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2009年06月15日

『1Q84』村上春樹(新潮社)

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「やっぱりストーンズのおかげ」

 絶品の出だしである。渋滞した首都高のタクシーの車内。ラジオからはクラシックの曲が聞こえてくる。誰もが知っているようなポピュラーな曲ではない。でも、シートに身を沈めた女性主人公には、それがヤナーチェクの『シンフォニエッタ』だとわかる。

 もちろん、これだけなら、単にキザで鼻につく設定だ。ビートルズの曲が鳴ったり、風の歌が吹いたり、何となくうら悲しくて、孤独で、音楽オタク的で、ハードボイルドで、でも、主人公は頑張ってるぞ、格好いいぞ、みたいな村上春樹の世界はこれまでにも見られたし、とりたてて賞賛するには及ばない。

 絶品なのは、〈静けさ〉の作り方のことである。主人公の乗ったタクシーはトヨタのクラウン・ロイヤルサルーン。高級車である。シートの座り心地もいいし、何より遮音性が高い。しかも道路は渋滞中。主人公の青豆が車を褒めると、運転手はすかさず「静かな車です。それもあってこの車を選んだんです。こと遮音にかけてはトヨタは世界でも有数の技術を持っていますから」などと応える。あたりさわりのない会話とも見えるのだが、このあたりから、一気に〈静けさ〉の魔力がたぐりよせられてくる。

 青豆は肯いて、もう一度シートに身をもたせかけた。運転手の話し方には何かしらひっかかるものがあった。常に大事なものごとをひとつ言い残したようなしゃべり方をする。たとえば(あくまでたとえばだが)トヨタの車は遮音に関しては文句のつけようがないが、ほかの何かに関しては問題がある、というような。そして話し終えたあとに、含みのある小さな沈黙の塊が残った。車内の狭い空間に、それがミニチュアの架空の雲みたいにぽっかり浮かんでいた。おかげで青豆はどことなく落ち着かない気持ちになった。
 青豆の、周囲から遮蔽された閉塞的な思考が、じつにうまく静けさを導き出しているのがわかる。『1Q84』では、あちこちでこうした〈静けさ〉への没入のシーンが見られる。というより、この小説、盛り上りどころでは必ずと言っていいほど、人物や情景が静かになっていくのだ。1、2巻合わせて千頁を超える大作で、しかも「青豆」という名の女性主人公は暗殺人。ストーリーの大枠は、怪しげな宗教カルトとの対決である。当然ながら暴力の影はあちこちでちらつくし、殺人のためのアイスピックや拳銃も出てくる。激しいアブノーマルなセックスもある。しかし、重要な出来事は、静寂のとぎすまされる中でこそ生ずるのだ。青豆の操る〈暗殺術〉にしてからが典型的である。
 青豆は男の太い首筋に手を当て、そこにある特別なポイントを探った。それには特殊な集中力が必要とされる。彼女は目を閉じ、息を止め、そこにある血液の流れに耳を澄ませた。指先は皮膚の弾力や体温の伝わり方から、詳細な情報を読み取ろうとした。たったひとつしかないし、とても小さな点だ。その一点を見出しやすい相手もいれば、見出しにくい相手もいる。このリーダーと呼ばれる男は明らかに後者のケースだった。喩えるなら、まっ暗な部屋の中で物音を立てないように留意しながら、手探りで一枚の硬貨を求めるような作業だ。それでもやがて青豆はその点を探り当てる。そこに指先を当て、その感触と正確な位置を頭に刻み込む。地図にしるしをつけるように。彼女にはそういう特別な能力が授けられている。
語り手の「シーーーーーーーーーーッ」という警告が聞こえてくるかのようだろう。もちろん、敵の最深部に到達した暗殺者が、いよいよ仕事を決行するかという瞬間である。緊張が高まるのは当然とも言えるが、この静けさは、サスペンスや緊張を高めるための単なる道具ではない。こうして静かになることは、人物の内面への耽溺を通した、今ひとつの世界への第一歩なのである。というのも、今ひとつの世界は何よりも、聞き慣れない〈声〉の侵入として始まるから。冒頭の場面でも、静かな車内に「でも見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです」という運転手の言葉が発せられ、これが最後まで小説の裏側で響き続けることになる。

