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2009年02月25日

『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波書店)

大人にはわからない日本文学史 →bookwebで購入

「人はなぜ、文学史を求めるのか?」

 ああ、文学史…。誰も教えたくない文学史…。
 筆者の勤務先でも、毎年冬になると、「誰が来年の英文学史を教えるのか?」を決める会議が開かれる。「だってさ、オレ、学部長なわけよ。死ぬほど忙しいわけよ。お前、学部長じゃないっしょ?ね。だから来年の文学史は阿部ね」、「え~、だって、またですかあ?じゃ、トロイカ体勢で三分割みたいなのはいかがでしょう?」、「いえいえいえいえ、じゃ、ジャンケンで」みたいな会話が毎年繰り返されてきた。

 なぜ、人は文学史を教えたくないのか?    
 まあ、ふつうに考えれば、無理だからである。一年間30コマ程度で
近代文学を要約するなど不可能。それを強引にやろうとすれば、作者・作品名と抽象用語との羅列に終始した殺伐たる授業になること間違いなし。しかし、不思議なのは、意外と学生さんは文学史を求めている、ということでもある。筆者も一度ならず、「良い文学史の教科書ありませんか?」という質問を受けた。

 では、なぜ、人は文学史を求めるのか?
 それは文学史が「あったらいいなあ」というものだからである。筆者だって、あったらいいなあ、とは思う。あるわけなさそうなのに、あったらいいし、それどころか、ありそうな気さえする。そのあたりのからくりを、本書は手に取るように示してくれる。著者の高橋源一郎は、サイードを引きながら次のように言う。

 つまり、歴史の起源は任意なのです。ある共同体の成員が、その共同体の中で起った出来事を、ずっと後になって回想し、「我々はそこから来た」のだ、あるいは「我々はあそこから生まれた」と認識したとき、ようやくその歴史は始まるのです。
 同じように、その共同体の成員が、「我々の時間は終わった」と考えた時、その歴史もまた終わりを告げることになるのです。

「歴史」とは、共同体の夢にすぎない。だからこそ、新しい「国語」の誕生を夢想した「近代日本文学」の共同体は、「文学史」意識とは相性がよかった。高橋はそこに共通する原理を、志賀直哉と太宰治という一見正反対の作家を比較することで、鮮やかに説明する。一方には、家の前で不意に祖父と遭遇する『暗夜行路』の幼い主人公。もう一方には、自分を育ててくれた女中の「たけ」に会いに津軽まで行く『津軽』の太宰。

わたしには、彼らの小説は、一つの、同じ、大きな空間に属しているもののような気がするのです。そこには、「始まり」があり、「成長」があります。故郷があり、風土があり、空気があり、肉体があります。というか、彼らの小説は、表面上は少しも似ていないのに、それを書いたふたりの作家は、同じなにかを信じているように、わたしには思えるのです。

作家が物語の中で「始まり」や「成長」を信じることは、文学史という「始まり」や「終わり」のある時間を信頼することと重なるだろう。そういう意味では、文学史を見つけよう、語ろうとすることは、きわめて「近代文学」的な欲望だとも言える。そこには共同体への何らかの期待感が見え隠れする。

 しかし、ときにはそうした共同体への違和感を出発点に文学史を語ることも可能だ。本書を最後まで読むとわかるように、高橋のポイントはむしろそこにある。太宰や志賀直哉の生きた文学史を、高橋自身を含めた現代の作家の多くは、生きることができない。そこに居場所を見つけることができない。だから、本来なら共同体への賛歌でこそあるべき文学史を、むしろ「居場所がない!」という違和感の解明にこそ使う。それが本書最大のウリである。

