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2009年03月16日

『富士日記』武田百合子(中央公論新社)

富士日記 →bookwebで購入

「2Bの鉛筆で」

 誰が書いてもいい。形式も自由。そう見えながら、実は得も言われぬルールがあるのが日記というジャンルのおもしろいところだ。ブログ上での日記の隆盛はご存知のとおり。日記の名で出版される書物も多い。でも内容は玉石混淆で、著者本人に対する興味がないのに読みつづけたくなるほどの日記となると、それほど多くはない。

 本書はそんな中で、突出している。日本語日記文学の頂点、というのも変な言い方なのだが、読んでいると金山を掘り当てたような気分になる。そのおもしろさをどう形容していいのか何とももどかしい思いに駆られるくらい、とにかく自分でも知らなかった変な言葉のツボをとらえられた感じがする。不思議な読み物だ。

 地主の家に生まれた著者は、子供の頃から文学趣味が旺盛。やがて戦渦をへて実家は没落するが、文学への思いは強く、出版社へ就職。しかし、配属されたのは編集部ではなく、傘下のカフェだった。そこで著者は武田泰淳と運命的な出逢いをする。

 『富士日記』は、夫婦となった武田泰淳と百合子、そしてその一人娘花子との、富士山麓での別荘生活を描いた日記である。日記という名にふさわしく、とにかくテンポよく時間が流れていく。淡々とその日に買ったものの品名や値段、食事の献立などが列挙され、その傍らに、出逢った人とのやり取りや出来事が記されていく。2Bの鉛筆一本だけでデッサンをしたような、質素で荒削りな筆致なのだが、人物たちが実に生き生きとしている。とくに何度も登場する地元の外川さんという人はなかなかのものだ。

外川さんは私と花子が上るとすぐさま、座敷のテレビをつけて、テレビと話しこむほどの近さに坐りこみ、画面に眼をすえたままになる。水戸黄門をやっている。ときどき「うう」という呻き声を出しては、穴のあくほどみつめている。水戸黄門様が浅はかな殿様をたしなめて悪い家来をやっつける話で、外川さんは鼻水が垂れてきても拭かない。黄門様が終えると、すぐパチンと消して、体の向きを変え、今度は私に話しかけはじめた。わかった。外川さんはこの番組がはじまっていたので、早くこれを見たいから、千葉の車のことなんかどうでもいい、早く座敷に上りたかったのだ。外川さんは黄門様を見ている間、子供がそばにきて首をつっこんで見ようとすると、ゲンコで頭をなぐって向うへ追いやり、自分だけテレビの前で専用にして見ていた。
外川さんの話のメモ(これは昨日、六月七日に、田植の話のほかにした話で、昨夜眠くなって書くのがいやになってやめておいたら、今日になって主人が「外川さんの話は書いておくのだぞ」と言うから、忘れないうちに書いておく。いやだなあ。指はイタくなるし、字を書くのは大へんだ。外川さんがこれからも沢山話をしたら困ることになる)。
(中略)
○外川さんの家についている迷信の話。
 外川という姓の家は三派あって、それぞれ守り神様がちがう。外川さんの家は御不動様で、この一派はキビを蒔いてはいけない。二月十四日の晩めしから十五日の昼(?)まで、米のごはんを家で炊いてはいけない。外で食べるのはいい。別の外川の一派は薬師様が守り神様で、ここではきゅうりを作ってはいけない。もう一つは忘れた。
○S学会は人の弱みにつけこんで攻めてくるから一種の共産党である。しかし、ここの親方は、金が沢山あるから偉い。R立正佼成会が攻めてきたが、外川さんははねつけた。

 最後のこの政治的意見のときは、外川さんは急に考え深げな面持となって、しかも断固とした意見のように演説調になって話してくれた。外川さんは政治が好きらしい。


生き生きとしているというと、何だがしみじみほのぼのといった印象を与えるかもしれないが、そういうのでもない。外川さんという人はやっぱり変だ。他にも変な人がたくさん出てくる。世の中とはこんなに変なものだったかと感心するほどである。そして読んでいくとだんだんわかってくるのだが、外川さんをはじめとしてこの日記に出てくるいろんな変なひとたちの「変さ」をおびきよせているのは、どうもこの著者自身の際立った素っ頓狂さではないかという気がしてくる。

