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2009年07月21日

『逃亡くそたわけ』絲山秋子(中央公論新社)

逃亡くそたわけ →bookwebで購入

「頼むから俺を観察しないでよ」

 絲山秋子は大好きな作家なのだが、そればっかり続けて読む気はしない。ずっとそこに居続けたい、しっとりその雰囲気に浸りたい、という類の小説ではないのだ。もっとケンカ的というか、向こう気が強くて、パンチを浴びせられたり、凹まされたりする。どの作品にもSM的な応酬関係が仕組んであって、たとえやさしく明るい語り口でも、何となく剣呑さが消えない。いつも刃物がちらついている。毎日、少しずつ、寝る前に読みましょう、という世界ではない。

『逃亡くそたわけ』もそうだ。主人公の花ちゃんは躁鬱病。躁の症状が出て、自殺をはかった。それで精神病院に入ったのだが、ある日、同じ病棟に鬱病で入院している「なごやん」という男の子を誘って脱走する。銀行でお金をおろし、とにかく逃げるのだとばかりに、ほとんど目的もなく「ルーチェ」を駆って九州縦断の旅に出る。まさにロードムービー。映画化されたのもよくわかる。

 しかし、男と女の気持ちが少しずつ近づいていって、あるとき美しく交差する、というあまりにふつうなロマンスの枠組みをかなり守っているにもかかわらず、この小説もどこかぴりぴりしている。時間はのんびり流れるのではなく、といってはらはらどきどきというのでもなく、絶えず休むことなしに走っているという印象。どこか気が抜けない感じがする。神経が立っている。見逃さないぞ、と言わんばかりの作家の目も光る。

 だいたいにおいて、絲山の語り手はおっかない。たとえば『イッツ・オンリー・トーク』や『袋小路の男』の語り手たちは、とめどないというのか、制御が効かないというのか、独特の「狂気」を漂わせた、興奮感を発散している。饒舌というのではないが、息が荒い。『逃亡くそたわけ』の花ちゃんはそういう意味では逆で、精神病院から逃亡したという設定で文字通り精神の安定を欠いているはずなのに、実におおらかで、ときには淡々と、ときには繊細に世界を描いていく。ふたりでブドウ畑に飛び込んで、果実をもぎとって口にする、なんていう場面さえある。

 でもこの小説もやはりおっかない。逃亡仲間のなごやんを描写する次の一節などは、つくづく怖いなあ、と思う。

 なごやんが、くやしがるときに唇を噛むのは、そうすると可愛い顔になるのを自分で知っているからで、そんな余裕もないほど口惜しい時には頭をグッと後ろに引いて目が細くなるのですぐわかる。普通にしていればかっこいいのに、顔に上半身と下半身があって、作り笑いをする時は口だけで笑う。得意になった時にはまゆ毛が上がる。気に入らないときには目鼻がばらばらになって福笑いみたいな顔になる。本当の気持ちは顔の上半身をみていればわかる。自分がどう見られたいのかは顔の下半分に出る。うまくいえなかったけれど、そういうことを話すと、
「頼むからさあ、俺を観察しないでよ」
 と言った。けれどもそう言っている顔の上半身は照れ照れで、なごやんは実はいじられるのが嬉しいのだった。
とりあえずの反応は、「いやぁ、ちょっぴり意地悪な花ちゃんですねえ」程度かもしれない。たしかに裏から回り込むようなこういう視線は、すぐれて小説的なもので、まさに観察と諷刺の精神。そこにさらに「なごやんは実はいじられるのが嬉しいのだった」と、ひとひねり加えるあたりも、にくい。

 しかし、一見さわやかに、ぴりっと軽く偽装しているかと見えるけど、こういう女の目というのは、ものすごく濃厚なものではなかろうか。実に濃厚に男を凝視する目。意地悪さを混じらせつつも、それを包みこむ「熱さ」をもった目。男だと、こういう凝視はすぐにセックスだの欲望だのといった話になるのだろうが、このような場合は、簡単に性で解決がつかないだけに恐ろしい。もっと、計り知れない支配欲を隠し持っているような気がする。

