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2009年12月24日

『初夜』イアン・マキューアン 松村潔訳(新潮社)

初夜 →bookwebで購入

「乗り遅れた60年代」

 これだけ主人公をおちょくっておいて、しっかり感動的な小説として仕上げてしまうのだからたいしたものだ。原題はOn Chesil Beachだが、邦訳は『初夜』。このややストレートな邦題が示す通り、エドワードとフローレンスの初夜の出来事を描いた作品である。焦点となるのは、ふたりの性。

 エドワードはちょっと血の気の多いところもあるけれど、大学では歴史を学んだごくふつうの青年。十代のはじめに性にめざめてからは、マスターベーションを欠かしたことがない。しかし、初夜を前にして、なんと一週間も我慢した、という。何しろ、フローレンスは堅い女性なのである。エドワードはにじり寄るように進むしかなかった。10月にはじめて彼女の裸の胸を目撃。だが、手で触れることを許されたのは12月19日。実に2ヶ月かかった。2月にはじめてのキス。しかし、乳首に触れるまでにはさらに3ヶ月。それだって唇でちょっとさわった程度。下手に先走ると、何ヶ月もの慎重な努力が水の泡となることは経験上わかっていた。『蜜の味』(A Taste of Honey)なる映画を見に行ったときに、劇場で思わずフローレンスの手をとって自分の股間にあててしまったのは大失敗だった。彼女は完全に引いた。あのために何週間分、逆戻りしたことか…。

 一方のフローレンス。実業家の父と大学教師の母とを持つ彼女は、音楽家志望で友人と弦楽四重奏団を作っている。グループではリーダー格。音楽のことになると、実に冷静かつ的確な判断を下すことができる。しかし、男性については未経験。興味もなかった。いや、相手を好きにはなる。エドワードを愛しているのは間違いない。でも、身体のことは耐え難い。エドワードの望みをかなえるように、少しずつ門戸を開いてきたけど、エドワードはもっと、もっと、と言ってくる。どうしても嫌なのだ。自分はいったいどうしたらいいのか。

 そしていよいよ初夜。フローレンスは覚悟を決める。食事もそこそこに彼女は自らエドワードの手をとってベッドへと導く。「おヨソ」用の靴を自分で脱ぎ捨てる。ところがここで事件が起きる。フローレンスを抱き寄せたエドワードは、空いている方の手でそのワンピのジッパーをはずそうとするのだが、これが片手ではどうもうまくいかない。しかし、もう一方の手はフローレンスを抱き寄せるのに使ってしまっている。フローレンスは内心思う、あたしが助けてあげるべきかしら…、と。でも、それはまずいわ、というのが慎み深い彼女の判断だった。エドワードは片手で孤軍奮闘、ついにジッパーは布地を噛んで、ドレスは永遠に脱げなくなってしまった。

 しかし、エドワードは事を進める。その手が伸びてくる。小説家の描写も徹底的に「じらし」の戦術を使う。原文も引いておこう。文末の句が実に効いている。

...she could imagine, she could see, precisely his
long, curving thumb in the blue gloom under her
dress, lying patiently like a siege engine beyond
the city walls, the well-trimmed nail just brushing
the cream silk puckered in tiny swags along the
line of the lacy trim, and touching too -- she was
certain of this, she felt it clearly -- a stray hair
curling free.
いや、実際に見えるような気がした。城壁の外で待ちかまえている攻城兵器みたいに、それは忍耐強くじっと待っていた。きちんと手入れされた爪が、レースの縁取りに沿って小さなひだをつくっているクリーム色のシルクをかすめ、はみ出している縮れ毛にふれていた――それは間違いなかった。感触ではっきりそうとわかった。

エロチックと言うよりはコミックな場面かもしれないが、小説ではここがひとつの転機となる。この一本の毛の感触を通し、彼女ははじめて自分の欲望に目覚めかけるのである。これであたしもみんなと同じようになれるのかしら…そんな想いをフローレンスは抱く。

 次のステップである。いよいよ彼の硬くなったモノの感触。でも、不思議と嫌ではない。まだ見るのはぞっとしないけど、今までのような気持ち悪さはない。彼女の思いはひとつになる。とにかく、彼に満足を与えたい。そうすることで、彼にもっと深く愛されたい。彼女は自らの手で彼のモノを導く。そういうところで、いちいち、気の利いた一節が挿入されているのがマキューアンの魅力だ。

She was pleased with herself for remembering that
the red manual advised that it was perfectly
acceptable for the bride to 'guide the man in.'

