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2009年10月20日

『Julius Winsome』Gerard Donovan(Faber)

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「ゼリー状の夢をぷちっと破って」

 この語り手、少し変ではないか? と思わせる小説は日本語でもよくある。へらへらと饒舌だったり、京都弁だったり、怒りっぽかったり、子供っぽかったり。「変な語り手」を設置することで、読む側からすると、語りが壇上からこちらに降りてくるような気がする。親しみやすい。でも、そのせいで、あてにならないとも聞こえる。何だ馬鹿馬鹿しい、読むだけ無駄、と思われるかもしれない。私たちは小説の文章には、ほんとうは君臨してもらいたい。すべてを信じたいし、だまされたい。

 難しいところである。語り手の信憑性を揺るがせば、リスクも大きくなる。親しみやすい語り手といっても、権威を欠いたら意味がない。しかし、中にはまったく逆方向の「変さ」もある。反対の意味でのリスクを取る小説。親しみやすいどころか、強面で、屈強で、神秘的。殻に隠って、閉じた語り手。自分で自分にむかって呟く語り手。この『ジュリアス・ウィンサム』はまさにそういう作品である。何しろ、この小説の語り手は連続殺人犯。舞台はアメリカ北部のメイン州で、その深い森の小屋に彼は一人きりで暮らす。執着気質で思いこみが激しく、人ともまじわらない。語る言葉は所々おかしい。教養もない。

 しかし、ふつうの意味での教養はないが、彼の小屋には父から譲り受けた本が三千冊ほどある。彼のお気に入りはシェイクスピアのソネット。だから、一見、舌足らずに聞こえる英語なのに、ときどき17世紀の言葉がまじったりする。素朴かつ単純な語りは、エレガントとも雄弁とも言い難いのだが、しばしば自然そのものと混じり合うかのような、やさしい美しさを見せる。あらゆる構えを取り去ったかのように、静かに、ソフトに、裸になるような言葉だ。それから、もうひとつ。彼はライフル射撃の達人である。ほんとうに人間を仕留めたいときは歯を狙え、と言われるが、彼は半マイルほど離れたところから、ターゲットの歯を打ち抜くほどの腕を持っていた。

 物語はスリラーめいた筋立てになっている。ある日、ジュリアス・ウィンサムの愛犬のホッブスが、何の前触れもなく、何者かに射殺される。深い森にはほとんど人気がない。彼の小屋は、ただ一軒孤立して立っている。ホッブスは至近距離から打ち抜かれていた。きっとなつくようにして吠えながら近づいていったに違いない。唯一の友人を失ったジュリアスは、次第に悲しみから怒りと憎しみにとらわれていく。町に出て、犯人の情報を求めるポスターを貼るが、そこには心ない落書きが…。

 ジュリアスの中で何かが変わる。彼は復讐の鬼と化し、森で猟を楽しむ男たちを次々にライフルで狙う。このあたりの描写は作家ドノバンの腕の見せ所で、銃の照準越しに交錯する視線の緊張感に、ジュリアスの妙にイノセントな自然意識がかぶさるあたりは実に見事である。荒涼とした死の風景が、「変な語り手」特有の視線を通過することで、不思議な詩情を醸し出すのである。

 やがてジュリアスは、はたと真犯人に思い当たる。それは意外にも女性だった。それもかつて彼を愛した女である。森の中に迷いこんできたクレアは、孤独に慣れ、ひとりきりで暮らしていくことに何の苦労も覚えていなかったはずのジュリアスにはじめて「寂しさ」を思い知らせた女だった。ホッブスを飼うことを進めたのもクレアである。まさか、という思いの中でジュリアスは揺れる。そうして物語は、クレアの周辺から更なる展開を辿ることになる。

 こうして粗筋だけ見ると、心理サスペンスと読んでもいい作品と思える。たしかにそういう側面もあるのだが、何より読む者をとらえるのは「森」の匂いである。

There is a day, an hour when winter comes, the second
it slips in the door with its weather and says, I am here. If
snow falls early enough, it drifts down into red forests and
piles along lakes ringed with blue ice, but the visit is
temporary: the white handprint of north vanishes with
the next sunny day, polished off the hills and trees of
Maine by the cloth of sunshine, the blow of warm fall
breath on wood. If late, winter arrives on the back of
a windstorm that blows every color before it but white,
while under it, lakes turn to frozen spit and bare trees
split, cracked open, and the forests stretch up to the
shivering lit skin of the northern lights.