昼はおにぎりとチーズを食べる。一時ごろ帰ろうとすると、四、五人派手なシャツの色めがねの若い男たちが車のまわりにきて「帰るの? どこからきているの? 品川ナンバーじゃん。東京から泳ぎにきたの? もう少し泳いでいけよ。乗せてってくれよお」と、口々にからかいだす。ひとわたり、皆の質問に返事をいちいちしてから「さよならあ。皆さん、ごきげんよう」といって、手を振って車を出してしまう。見かけはすごそうだが、気の弱そうな与太者たちらしい。花子はすっかりいや気がさして「大きくなって運転するようになったら、あんな目にあうから、男の人を隣りに必ず乗せるようにする。おかあさんはヤクザのおにいさんたちと友だちみたい」と元気がなくなる。

気のせいかもしれないが、何となく小島信夫の匂いがする。とくに「さよならあ。皆さん、ごきげんよう」というあたり。花子の反応もいい。セリフの実にテキトーな感じが、2Bっぽい。みんなが百合子語に感染しているとしか思えない。

足が痛むのでトクホンを貼る。 私「さっき、庭を上るとき滑って、前に挫いたところ、また捻挫した」
主人「百合子は普段でも少しびっこ気味だから、すぐ転ぶんだな」
私「左足だか右足だか、どっちかが少し短いんだって。小さいときに大病してお尻に太い注射したそうだから、それで短くなったのかもしれない。挫いたところをまた挫くと、その痛さといったら。おしっこがでちゃった」
主人「汚ねえなあ」
私「エンガチョだねえ」
四合目の駐車場に入ると晴れていて、本栖から白糸の滝あたりまでの麓の村は、パノラマのようによく見えた。真白なアルプスも見えた。コロナが一台とまっていて、男の子が二人、石を下の道に投げている。両親らしき大人は車の中にいる。危ないので注意する。男の子二人は、少し間をおいて、帰りがけの私に「クソババア」という。「クソは誰でもすらあ」と、振向いて私言う。主人に叱られる。

別に意図的に下ネタばかり選んでいるばかりではないのだが、この日記の自在さは、「おしっこがでちゃった」みたいなセリフがひゅっと出てくるあたりに典型的なのだ。

 百合子は泰淳に内緒で自動車学校に通い運転免許をとった。実はこの富士山麓の家も百合子の独断で買ったものだという。赤坂の自宅から車を飛ばし、別荘に家族を連れていくのはいつも百合子の役だったわけだが、「車の運転のできる女」という当時のハイカラ像が強烈な一方で、闇の部分がないわけではない。じつはこの日記の大きな部分を占めているのは、死の記述でもある。とくに自動車事故にまつわる記録。有名人の事故死。近所の人の交通事故。通りすがりの人から聞く事故の話。怪我人との遭遇。数々の車の不調(昔の車は壊れやすかった!)。ついには百合子自身、追突されてむち打ち症にもなる。

百合子が「ラッパを吹きたいほど」と形容するような牧歌的な風景に囲まれ、疾走する車に華やかでお洒落な雰囲気を漂わせながら、そこにつねに死が隣り合わせているという感覚が、この日記ならではの、そして百合子ならではの生の現実をつくっていく。だから、上巻でもっとも感動的なのも、つねに影を落とす交通事故の「魔」が、一瞬現実になりかけた瞬間である。いつものように赤坂の家を早朝に出た車は、山北のトンネルにさしかかる。当時の道はまだでこぼこ。見えない穴に落ち込んだ車はガクンとなり、そこでホイールがはずれてしまった。百合子が車を停めて車体をチェックしていると、驚くべきことが起きる。