 ついでにもう一カ所、引いておこう。東京かぶれのなごやんは、大学で四年間慶應に通ったというだけで、すっかり東京人気取りなのである。
 

中津に行く道は開けていたけれど、あるのは斎場ばかりだった。もれなく仏壇屋もついてきた。人なんか少ししか住んでいないのにどうしてこんなに人が死ぬのだろうと思った。なごやんは、
「不吉だ」と呟いた。
福沢諭吉の旧居はおんぼろの萱葺き屋根の家で、記念館はあたしには退屈だったけれど、なごやんは、
「ほら、これが三田キャンパス、うお、日吉もある、懐かしいなあ」
と、航空写真の前で大騒ぎして満足したようだった。パネル展示には、
「諭吉は大へん晴々とした気持でふるさと中津を発ちました」
と書いてあって、なごやんも名古屋を出るときそんな気分だったのかもしれないなと思った。

 なごやんの台詞を含めた、カッコ内の言葉を聞き取る語り手は、やっぱりすごく小説的である。つまり、観察的でちょっと距離を置いている。でも、それだけでなく、前の引用に表れていた濃厚さや、アテンションの鋭さのようなものもある。そこには花ちゃんの、何とも言えない生理のようなものが隠れている。

 こうした描写があるのは、小説のまだ5分の1から3分の1くらいのところで、ストーリー的にはまだまだふたりが馴染んでいない、何となくよそよそしい段階である。出発したばっかりだし、こちらとしてもついうっかり、さわやかに読み飛ばしてしまうところなのだが、ここに埋め込まれた「熱」は、ストーリーが進行するにつれて、少しずつ表に出てくる。しかも、「症状」めいたものとして。

 道中、花ちゃんの体調はずっと不安定である。耳には絶えず「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」という幻聴が聞こえている。途中ひどい頭痛に襲われたり、風呂場で倒れたりもする。それから、いくつかの「事故」もある。車のエアコンが壊れて車内が灼熱の熱さになる、とか。川で洗濯していたなごやんが、転んで流れに落ちて溺れそうになる、とか。やくざのポルシェに衝突して、慌てて逃げるなんていう場面もある。

 実は故障や転落や衝突なども含めて、ぜんぶ、花ちゃんの「体調」や「症状」の一貫ではないかな、と錯覚させるようなところがこの小説にはある。ひょっとするとすべてが、花ちゃんのあの「熱さ」に発した展開なのではないか。森の中で、猫山メンタルクリニックとかいう医院が忽然と現れるあたりはかなりのものだ。

 すごく難しいことをしている小説なのである。そもそも精神病院から遁走するという設定からしてファンタジーだの幻想だのが、抒情的な粉飾として軽々と使える世界ではない。幻だの感情の揺らぎだのということは、そのまま、殺伐とした薬物や治療のプロセスに直結する。小説のもう一方の極にあるのは、精神病の症状を淡々と描く目である。

テトロピンを飲むくらいなら治らない方がましだ。躁や統合失調症による神経の興奮を静める薬だと医者は言うけれど、そんな生易しいものではない。患者はみんなあの薬で「固められる」と言っている。文字通りだ。飲むとものすごく気分が悪くなって、頭の中に暗い霧が来る。だるくて動くことも喋ることも出来なくなる。考えることすら出来なくなるのだ。何を見ているのか、それすら忘れてしまう。時間をまるごと失ってしまうのだ。薬を飲んだ後にうっかりお菓子なんか食べているとそのまま意識がなくなって、気がつくとお菓子が口の中でどろどろになっている。

夢も幻も、即物的なカタカナ名の薬によって引き起こされたり、治療されたりするものにすぎない。だとすると花ちゃんの「熱」が、そういう治療的な目のわずかなスキをついて、もっと個人的で、もっと掛け替えのない非薬物的な「症状」としてストーリーの上に現出するのは、ほとんど奇跡的なことと思えてくる。花ちゃんの「熱」は明らかに夢や幻になりたがっている何かなのだが、ひとたび夢や幻として認識されたなら、薬物によって治療されてしまうかもしれないのだ。だから、花ちゃんの「熱」は変形されて隠し持たれねばならない。体調不良だの、故障だの、転落だのという、健康で常識的な物差しに紛れる必要がある。そうして人知れぬ「目」としてこっそり、しかし「熱」をこめてこちらを見る。そこが、怖い。「頼むからさあ、俺を観察しないでよ」というなごやんの台詞、なかなか意味深いのである。


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2009年07月03日

『抒情するアメリカ ― モダニズム文学の明滅』舌津智之(研究社)

