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2008年11月17日

『徒然王子』島田雅彦(朝日新聞出版社)

徒然王子 →bookwebで購入

「ファラオのギャグ」

 新刊の手に入りにくいところにいるのだが、縁あって「朝日新聞」連載中の『徒然王子』の第一部を入手した。太宰の次が島田雅彦というのは、別に深い意味はない。

 たいへん男っぽい文章である。隙間はあるが、柱は太い。日本の小説界の主流は、ちょっと男性的にどもってみせるにせよ、女性的に浮気っぽくさまようにせよ、最後までがっちり言い終えるのを避けることで成り立ってきたところがある。どこかで、ひねったり、にじんだり。自然主義と言われるような作品でも、印象派的な霞がかった感じがつきまとってきた。

 島田は、わりと平気で断定する。すっぱり言い切る。冒頭近く、主人公のテツヒトの住む「王の森」を描写する箇所にはそれなりの叙情性がこめられるのだが、ここでもにじむような「詩っぽさ」に訴えることはない。

 音はいつも遠くから曖昧に聞こえてくる。車や風の音、鳥の鳴き声や人の話し声は渾然となり、パイプオルガンの不協和音にも似た音に変わる。噂話や笑い声や嗚咽のような生々しい音は一切聞こえない。森が音を検閲し、有害な音を遮断しているのだ。
 だが、この森は安眠を約束してくれない。長くこの森に暮らしてきた父も母も睡眠障害に苦しんできた。息子のテツヒトもまた不眠の血筋を引いてしまったようだ。今夜で連続六夜、眠れない。日付変更線を超えたわけでもないのに、時差ボケと同じ症状が出ている。夜眠れない分、昼間に不意に睡魔が襲ってくる。

正しい書き順で書かれた楷書体のような骨格がある。どもることで誰かに救われようとするような「少年語り」とも違うし、気まぐれで、くせのある「悪女の語り」とも違う。むしろ「父の語り」とでも言うべきか。

 「やんごとなき方」を主人公にすえ、「王子の遁走」という古来、繰り返し語りつがれてきたテーマを扱うこの作品、帯にもあるようにたしかに「冒険ファンタジー」には違いないのだが、ほんとうに効いているのは、このしっかりした土台ではないかと思う。

 島田の売りは何と言ってもギャグである。「王子の遁走」の家来となるのが、宮廷のお雇い道化をしているお笑い芸人のコレミツだというのはそれ自体ふざけているし、最初の家出先が「ドーゲン坂下」というのもいい。そのドーゲン坂の、ふたりが辿りついた酒場ではこんな会話がかわされる。

 コレミツはカウンターの端に陣取り、ウイスキーのダブルを二つ注文すると、「最近、どう? 客層は相変わらずかい?」と緩い世間話から始めた。
― ここ一年でお客の顔ぶれもずいぶん変わったわ。
― この国はあかん、もう仕舞いや、というのが口癖の歯槽膿漏のおっさんがいたね。
― ああ、弁護士のヌマさん。あの人は去年、亡くなったわよ。
― この国より先に自分がくたばったか。いじる相手がいなくなると、寂しいね。そう、誰でもいいから、金持ちと結婚したがっていたアニメ声の貧乳モデルがいたよね。
― ニコルちゃん。彼女は実業家とゴールインしたけれど、夫が粉飾決算で逮捕されて、豪邸暮らしも一年しか続かなかった。今はアラカワ区の2DKに暮らしてる。
― 怪しい詩人もいたね。ホテルでがめたバスローブをコート代わりに着ていた人。
― ガニ股平次さん。もう女の子が相手をしてくれないからといって、山に登ってる。
何なんだ、このふつうさは!?と思う。島田のギャグというのは、ちらっと仄めかす類のものではなく、有無を言わせぬ口調である。そこには揺るがしがたい日常感覚というのか、もっと言うと、作者の諦念のようなものさえが露出している。世界って、こんなものでしょう?とでもいうような。