ふと気づくと主人がいない。ひとことも言わずに、トンネルの中へ、すたすたと戻って行くのだ。しかもトンネルのはしっこではなく、まんまんなかを歩いて入って行くところだ。「あんなものはいらない。なくても走れるよ。歩いて入っちゃ危ない」。私が呼び返しても、大トラックが轟音をたてて連続して出入りしているので聞こえない。ふり向かないで、真暗いトンネルの中に、吸い込まれるように、夢遊病者のように、大トラックに挟まれて入って行ってしまう。何であんなに無防備なふわふわした歩き方で、平気で入って行ってしまうのだろう。死んでしまう。昨夜遅くまで客があり、私が疲れていて今朝眠がったからだ。ぐったりしている私の、頭を撫でたり体をさすったりして、しきりになだめすかして起してくれたのに、私が不機嫌を直さなかったからだ。車の中で話しかけてきても私は意地の悪い返事ばかり返した。私は足がふるえてきて、のどや食道のあたりが熱くふくらんでくる。予想したことが起る。トンネルの中で、キィーッと急ブレーキでトラックが停る音がし、入って行く上りの車の列は停って、中でつかえている様子。

めずらしく百合子の筆に、ちょっと芝居めいた感じが出ている箇所だ。今までのすぱっすぱっと乱切りするような筆致ではなく、一カ所に立ちすくんで、前を見たり後ろをみたり。逡巡し、後悔し、こだわっている。こういう珍しい場面に出くわして逆に思うのは、百合子という人がふだんはほんとに疾走しっぱなしだということでもある。まさに日記というジャンルそのままに、流れる時間に身をまかせるようにして生きている、実にたくましい人。でも、それだけではないのだ。百合子だって怖いのだ。

バカヤローといっているらしい運転手の罵声が二度ほどワーンと聞こえてくる。私はしゃがんでしまう。そのうちに、主人は、またトンネルのまんまんなかを、のこのこと戻ってきた。両手と両足、ズボンの裾は、泥水で真黒になって私の前までくると「みつからないな」と言った。黄色いシャツを着ていたから、轢かれなかった。ズボンと靴を拭いているうちに、私はズボンにつかまって泣いた。泣いたら、朝ごはんを吐いてしまったので、また、そのげろも拭いた。

またまた下ネタで恐縮なのだが、これが百合子の現実というもの。それにしても、武田泰淳とはこういう人だったのか、と思わせる一節だ。明らかに百合子の圏域に引きこまれている。

 とにかくこの『富士日記』は形容に困るというか、今、ここにしかない、と思わせるような書物なのだが、死や車に代表される無機的な脅威と、疲れるとばたっと寝て朝まで起きない、まるで生命力のカタマリのような百合子とのぶつかり具合の妙は、何とも不思議な味わいだ。ぱちぱちとはじけるようなその文体の極端な気っぷのよさと、物事が雪崩を打って進んでいくどうしようもなさ、そこに変わった人が次々に現れては消えていくという世界。下手するとカフカを思い出すような組み合わせではないか。カフカを強引なほどうまく日本語に訳して、かなり明るくして、小島信夫をちょっとだけ混ぜると、こういう世界になったりして、なんて思う。


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2009年03月04日

『ダブル・ファンタジー』村山由佳(文藝春秋)

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「少しダサいくらいがちょうどいい」

 500頁に達しようかという作品なのに、ストーリーがほとんどない。何人かの男が代わるがわる現れ、抑えがたい性欲を内に抱えているのだという主人公の女性と関係を持つ。男から男へと移るときに、かならずいわゆる「糊代」(同時進行)があるから、筋書きとしてはおそらく連続姦通ということになるのか。それにしても起きる出来事は、家出と、香港観光と、メールのやり取りと、あとはひたすら性行為ばかり。

 ああ、なんて馬鹿馬鹿しい、と思うかもしれない。掲載週刊誌の男性読者の視線を満足させるためだけの官能小説。ところが、どうも、それだけではないのだ。村山由佳という作家の作品は、筆者はめくったことがあるぐらいでちゃんと読んだことはなかった。今回のはいつもとは違うというのでちらっとめくり、最初の数頁でやや失望したのだが、読みやめなくてよかった。

 とにかく男がよく描けている。女を描ける云々は、男性作家の腕前を値踏みするときのお決まりの指標だろう。たとえば筆者は、大好きな『明暗』についてある女性に、「あんなの、女の描き方がなってなくて、鼻白んじゃう」みたいなことを言われショックを受けたことがあるのだが(たぶんそこは当たっている)、それを言うなら、女の描く男にこっちが「鼻白む」ことだってあるさ、とも思う。