きらびやかな表現で飾ろうとするのではない。写実的に冷たく見定めようというのでもない。ジュリアスの目は森に親しげに寄り添うが、そうして森を人間化するというよりは、おとぎ話めいた柔和な衣を頼りにしつつも、むしろ死の世界に通ずるような冷たい自然にたどり着くように思える。『ウォルデン』のソローをはじめとする、アメリカの森の作家達の系譜も、その背後には見えるだろう。

 野心的な小説である。アイルランド出身のドノバンが、アメリカ的な自然や人間観に安住することなく、しかし、アメリカをその芯のところでとらえるような森の神話を作り上げた。その成功の秘密は、やはり、この分裂的な「変な語り」を最後まで生かしたことにあるだろう。ひどくやさしく情緒豊かになるかと思うと、不意に血も涙もない殺人鬼と化す。人間や生命を慈しむ目が、一瞬の後には、機械のように精密な視線で獲物を狙う。奇妙なほどの論理へのこだわりがあるかと思うと、恐ろしく脈絡のない、矛盾に満ちた行動に走る。この危ういバランスが、まさに森そのもの。そこでは恐怖と安逸とが、硬いものと軟らかいものとがつねに混じり合っている。

 そんな状況をよく表す一節を最後に引用しよう。いつも切りつめた言葉でしゃべるから、その言葉を水で割らないとこちらも理解できないというジュリアスの父の口を通して、祖父の戦争体験が描写される。

That's it, a gun leaves a battle loaded with dead men.
Your grandfather must have seen so many times their
faces through the telescopic sights, the surprise on the
face of the man he shot that he was shot,
that he was shot and not the man next to him or someone
way down the line or on another battlefield altogether,
so much surprise that those men crawled twenty years
toward him with their fingertips, and when they got to him
he was lying asleep in his bed, so they pressed those
fingers into his dreams and punctured them like wet jelly,
entered into those dreams and stood up and he saw them,
all of them, in that jelly, in their uniforms, sick to their
boots of the long journey into his dreams. And then
they pointed those fingers at him and said, Remember
me? You killed me.

殺した相手が亡霊となって現れるという妄想は珍しいものではないが、「ぬるぬるしたゼリーのような夢をぷちっと指で突いて破り、こちらに侵入してくる」というような描写は、そう簡単にできるものではない。限りなく器用で、繊細で、精密な文体を操るドノバンだが、この作品ではその精密さを存分に生かしながら、むしろ言葉の不自由さを書ききっている。不自由な言葉と、あやういバランスを取る精神を通して、眩暈がするほど生々しい感覚をとらえているのである。



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2009年10月01日

『父を葬る』髙山文彦(幻戯書房)

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「父と接吻する男」

 九州にはやはり何かある――たとえ錯覚にしても、そんなふうに感じさせる小説である。
 九州の中でも宮崎は「陸の孤島」。福岡からでも飛行機を使う。小説の舞台となる高千穂はその遥か奥地にある。熊本との県境近く、阿蘇からも遠くない。何より地図の上で目につくのは、それが九州全体の真ん中にある、ということだ。どの海からも離れている。従って、どの都市からも遠い。まさに奥の奥。何かあるとしたら、ここしかない。

 『父を葬(おく)る』という書名には、とりあえず嘘はない。いくつもの重篤な病に冒され、余命わずかと宣告された父が、少しずつ狂い、少しずつ崩れるようにして死を迎える。しかし、肉体と精神が崩壊していく様を、感情を抑えた目でとらえる筆致には、明らかにそれだけではすまないものがある。

 バリアフリーの広いトイレにはいると、父は思いがけない行動に出た。パジャマをパンツごと引き下ろし、便座に腰掛けようとする。
 あたりまえの話だが、父は息子の目のまえで、このようにあからさまに糞などする男ではなかった。父はしばらく神妙な顔をして動かなかったが、やがてトイレットペーパーを引きちぎり丁寧に折りたたむと、ゆっくりと股のあいだにもっていき、拭ってみて、しげしげと眺めた。汚れひとつ、ついていない。
「出らんかったね」
「出らんかった」

どうしてこのような場面を描くのだろう。いったい著者は父をどうしたいのか、と読んでいて思う。介護小説とか、老人小説とかいった優等生めいたものではない。もっと激しいものを隠し持っているのではないか。

 ならば『父を葬(おく)る』というより、『父を葬(ほうむ)る』、もしくは『父を葬(ほうむ)り去る』かもしれない。たとえば、草刈りに行った主人公が「これらの蔓の藪が父にとりついた病の元凶のように思えて、私は鉈でばっさばっさと切り払っていった」というような箇所、父を救おうという気持ちと、そこに微妙に混じった暴力的なものとが、『葬』の意味についてあらためて考えさせる。

『父を死なせる』ということか。たしかに、この高千穂という奥地の村で、主人公は死のごく近くを生きてきた。「生まれてすぐ死んだ兄がいる。サッカーボールくらいの小さな墓石だったが、それを見るにつけ小さいままで死にたくないと思い、この兄が死んだおかげで自分は生まれてきたのかと思った。二つ違いだった」。「十六のとき、じじ様が死んだ。肝臓ガンで、ミイラみたいになって死んだ。その壮絶な闘病と死にざまを目のあたりにしながら、自分は十六まで生きた、じじ様が祟りを全部ひきうけてくれたのか、と私は、また新しい秘密が生まれたことに慄(おのの)いていた」。なるほど。少なくとも、単純な葬送の物語ではない。まるで植物のように死者と生者とがバトンタッチをしていく世界なのだ。