 タイトルの『1Q84』とは〈1+Question Mark+84〉のことである。我々が知っている1984年が、ふと見知らぬものへ変貌してしまった場所、それが1Q84の世界である。物語はそこで展開する。主人公はふたり。十歳の頃、小学校の同級生だった青豆と天吾である。ともに幼少期に心の傷を背負ったふたりは、その後まったく別の人生を歩む。青豆は表の職業はスポーツインストラクターだが、実は暗殺の専門家。ある日、青豆は、渋滞に巻きこまれたタクシーを捨てて、首都高速の非常階段からハイヒールを脱いだ裸足で降りてしまう。ここで何かが決定的に変わった。1Q84の世界のはじまりである。次なる暗殺のターゲットは宗教セクトのボスである。一方の天吾は予備校教師をしながら文芸誌への応募をつづける小説家志望。天吾の方もたまたま、この宗教セクトの小説化作品のゴーストライティングを請け負うことになる。離ればなれだったふたりの運命がこうしてにわかに接近する。

 しかし、1Q84の世界は一息に立ち現れるのではない。上に引用したような静けさのシーンを積み重ねることで、少しずつ、じわじわと、まるでガスが漏れ出るようにして充満してくる。そのガスは〈空虚〉と呼び変えてもいいような種類のもので、しばしば身近な人物が忽然と姿を消した後に、ぽっかりと生じた空白として感じられたりする。その空白に耳に馴染みのない〈声〉が聞こえてくるのである。たとえば、天吾は家庭のある十歳年上の女性と関係を持っていたのだが、ある日、彼女が消えてしまう。そこへ電話がかかってくる。

天吾は勇気を出して尋ねてみた。「彼女に何かあったのですか?」
 沈黙があった。天吾の質問は返事のないまま、あてもなく宙に浮かんでいた。それから相手は口を開いた。「そんなわけで、川奈さんがうちの家内に会うことは、この先二度とないと思います。それだけをお知らせしておきたかったのです」
 この男は天吾と自分の妻が寝ていたことを知っている。週に一度、一年ばかりその関係が続いていたことを。それは天吾にもわかった。それでも不思議に、相手の声には怒りも恨みがましさもこもっていなかった。そこに含まれているのは何か違う種類のものだった。個人的な感情というよりは、客観的な情景のようなものだ。たとえば見捨てられた荒れ果てた庭とか、大きな洪水のあとの河川敷とか、そんな情景だ。

この最後の「見捨てられた荒れ果てた庭とか、大きな洪水のあとの河川敷とか、そんな情景だ」という一節、比喩についてはわりに禁欲的なこの作品の中でも、際だった精彩を放っている。作家がいかに、静寂を想うことに集中しているかをよく示す一節だと思う。果たしてその後には、次のような描写がつづく。

 いったん相手が黙ると、電話口からはどのような音も聞こえてこなかった。男はとんでもなく静かな場所から電話をかけているらしかった。あるいはこの男が抱いている感情が真空のような役割を果たして、あたりのすべての音波を吸収してしまうのかもしれない。

文字通り、言葉をつくして静寂のことが書かれる――しつこいほどに。しかもその静寂の向こうに桃源郷があるわけでもなし、静寂の中で種明かしがされるわけでもない。

 不思議だなあ、と思う。どうしてこんなに静寂にこだわるのか。この『1Q84』を含め、氏の長編を読めばわかるように、その資質は明らかにエンターテインメント系に分類されてしかるべきものである。無駄のないストーリーテリング、類型的な登場人物の配合、ジャーナリスティックな話題への目配り。『1Q84』にも、DV、レズビアニズム、宗教カルト、コンドーム使用、脳、主婦の欲求不満、幼児体験のトラウマ等々、読者に取っ掛かりを与えてくれる材料がふんだんに盛り込まれていて、これならどこからでも入っていけるよな、と思う。