抒情するアメリカ ― モダニズム文学の明滅 →bookwebで購入

「敗北と文学」

 なぜ文学研究は、判で押したように「抑圧された欲望」とか「ジェンダーのゆらぎ」といったフレーズでオチをつけるんですか? 最初から結末が決まってるのでしょうか? なんていうことをいやらしく問うてくる学生がいたとする(実際に、いる)。もちろん、こちらも場当たり的とはいえ、何かしら答える方法がないわけではないのだが、いろいろ理屈をこねるよりは、まずはこの『抒情するアメリカ』を読め、というのが手っ取り早そうだ。

 文学の批評というのは実にマッチョなジャンルである。そのことを象徴するのはおそらく、「なのだ」という語尾だろう。新しい事実や意味を「自分だけが発見した!」と主張し、かつ、発見した自分を「どうだ、見ろ!」とばかりに堂々とひけらかしてみせる。そうしないと格好がつかないのだ。

 なぜそんなことになるのか。背景にあるのは、「文学作品というのは寡黙だ」という前提である。恥ずかしがり屋さんの作品テクストに替わって、批評家が声を大にして「なのだ!」と代弁してあげる、そうすることで守ってあげる、そんな設定が文学批評の黄金パタンとなってきた。ボケ(作品)と突っ込み(批評)の相補的な依存関係が、作品と批評との間にはあるのらしい。

 しかし、ほんとうにそれだけなら、複雑なことにはならない。批評家や文学研究者が青ざめて悩んだりする必要なんかない。とにかくぜんぶ説明し、やっつけてしまえばいいのだ。捕獲してしまえばいい。たいへんルールの明確なゲームだ。ところが、実際には多くの(まともな)批評家や文学研究者は青ざめて悩んでいる。おそらく舌津智之氏もそのひとりだ。

 というのも、「なのだ」を駆使して威張らざるを得ないにもかかわらず、(まともな)批評家や文学研究者というのは、作品テクストの方が、「なのだ」で語る批評よりもはるかに「上」だということを知っているからである。威張っているにもかかわらず、たえず語る対象に対する底知れぬ劣等感に駆られてもいる。

 こんな必敗関係に直面して、批評家はいったいどうしたらいいのか。『抒情するアメリカ』は、その対策をたいへん華麗な形で示してみせる。たとえば次の箇所を見てもらいたい。

なるほど、抒情とは一見、禁欲的なモダニズムより、開放的なロマンティシズムに親しむものだと感知されうるかもしれない。しかし、抑圧されて回帰する個人的情緒――禁欲的自己検閲のもとに発露する明滅的な感傷ないしはロマンティシズム――がアメリカ的な抒情のゆらめきであると見る本書の枠組みに照らすとき、(成就しないままに延命される)欲望の深みと強度において、抒情するモダニズムとは、ロマンティシズム以上にロマンティックであるという逆説を孕む。
「禁欲的自己検閲のもとに発露する明滅的な感傷ないしはロマンティシズム」って、いったい何?と思う人もいるかもしれないが、要するにむっつり構えて我慢していたおじさんが、つい、隠れて泣いちゃったり、妙な苦笑い顔になったりする、といった場面を想像してもらえばいい。

 しかし、舌津氏はそうは書かない。そうは書かないことが大事なのだ。「なるほど、抒情とは一見…」で始まる上の一節の、「なるほど」には明らかに勝ちにいく書き手(=舌津氏)のポーズが表れている。「なるほど」と言われたとたんに、我々読者は「ああ、もう相手の言うなりになるしかない」と無意識のうちに白旗を立てているはずである。同様に、「むっつりしていたおじさんが、つい、隠れて泣いちゃったり…」とは書かずに「禁欲的自己検閲のもとに発露する明滅的な感傷…」と書くのも、やはり勝ちにいくポーズである。我々は、ああ、こんな風に言われるなら文句を言うのはやめよう、素直に従おう、と思うはず。

 だが、舌津氏がこれほどのマッチョで、強面で、完膚無きまでにこちらを打ちのめさんとするポーズを取るのは、決して作品を組み伏せ、切り裂き、蹂躙するためではない。それどころか、まさに自らが対象として取り上げる作品に美しく敗れ去るためにこそ、著者はこうした語り口をとる。著者が語ろうとするのは、存在ではなく欠如なのである。完成や到達や「論理の完遂」ではなく、仮定や逸脱や「感傷の漏れ出し」を語る。ということは、著者がマッチョで強面になればなるほど、まさに語ろうとする対象からは逸れ、離れていくということなのである。

