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2009年09月21日

『ポライトネス入門』滝浦真人(研究社)

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「敬語論ではありません」

 「ポライト」(polite)という英語は、ふつう、「丁寧な」と訳される。だから、このタイトルを見て「なんだ、敬語の話か、マナーの話か」とがっかりする人もいるかもしれない。しかし、それは間違い。「ポライトネス」という概念は、もちろん敬語と無関係ではないのだが、従来の狭い意味での敬語論とは違い、哲学、文化人類学、社会学、言語学、文学などを巻き込みつつ、もっと遙かに広い知の領域を、しかも遙かに魅力的な形でカバーする。少なくともそういうポテンシャルを持っている。あまりに領域横断的で斬新なので、今のところ、日本語には翻訳不可能。だから、このようにカタカナをあてている。

 実は筆者はひそかに、「ポライトネス理論」が、次世代文学理論の芽を用意するのではないかと期待している。そろそろみなさん、ポスコロetcには飽きたころかな、という気配を、学会などでの雰囲気からは感じる。しかし、ポスコロには飽きちゃっても、我々にとって切実かつ刺激的な「知のポイント」というのはそうあるものではない。

 そうした「知のポイント」の代表例が「他者」という概念だろう。ポライトネス理論の出発点もそこにある。滝浦は第一章の「「ポライトネス」の背景」でこのあたりの事情を手際よく説明してくれる。ポライトネス理論のモデルになった思考の枠組みの源流は、近代社会学の基礎を築いたと言われるデュルケームまで辿ることができる。デュルケームは、人間が聖なるものを聖なるものとして遇するときに、積極的儀礼と消極的儀礼という二つの相反する方法があることを指摘した。積極的儀礼において、人はその聖なる対象に限りなく接近する。たとえば像に接吻するとか。象徴的にその身体を食べるとか。逆に消極的儀礼においては、対象から限りなく遠ざかる。名前を呼ばない、偶像をつくらない、遺物を隠す、など。人は両極端の距離の使い分けを通して、「聖」を表現してきた。

 しかし、デュルケームの本当の慧眼は、聖なるものが人間に取って代わられうるということを見抜いていた点にある。滝浦は『宗教生活の原初形態』からの次の一節を引用する。

人間性とは聖物である。人は敢えてそれを犯そうとはしないし、その境界を越えて踏みこもうともしないものである。ところが同時に、最大の幸福は他者との交感にあるのだ。

つまり、人は他者との関係においても、積極的儀礼と消極的儀礼に類する両極端の距離を使い分けているというのである。

 デュルケームのこの枠組みを受け継いだのがゴフマンであった。ゴフマンは「自己」なるものがアイデンティティとして、つまり「目的地」として探求されるものというよりは、さまざまな状況の中で、相対的に表れてくる「匿名的な主体」であるという視点をとる。そして「同じように「自己」を持った多数の人びとがどのように衝突を避け、かつ接点を作りながら道を通って行くか」という、その「交通ルール」を理論化しようとした。その際にゴフマンが立てたのが、「フェイス(face)」という概念である。中心となるのは、次のようなテーゼである。

人びとは、相手と自分の「フェイス(face)」をあたかも神聖視するかのようにふるまい合い、フェイスへの配慮に最も大きな価値を置く。

そして「フェイスへの配慮」に際して、例の積極的儀礼と消極的儀礼とが関わってくるのである。近づくことと遠ざかること。この考え方を使うと、たとえばフランス語で「丁寧な二人称」とされるvousが、なぜ複数形を転用したかも説明できる。複数形を使うことで直接指さない。曖昧化する。それが距離を生み、聖性を作り出すことにつながる、と。

 この「フェイス」という概念を土台にしてポライトネス理論を確立したのがブラウン&レヴィンソンであった。画期的なPoliteness: Some Universals in Language Usage(改訂版1987)では、人がコミュニケーションのなかでどうやって自分や相手のフェイスに配慮するかが体系化されている。これがまさに聖典ということになるのだが、正直言って、それほど読みやすい本ではないので、『ポライトネス入門』に多少なりと刺激された人は、同じ著者による『日本の敬語論 ― ポライトネス理論からの再検討 ―』などに進み、少しずつ本丸に攻め込む、もしくは勝手に周辺領域へと脱線し、開拓するというステップをとるのがおもしろいのではないかと思う。