 でも、どうも、それだけではいけないのだ。第2巻の終わり近くにこんな一節がある。天吾が幼なじみの青豆のことを思い出そうとしているシーンである。

 しかし天吾は、その作業に意識を集中することができなかった。ローリングストーンズの別のアルバムがかかっていた。『リトル・レッド・ルースター』、ミック・ジャガーがシカゴ・ブルーズに夢中になっていたころの演奏だ。悪くない。でも深く思索したり、真剣に記憶を掘り起こそうとしている人のことを考えて作られた音楽ではない。ローリングストーンズというバンドにはそういう種類の親切心はほとんどない。どこか静かなところで一人になる必要があると彼は思った。

やった、ストーンズだ!そりゃビートルズよりはストーンズだよな、と一瞬筆者は喜んだのだが、どうも間違っていたらしい。ストーンズは「親切心のない」バンドなのだ。ここはこの小説の中でも、天吾という人物が、作家村上春樹にもっとも近くなる一節ではないかと思う。「深く思索したり、真剣に記憶を掘り起こそうと」する――こんなに無防備にこんなことを言う作家も珍しい。ストーンズのことは脇においてでも、ここは素直に評価したい。村上春樹はどうやら本気で、静かでいたい、静かなところで思索したいと思っているのだ。

 そこであらためて思うのは、戦後日本文学の歴史というのが、まさに小説家が深かったり、真剣だったりすることを禁じられてきた歴史だったのではないか、ということである。別の言い方をすると、いわゆる〈純文学〉の作家には、一生懸命語ってはいけないという抑止力が働いてきた。もちろん、書くのは一生懸命やる。それはいい。でも、小説が作品として〈一生懸命〉なのはよろしくない。なぜなら、小説的衝動とは、言葉の〈一生懸命〉を疑うことに発しているから。何とかして一生懸命語らないことで、語ろうとする、それが小説というジャンルの可能性だと戦後の多くの作家たちは考えてきたから。だって、一生懸命語ってみせる人って、な~んとなく、いかがわしいでしょう?という前提がそこにはある。

 村上春樹の語りは徹底した読者コントロールが特長である。黙ってついていけば自然とどこかへ連れて行ってくれる、かなり強力なレールのようなものが敷かれている。加えて話題への目配り。人物の輪郭の明快さ。どれも〈一生懸命な語り〉の典型である。一生懸命、「ワタシヲ読ミナサイ!」というメッセージを発してくる。純文学作家が「ボクニハ言イタイコトナンカナイシ、ミナサン、読ンデモ読マナクテモ、ドウゾオ好キニ」というふうに、読者と距離を置くような構えをとるのとは対照的だ。

 しかし、小説の中で静かになろうとすることは、どこかでこの〈一生懸命な語り〉を疑おうとする契機となるのかもしれない。何しろセクトの話である。小説がそんなに真剣に、本気になったら、ミイラ取りがミイラになるようなものではないか。深く真剣などではない、むしろくたびれて退屈し、「やれやれ」と言いながら斜めを向こうとするような構えが必要なのではないか。昔から村上春樹がこだわることをやめなかった〈退屈ぶり〉の意匠は、こんなに〈深く真剣〉に見える作品にもチラッとのぞきはする。そういう退屈の表現が、すごく一生懸命な静寂の構築を通して行われるのはたしかに皮肉なことだ。その矛盾にどこまで登場人物たちが堪えることができるのか。場合によっては彼らの命にもかかわるかもしれない。でも、このような雑音も通気性もない密閉型の小説でも、どこかにだらしなく、下品で、不親切で、いい加減な語りへの希求があると考えるだけでも、お、やっぱりストーンズのおかげだね?とちょっと嬉しくなったりする。


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2009年06月03日

『ctの深い川の町』岡崎祥久(講談社)

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「不機嫌の作法」

 岡崎祥久のデビュー作『秒速10センチの越冬』はいわゆる貧乏小説だった。主人公の青年は仕事がない。就職面接に行ってもいつも落とされる。面接のとき、相手の担当者に「私のどのへんがだめなんでしょう?」などと訊くシーンは、なかなかのものだった。