 居場所のない作家の代表選手は、綿矢りさ、岡田利規、川上未映子、前田司郎など若い小説家を中心に、穂村弘などの現代歌人にまで及ぶ。考えてみると、文学史の今ひとつの機能は「何を読んだらいいか、教えて!」という問いに答えることにある。本書にも、便利なアンソロジーという顔がある。筆者もいくつかの印象深い一節に出遭ったので、孫引きを恐れずに下にあげておく。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)
牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に(同)
「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」(穂村弘)
「湯の中でおしっこするのが特別気持ちがいいとは思わないけどあたしはときどきこっそりとやっていたおしっこを/あたしはお母さんにいわれてやめたんです/それから毎日苦しくて/いいえおしっこ出来ないことが苦しいのではないのです/お母さんにいわれたことでやめているそのことが本当に苦しいんです/おしっこをしない人は〈したくないからしない人〉と/〈したいけど怒られるからしない人〉の/ふたつがあるって思うんです/あたしは前者がうつくしい/あたしは後者が汚らしい/お母さんの命令でしないでいることが愚かしい/たとえおしっこをしないでいても/本当のところはおしっこが出来てしまうあたしなら/お母さんを恐れてしないでいるあたしはいったいなんですか/なぜ人を殺してはいけないか/少しまえこのなぜころ問題にずいぶんと/お母さんたちは悩んでいたけどおしっこだってそれとおんなじ問題です/もっと毎日の問題です」(川上未映子)

こうした現代の書き手のサンプルから、樋口一葉、漱石、太宰、志賀直哉といった古典系に至るまで、文章の一節を引っ張ってきて食べ方を伝授してくれる腕前には、文学先生としての高橋源一郎の腕が冴えている。

 その語り口はときに超絶技巧とも見える。何しろ実にうまく、論じない、のだ。どうも高橋は論じ、断じ、威張るタイプの批評がとことん嫌いらしい。そのかわりに高橋の武器となるのは、問うこと、そして思いつくこと、である。

いったい、わたしたちは、なぜ、あるものを見たり、読んだりして、「古い」と感じるのでしょう。それは、その作品が実際に書かれた時代とは、ほとんど関係ないような気が、わたしにはするのです。(中略)もしかしたら、口語というものが当時と本質的にほとんど変わっていない故に、わたしたちは、彼の作品に古さを感じないのかもしれません。

 「気がする」とか「もしかすると」という、一見無責任とも見える言い方には要注意。こういう、触るか触らないかみたいな言い方でこそ掘り起こせる文学の秘部みたいなものは、たしかにあるのだ。次の一節もたいへん無責任だが、読んで損した気にはならない。

この作品 [=伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』] を読んでいると、ふつうの小説や詩には、というか、ふつうの文章には、カギカッコとか漢字とか改行といったはっきりした「輪郭」が存在することがわかります。そして、わたしたちは、その「輪郭」におおいに頼って、目の前に存在している「意味」を読み取ろうとするのです。だとするなら、「意味」というものは、なにかの内部にある秘密ではなく、単なる「輪郭」なのかもしれません。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。こういうぐにゃっとした武器で攻められても、防御も反撃もしにくいのだが、このタイミングで「輪郭」と言われると、深いところに蹴りでも入れられたような衝撃はある。ツボを射抜かれた感じがする。もうひとつ極めつけの一節。

詩の本質と考えられるものの一つに、「改行」があります。「改行」というものは、なぜ存在するのでしょうか。詩人に聞いてもはっきりとは答えてくれません。わたしの考えでは、詩人が改行するのは、その行のところでことばの角を曲がるからです。一つの行を書く、ある場所に到達する。その時、小説家はただ早く目的地に着くことだけを考えます。それに対して、詩人は角に来たら曲がりたくなる性質を持っています。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです。角を曲がるとまた角がある。小説家なら角ではなくメインストリートをまっすぐ歩いていきたいと思うでしょう。しかし詩人はその角の向こうにある、隠されているなにかが気になってしょうがない存在なのかもしれません。

詩人とは、「ここを曲がったら、自分のしらないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がる」という見立て、まさに現代詩の急所を射抜く言葉である!などとコメントすると、まさに高橋の嫌いそうな議論批評になってしまいそうだが、そういうことなのだ。全体に快楽に満ちた本だが、このようにきゅっと鋭く内角をえぐられるような球がくるところが、何より痛快である。

