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2009年01月26日

The White Tiger (邦題『グローバリズム出づる処の殺人者より』鈴木恵訳 2月刊予定) Aravind Adiga (アラヴィンド・アディガ)(Free Press)

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「いかにして私はボスを殺害したか」

 昨年来話題の水村美苗『日本語が亡びるとき』。筆者も友人から「読め、読め、読め、」と言われて半分くらいまで来たところだが、今回のアラヴィンド・アディガ『ホワイト・タイガー』は、まさに水村的な文脈で読みたくなる作品かもしれない。

 舞台はインド。語りは回想記の形をとり、貧困層の出身で、さる金持ちの運転手として働くことになった主人公バルラムが、底辺の生活を送るうちにいくつかの魂を震わせるような出来事をへて、ついに決定的な選択をする、という筋書きである。英語が話せないという設定の主人公の語りは粗雑で、気まぐれで、無教養。だから小説の出だしは何となくがちゃがちゃした印象があるのだが、実はその「英語のできない語り手の語り」を表す英語そのものは意外にニュートラルかつクリアで、出だしの喧噪がおさまった中程あたりからは、次々に生起する「事件」につり込まれるようにして読んでしまう。

 さまざまな事件の果てにくるもの。バルラムの決定的な選択とは、殺人であった。
 バルラムの雇い主アショークは、脱税の便宜をはかってもらうために政治家への裏金を赤いバッグに詰めこんで運んでいる。ホンダ「シティ」にその裏金を積み込むのを手伝うこともあったバルラムは、周到な計画を建てる。ここで象徴的な役割を果たすのが、ジョニー・ウォカーの空き瓶である。インドのブラックマーケットでは、有名ブランドのスコッチの空き瓶にいい値がつく。中味を入れ直せば、高く売れるからだ。欧米国際資本の先兵となったインド経済の、その繁栄の危うさを示唆するような話である。

 バルラムの運転するホンダ・シティにもジョニー・ウォーカーの空き瓶がころがっていた。アショークのビジネス仲間が乗り込んできて、「なんだ、お前、車の中に酒もないのか!それじゃ、装備不足だぞ」と持ち込んできたものだ。バルラムはその空き瓶を、人気のない駐車場で叩き割る。高級ウィスキーの空き瓶は、まさにその頑丈さゆえに、ぎざぎざのついた怖ろしい凶器へと生まれ変わる。

 決行に至るまでの日、バルラムは、これから自分に殺されようという雇い主アショークの、驚くほどの「鈍さ」に打たれる。目の前に座っている運転手が、自分を殺害して金を奪い取ろうとしていることに気がつかない鈍感さ。自分を人間扱いしていない証拠か。それどころか、である。次にあげるやり取りは、ドライなブラックユーモアとセンチメンタリズムとの間を行ったり来たりするこの小説に、何とも言えない哀切感がほの見える箇所かもしれない。

What is it, Balram?
Just this, sir ― that I want to smash your skull open!

He leaned forward ― he brought his lips right to my ear ― I was ready to melt.
"I understand, Balram."
I closed my eyes. I could barely speak.
"You do, sir?"
"You want to get married."
"…"
"Balram. You'll need some money, won't you?"

「どうかしたのか?」と訊かれて、思わず「あんたの頭をかち割ってやりたい!」と本音を言ってしまうバルラム。それをアショークは「これを聞いたら、頭がぶっ飛びますよ」程度の意味と勘違いし「なんだ、そういうことか」などと応ずる。アショークはこともあろうに、バルラムが結婚すると思ったのだ。そうか、結婚か、なら金がいるだろう…と。何というおめでたさ!

 さらにその次の一節がとてもいい。ここまでくると、完全にブラックユーモアモードに逆戻りである。

I saw him take out a thousand-rupee note, put it back, then take out a five-hundred, then put it back, and take out a hundred.
Which he handed to me.