花嫁が「男性に手を添えて導き入れる」のはまったく差し支えないことである、とあの赤い手引き書に書いてあったが、その助言を覚えていたのがわれながらうれしかった。

しかし、運命は過酷なものだった。彼女は心に決めたとおり、進もうとする。こんな妙なもの、犬や馬についているならまだしも、人間の大人にあるなんて信じられないわ、などとの想いを抱きつつも、彼のモノをおっかなびっくり、しかし最大限の注意を払って自分へと運ぶ。指でかるくさすったりしながら。しかし、これが仇となった。とくに、おっかなびっくりの手つきは致命的だ。あの「一週間も我慢」もよくなかった…。

 というのが、この小説のメインプロットである。『人のセックスを笑うな』という小説があったが、『初夜』の「性」は、あきらかに笑いが先に立っている。それにしても、今時、こんな「恥ずかしいセックス」はないだろう、と思う人もいるかもしれないが、まさにそこがこの作品のポイントなのだ。作品の舞台は1960年代の初頭。作品でまちがいなく意識されているのは、フィリップ・ラーキンの有名な「驚異の年」('Annus Mirabilis')という詩だろう。次のように始まる作品だ。

Sexual intercourse began
In nineteen sixty-three
(Which was rather late for me)--
Between the end of the Chatterley ban
And the Beatles' first LP.

セックスは1963年にはじまった、という。そこが分水嶺で、その以前には『チャタレー夫人の恋人』の発禁があり、その後にはビートルズのデビューがあった。カッコの中の台詞がおもしろい―「僕にはちょっと遅すぎた」というのだ。つまり、1922年生まれのラーキンは、「60年代」には乗り遅れてしまったのである。

60年代に起きたさまざまな「解放」の中でも、とりわけ大事だったのは、性の抑圧からの解放だった。そのことをめぐる悲喜こもごもは、60年代に青春を送ったひとたちにより、嫌というほど語られてきた。しかし、同時にそこには「乗り遅れた」人たちがいた。そのちょっと前に青春を送ってしまった人たち。ちょっと前の常識から結局、自由になれなかった人たち。

 おそらく文学とほんとうに馴染みがいいのは、この「乗り遅れ」の感覚ではないだろうか。人間や人生を、お祭り騒ぎの騒音の中でではなく、地味に、静かに、微細さのうちにとらえるのは文学の得意技のひとつ。『初夜』が小説として立ち上がってくるのも、この「乗り遅れた」苦みにフォーカスをあてるときである。エドワードとフローレンスの何ともいじましい「初夜」は、ふたりの一生に大きな影響を与えることになるのだが、そんなことがあんな風にありえたのも、まさに「解放」前夜だからこそなのだ。

 小説は、初夜の場面を中心に描きながらも、あちこちにフラッシュバックを挿入していく。ときに「やりすぎではないか?」と思わせるほど悪のりした技巧を見せるマキューアンの筆裁きだが、フラッシュバックされる情景で重いもの、苦いもの、悲しいものを書き込む際の抑制の案配はさすがである。おかげで、表の喜劇と裏の悲劇が、クライマックスでついに合流して、何とも言えない余韻を残す作品となっている。こんな訳しにくい技巧派小説をきちんと訳した訳者も立派だと思う。


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2009年12月04日

『斜陽』太宰治(新潮社)

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「湯水のように」

「英米文学へのお誘い」という地味な授業を、同僚の江川さんとのリレー方式でやっている。対象は1~2年生。筆者が『斜陽』と『明暗』をやると言ったら、江川さんも「お前がそう言うならしょうがねえ、俺も『ノルウェーの森』をやる。うぇっ」とのことで、「英米文学へのお誘い」のはずなのに、妙な取り合わせの日本語小説ばかりの授業になってしまった。