 とはいえ、看板に偽りはない。文学史と渡り合うとみえてじつはうっちゃるのかと思うと、実は最後はかなりきちんとした「結論」が差し出される。釘を使わないで組み立てた塔のように、柔軟でありながら先端的。考えてみれば、著者の姿勢には一貫したものがある。筆者がはじめて批評家としての高橋源一郎に衝撃を受けたのは、80年代の終わりに「朝日新聞」に掲載された文芸時評を読んだときだったが(『文学じゃないかもしれない症候群』所収)、文学史との決別を告げつつ新しい文学の到来を仄めかす仕草には、あいかわらずの源一郎節の健在を感じる。もちろん、筆者のような下の世代のものには、そうして共同体に違和感を示すジェスチャーそのものに、ある特有のこだわりを感じなくはないのだが、高橋がいくら変化球投手だからといって、マウンドに立たずして球を投げることはできない。どこかに立っているからこそ、声をあげたくなる、という意味では高橋源一郎はやはり表現者なのだとつくづく思う。


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2009年02月10日

『日本語が亡びるとき』水村美苗(筑摩書房)

日本語が亡びるとき →bookwebで購入

「「帰国」を説明する」

 依然として書店の平積みコーナーを占拠し続ける本書。つい最近も「ユリイカ」で水村特集が組まれたりして、日本文学と英語のかかわりにこんなみんなが関心を持つのは良いことであるなあ、と筆者などは職業柄つい軽薄に喜んでしまうのだが、実際に読んでみると、けっこう変な本である。そして、たぶん、そこがこの本の持ち味。

 出だしは明らかに私小説である。
「ユリイカ」のインタビューでも話題になっているが、日本での自律神経失調症に悩む生活から、アイオワ大ワークショップでのややすさんだ滞在生活へと話が展開するあたり、日本語論や英語教育論とは無縁、むしろいつもの水村節を、さらにきわどく押し進めたような自虐の語りで、病の匂いが強く漂う。

 ところがふつうに読んでいくと、それが一見冷静な現状分析に引き継がれ、日本近代文学の誕生の過程、「国語」概念の発生、「普遍語」の支配といった、この二、三十年のアカデミズムでも盛んに取り上げられてきた話題――言語の政治性の問題――へとつながってくる。そうした議論を踏まえつつ、最後の二章では日本近代文学の今後の見通しと、英語教育法についての具体的な提案とが、これまでよりも著者の個人的な思いを強く乗せて語られるというのが全体像である。すでに多くの書評の出た本であり、書評空間でも大竹昭子氏による力のこもった書評があるので、粗筋紹介はこれぐらいにしておく。

 筆者がふだん活動しているのは英語教育や英文学などにかかわる業界である。その一角では水村の素描してみせた「国語」問題や英語教育の方法について、それこそ重箱の隅をつつくような議論が延々とされてきた。おそらくそういう世界に生きてきた人たちからすると、水村の議論にはアラや誤認なども多く含まれている。筆者の耳に入ってくる感想も、ネガティヴなものの方が多いようだ。

 筆者が本書を手に取ったのは、すでに宴の後、とまでは言わないまでも、本書をめぐる熱狂がある程度終息してからであったので、本書と直に向き合うというよりは、本書を取り巻く状況とセットで対面したような気がする。そのおかげもあってか、この本の中に言語論や英語教育論ばかりを読むこともなかったし、日本文学論中心の本とも思わなかった。

 この本は「論」ではない。水村美苗そのものなのである。だから、本書がベストセラーになったのだとしたら、水村美苗そのものを人々が読もうとした、という他はない。英語教育界の重鎮が、まったく同じタイトルで同じ内容の、そしてもう少しリサーチを細かくしてある本を書いても、まあ、見向きもされなかっただろう(などという比喩が滑稽なことは承知で言うが)。

 なぜ水村美苗でなければならなかったのか。
 水村美苗はふつうの小説家ではない。日本近代文学の中ではかなりの異端。それは彼女が、独特な「中産階級性」を担っているからである。しかもそれは「日本人の9割が中流意識」とか「庶民の感覚」とか言うときの「中」とはちがう。むしろもっとガードを固めた中流とでもいうのか、しかし教養主義的でもあり、さらに――ここがもっとも大事なのだが――そこに欧米駐在員文化の香りが強くする。