 とくに冒頭の数章での、死んでいく父に対する語り手の複数の感情のからみ合いはほんとうに壮絶で、果たしてこの小説、最後までいけるのかな、と心配になるほどである。祖母の葬式の後のこと。「「ああ、これでせいせいしたな」と、ほんとうにせいせいした顔で言うのを聞き、この男は死んでも二上山には還れないのではないかとおもった」という主人公は、しかし、「父の頬を両手で包み、キスをする夢」を見たりする。生後まもなくのこと。すぐに弟ができ、母を奪われた主人公は祖母になつく。祖母からはついに乳が出るようにもなった。そんなことを想い出しながら、はたと気づく。「ということは、父と私は同じ乳で育ったわけだ。なんということだろう。ふたりは、血を分けた兄弟のようではないか」。

 何なのだこの小説は!?と思わずにはおられない。いったい父をどうしたいのか。父に何をしたいのか。やがて主人公は、自分の知らなかった父について少しずつ語りはじめる。まるでそうすることで、彼自身が父と出逢おうとするかのようだ。熊本の大学に入学し、当時としては村で唯一の「大学出」となった父。文学にかぶれ、カフェの女給と同棲して貢がせ、無頼派のように飲み歩いたかと思うと、就職したとたんに肺をわずらった父。ただ者とは思わせないような詩を書いた父。

わたしは鳥
とても高い空から
あなたを見ている
千秋屋の角を、いま
あなたは曲がる
足もとのクロッカスを踏みしだきながら
そうれ見たことか
真っ白なブラウスが
返り血をあびる

痩せて大柄。大酒のみで、美しい顔立ち。若い頃は、歓楽街の女たちとの関係も絶えなかった。何を考えているのかわからないような沈黙。世事には疎く、親戚の誘いで定職をなげうった途端、移った会社が倒産してタクシー運転手。

『父と出逢う』。そんなタイトルでもいいかもしれない。しかし、そんなふうに安心させてくれる小説でもない。もう死が間近に迫った父は、それでも容赦なく描かれる。看護の母と伯母とは、とにかく父に小便をさせることに血道をあげる。ちょっとでも動けば小便だと信じて揺り起こし、パジャマを引きずりおろしてシビンを股間に差し出し、「しわくちゃのナマコのようなペニス」をつまみだそうとする。

 正直言って、ちょっと笑ってしまいそうになる。そして、まさか笑わせようというのか、とどきっとしたりする。この恐ろしいようなおかしさは、最後まで続く。自宅に戻った父に例によって「おしっこ?」と声をかけ、三人がかりで便所に連れて行こうと酸素ボンベを外したところ、急に様子がおかしくなる。「呼吸がゴーゴーと唸りをあげはじめた」という。そして黄白色の濁った泡をどろりと吐き出す。

父は意識を失って、目を閉じていた。私は母から奪うように父をひっぱり出して、廊下にもどしたが、母がパジャマの裾をつかんでいるので、オムツごと脱げてしまい、下半身が丸出しになった。糞のあとがわずかにオムツについていたが、それは筆をさっとはらった程度のかぼそい跡でしかなく、もうだいぶまえのものと思われた。小便は一滴も洩れていなかった。

さすがに笑いはしないが、いったい父をどうしたいのか?というあの問いがやはり浮かぶ。

 そうか、と思う。これは、まさにそういう小説なのだ。父をどうしていいかわからなくて、息子と、母と、その他みなで、それぞれの父を勝手に創作し、勝手に生かし、勝手に死なせる。殺す。何しろ小説の中で、父にはきちんと名前すら与えられていないのだ。ほとんどしゃべらせてももらえない。呆けているのか、実は正気なのかもよくわからない。『父をどうする?』。こんなタイトルではどうか。

 こんな状況の中でも、なかなか強い心臓を持っているという父は、そう簡単に死にはしない。小説の中程には、深々と突き刺さるような一節がある。

父とは不思議な現象だ。死というのも、不思議な現象だ。なぜならどちらも、唯一無二のものでありながら、まぼろしのように遠くにある。たしかなものであるがゆえに、たしかであろうと求めてみると、ふっと手まえで逃げてしまう。

「父とは不思議な現象だ」という一言を、ここまで生々しく実感させてくれる小説はそうあるものではない。何しろ中上健次の伝記を書いた著者である(『エレクトラ』)。高千穂と熊野が嫌でも重なる。あるいは四国の奥地の大江健三郎、アメリカ南部のウィリアム・フォークナー…。連想は広がる。しかし、土俗的なものを描いたことで知られるこうした作家たちと、髙山文彦とは何かが違うようにも思う。ひどくやさしいのだ。ある種の作家にある強烈なエゴを感じない。だからこそ、ここまで父を自分の中に受け入れることができる。夢の中でキスするなんて、そう易々とできることではない。小説後半では、そのやさしさがあちこちにあふれ、ときには憎んでもいたはずの父や、それから母とも、どんどん歩み寄っていく。どんどんお互いを赦す。まるで彼岸で出逢った家族のような穏やかさなのである。『父をゆるす』。そんな傲慢なタイトルを髙山文彦は決してつけないだろうな、と思いながら、最後は静かに読み終えることのできる小説なのである。


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