 で、『斜陽』なのだが、有名な作品とはいえ、うまい小説とはいいがたい。パワーがあるというのとも違う。ご存知の通り、太宰の愛人の日記を元にしたと言われるストーリーは、貴族の一家が滅びていく様を辿っている。元気の出るようなイヴェントが展開するわけでもないし、鋭い洞察に満ちているとも思えない。とにかく滅びの気配が一面に濃厚で、頁面に色でもついているかのような気分になる。

 なぜ、こんな小説を「英米文学へのお誘い」でとりあげたのか。お誘いをするからには、英語であると日本語であるとを問わず、まずは小説なるものにからんでみましょう、というのがこちらの意図だった。とくにからみにくそうな作品。『斜陽』は、後でも触れるようにどちらかという「流れ」で読ませる小説である。その流れに流されつつも、ところどころに引っ掛かってみたい。こう見えて、この作品は気になる部分があちこちにある。太宰お得意の、こちらの顔色をうかがうような徹底的にやわらかい語り口がかず子というかなり人工的なキャラクターを通して極限まで作り込まれているのだが、そこに、声色の変わる刹那があったりする。

 たとえば以下の箇所だ。いよいよ生活が立ちゆかなくなり、かず子の追いつめられた心境が吐露されている。感情が盛り上がり、例のかず子語りが全開になる。バカ丁寧で、まわりくどく、しつこく、ウェットな語り。でも、線を引いたあたりから、ちょっと様相が変わる。(少し長いです)

 お母さまは、今まで私に向って一度だってこんな弱音をおっしゃった事が無かったし、また、こんなに烈しくお泣きになっているところを私に見せた事も無かった。お父上がお亡くなりになった時も、また私がお嫁に行く時も、そして赤ちゃんをおなかにいれてお母さまの許へ帰って来た時も、そして、赤ちゃんが病院で死んで生れた時も、それから私が病気になって寝込んでしまった時も、また、直治が悪い事をした時も、お母さまは、決してこんなお弱い態度をお見せになりはしなかった。お父上がお亡くなりになって十年間、お母さまは、お父上の在世中と少しも変らない、のんきな、優しいお母さまだった。そうして、私たちも、いい気になって甘えて育って来たのだ。けれども、お母さまには、もうお金が無くなってしまった。みんな私たちのために、私と直治のために、みじんも惜しまずにお使いになってしまったのだ。そうしてもう、この永年住みなれたお家から出て行って、伊豆の小さい山荘で私とたった二人きりで、わびしい生活をはじめなければならなくなった。もしお母さまが意地悪でケチケチして、私たちを叱って、そうして、こっそりご自分だけのお金をふやす事を工夫なさるようなお方であったら、どんなに世の中が変っても、こんな、死にたくなるようなお気持におなりになる事はなかったろうに、ああ、お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と生れてはじめて気がついた思いで、胸が一ぱいになり、あまり苦しくて泣きたくても泣けず、人生の厳粛とは、こんな時の感じを言うのであろうか、身動き一つ出来ない気持で、仰向に寝たまま、私は石のように凝っとしていた

下線部に至って何かが変わっている。何かお気づきですか?と授業の参加者に訊いてみたところ、以下のような意見が出た。

意見その1:言葉が矢継ぎ早だ。
意見その2:「てん」が多い。
意見その3:言葉がループしてる。

「ループしてる」という言い方はおもしろい。もちろん、それに先立つバカ丁寧で、まわりくどく、しつこく、ウェットなかず子語りとのコントラストも大事。

 かず子語りの鍵となるのは、おそらく「そして」という語だ。「そして」でひたすら言葉をつないでいくフラットさ。ふつうなら稚拙でもたついた語りと感じられそうなところだが、太宰はそういういわば「女子供の語り」をうまく利用して、言葉を無駄遣いする快楽のようなものを味わわせてくれる。ひたすら切り詰めることを美徳とする日本語散文の伝統とはまさに逆。湯水のように言葉を流してみせる。流れで読ませる小説とはこのことだ。

 湯水のように感じさせるには、さらさらとしてなければいけない。また、湯水というからには、何となく、温度のニュアンスもある。感情が温度として感じられるような文章でなくてはならない。そのためには温度がだんだんあがっていくという仕掛けがあるといい。
 