貧乏。もてない。楽しくない。このあたりは、長らく小説世界の基本であった。近年、フリーター文化と小説執筆とは急接近しているが、以前から日本の近代小説の主流は、マイナス設定だった。ネガティヴ・サブライムと言ってもいい(崇高なる駄目さ!)。

 『ctの深い川』もまた、貧乏小説である。都会生活に見切りをつけて急行電車で40分の地元に戻ることにした主人公なのだが、引越荷物一式を赤帽トラックの炎上事故で失い、まったくの身一つでタクシー会社の寮にころがりこむ。皮肉にもこの会社は「ノーブル交通」といって、運転手はみな、フリルのついたシャツを着せられエセ召使い風の高級サービスにいそしんでいる。

 ただ、この主人公、貧乏なわりにあまりじたばたしていない。悲しんだり、苦しんだり、騒いだりしない。もちろん喜んだり、盛り上がったり、陶酔したりもしない。貧乏に馴染んでしまっているのだ。泰然自若というか、体温が低いというか、低く安定しているように見える。ここまで安定していると、物語が始まらないんじゃないか、と心配になる。

 とくに目立つのが、どたばた風でぷちギャグ満載の舞台設定とそぐわないかとも見える一人称の「わたし」の使用である。「俺」でも「僕」でも「ボク」でもなく、淡々とした「わたし」が、ありえなさ寸前の珍妙な世界の中心にいる。発明家を称する同僚の勝俣とのやり取りは、こんな感じになる。

「そいつは何だ?」わたしは尋ねた。「何かおれに関係があるのか?」
「これね、タイムマシンです」
「あっそ。あんたさ、遅くなるといけないからもう帰れよ。今日はどうもご苦労さん」
「まだ真っ昼間ですよ」
 そう言って勝俣は、カールしたコードの一本をわたしに差し出した。先端を握っていろというのだった。ピリッと痺れたら成功です、過去でも未来でも自在に行き来できます――勝俣はそう言った。
 わたしがそのコードの先を握ったのは、タイムマシンなどありっこないと思っていたからだった。"茶筒"は上蓋が外れるようになっており、そこに数個のツマミとスイッチがついている。じゃあ行きますよ、と言って勝俣はスイッチを入れた。ピリッと痺れた。どうでしたかと訊くのでわたしは痺れたよと言った。じゃあ成功です。それだけ言って勝俣は機械を片づけ始めた。ここは未来なのか? それとも過去なのか? とわたしは尋ねた。
 かなり妙な展開なのだが、SFではないし、不条理系とも違う。それよりも、会話では「おれ」と言う主人公が、地の文では「わたし」に豹変するあたりが気になる。語り手ははじめから、舞台から降りているのか。ただ、続きを読むと、何となくこの体温の低さの目指すところも見えてくる。
「じつはね、これ、"愛取り外し機械"なんです」勝俣は照れ臭そうに言った。「だってヤじゃないですか? 女の人を見るたびに、やることになれるかな、とか考えるのって。僕ね、ずっと思ってたんですよ、なんでこんなに生きにくいのかって。そうしたら、それが原因だったんです。だから僕ね、この世にはもう僕とやってくれる女はいない、って決めることにしたんです。決めただけじゃ弱いから、これはもう取り外しちゃうしかないって。それでこの機械を発明したんです。今にきっと特許が取れますから。申請の準備も進めてます」
「……」
「なんだかこう、自由になれた感じがするでしょ? しない?」
「そうだな、うん、悪くないよ」
「でがしょ?」
「……」
この力の抜けた感じ。カクッと関節がはずれるような、行き場のない馬鹿馬鹿しさが、岡崎祥久の持ち味なんだろうなという気がする。力んで球を遠くに飛ばそうとするより、バントの構えからバットを引いてキャッチャーのパスボールを誘うような筆致である。