 こうなると、小説的世界をはばたかせるのはひと苦労である。がっちりした土台に腰をすえて、疑り深い目で世界を見ている語り手がいるわけだから、どうしたって、プロットだのサスペンスだのが弱々しく見えてくる。そういう中で、「王子の遁走」や桃太郎的「従者のリクルート」や「あの世への踏みこみ」といった、紋切りとさえ言っていいような神話の「型」こそが、土台と釣り合うだけの、屈強な物語を呼びこむ。

 筋書きは実に明快である。主人公のテツヒトが体験するのは、いわば「地獄めぐり」。王の森からさ迷い出るとは、内と外との境目を踏み越えることを意味する。しかし、テツヒトの一行が辿りつくのは、もっと怪しい地帯であった。

昔の人は内と外とを隔てる結界を常に意識していました。でも、今は都市の外側には境目なしに郊外が広がり、町が途切れることがありません。自然の結界である海や山は、埋め立てられたり、削られて住宅地に変わってしまいました。今はどこに聖域があり、どこに結界があるのか、目に見えにくくなって、そうとは知らぬまま結界を踏み越え、危険な領域に入り込んでしまうことが多くなりました。

 ギャグどころか、こうした箇所、やけに「まじめ」である。しかし、語り手が(そして著者も?)こういうストーリーを本気で信じているのかも、と思わせるところがこの小説にはある。そこに、不覚にも、つり込まれる。もっと微妙な例をあげると、出奔直前にはこんな会話が王と交わされる。

 父上が差し出すグラスを受け取ると、テツヒトは開口一番こう切り出した。
― 耐えがたいのです。ここを出て行くことをお許し下さい。
 父上の目は泳いでいた。あきらかに戸惑っていた。だが、父上は戸惑うことが仕事であるかのように振る舞ってきた。戸惑いながらも、いつも冷静に事態を把握していた。
― どうしたいのだ? 行くアテはあるのか?
― ありません。ただ、行きたいところに行く自由を行使してみたいのです。誰もが自明の権利として持っている自由を、私も使いこなしてみたいのです。

「戸惑うことが仕事」は笑うところ。しかし、こういうギャグもしっかりと神話につながっていく。母親に別れを告げに行ったテツヒトが、「あなたがなすべきことは第一に生まれてくること、第二に人を愛することです」と言われ、それに応えて「そして死ぬこと。死ぬ前に子孫を残さなければ。ここにとどまる限り、私は女性と出会う機会もない。妃になってくれる人を探すためにも旅にでなければならないのです」というあたりになると、もう語りのペースに乗せられている。

 島田は、語りの声がたいへん強い。それは独り言や雑談にはなりにくいタイプの声で、言ったが最後、てこでも動かない。刻み込まれるような声である。もちろんファラオじゃあるまいし、「父の語り」などには作家本人も興味はないだろう。「父」から、せめて「叔父さん」くらいに語り手の声を解放するためには、ギャグが役立つ。

 しかしやっぱり神話を語りたいのである。その語りたい、という点においてこそ、『徒然王子』は一種の私小説のように読める。作家の分身テツヒトは、シニシズムの呪縛から逃れるかのように結界を越え、「あの世」にまで踏みこんで行く。そしてその途中、さまざまな物語と出遭う。一度だけアフリカ系の男性とセックスしてしまったがために、妊娠しなかったにもかかわらず相手のDNAを身体にとりこんで、何となくアフリカ系っぽい子供を生んでしまったというサトミ、記憶の天才としてもてはやされながら、忘れる能力を欠いていたために、自分の記憶に邪魔されてまともな生活を営めなくなったアレイ君…。こうした出遭いを通して、テツヒトは語り部と化す。

 自分のことではなく、遭遇した人々の物語を語るという私小説。他者が描けてる云々と言うが、「遭遇」や「関心」がなければはじまらない。ましてやそれが憂愁の森から逃れ出た王子の話ともなれば、この作家にはぴったりかもしれない。



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2008年11月11日

『グッドバイ』太宰治(新潮社)