 文章の温度はどのようにして上昇していくものだろう。上記の意見でも出たように、まずは「矢継ぎ早さ」。それとセットになるのが、「てん」の多い文、つまりなかなか「まる」にたどり着かないような、なかなか終わらない文である。が、それだけではない。言葉は細かく切れつつ延長していくのだが、それに加えて「ループ」がある。そうなのだ。言葉が自分で自分を語るようになる。「なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう、と生れてはじめて気がついた思いで」なんていうあたり、かず子のフラットな語りはこの感情の山を迎えるにおよんで、自分で自分の考えていることを上から見下ろしたり、下から見上げたり、背後から回り込んだりしながら、「思う」ようになった。しかも何重にも。

 フラットで水平方向の「そして」の語りは、こうして同じようにさらさらと流れながらもあがったり下がったりし始める。同一平面上の水平な語りから、「裏」のある語りになった。垂直軸への移行が起きている。それを実にさりげなくやっている。かず子が丁寧でフォーマルな構えを失って変わっていくことと、このような裏側の露出とはパラレルになっているようだ。言葉の裏側が露出し、本音や欲望がにじみ出るにつれ、かず子もまた墜ちていく。と同時に、一人の女ともなっていく。幾重にもつらなる「ループ」の構造はそういう運命を予告するのだ。

 『斜陽』に対する参加者の感想はおおむね肯定的だった。「かず子の語りというのは、何しろ、しつこいしウェットですな」などとこちらが水をむけても、「いえいえ、そんなことはございませぬ。たいへん読みやすく候」みたいな答えが返ってくる。湯水のような語りはなかなか好評のようだ。

 とはいえ、意外だったこともある。筆者にとって『斜陽』でとりわけ印象に残る場面のひとつは、終わり近くにある上原とかず子の次のような会話である。かず子が「岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二私はキスされた」なんていうことを言う箇所である。弟の直治に悪魔的な影響を与えた上原。その上原にかず子はとりつかれてしまったのである。かず子の台詞は何とも不器用だが、それだけに骨のようなものを感じさせる。この人もここまで来たか、と感慨深い。すでに上原と肉体関係を持ち、すっかり墜ちてしまったかず子の、かわりはてた荒さが、ある意味で新鮮でさえある。

「今でも、僕をすきなのかい」
 乱暴な口調であった。
「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」
 私は答えなかった。
 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二私はキスされた。性慾のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
 また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。惚れちゃった」
 とそのひとは言って、笑った。
 けれども、私は笑う事が出来なかった。眉をひそめて、口をすぼめた。
 仕方が無い。
 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
「しくじった」
 とその男は、また言った。
「行くところまで行くか」
こんな会話である。で、再び参加者の意見を訊いてみた。かず子の台詞についてのコメントでとくにおもしろかったのは、感情を殺そうとするかず子と、あくまで誘惑的に振る舞おうとする上原との間でジェンダーが逆転しているとの指摘であった。かず子の言葉がすっかり〈男性化〉するにつれ、上原が〈女の言葉〉を語っている、というのである。

 ところで、その上原の台詞についてなのだが、参加者はほとんど一様に「許せない」、「軽薄」、「自分大好き人間」、「女を嘗めてる」、「東横線で隣合わせたら殴りたくなる」などなど、いやいや思ったよりみなさん厳しい裁定なのである。そうですか~、そう言われてみるとそうかもね~、などとこちらも変に弁解がましい口調になってしまった。きっと苛々させるのも太宰の大事な持ち味。考えてみると、こういう台詞を平気で言える図々しい感性というのは、今の日本にはそうそう見あたりそうにない。

 作家太宰とたいへんよく似ていそうなこの上原という悪党、ほんとうはもう少し好意的にとりあげようと思っていたのだが、たしかに軽薄だし、自分大好きだし、まあ井の頭線で隣合わせたら殴りたくなるかも。だけど、さらさらと湯水のように言葉を使う小説の中で、だんだんやせ細って荒涼とした言葉へと墜ちていくかず子のような人物のわきで、あくまで軽薄でいつづけるのはなかなかたいへんなことだ。ひとりくらいこんなアホな言葉をしゃべる人物がいてはじめて『斜陽』にも光が差すのかななどとわけもなく寛容な気持ちになって(それに、ちょっと笑える台詞だし)、でもそれは口に出さず、『斜陽』の回はおしまいとなった。




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