詞もいちいちはまっているし、金子に蹴り飛ばされるだけのちょい役の犬なども、筆者はなかなか気に入った。

しばらく歩いていたら、酒屋兼タバコ屋みたいな店が、かろうじてという感じでまだ開いているのを見つけたので、小走りに駆けこむと、店の軒先でバスターミナルで見た野良犬とまだ出くわしてしまった。それを嗅いでどうするんだ、というようなビニールの切れっぱしの臭いをクンクン嗅いでいる。近くで見ると卑屈な顔をした犬だ。蹴りたくなったので軽く蹴り飛ばしてみた。野良犬はキャンと叫んで、真っ黒い尻の穴を思い切り見せながらテテテと走り去った。

 劇中劇に使われる『黄昏の町でいつか』なる映画も、タイトルからしてそのぱっとしない感じが印象的だ。とくにクライマックスで老俳優が言わされる脚本の台詞は芸が細かい。映画は、老人が若い女と力を合わせて田舎町のシャッター商店街を再生させるという筋書きなのだが、おしまいの方に老人がしみじみ人生を振り返って少女に語りかけるというシーンがある。このシーンの撮影でわざとこの老俳優にとちらせ「NG賭博」に勝つというのが賭博参加者である脚本家のもくろみで、そのために脚本家はわざととちりやすいように台詞を書き直すのである。

(改稿前) 「もう、平均寿命超えとるんよ。それなんに、俺はなーんもできとらん。女房にもなんもいい思いをさせきらんで死なれてしもうたし、50年やって来たラーメンも、まずくもないけどうまくもない、みんな近所やけん惰性で食いに来よるだけたい……」
(改稿後) 「もう平均寿命超えとるんよ。それなんに、俺はなーんもできとらん。女房が行きたがってたマチュピチュ遺跡に連れてもいけず、死なれてしもうた。あげんマチュピチュマチュピチュ言うとったんにねえ。50年やって来たラーメンも、まずくもうまくもまずくもない、みんな近所やけん惰性で来よるだけばい、食いに……」

 果たして老俳優はこの台詞をうまく言えるか言えないか。人々は固唾を呑んで見守るのである。実に馬鹿馬鹿しい展開だが、作家の筆はむしろ勢いに乗っている感じで、悪のりとも情愛ともつかない妙な興奮感がストーリーを盛り上げる。

 全体を通して見ると、たしかにどこか斜に構えた小説だ。描かれる世界に対して、まさかねえ、こんなことあるわけないよね、とちょっと突き放した距離感がある。映画制作がメインイヴェントだったり、整形した主人公が仮面をかぶった「偽の自分」を生きている、といった事情も関係するのだろう。すべてが〝ごっこ〟の世界なのである。

 でも、そういう世界をときどき、ぐいっと摑みにかかるような言葉がないわけではない。たとえば親に虐待を受けて「性悪説」を信じてきたグラビアアイドルのいしかわ海は、「世の中の暴力の歴史は悪というより、それをふるうものの「独善」に基づいていると確信する」。その結果、彼女はあえて「偽善」を選ぶことにする。

「だからあたし、心なく人に優しくできるんです。そう自分を訓練してるんです。それってだれも損しないでしょう。心なく優しく、が、あたしが目指す世界幸福のモットーなんです……。」

あるいは金子のお師匠である脚本家・海馬。もともとマッサージ屋で知り合った縁で、お師匠のくせに金子のことを「先生」と呼ぶ。小説の終わり近くで、この海馬が自分の賭博哲学を開陳するシーンがある。

「……先生が次に弁当のおかずのなにを食うか。フライを食うのか、煮物を食うのか。煮物を食う、に100円俺が賭けるとするだろ。そして、先生が煮物を食う。それを神が決定したのだとしたら、俺はそれに100円の値段をつけたって話になる。つまり神の行為を矮小化することで、神の視線の外側に出る。それがおもしろいんだが、なにせ、神はでかいからね。それを相手の遊びだから身も心もクタクタになる」
 

こんなことを言っておいて、金子がなるほどという顔をすると、海馬は「わかったふりしなくていいよ」と白ける。「俺の言ってることなんてほとんど冗談なんだから」。まさにこの小説そのもののような態度ではないか。

 いしかわ海にしても海馬にしても、この〝軽い〟世界の住人として、ペテン師の影を背負った哀愁がある。でも、それでいて、結構はつらつと元気なのだ。しまいには金子も、整形した顔がぐしゃっとつぶれてしまったのに(ああ、やっぱりと読者が思うシーンだ)、けっこう楽しそうに見えるのだった。