 男は女に幻想を抱くものだ。女に過大に期待し、過剰に感傷的な涙目でうっとりとながめようとする。対して、女は男を過大にバカにする。男のわかりやすさやみっともなさを、これでもか、と暴く。そこでやりすぎる。ところが、この小説では、それがない。作品冒頭に登場するホストの描き方だけは、主人公の偽悪ぶりがややくどくていただけないが、そのあとに出てくる男性については見事だと思う。たしかに描写の中心は性行為ばかりで、男=性の道具という設定なのだが、その向こうに、「性」を越えた男たちの生活の匂いが生々しく漂ってもいる――プラスもマイナスも。つまり、この小説は、そこに書いていないことも十分書いているのだ。

 主要な男性は4人。夫の省吾、大物演出家の志澤、大学の先輩の岩井、駆け出しの役者の大林。この4人がその「性の作法」を基準に書き分けられる。脚本家の主人公奈津のためにテレビ局の仕事を辞め、主夫役を買って出た省吾は、妻の身体をなぐさめるためだけに、抱きたくもないくせに指でマッサージをしてくれたりする。その存在の鬱陶しさがこれでもかと書きこまれていくのと対照的に浮かび上がってくるのが、もう中年の域を超えた「漁色家」志澤の、激しい獣のような行為。その志澤に捨てられた奈津を迎えるのは、草食系と形容される岩井の、ひたすらやさしい長くて細い指だった。しかし、奈津はそこにも安住できず、好みのタイプではない、という大林に惹かれていく。以下は奈津が攻勢に出ている際の描写である。

大林のポイントは、岩井とも、また志澤とも違っていた。もれる声や息づかいに耳をすませながら、ここぞというところをさぐっていく。岩井は浅く含んで先端を刺激するだけでも充分に感じるが、大林はしっかりと深く含まれるのが好きなようだ。志澤は触れるか触れないかのごく優しい愛撫を好んだが、大林は強く吸いたてようと多少歯が当たろうと平気らしい。

好みのタイプではない男に惹かれてしまう女というのは、恋愛譚の黄金パタンかもしれない。作品の最後に登場するのが大林だというのは、おそらく必然。志澤でも岩井でもいけないのだ。そこには、思ってみない男に惚れてみたい、というような願望が見え隠れする。

 こういう男遍歴を重ねれば、次第にシニカルになっていきそうなものだが、奈津の目は男に対し、いたって寛容だ。とくに男たちの言葉への反応がいい。志澤とやり取りされる激しい重いメール、岩井とのだらだらとゆるんだ会話、大林の気障な片言節句。奈津は実に耳がいいのだ。行為そのものよりも、言葉の方がはるかに性的。男たちの匂いは、彼らの言葉にこそ発する。うわっ、と思うことなどなしに、どのやり取りも気持ちよく読める。青春ドラマのセリフについて奈津が発する、次のようなコメントは要注意だろう。

 ありがちなくらいが、人の胸には届きやすいのだ。少しダサいくらいでちょうどいい。大衆を甘く見ているのではない。セリフというものは、文字をともなわずに音として耳に届くから、あまりにも研ぎ澄まされていてはかえって受けとめてもらえないのだ。鋭利な刃物が向かってくれば本能的によけるのと同じように、鋭利な言葉に対して、多くの人は無意識のうちに身をかわす。

なるほど、という箇所だ。こういうことまで了解したうえでの小説世界なのだ。下手に「お文学」しない。不用意な洒落文句はほとんどなし。情念にあふれてはいても、自己憐憫や感傷は抑えめで、文学に対して斜に構えているのかと見えるくらい禁欲的(プロットの淡白さもそのためか?)。とくに主人公奈津の、格好の悪さがいい。志澤に対してなど、奈津は徹底的に「イタイ女」を演じてくれる。