グッドバイ →bookwebで購入

「ウソのつき方、つかせ方」

 続けて読むと食傷気味になるけど、しばらく読まないでいると、ちょっと恋しくなる。太宰治はそんな作家かなあと思う。決してこってりした文章ではなくて、むしろ淡泊の部類に入るのかもしれないけど、何かくせがある。単色でドライなわりに、いやらしくからみつく。

 『グッド・バイ』は最後の短編集である。未完に終わった「グッド・バイ」をはじめ晩年の作品を集めており、小説としては、正直言って、かなりテキトーだなと思うものも少なくはない。評者の勝手なランキングで言うと、
◎「男女同権」、「朝」、「饗応夫人」、「眉山」、「グッド・バイ」
○「薄命」、「十五年」
△「たずねびと」、「女類」
あとは×かな、という感じである。

 しかし、あらためて思うのは、太宰という作家、とにかく始め方が抜群にうまい。たとえば「朝」という作品。主人公は小説家である。うちにいると友だちが遊びに来てしまい仕事にならないから、隠れ家のつもりで部屋を借りるという設定である。銀行に勤めているある女性の部屋を、彼女が不在の昼だけ「私」が借りて執筆に使うのである。太宰はそれをこんな風に語ってみせる。

 毎朝、九時頃、私は家の者に弁当を作らせ、それを持ってその仕事部屋に出勤する。さすがにその秘密の仕事部屋には訪れて来るひとも無いので、私の仕事もたいてい予定どおりに進行する。しかし、午後の三時頃になると、疲れても来るし、ひとが恋しくもなるし、遊びたくなって、頃合いのところで仕事を切り上げ、家へ帰る。帰る途中で、おでんやなどに引かかって、深夜の帰宅になる事もある。
 仕事部屋。
 しかし、その部屋は、女のひとの部屋なのである。その若い女のひとが、朝早く日本橋の或る銀行に出勤する。そのあとに私が行って、そうして四、五時間そこで仕事をして、女のひとが銀行から帰って来る前に退出する。
「しかし、その部屋は、女のひとの部屋なのである」という一節の持ち出し方が、じつにいやらしい。こちらが「ずぶっ」と小説の中に入っていく、そういう言わば「魔の一瞬」みたいな箇所なのだが、何よりいやらしいのは、この一文が何も決済していないというか、「だから何だ!?」と言いたくなるほど、一見たくさん言っている素振りをみせながら、実は何も言ってないというあたりである。

 くせ者は「である」という語尾だろう。ひとくちに「である調」などと言うけれど、「である」の効果というのは実に千差万別。太宰の場合は、「である!」と言いながら、実は何も「である」しないで見せる。別の言い方をすると、太宰の手口というのは、やわらかくてスムースな文章の中に、時折こういう「である」みたなかすかな強面(こわもて)というか渋面というか、こちらにちょっと身構えさせるようなひとときをつくっておいて、そこに生じたこちらの心の隙みたいなものを突っつくようにして話を進めるというところがある。

「朝」という作品はたぶん、一番の緊張ポイントがこの「である」で、あとはいつもながらの芸の領域である。さあ、部屋の持ち主の女性と、いったいどうなるのでしょう?といやでもこちらは思う。もちろん女性のしゃべらせ方は――いつもながら――にくらしいほどうまい。

私は上半身を起して、
「窓から小便してもいいかね。」
と言った。
「かまいませんわ。そのほうが簡単でいいわ。」
「キクちゃんも、時々やるんじゃねえか。」
必ずしも太宰の書く女性が真に迫っているとか、なまなましいとかそういうことではないのだと思う。むしろ太宰の女たちはたいへん人工的である。うそっぽいとさえ言ってもいい。しかし、太宰カメラの中で、かすかにわざとらしい台詞を吐く女の、そのほんの少し奇をてらって、ほんの少し危険で、ほんの少しあざといさじ加減が、太宰の小説世界の、ほんの少しわざとらしい感じ、だからこそ舌に残る感じと重なるのではないかと思う。