 水村は近現代日本文学がながらく排除してきた「帰国子女的なもの」を具現しているのだ。このあたりは皮肉というほかはないが、水村がここまで強烈に日本文学にノスタルジアを抱けるのは、そこから排除されてきたことを実感しているからだろう。水村のこれまでの作品(とくに『私小説』以降)を読むとわかるように、そこにはわざと言葉をずらしたりわからないふりをしたりする文壇臭のようなものは希薄で、まるでエンターテイメント系の作家のような鼻通りのいい文章でありながら、その一方でどこか「文学」に対する信頼ものぞいているという印象がある。その下敷きにあるのは、欧米19世紀のメロドラマ的な語り口で、そのやや過剰なアピール感は、自然主義系を主流とする近現代日本文学とはそりが合わない。それに加えての、日本独特の「帰国子女文化」なのである。

「帰国子女文化」は実に厄介なものである。それは、欧米に憧れて西洋語を学んだり、その文物に憧れて購入したり、あるいは留学したりするといった、近代日本の立身出世的価値観の根底にある「田舎→東京→外国」という憧憬の眼差しを無化してしまうものなのだ。吃音をきかせ、標準日本語では語らないことこそを旗に掲げるような、自然主義風の土の匂いのする貧乏や落胆や不幸の作品化は、どこかで「田舎→東京→外国」というベクトルを意識してこそ機能する。しかし、帰国子女という妙な存在は、顔は「日本人」であるにもかかわらず、しごくあっさりと、まるでランドセルでも担ぐみたいに西欧を背負っている。

 はじめから「西洋」を背負っているということが、どれだけ平凡で身近なことであるか。何しろ幼い頃から大量の牛乳を飲んだりマーマイトをパンに塗って食べたりするのが当たり前、お札を勘定するときに思わず英語が出たりするし、発音もいい。でも、英文和訳と文法では日本育ちの「純ジャパ」にかなわない。両親は教育熱心で、家庭では一昔前の丁寧な日本語が話されていたりするが、根にあるのはあくまで禁欲・勤勉を旨とする企業文化で、文学的頽廃とは縁がない…とまでいくと、やや型にはめ過ぎかもしれないが、いずれにしても帰国子女文化が学校教育の中でも、「どうしたもんかねえ」という眼差しを向けられるようになって久しい。「帰国子女って、かえって英語できないんだよねえ」なんて言われたりする。

 そしてさらにひねりがある。水村美苗は帰国子女ですらないのである。彼女がアメリカに渡ったのはすでに12歳のとき。遅すぎた帰国子女だった。だから簡単に「帰国」することもできない。いわゆる帰国子女がぐっと増えるのは水村以降の世代。水村は典型的な帰国子女とは違い、すでに物心ついてから、しかし、まだ幼い年でアメリカに行った。英語の習得では苦労したのに、その後の教育は米国に残って受けたりするのである。今では帰国子女どころか高校あたりからわざわざ留学して、十年後に大学院を終えて帰ってくると日本語がしゃべれなくなっている、という人も多くなった。ある意味で「帰国子女」という言葉そのものが死語となりつつあるのかもしれない。また、帰国子女の間でも世代間の軋轢が生じているのだろう。帰国子女第一世代(もしくはプレ帰国子女)の水村が、本書の中でも、能天気に子供をアメリカンスクールに送る親たちに苛立ちを隠さず、その一方で英語エリート教育を唱えたりするあたりには、複雑なものを感じる。

 そういう意味で、筆者は本書を、現役小説家による現代日本文学に対する応援歌としてではなく、「帰国子女文化」の一角にいながら、日本的純文学のど真ん中に切りこみ、しかしその中に安住の地を見つけることもなく、ひたすら孤独な作業を強いられてきたひとりの小説家の、自分自身のための「説明書」と読んだ。日本近代とはこういうものなのだ、と。そこへ「帰国する」とはこういうことなのだ、と。これだけ「声」のように聞こえる、フィクションともエッセーともつかない本というのも珍しい。アマゾン書評のひとつに「最後はほとんど絶叫に近い」との批判があったが、「絶叫」でもいいじゃないか、と思う。それで良い小説が書けるなら。


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