« 2008年12月 | メイン | 2009年02月 »

2009年01月26日

The White Tiger (邦題『グローバリズム出づる処の殺人者より』鈴木恵訳 2月刊予定) Aravind Adiga (アラヴィンド・アディガ)(Free Press)

The White Tiger(邦題『グローバリズム出づる処の殺人者より』 2月刊予定) →bookwebで購入

「いかにして私はボスを殺害したか」

 昨年来話題の水村美苗『日本語が亡びるとき』。筆者も友人から「読め、読め、読め、」と言われて半分くらいまで来たところだが、今回のアラヴィンド・アディガ『ホワイト・タイガー』は、まさに水村的な文脈で読みたくなる作品かもしれない。

 舞台はインド。語りは回想記の形をとり、貧困層の出身で、さる金持ちの運転手として働くことになった主人公バルラムが、底辺の生活を送るうちにいくつかの魂を震わせるような出来事をへて、ついに決定的な選択をする、という筋書きである。英語が話せないという設定の主人公の語りは粗雑で、気まぐれで、無教養。だから小説の出だしは何となくがちゃがちゃした印象があるのだが、実はその「英語のできない語り手の語り」を表す英語そのものは意外にニュートラルかつクリアで、出だしの喧噪がおさまった中程あたりからは、次々に生起する「事件」につり込まれるようにして読んでしまう。

 さまざまな事件の果てにくるもの。バルラムの決定的な選択とは、殺人であった。
 バルラムの雇い主アショークは、脱税の便宜をはかってもらうために政治家への裏金を赤いバッグに詰めこんで運んでいる。ホンダ「シティ」にその裏金を積み込むのを手伝うこともあったバルラムは、周到な計画を建てる。ここで象徴的な役割を果たすのが、ジョニー・ウォカーの空き瓶である。インドのブラックマーケットでは、有名ブランドのスコッチの空き瓶にいい値がつく。中味を入れ直せば、高く売れるからだ。欧米国際資本の先兵となったインド経済の、その繁栄の危うさを示唆するような話である。

 バルラムの運転するホンダ・シティにもジョニー・ウォーカーの空き瓶がころがっていた。アショークのビジネス仲間が乗り込んできて、「なんだ、お前、車の中に酒もないのか!それじゃ、装備不足だぞ」と持ち込んできたものだ。バルラムはその空き瓶を、人気のない駐車場で叩き割る。高級ウィスキーの空き瓶は、まさにその頑丈さゆえに、ぎざぎざのついた怖ろしい凶器へと生まれ変わる。

 決行に至るまでの日、バルラムは、これから自分に殺されようという雇い主アショークの、驚くほどの「鈍さ」に打たれる。目の前に座っている運転手が、自分を殺害して金を奪い取ろうとしていることに気がつかない鈍感さ。自分を人間扱いしていない証拠か。それどころか、である。次にあげるやり取りは、ドライなブラックユーモアとセンチメンタリズムとの間を行ったり来たりするこの小説に、何とも言えない哀切感がほの見える箇所かもしれない。

What is it, Balram?
Just this, sir ― that I want to smash your skull open!

He leaned forward ― he brought his lips right to my ear ― I was ready to melt.
"I understand, Balram."
I closed my eyes. I could barely speak.
"You do, sir?"
"You want to get married."
"…"
"Balram. You'll need some money, won't you?"

「どうかしたのか?」と訊かれて、思わず「あんたの頭をかち割ってやりたい!」と本音を言ってしまうバルラム。それをアショークは「これを聞いたら、頭がぶっ飛びますよ」程度の意味と勘違いし「なんだ、そういうことか」などと応ずる。アショークはこともあろうに、バルラムが結婚すると思ったのだ。そうか、結婚か、なら金がいるだろう…と。何というおめでたさ!

 さらにその次の一節がとてもいい。ここまでくると、完全にブラックユーモアモードに逆戻りである。

I saw him take out a thousand-rupee note, put it back, then take out a five-hundred, then put it back, and take out a hundred.
Which he handed to me.