 こういう体質は、どのような物語に向くのか。この小説では、タクシーの運転が「釣り」に喩えられたりする。たしかに釣り人特有の、静かなところにひとりでいます、と言わんばかりの想念のようなものが、ふっと表れては消える。

 わたしはしばらく無為に市街地を走りつづけた。わたしの車を止めようとする客人には行き会わなかった。客人が"快晴"だ。"晴れ"の空に浮かぶ雲よりも少ない。今日は誰もが、ドアが自動で開いてスピードを出すタクシーに乗りたがっているのだろうか。あるいは〈ノーブル交通〉が(それともこのわたしが?)敬遠されているのかだろうか。

自動ドアを使わず、低速度で走ることを売り物にする「ノーブル交通」。それは、世界の水面に立ち現れるかすかなさざめきをじっと待っているような、釣り人めいた書き手としての岡崎の自画像なのだ。この作家が得意とするのは、2~3行分くらいの思いつきに出遭っては、また淡々と先に進んでいくというやり方である。そのせいもあってか、主人公の運転するタクシーには「ねえ、運転手さん、人をダメにするのはさ、苦しみだと思う? それとも愉しみだと思う?」などと問うような客が乗ってきたりもするのだ。

 こうしたさざなみめいた短い問いやアフォリズムに依存する語りというと、ちらっと初期村上春樹を思い出したりもする。もてないと自称していたわりに、唐突に女と出逢って理由もなしに仲良くなったりするあたりにも何となく村上臭がある。しかし、その世捨て人めいた不機嫌さとは裏腹に、岡崎の会話はたいへん小気味よい。アフォリズムに凝り固まりつつある世界を、うまくほぐしてくれる。ときおり怖いような不機嫌や絶望がのぞくのに、案外に軽快な仕上がりになっている。乗り心地の良いタクシーのように。

 この作品、岡崎の最高傑作ではないだろうし、低空飛行を得意とする岡崎の中でも地味な方に属するものかもしれないが、それでもこれだけやれるというあたりが著者の力だと思う。深刻な場面の一歩手前で間を外す脱力感はあいかわらず冴えている。最後に、作品の終わり近くから一箇所引用しておこう。主人公の中田に宛てて、女が謎の書き置きを残して去る、という場面である。この書き置きをめぐって同僚の茂原さんとかわされる会話がなかなかいい。

 茂原さんは"未処理"と書かれたトレーの中から、メモ書きを取り出した。
「ええっと、うむ」茂原さんは咳払いをした。「わたしは広すぎる舞台におびえた踊り子でした」
「…踊り子、ですか」
「あの子が言ったんだ、おれじゃないよ」
「わかってますけど、べつに裏声を使わなくても…」
「やっぱりさ、あんた自分で読んでくれないかな。おれは恥ずかしいや」
 そう言うと茂原さんはメモ書きをわたしに渡した。そこにはこう書かれていた――

わたしは広すぎる舞台におびえた踊り子でした。
でもステージに戻ります。
間違っていないけれど、正しいわけでもない道を
これ以上進むのはよします。
中田さんのおかげです。
どうもありがとうございました。

「意味がよくわからないんですけど…」
「おれにもわからないよ」
「彼女は、その、バレリーナか何かだったんですか?」
「うんにゃ、元々はレースドライバーだっていう話だったけどな」
「何が私のおかげなんですか?」
「そんなこと知らないよぉ。彼女と何かあったんじゃないの?」
「…いえ、べつに何も。これ、もらっていいですか?」
「え? なんでよ」
「いや、よく吟味してみたいので」
「でもそれ、おれの字だよ。それ持ってって、あんたジッと見るわけ?」
「あ、じゃあ書き写します」

このあと、もう少しじわっとくるような場面があって、小説はそれなりの結末を迎えるのだが、やはり光っているのは「でもそれ、おれの字だよ。それ持ってって、あんたジッと見るわけ?」というような一節だ。こういうシーンを書いてしまえる不機嫌は良い意味で健康だなあと思うし、これくらいの馬鹿馬鹿しさで、つい、くすっと笑うのは、楽しいものだ。

 ちなみにctとは「タクシー」のことだそうです。




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