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2010年02月08日

『回想の太宰治』津島美知子(講談社)

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「太宰はエアロビクスをするか?」

 太宰夫人はいたってふつうの人だった。『漱石の思い出』の夏目鏡子が、夫を凌ぐかというほどの強烈な個性の持ち主なのに対し、津島美知子は常識と良識の人だった。

 太宰のような作家を語るには、この〝ふつうさ〟がうまく作用する。何しろ、口から先に生まれてきたみたいにぺらぺらと文章をはき出す男である。悲しいとか自意識とか言っているが、この人、ほんとに悩むヒマあったのかね、と思いたくなるほど、生きることと書くことに忙しかった。

 美知子はぜんぜん違う。文章もぺらぺら出てくるわけではなく、むしろ寡黙で木訥。しかし、いかにも口数の少ない人らしく、しゃべるときにはけっこう痛いことを言う。そんな美知子が一枚一枚皮を剥ぐようにして、太宰を裸にしていくのである。美知子の〝ふつうさ〟の領域に、「ふつうなんか嫌だ!」と叫び続けた太宰が少しずつ引きづりおろされてくる。

 たとえば、太宰が「善蔵を思う」や「市井喧争」の題材にした苗の押し売りの訪問事件について、美知子は次のように述懐する。

来客との話は文学か、美術の世界に限られていて、隣人と天気の挨拶を交すことも不得手なのである。ましてこのような行商人との応酬など一番苦手で、出会いのはじめから平静を失っている。このとき不意討ちだったのもまずかった。気の弱い人の常で、人に先手をとられることをきらう。それでいつも人に先廻りばかりし取越苦労するという損な性分である。

ああ、太宰ってそうだよね、と思った時点で、すでに私たちは美知子の術中にはまっている。隣人と天気の挨拶を交すことも不得手」などと言われると、まるで「天気の挨拶」をしなくてはいけないのではないかという気になってくる。夫人は太宰にいったい何をさせたいのだろう? 八百屋でカレーの材料を買ったり、エアロビクスに通ったりする太宰がこの先に現れてもおかしくない。

 しかし、私たちはすでに美知子の術中にはまっているので、次のような感慨にも思わず頷いてしまう。

私はその後、この一件を書いた小説を読んで、さらに驚いた。あのとき一部始終を私は近くで見聞きしていた。私にとっての事実と太宰の書いた内容とのくい違い、これはどういうことなのだろう。偽(いつわり)かまことかという人だ――と私は思った。

「偽(いつわり)かまことか」なんて言うけど、小説家なんだから、そんなの当たり前でしょ…とそんな反論をする人もいるかもしれないが、筆者はそうは思わない。太宰がそういうことで嘘をつくのを、ぜんぜんあたり前ではない、すごく生々しい「偽り」と感じてしまうような境地がありうるのだ。美知子はそういう境地に読者を引きこんでいく。

 蓼科まで旅行したときのこと。太宰は「蛇がこわい」といって宿にこもり、酒ばかり飲んでいる。美知子は思う。

これでは蓼科に来た甲斐がない。この人にとって「自然」あるいは「風景」は、何なのだろう。おのれの心象風景の中にのみ生きているのだろうか――私は盲目の人と連れ立って旅しているような寂しさを感じた。

太宰ファンなら「まさにこれがいいんじゃないか。はるばる蓼科まで行って、観光しないで酒浸りなのがカッコいいんじゃんか」と言うかもしれない。たしかにそれが〝通〟かもしれない。たしかにそれが「文学」なのかもしれない。それに比して、美知子はあまりにふつうだ。

 でもこのふつうさや、愚痴っぽさや、言葉になりきらない苛々が、〝ほんものの太宰〟を取り逃がしているなどとは思わない。美知子は揺るがぬ人だ。その揺るがぬ地点から、頑固なほど常識的な視線を送っている。

作家にとって家は住居であるとともに仕事場でもある。仕事だけに専念して世俗的な用向きは一さい関わりたくないという、それは理想であるが、「家」のことともなれば、一家の主人としてもっと、関心をもち積極的に動いて欲しいと思ったのだが、彼の方は私や私の実家の力の無さに不満を持っていたのかもしれない。