なら金がいるだろう、と太っ腹な愛情を示したアショークだが、財布をひろげてから、千ルピー、いや、五百ルピー、あ、やっぱり百ルピーとだんだん格下げして、結局よこしたのは百ルピー一枚! こういうところを読むと、つくづく英文学だなあ、と思ってしまう。

 いかにして私は金持ちのボスを殺害したか――それがこの小説の明白なテーマである。ひき逃げをしたボスの妻の身代わりを強要されるあたりからはじまって、じわじわと殺意が募っていく、そのプロセス。もちろんそれは個人的な体験として書かれるのだが、作品の強みでもあり、弱みでもあるのは、実際にはこの殺意にそれほどの個人性が感じられないということだろう。バルラムの殺意は、村や貧困層の全体を背負ったものとして書かれ、だから、読者もそこに『罪と罰』的な内省を読むかわりに、共同体の祭儀のようなものを読む。多用される動物のイメージともあいまって、寓話的とも、おとぎ話的とも、ファンタジー的とも呼べそうなストーリー展開は、その焦らしも含めて、ほぼ「見え見え」(predictable)なのだが、それでもなお読ませるのが筆力というものか。ところどころに挿入される脱線めいた場面も読み所である。

 次にあげるのは、獣の足跡を追っていったバルラムが、真一列にならんでウンコをしている労働者たちと出逢う場面である。まるで石の像のように動かず、しゃがんでいる男たち。バルラムもつられるようにしてしゃがみ、にっと笑いかける。すると…。

 A few immediately turned their eyes away: they were still human beings. Some stared at me blankly as if shame no longer mattered to them. And then I saw one fellow, a thin black fellow, was grinning back at me, as if he were proud of what he was doing.
Still crouching, I moved myself over to where he was squatting and faced him. I smiled as wide as I could. So did he.
He began to laugh ― and I began to laugh ― and then all the crappers laughed together.

 目をそらす者。ぼうっとこちらをながめる者。ところがひとりだけ、バルラムに笑い返してくる者がいた。痩せて、色黒。ウンコしながらも、「どうだ」とばかりに堂々とした様子である。バルラムはさらに近づいていって、満面に笑みを浮かべてみせる。男もさらに大きく笑顔。ふたりが笑いをはじけさせると、ついにほかの男たちも笑い始める。
 いざ、殺人、という直前に、こんな場面があったりする小説なのだ。

 インド人は籠のニワトリだ、と語り手は言う。次に殺されるのが自分だとわかっていても、反乱もおこさなければ逃げ出しもしない。ただ、だまって指をくわえて自分の番を待っている。運転手だって、一ルピーやそこらの小金はすぐくすねるくせに、何百万ドルという大金が目の前にあっても手は出さない。

 そういうインドの民衆が閉じこめられている闇を告発するかのような、一種の変形リポルタージュと読めてしまうところがこの作品にはある。「英語ができない」という設定の語り手でありながら、だんだんと明晰な、いわば「ふつうの英語」へと収束してしまう文章。これ、誰の英語?と思わないでもない。インドに生まれながらもオーストラリアで育ち、米コロンビア大と英オックスフォード大に通ったという著者の略歴を見るまでもなく、どこかに優等生臭を感じざるを得ないのは確かである。果たしてアディガは、水村流に言えば、「普遍語」たる英語にとりこまれた作家の典型なのか。

 2008年度のマンブッカー賞受賞作だが、文体が魅力という作品ではない。同じブッカー賞の候補だった、たとえばセバスチャン・バリーの方がよほど端正な文章を書く。ただ、文体どうこうにかかわらず確実にファンをつかんでいった大先輩ディケンズのような存在が英文学にはいるし、紋切り型の展開に、ブラックユーモアを山ほどつめこんで、何だかお腹一杯にさせてしまう物語の力みたいなものは、それなりに大きな声としてこちらに訴えかけてくる。こういう小説を読んでしまう気分というのは、多くの人が持っているのではないか。

(なお、『日本語が亡びるとき』は「書評空間」では大竹昭子さんが取り上げておられる)。


→bookwebで購入

2009年01月10日

『機械の停止 ― アメリカ自然主義小説の運動/時間/知覚』折島正司(松柏社)

機械の停止 ― アメリカ自然主義小説の運動/時間/知覚 →bookwebで購入

「潜み笑いとメタ批評」

 「英米文学研究にはこんなこともできるのだ!」を示すには格好の一冊である。2000年の出版だが、すでに古典の風格がある。

 著者の折島正司は1947年生まれ。60年代後半に学生生活を送り、70年代にはすでに本格的な研究活動に入っていた。構造主義以降の英米仏独の批評理論を、いわばガンガン日本に紹介した急先鋒のひとりである。筆者も大いに恩恵を受けた。