なら金がいるだろう、と太っ腹な愛情を示したアショークだが、財布をひろげてから、千ルピー、いや、五百ルピー、あ、やっぱり百ルピーとだんだん格下げして、結局よこしたのは百ルピー一枚! こういうところを読むと、つくづく英文学だなあ、と思ってしまう。

 いかにして私は金持ちのボスを殺害したか――それがこの小説の明白なテーマである。ひき逃げをしたボスの妻の身代わりを強要されるあたりからはじまって、じわじわと殺意が募っていく、そのプロセス。もちろんそれは個人的な体験として書かれるのだが、作品の強みでもあり、弱みでもあるのは、実際にはこの殺意にそれほどの個人性が感じられないということだろう。バルラムの殺意は、村や貧困層の全体を背負ったものとして書かれ、だから、読者もそこに『罪と罰』的な内省を読むかわりに、共同体の祭儀のようなものを読む。多用される動物のイメージともあいまって、寓話的とも、おとぎ話的とも、ファンタジー的とも呼べそうなストーリー展開は、その焦らしも含めて、ほぼ「見え見え」(predictable)なのだが、それでもなお読ませるのが筆力というものか。ところどころに挿入される脱線めいた場面も読み所である。

 次にあげるのは、獣の足跡を追っていったバルラムが、真一列にならんでウンコをしている労働者たちと出逢う場面である。まるで石の像のように動かず、しゃがんでいる男たち。バルラムもつられるようにしてしゃがみ、にっと笑いかける。すると…。

 A few immediately turned their eyes away: they were still human beings. Some stared at me blankly as if shame no longer mattered to them. And then I saw one fellow, a thin black fellow, was grinning back at me, as if he were proud of what he was doing.
Still crouching, I moved myself over to where he was squatting and faced him. I smiled as wide as I could. So did he.
He began to laugh ― and I began to laugh ― and then all the crappers laughed together.

 目をそらす者。ぼうっとこちらをながめる者。ところがひとりだけ、バルラムに笑い返してくる者がいた。痩せて、色黒。ウンコしながらも、「どうだ」とばかりに堂々とした様子である。バルラムはさらに近づいていって、満面に笑みを浮かべてみせる。男もさらに大きく笑顔。ふたりが笑いをはじけさせると、ついにほかの男たちも笑い始める。
 いざ、殺人、という直前に、こんな場面があったりする小説なのだ。

 インド人は籠のニワトリだ、と語り手は言う。次に殺されるのが自分だとわかっていても、反乱もおこさなければ逃げ出しもしない。ただ、だまって指をくわえて自分の番を待っている。運転手だって、一ルピーやそこらの小金はすぐくすねるくせに、何百万ドルという大金が目の前にあっても手は出さない。

 そういうインドの民衆が閉じこめられている闇を告発するかのような、一種の変形リポルタージュと読めてしまうところがこの作品にはある。「英語ができない」という設定の語り手でありながら、だんだんと明晰な、いわば「ふつうの英語」へと収束してしまう文章。これ、誰の英語?と思わないでもない。インドに生まれながらもオーストラリアで育ち、米コロンビア大と英オックスフォード大に通ったという著者の略歴を見るまでもなく、どこかに優等生臭を感じざるを得ないのは確かである。果たしてアディガは、水村流に言えば、「普遍語」たる英語にとりこまれた作家の典型なのか。

 2008年度のマンブッカー賞受賞作だが、文体が魅力という作品ではない。同じブッカー賞の候補だった、たとえばセバスチャン・バリーの方がよほど端正な文章を書く。ただ、文体どうこうにかかわらず確実にファンをつかんでいった大先輩ディケンズのような存在が英文学にはいるし、紋切り型の展開に、ブラックユーモアを山ほどつめこんで、何だかお腹一杯にさせてしまう物語の力みたいなものは、それなりに大きな声としてこちらに訴えかけてくる。こういう小説を読んでしまう気分というのは、多くの人が持っているのではないか。

(なお、『日本語が亡びるとき』は「書評空間」では大竹昭子さんが取り上げておられる)。


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