 太宰の主人公たちの多くは、女に嫌なことを言われることでアイデンティティを確立する。「実に、私は今まで女性というもののために、ひどいめにばかり逢って来たのでございます」という「男女同権」中の語り手の台詞は、太宰の読者にとってはおなじみの自意識を示すだろう。じゃ、いったいどんな酷い目にあって来たんですか?と期待を高めておいて、その期待に応えるだけの「酷い目」を書くわけだから、そこはたいしたものである。たとえば「男女同権」には、主人公が吉原で遊んだときの次のような場面が描かれている。

 連れの職工は、おい旦那、と私を呼び、奥さんの手料理をそれではごちそうになるとしよう、お前、案外もてやがるんだなあ、いろおとこめ、と言います。そう言われて私もまんざらでなく、うふふと笑ってやにさがり、いもの天ぷらを頬張ったら、私の女が、お前、百姓の子だねと冷く言います。ぎょっとして、あわてて精進揚げを呑みくだし、うむ、と首肯(うなず)くと、その女は、連れの職工のおいらんのほうを向いて小声で、育ちの悪い男は、ものを食べさせてみるとよくわかるんだよ、ちょっちょっと舌打ちしながら食べるんだよ、と全くなんの表情も無く、お天気の事でも言っているみたいに澄まして言うのでございます。
「グッド・バイ」に出てくるキヌ子も、登場したばかりのときはわざとらしさがやや鼻につくが、だんだん調子が出てくる。たぶんそれも仕掛けのうち。ふだん汚らしい闇屋だと思っていたキヌ子が、思いがけない美人で、その美人とつるんで愛人との関係を清算していこうとする、という話である。何しろ太宰だから、素材としてはたいへんリアリティがあるのに、むしろ人工的に仕立ててあるところがいい。
 田島は眼をみはる。
 清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくたる香気が発するくらい。タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、可憐に小さい靴が三足、つまりその押し入れこそ、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。
 すぐにまた、ぴしゃりと押し入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れて居汚く坐り、
「おしゃれなんか、一週間にいちどくらいでたくさん。べつに男に好かれようとも思わないし、ふだん着は、これくらいで、ちょうどいいのよ。」
「一週間にいちどくらいでたくさん」なんて誰でも言いそうな台詞だが、こんな風に言われたら、やはり忘れない。

 で、愛人たちと別れるために雇ったキヌ子なのに、案の定、田島はそのキヌ子にちょっかいを出しそうになる。

「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」
「女がひとりでいるとね、いろんな事があるわ。気にしてやしません。」
「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎から妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、という事ですね、これは道徳上、悪いことでしょうか。」
「あなたの言う事、何だか、わけがわからないけど、男のひとは誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。」

 「女」を出せば小説になると思うなよ、と言いたくなる人もいるだろう(アンチ太宰は読書界の一大勢力)。晩年の作品にはたしかにそういうところがある。全体に球威が衰えているのは隠せず、とにかく決め球の連投で勝負するしかなくなったということだろうか。それでも三振はとれる、と筆者は思う。

 ところで新潮文庫版には太宰研究の大家・奥野健男氏による解説がついている。必ずしも百パーセント間違ったことを言っているわけでもないのかもしれないが、これほど作品の雰囲気を伝えない解説というのも珍しいので、是非、一読をお薦めする。参考までに以下、一部を引用。

そしてもっとも重要なことは、悪しき、古きものへのたたかいを、先ず自分の中にあるそれらの摘発から、自己を徹底的に否定し、破壊することからはじめたことだ。外の敵を撃つためには、まず内の敵を撃たねばならぬ。自己の中にある古さ、ケチくささ、偽善を、サロンを憧れる心を、さらには炉辺の幸福、家庭の幸福を願う心の中に潜むエゴイズムや悪を、それら一切の上昇感性を、文学においても実生活においても否定し破壊しようとする。それを実行してのみ、はじめて外部の敵と、悪しき社会や権威や既成道徳とたたかうことができる、他人の悪を撃つことが可能になるのだという徹底した認識があった。この自らに課した至難の苛烈な道が、ぼくたちの魂をはげしく撃った。(中略)太宰治の自殺は、このすさまじい自己否定、自己破壊の下降指向の極限における倫理的内的必然ととらえることもできる。

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