 では、本人の手になる研究書ともなればさぞかし理論臭ぷんぷんかというと、全然そんなことはない。おそらくは編集者によるのであろう索引を見ても、項目はすっきりしていて、固有名詞&批評用語バラマキ型の理論派とは一線を画す。

 それどころか、何より「イントロダクション」をめくっておどろくのは、書き手の実にうきうきとした口調である。へらへら笑っているわけではないのだが、いちおうまじめそうに語っている底から明らかに昂揚している感じが伝わってきて、いったい何が嬉しいんだろう?と思わずにはおられない。

 本書の最大の魅力のひとつはここにある。著者は小説のストーリーを語るのが楽しくて仕方がないのだ。冒頭でとりあげられているのは、「ラカンばあさん」という、タイトルからして曰くありげなエミール・ゾラの小説なのだが、折島はまるでゾラに憑依したかのように、熱を帯びた調子でこの作品を語る。以下にあげるのは、息子の妻とその愛人とのふたつの死体を見つめる、寝たきりのラカンばあさんの様子をとりあげた箇所で、本書の中心テーマが示されるところでもある。

ただの死体はどこまでいってもただの死体だ。目玉以外動かせないラカンばあさんの怨念には、手が届かない。モノを捉える視線がモノとむかいあっている。ただの目玉とただの死体が、あざやかに対立している。人間の身体をただの物体と見る。そして、意味の過程からきりはなす。せいぜい、見世物商品が流通過程の一部で持つ意味だけを与える。「死体劇場」の出し物と見る。『テレーズ・ラカン』の最後には、この見解がふたたびしめされている。モノとモノを捉える視線の二元論的対立に支えられて、死体をただの死体とする見解である。

「二元論的対立」とか「意味の過程」なんて言葉も出てきて、基本的には人間や文化についてシステマティックにきちんと議論しようとしているのはまちがいないし、こうした概念がこの本の芯にもなるのだが、その一方で、どこかはしゃいだような気味もあり、よく読んでみると潜み笑いさえ含んでいそう、そんな口調である。冒頭からこれだと、一瞬、批評を読んでいるのか、作品を読んでいるのかわからなくなるほどだ。

 本書で取り上げられているのは、ジャック・ロンドン、セオドア・ドライサー、セアラ・オーン・ジュエット、フランク・ノリス、フィリップ・K・ディック、スティーヴン・クレイン――つまり多くがしばしば「アメリカ自然主義」のカテゴリーに分類される作家で、その数は決して多くはない。本文246頁と、本としてもコンパクトなのだが、章ごとに読んでいくとたっぷりと作品世界に浴したという実感を持つ。どうも本書には、作品テクストに替わって、いや、下手をすると作品テクスト以上に、作品世界を読者の目の前に繰り広げてみせてくれるような、オーディオでいえば「アンプ」のような仕掛けがあるのだ。理論派でありながら理論臭があまりしないのは、折島のこの没入型の語り口ゆえでもあるだろう。

 むろん、これは印象主義への回帰などではない。実は、はしゃいだように作品を語り直してみせる口調は、本書の議論の中枢ともからんでくる。『機械の停止』はあっぱれなほど正々堂々と手の内を明かす、中心テーマのたいへん明確な書物で、引用したくなるような明晰で美しい決めゼリフもあちこちに配置されているから、それらをそのまま引っ張れば説明になるだろう。

 まずはなぜ「機械の停止」なのか、について。

 自然主義はこうして、生命と意味のありかを、否定的な形式であざやかに提示している。
 この否定的な形式は、自然主義文学の世界に一見したところの秩序を与えている分類と分解と再組みたてと再利用と座標系的均質空間と時計の時間が、その限界点に到達してしごとを放棄したときにあらわになる。自然主義の対象知覚の方法が機械に似ているとするなら、この機械はときどき止まる。運動は停止し、時計はこわれ、知覚はそのはたらきを放棄する。(中略)分解し再組み立てする視覚、分類する視覚が、急に自分の無意味を悟ったかのようにしごとを放りだし、突然うしなわれることがある。