 ああ、また「逸脱」か、と飽き飽きした口調になる人もいるかもしれない。冒頭で触れた学生の「また、ジェンダーのゆらぎですかぁ?」という問いも聞こえてくる。しかし、そんなことは著者は重々承知なのである。もちろん、「ジェンダーのゆらぎ」をはじめとするフレーズは、共通の場を構築するための挨拶替わりという程度のものではない。著者は本気でジェンダーのことを語っている。そこは批評の怖いところで、本気でない言葉というのは、何となく、肌で感じ取られたり、白々しさが透けて見えたりするもの。しかし、「ジェンダーのゆらぎ」と口走ることで著者が満足しているなどとは、ゆめゆめ思ってはいけない。ジェンダー云々の格好いい決まり文句が、花と散るかのようにどうでもよくなる瞬間というのが、本書のあちこちには見られる。

 以下にあげるのはその例だ。ビーチボーイズを扱った最終章で著者は、このバンドの独特の暗さが「現実にはありえない何かを想定する創作モード」から来ているとし、さらに仮定法の重要さに注目する。このあたりは議論としてどちらかというと先の「勝ちにいくポーズ」を思わせるのだが、そうした批評的論理を構築する途上に、ビーチボーイズの歌詞をめぐる、次のような分析がある。

We could ride the surf together
While our love would grow
In my Woody I would take you everywhere I go

ここで、わずか三行のうちに六度繰り返されるの音(We, While, would, Woody, would, everywhere)は、唇を尖らせる動作によって発音されるものであり、同様に唇をすぼめるの二重母音の脚韻や、surfとloveとmyとeveryの四語に含まれる口唇音とも重なって、二つの唇が柔らかな接触を求めあうくちづけの官能性を自体愛的(オートエロティック)に模倣する。裏を返せば、それは、歌の中でしか実現しえない架空のくちづけである。

 さて、どうだろう。いくら勝ちにいく議論の果てに繰り出されるとはいえ、ここまで来ると、「ん?待てよ」という気にならないだろうか。もちろん、「ありえない~!」というほど珍妙な議論ではないし、むしろその指摘の思いがけなさ、鮮やかさには思わずうっとりする。だが、そうは言っても「ん?」の気持ちも消えない。

 判で押したような強面のフレーズの隙間から漏れ出るようにして、ほとんど自虐的なほどのいかがわしさで増殖しあふれ出す、限りなく嘘っぽいけど、やけに本当っぽくも聞こえる読み。これこそが舌津氏が『抒情するアメリカ』に仕掛けた「負け」の装置なのである。自らの強面の「勝ちの仮面」をあざ笑うかのように、自由に、いい加減に、好き勝手に、でも、そう簡単には気づかれないように、軽やかに駆けめぐる言葉。

 本書で舌津氏が立てたテーマは、アメリカ文学における抒情であり、感傷であり、涙である。これは実に手のこんだ設定だと言える。表向きのポーズとしては、こうだ。本来、ぐにゃぐにゃして「知」の言葉ではとらえきれないはずの「情」を、徹底的に散文的に、論理的に、文学史的に曝いてみせる、と。そもそも「情」について、情的な言葉でことさらうっとり「詩的」に語ろうとする批評の、その怠惰で自己耽溺的なうっとうしさには、舌津氏は長らくうんざりしてきたはずだ。だからこその、強面で理知的な仮面。しかし、その枠をきわめて精妙に構築する一方で(白眉はおそらく序と第五章。まずはここから読むのも手かもしれません)、さらにそれを上回るような抜け目のない俊敏さで、枠の硬度を出し抜いてみせるのである。何もそこまでやらなくても、と読者がとめに入りたくなるほどだ。しかし、その出し抜きの衝動の「どうしようもなさ」にこそ、おそらくは舌津批評の真実がある。

 抒情や詩について何か言いたい、というのは多くの批評家が抱く夢だ。文学の中でももっとも語りにくい、おそらく永遠に正面切っては語られ得ない何かがそこには隠されている。奥にある、芯にある、という気にさせる何かなのだ。だからこそ、あれこれ作戦を駆使して、語ったことにする。あるいは敗北してみせる。それでも十分「そこ」に足を踏み入れた心地を表現するのが、批評家の腕というものだろう。本書は、そのお手本を示してくれる本ではないだろうか。



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