ああ、なんて当たり前のことを言う人なのだ。あの太宰に「一家の主人としてもっと、関心をもち積極的に動いて欲しい」なんて、よく言うよと思う。しかし、こうした言葉、まるで生きてそこにいる太宰に語りかけているかのようだ。迫真性がある。そして、そんなふうに感じるのも、そういう思いを浴びてしまう太宰がいるからなのだ。つまり、太宰も案外、こういう常識の中に引きこまれるタイプなのだ。いや、下手をすると常識を誘発さえした。

 本書の中でもとくに太宰が裸にされたという印象を受けるのは、税額の多寡に一喜一憂する太宰を克明に描いた「税金」という章と、時計や靴など太宰の残したものを元に思い出を想起する「遺品」という章である。腕時計がひとつあるばかりで時間どころか曜日の観念すらなかった三鷹の家では、美知子は休みと知らずに郵便局に出かけたこともあったが、あるとき、時計をなくしたと太宰に報告して、ひどくしかられたことがあった。なぜそんなにきつく叱られたかは謎だが、美知子はそのときのことを思い出すにつけ、愚痴りたくなる。

あの人は私が外出して、留守番役になることを好まない。遠くへ行って長く私が留守すると、きまって不機嫌である。そしてまた彼はいつも自分が被害者であらねばならない。

その通り。世の亭主は留守番が嫌いです。そして文句を言われる側であるよりも、文句を言う側にいようとする。ちゃっかりしたものだ。「まったくもお」という声が聞こえてくるようである。寡黙な美知子の不満はさぞ蓄積しただろう。だが、不満が蓄積するからには、そういう場があったのだ。留守番するしないでいちいち神経を張りつめあうような、すごく泥臭い日常があった。小説書くばっかりで、うちの人は趣味もない、なんてつぶやく美知子の強烈な生活の臭いは、抽象的な太宰の生活に、否応のない具体性を与える。

 男か女かという話は、抽象的に語るとまるでおもしろくない。ましてや太宰の場合はそうだ。でも、さすが美知子夫人、鋭い目が冴えている。これも「遺品」からの一節なのだが、靴と足の話が出てくる。長身の太宰は足も大きかった。しかも甲高で脂足。結婚式で仲人をするのに、足袋を履き替えようとしてもなかなかうまく履けない。そんな話のあと、ふと美知子は思い出す。

ほんとに大きな足で、その素足を見ると私は男性だなあと感じた。女性的なといえる面を多く持っている人だったから。

足を見て、あ、一応男なんだ、というのだ。なかなかすごい。もちろん、本人にはこんなことは言わなかっただろうが、たとえ言わなくても何かは感じはする。太宰だって鈍感な人ではない。

 こうしてみると太宰というのは、回想されやすい人なのだ。生まれつき丸裸に出来ている。ガードが甘い。だいたい、こんな慧眼の人を奥さんにもらってしまうところからして、プライバシーに対する意識が低いとしか言いようがない。しかし、あのぺらぺらと言葉の流れ出してくる作品を読むにつけ、個人的な事件にせよ、伝聞のネタにせよ、あるいは古典の流用にせよ、題材を右から左へと流していくことについての天才的なまでの鷹揚さのようなものが、まさに太宰の本質なのかなとも思う。そういう意味では隙だらけであることでこそ、作家たりえた人なのだ。それが美知子夫人の寡黙なる苛々を一層助長する。うまい釣り合いとも見えるし、だからこそ、お互いなかなかたいへんだったろうなとも思う。

 この本は決して太宰神話を切り崩すものではない。夫の死後、積極的にその全集の編集や解説執筆などにかかわってきた美知子はむしろ〝神話〟を築いた側にいる。本書の元になった単行本が最初に世に出たのは1978年、すでに30年だ。この30年の間にも〝神話〟は縮むどころか、膨張したのではないか。しかし、やはりこの回想は強烈な口直しなのだ。永遠の口直しである。太宰はそういう口直しとならべて嘆賞するのがいい。美知子だって愚痴ってばかりではない。泥酔した太宰の寝顔を見ながら、「このような、神経がすっかり麻痺した状態になりたいために飲む酒なのか」とつくづく感慨にふけったりする。やはり、この人は太宰にとって大事な〝覚醒部分〟を担っていたのではないか。寝顔同様、太宰の文章はどこか隙がある。それが魅力。いつも、「ねえ、僕についてなんか言ってみてよ」と訴えている。誰かと一緒にいないと気が済まない作家だったのだ。


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