 たとえば、politnessという理念そのものは18世紀のイギリス文化では一世を風靡した流行語であった。当時、成り上がり者たちの間で社交術や会話術、国語論などが大きな関心の的になっており、そこで最大の美徳とされたのがpoliteという呼ばれる振る舞いだったのである。我々がふつうpoliteというときには、今でもこちらの文脈の方が想起される。この方面の研究は歴史学、文学の領域で着々と進行中。やがて女性の作法書が主流になったこともあり、フェミニズムとも関連が深い。しかし、こうした旧来の「ポライトネス」が、本書で扱われる「ポライトネス理論」と無関係なわけでは決してない。むしろ、「ポライトネス理論」から出発して、18世紀や19世紀の西洋文化について考え直すのも大いにあり、ではないか。

 ポライトネス理論はまだまだ若い思考の枠組みである。そのせいもあるのか、意欲的な学者、とくに言語学研究者は体系化・全体化へと向かいがちのように思う。しかし、筆者のような立場の者から見ると、むしろポライトネスという枠組みを持ってくることによって、硬直化しつつある旧来の理論を揺すぶったり、崩したりということもできそうに見える。

 本書はそういう意味でさまざまなヒントをくれる。そもそも言語学の立場からの提言なので、断然迫力があるのは、第6章で終助詞「か/よ/ね」を扱ったところ。出発点となるのは、これらの終助詞をいかに言語学的に説明するか?という問いだ。滝浦は従来の解釈が語の「意味」に偏向し、それゆえにこれらの終助詞の使い方を説明しきれなかったことを指摘したうえで、例の「距離」の感覚を上手に生かした解釈をする。それぞれの終助詞について、話し手からの、あるいは聞き手からの距離感(実際にはもうちょっと精密な言い方をしているけど)を元にきわめてシンプルで美しいモデルを立ててみせる。とりわけ見事なのは、なぜ「かね」「かよ」「よね」といった助詞同士の連結が可能なのに、「ねか」「よか」「ねよ」といった組み合わせはできないのかを説明するくだりである。興味のある人はここだけでも是非、読んでもらいたい。言語学的議論の醍醐味を味わわせてくれる一節である。

 ほかにも考えるヒントはいろいろ提供されている。文学作品やナラトロジーに関心がある人は、距離のテーマが、話し手と聞き手の間の「触れる/触れない」といった問題へとつながっていくあたりがおもしろいはず。自由間接話法の問題など関連領域も多い。そういうことなら、物語の語り手についてもあんなことが言えたり、こんなことが言えたりするぅ!という声が聞こえてきそうだ。また、会話の中で人はいつ沈黙し、いつ相手の言葉に自分の言葉をオーバーラップさせるのかといった話や、<問い―答え>や<依頼―了承>のような「隣接ペア」と呼ばれるやり取りの微妙な運用が、どのように人間関係を反映するのかといった話題も、実に奥深い。こんなことを言うと言語学を専門とする方々に怒られるかもしれないが、言語学に独り占めさせておくのはもったいないようなおいしい視点である。

 言葉を「意味」だけでとらえるのではなく、その運用の状況に差し戻して解釈し直すという意味では、ポライトネス理論はJ・L・オースティンの言語行為論にも近いし、ということは60年代以降のフランス系の哲学・言語論とも接点を持つ。他者を考えるときに、「人間関係」という一見ベタな視点を取り入れるあたりが、むしろ「倫理性」なるものを柔軟な形で話題にする助けになるのかな、という期待をさせるのである。



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2009年09月03日

『文学の精神分析』斎藤環(河出書房新社)

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「文学につける薬」

 「文学」が嫌い、という人が意外に多い。関心がないというのではなく、積極的に、嫌い。筆者の勤務先は、「文学研究者」をめざしている人がいるはずの所なのだが、実際には、文学が嫌い、という人がけっこういる。口で言わなくてもわかる。顔にそう書いてある。

 実は、筆者もそのひとりである。いつもではないのだが、ときどき、嫌いになる。昔はもっとそうだった。「文学」は、胃腸の働きのよくない者には向かないのかもしれない。腹にもたれるし、胸焼けもする。鬱陶しいときには、実に、鬱陶しい。