―― ねえ、思いきって訊くね。もしかして、私がバランスを崩してあなたに依存しすぎてしまったせいで、本当は長く続くかもしれなかった関係を根こそぎ台無しにしてしまったのかな。それとも、今はただ、あなたがいつにも増して仕事に集中しなくちゃならない時期なのだと思って、私は私のことをちゃんとしながら、次に逢える機会を待っていてもいいのかな。
 それだけでも、どうか教えてください。こんなことでお仕事の邪魔をするのはまったく本意じゃないけれど、あなたからぱったり返事が来なくなってしまった理由をどちらだと考えていいのかわからなくて、毎日ほんとに辛いのです。くだらないと思うかもしれないけれど、私にとってはものすごく大きなことなのです。
 押しつけがましいよね。鬱陶しくてごめんなさい。
 きっと、送ったとたんに、あんなメール送らなきゃよかったとめちゃくちゃ後悔するんだろうな。でも、送ってしまいます。正直、胃がもう、限界だ。
〈奈津 拝〉
志澤は、まさにこういうメールをぜったい送ってはいけない相手なのに、まるで吸い寄せられるように出してしまうのだ。見ていても「あ~あ」だし、本人もわかっている。もちろん返事はこない。

 でもこんな奈津が、男たちを惹きつける何とも言えない魅力を持っているのだという。いったいその魅力とは?という問いが、この小説を前に進める力となる。そこを我慢して、我慢して、小出しにする。もちろん容姿などではない。もっと奥の方にあるものを、にじみ出させる。効果を発揮するのは、男たちの言葉の積み重ねである。とくに終わり近く、大林から伝え聞く志澤による奈津評は、それこそ「少しダサいくらいでちょうどいい」というセリフなのだが、ここまで読んだ読者は思わず「そうだよねえ」と思う(このセリフは引用しないでおきます)。その「そうだよねえ」を、どこか間の抜けたところのある奈津がよくわかっていないあたりがまたいい。

 小説の起源は作法書だと言うことがよくいわれる。たしかに、この作品を読んで性について学ぶという人もいるかもしれないし、人間関係の型について何かを知ることもあるかもしれない。しかし、「作法書」の最大の楽しみは、作法から逸脱した失敗例の描写でもある。ジェーン・オースティンもそうだった。作法書はどこかで意地悪なのだ。主要4人には加えなかったが、この小説でぜったい忘れられない登場人物が一人いる。後半に登場する祥雲という軽薄なお坊さんである。どうやら筋肉隆々らしいのだが、その「作法」といったら…。というわけで、その場面を引用して終わりにする。(それにしても最後の犬の比喩はすごい。)


<気持ち、いいですかあ>
思わず眉が寄った。いつかのホストを思いだす。なんだって男たちはこう、同じことを訊きたがるのだろう。おまけに、なんだって行為の最中になると口調ががらりと変わるのだろう。
 この程度じゃ全然、まったく気持ちよくないです、と思いながら、しかしはっきりそう言うことも出来ず、遠慮がちに頷いてみせる。脚の間に祥雲の手が伸びてくるのを、羞じらいを装ってひとまずかわした。
―― 弱った。ちっとも濡れてこない。だからといって、気分を高めるためにと、こちらから相手を愛撫する気さえ起きなかった。もう一度逢いたいわけでもないのに、ここでうっかり岩井お墨付きの腕前など披露してしまうと、あとあともっと面倒なことになる気がする。
<入れても、いいですかあ>
 眉根の皺がさらに深くなった。ここまできて、今さら何を。
 苛立ちを隠して再び頷いてやると、祥雲は奈津の手を取り、股間のものを握らせて自分から導かせようとした。
 大きさは、まずまずだった。奈津は、健康な大型犬の糞を連想した。ころりとしていて、わりに硬い。押し入ってくる時だけ少し期待もしたのだが、ほんの二、三往復で、奥を突かれるにはやや長さが足りず、圧迫感を愉しむにはやや太さが足りないことがわかった。形状の問題なのか、摩擦以外の刺激がほどんどない。
 久々に、演技をしなくてはならなかった。相手のためではなく、そうでもしないと気持ちいいことをしているのだという錯覚さえ起きず、とうてい達することなど出来そうになかったからだ。
 だが――間に合わなかった。
<一緒に、いきましょお―>
 は?もう?



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