 ここだけ読むと、著者の雄弁に騙されたような気分になるかもしれないが、まさにこの「騙され」こそが鍵となってくる。この点について、本書の佳境ともいえるP・K・ディック論から引用してみよう。

 

あるステイトメントがリアリティーと一致する印象を与えるためには、そのステイトメントがリアリティと類似しているだけではじゅうぶんではない。ときには、リアリティーとの類似は必要でさえない。「これは本気だ、本物だ」という、ステイトメントの種類にかかわるそのステイトメントについてのメタ・ステイトメントが受け手に了解され、同意されているか、あるいは、「これは本気ではない、偽物だ」というメタ・ステイトメントが見えなくなるしかけがあるか、そのどちらかの条件が成立している必要がある。

 なるほど、と思う。たしかに批評理論が問題にしてきた――そしてこれからも問題にしていかざるを得ないような――言葉の危うい部分に触れようとしている。折島の問題意識の核にあるのは、メタ・ステイトメントをどうやって語るか、ということなのである。多くの人の勘違いは、メタレベルというものは、何しろ「メタ」なのだから、なるべく背伸びして、高々と崇高な言葉で到達せねばならない、と思うところである。

 しかし、仰ぎ見られたメタレベルは、しばしば霞の中で不透明である。批評者にとってむしろ大切なのは、梯子やら竹馬やら上げ底靴やらを除けて、自分の足で立とうとする努力だろう。折島は背伸びしたり、仰ぎ見たりするのではなく、まさにそこにあるものに触るようにして「メタ」の問題を語ろうとする。そのための出発点は、メタ・ステイトメントではなく、ステイトメントそのもの。つまり批評の言葉の「君臨」ではなく、作品の言葉への「憑依」なのである。もうひとつ引用しよう。

 

注釈は本文にたいして注釈を加えている。私たちの表情や身振りは、発言にたいして注釈を加えている。同じように、ことばはモノにたいして、ひとつ上の抽象レベルにある。ことばを使ってモノについて語ることはできるが、モノを用いてことばについて語ることは、むずかしい。これらのもののあいだいには、抽象レベルの境目がある。だがディックでは、小説と現実、夢と現実、ことばとモノ、思考と世界だけでなく、人間と機械、人間と動物、神と人間などなどを見わける境目がにじんでいる。

最後の「にじんでいる」という言葉がいかにも折島らしい。まさに折島自身の言葉が、いや(著者のひらがな戦法を真似るなら)ことばが、モノとなろうとしている。モノとことばの境目がにじんでいく。これが著者の真骨頂なのだ。潜み笑いから哄笑へ、哄笑から「機械の停止」へ、停止から荒涼とした砂漠へ、そして砂漠からまた熱狂語りへと自在に往還する、そういう世界を批評そのものが生きている。そして、そのからくりを身を挺するようにして、メタステイトメントとステイトメントという実にすっきりした枠組みで明かすのである。

 もちろん体裁は本格的な研究書である。その証拠に本書の引用はたいへん効果的で、エイミー・カプランの「現実感が希薄だからこそ、その危機をやりすごすために細部描写が濃密になる」といった指摘をはじめ、思わずはっとするようなコメントがあちこちに散りばめられている。中でもとくに柱になっているのは木村敏の分裂病研究だろう。リアリティとアクチュアリティをめぐる木村の有名な区別を取っかかりに、「急に自分の無意味を悟る」という感覚を再検討する過程は、折島の自然主義理解の鍵となっている。木村の登場は一見唐突とも見えるかもしれないが、「世界に対する違和感」という、二十世紀文学でほぼ必須となってきたテーマを、精神医学の助けを借りずに追求することの方がむしろ向こう見ずというものだろう。本書が英米文学研究の地平を越えてひろがっていく行方を示すのにも、適切な手がかりだと言える。

 ところで、何しろ熱狂するわけだから、微妙な温度差がないわけでもない。筆者の見るところ、とくに「熱い」のはノリスとディックの章である。「ノリスは歯と金がとても好きで、だから金歯がことのほか好きだったばかりでなく、時計も大好きだった」なんていう一節、まるで友達の話をしているように聞こえる。イントロダクションは必読だが、その次に覗いてみるならこのあたりがお薦めである。


→bookwebで購入