 そんなときに「文学」の消化分解を助ける薬がある。その昔、筆者がよく手にしたのは精神分析批評だった。この20年の間に精神分析や精神分析批評をめぐる環境は変わっていったが、今回、斎藤環の作家論を集成した『「文学」の精神分析』を読んでみて、あらためて「そういうことだったか」と思ったことがいくつある。

 たとえば、一般に「精神分析は頭がいい」という見方がある。たしかにそうだ。金原ひとみの小説に出てくる少女について、精神分析ではこんなことを言う。

 オリジナルなき複製物として、みずからの身体を表象すること。これもまた「死の欲動」なのだろうか? しかし、そうであるなら「彼女たち」の欲望はまたしても、単一の傷を媒介として生の固有性を回復すること、という論理に回収されてしまう。むしろこう考えてみてはどうだろう。複製物の身体を傷つけることは、性器の複製というエロティックな契機をはらむのだ、と。

「回収」なんて言葉、世間では「ゴミの回収」くらいでしか使わないのに、精神分析ではやたらとよく出てくる。だから「頭がいい」なんて言われたりする。しかも、「頭がいい」だけではなくて、正しいことを言っていそうでもある。別の箇所の「真に合理的な価値判断なるものが不可能である以上、人間のなす言動のほとんどは存在証明としての「症状」にほかならない」などというコメントも、その通りかもな、と思う。でも、こういう「頭の良さ」にしても、「正しさ」にしてもどことなく胡散臭くも見える。格好良いいだけに、「ふ~ん」という気にもなる。

 しかし、そういうことではないのだ。『「文学」の精神分析』のとくに冒頭の三つの章を読むと、精神分析批評の可能性がもう少し見えてくる。おそらく本書の中でももっとも力がこもっているのは、「「性愛」と「分裂」 宮澤賢治詩論」と題された第一章。「アウトサイダー・アーチスト」=「表現と自分との距離がない表現者」という枠組みを取っかかりに、なぜ宮澤賢治が今のように読まれてしまうかを、宮澤文学の内在的な問題として考察する。視点そのものもおもしろいのだが、論を展開する著者の手さばきが実にいい。何より、「冷め方」がうまいのだ。

 出だしは、宮澤賢治をめぐる熱狂についての概観である。「表現と自分との距離がない表現者」という視点が出てくるのもここだ。どうも最近の宮澤批評を見ていると、「アウトサイダー・アーチスト」賛美の視線を感じる、という。しかし、ここでは距離を置くのが眼目ではない。そこからむしろ、中に入っていく。つまり、熱狂の中に紛れこんでいく。まるでスパイのように。斎藤は「アウトサイダー・アーチスト」として注目を集める画家ヘンリー・ダーガーの作品から、自身が受けた衝撃について熱く語る。感動的なほどの「いたましさ」を感じたという。それは「ナルシズムのいたましさ」らしい。そこにこそ人は魅せられるのか?と、やや強めの言葉で斎藤は問う。そうしておいて、不意に居住まいを正す。

率直に告白しよう。私は賢治にも、しばしばこうした「ナルシシズムのいたましさ」をみてとることがある。まずこの点において、賢治とダーガーは良く似てみえるのだ。

「率直に告白しよう」と言われると、思わずこちらもはっとする。相手にお辞儀をされたような気になる。ほろっとしそうになる。しかし、告白することで、読者にすり寄ろうなどというのではない。「告白」は仕組まれたものだった。続きはこうである。

ところで私は、たったいま二番目の告白を行った。こうした「告白」こそが、まさに問題なのである。真摯に賢治を語る口調は、しばしば告白に似てくる。それというのも、賢治作品を読む行為は、賢治からなにものかを直接に、無限に贈与される経験に等しいからだ。われわれは賢治からの無償の贈与に対して、つい自らの「告白」を返すことで帳尻を合わせようとしてしまう。だから賢治論は、その分量と多様さにおいてまず異常であり、また異様なほど感動的なものが多い。

この指摘自体ももっともだと思うが、筆者にとって何より印象的なのは、斎藤が上手にこちらを冷ましていくテクニックである。まず、告白すること。それから、告白について語ること。ふっと差し水をされたような気分にある。「あっ」という気になる。

 往々にして、批評家は大事なことを言うときに熱くなる。いいことを思いついたり、大事な地点に上り詰めたりするときには、血行が良くなっている。どんどん進んでいく。あるいは逆に、「オレ/あたしは良いことを思いついた!」と興奮するから、血液やリンパ液が激しく流れるのか。いずれにせよ、批評家はそこで、読者をも自分の興奮の圏内に巻きこもうとする。

 なんだ。それじゃあ、「文学」と一緒じゃないか、とも思う。批評がしばしば「文学」と同じように、あるいは「文学」以上に鬱陶しくなってくるのはそのためだ。しかも「文学」ではなく、「文学風」なだけなのだ。(本書でも使われている「二次創作」という言葉は便利だ)

 これに対し斎藤の批評は、冷えるための装置である。といっても単に冷たいだけでは機能しない。熱さに紛れこみつつ、冷ますのである。外側から「まあまあ」と宥めるのではなく、内側に入っていって、一緒にどこかに下る。奈落の底に落ちるのではない。イメージとしては、床にべたっと座るような感じだろうか。ある種の「平坦さ」に落ち着かせる。どうぞ、お楽に、と。

 さきほど金原論からの一部を抜き出したが、宮澤論にも次のような箇所がある。

フロイト=ラカン的な意味における「去勢」とは、万能の母親との近親相姦的な性愛関係を、エディプス期における父親の介入によって断念することであり、この過程を経ることで、人間は「語る存在」として象徴界に参入することになる。ほとんどの人間は、去勢によって言語秩序のシステムに組み込まれ、言語によって無為な万能感から自由になると同時に、言語によって病む(神経症)という可能性をも獲得する。
 しかし、たぐいまれな言語の使い手である賢治に対して、はたして本当に「去勢」が欠けているなどと言いうるものだろうか。
 より正確に言い直すのであれば、実は賢治に去勢は欠けていない。賢治における「二者関係の病理」に似てみえる印象は、「去勢の否認」によってもたらされたものだ。ただし精神分析によれば、去勢否認はひとつの病理として、性的倒錯の原因となる。ならば賢治には、いかなる倒錯の痕跡がみてとれるだろうか。

「うわ、ラカンだ!」という人もいるかもしれないが、「どうだ、ラカンだ!黙れ」というふうに屹立するための引用ではない。といって熱くないわけでない。熱くないわけではないのだが、この部分だけ読むと「プラス」と「マイナス」と「イコール」をふんだんに使った演算式のようにみえるし、まるでガラス越しに文学とかかわっている気分にもなる。

 しかし、ほんとうにガラス越しなら、こちらも白けてしまうところ。始めから読んでここにたどり着くと、それまでの徐々に下っていく手続きのおかげで、これは冷たいのではなく、冷ますための手続きなのだ、というふうに感じられる。つまり、批評の全体がさめていくためのプロセスになっている。冷たいのではないし、ましてや白けるのでもない。熱をこもらせながら冷めていく。ちょっとぞくっとするような、快感である。

 本書で扱われている作家は宮澤賢治、小島信夫、三島由紀夫といった古典系から、多和田葉子、金原ひとみ、古川日出男などの現代作家、さらには中井久夫なども含んでいる。冒頭はメタ批評の趣が強く、だんだんと作家論、そして入門・解説的な色彩が強くなっていく。ここでは主に宮澤論を取り上げたが、小島信夫についての章も江藤淳へのからみ具合が見事だし、中上健次の章で文体を説明するあたりも、決して議論の中心ではないのだが、著者の眼の冴えが感じられる。

 対象が石原慎太郎でも東浩紀でも著者の手際はたいへん鮮やかで、この人はいくらでも書けるのだろうなとも思ってしまう。しかし、そこは微妙で、「いくらでも書けるだろうな」と思わせる風情で書かれたところよりは、たとえ策略がらみでも、不意に居住まいを正したり冷まそうとしたりするジェスチャーの混じったところの方が引きこまれる。きっと著者が内にこもらせた熱のせいか、などと考えると、まさに斎藤の言う「転移」だの「症状」だのに陥ることになるのかもしれないが。


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